赤い吊橋
福知山頂上標識

●日本人の血の中には山岳民族としての因子がある

 日本人は山岳民族です。山岳民族として、先祖からその尊い遺伝子を受け継いでいます。こうした遺伝因子が、私たちの心を山に惹(ひ)き付けます。日本人の血の中には、先祖から脈々として受け継いだ、山への郷愁(きょうしゅう)の因子があり、これが連綿と伝わって来ました。
 故郷の山河を想い、その想いに心を寄せる時、何処からともなく郷愁が湧(わ)き起こって、山への思いに惹(ひ)き付けられるのです。

日本の雲海に囲まれた山々。

 しかし、山岳民族である日本人の多くが、近代、山地より下って、平野部の多い海地に移動し、また欧米食に魅(み)せられて、日本古来から伝わった食体系を狂わせた事から、現代人は様々な難病・奇病の病魔に襲われるようになりました。

 石塚左玄(いしづか‐さげん)『夫婦アルカリ論』からいうと、山地で採取された食物はカリ塩が多く、平野部や海地で採れた食物はナトロン塩が多く、土壤的にも、大気的にも、山地ではカリ塩、海地ではナトロン塩が多く含んでいます。ここに「身土不二(しんどふじ)」の食思想があります。

 また、日本国は地理的にいっても、気候的にいっても、ナトロン塩が多く含まれる食肉などは必ずしも必要ではありません。日本の国民は、現代人が現代栄養学から考えるように、肉食をする必要がないという化学的根拠があります。それは日本列島という島国の国土が、ナトロン塩の多い土地柄だからです。

 これを更に詳しく述べれば、ヨーロッパ大陸やユーラシア大陸のように内陸性気候で、涼しく寒く、米やその他の作物も殆(ほとんど)ど作らず、近海の海の海産物も殆ど摂らない国々に住民と違って、日本のような天気が穩やかで暖かい国に棲(す)む私たち日本人は、その土地柄を考えれば、カリ塩が少なく、ナトロン塩が多い国に棲んでいる為、肉類を食べなくても健康上には何ら差しつかえがないのです。島国育ちの日本人は、欧米人と異なり、むしろ食肉や乳製品は、摂らない方が健康的には最も良好なのです。

明治の陸軍薬剤監・石塚左玄

 極東の島国であり、高温多湿の温暖気候の火山列島に棲(す)む日本人と、内陸性気候(大陸気候とも言われ、陸地の影響を強く受けた気候で、特に大陸内部に見られる気候型。この地方では雨量が少なく、昼夜の気温差、夏と冬との気温差が大きい)のヨーロッパやユーラシア大陸に棲む国々の人とでは、常用している食物の種類も化学的成分も異なっており、食肉を食べる必要はなかったのです。

 一方日本は、海洋気候とも言うべき、大洋の影響を強く受けた気候型です。気温の季節変化が比較的少なく、湿度が高い国です。こうした気候型を持つ島国は、大気にも土壤にも、また食物にも、ナトロン塩を多く含んでいます。したがって、ナトロン塩を多く含む鳥獣の肉はあまり食べる必要がないのです。

 しかし、昨今の食生活の欧米化は、日本人に肥満を齎(もたら)し、食べ過ぎから難病・奇病の成人病に襲われる現実を作りました。
 病気になれば、病院の医師から、聞き狎(な)れない奇妙な病名ばかりを付けられ、その上に検査ばかりを強要され、検査で病名が割り出せたからと言って、治癒(ちゆ)に向かうわけでもなく、一向に治る気配はありません。ただ複雑化され、完治への希望は遠退いた観すらあります。

 人間が病気になり、特に現代のような、欧米食に傾いた乳製品や食肉などの動物性蛋白質を多く摂取するようになると、ナトロン塩過剰に陥り、動蛋白の脂肪分から、様々な成人病が発症します。

 ガン疾患を始めとして、高血圧症や糖尿病、高脂血症や脂肪肝(肝臓に多量の脂肪が蓄積する、アルコール性・栄養性・糖尿病性・薬剤性の疾患で、一部は肝硬変に移行するから恐ろしい)と云った、過去には余り類を見ない病気が、現代人を次々に襲いかけています。その元凶は現代日本人の食生活の誤りです。
 それに加えて、歩く事がなくなった車社会では、当然のように足腰が弱くなり、身体のこれ等の部位が脆(もろ)くなって、運動不足が成人病悪化に一層の拍車を掛けています。

 本来、日本人は大自然の中に在(あ)って、太古から野山を駆けた山岳民族です。この山岳民族が、山歩きをしなくなると、やがて足腰は退化します。この足腰の退化が腰痛にも繋(つな)がり、足腰を病んだ現代人が増え続けています。

 更にこれに加えて、食生活の間違いから、足腰に悪影響を与え、腰の悪い人、膝の悪い人、肩の肩胛骨(けんこうこつ)の関節が弛(ゆる)んで肩凝りの激しい人、頭蓋骨(ずがいこつ)の関節が弛んで頭痛持ちの人、その上に長時間歩けない軟弱な人を作り出し、病魔の坩堝(つるぼ)に現代人を追い落しています。
 あまり歩かなくなった現代人は、この坩堝の縮図の中で、もがき苦しみ、病魔とか苦闘しなければならない人生を生涯背負わされています。

 この坩堝の縮図をつくり出したのは、豊で、便利で、快適な現代の生活空間にありました。この快い空間の中で、誰もが贅沢(ぜいたく)と豊かさを享受し、人間本来の「動物である野性の姿」を忘れてしまったのです。これが一気に運動不足に繋(つな)がり、体脂肪の充満で身動きが取れない肥満症を作り上げたのです。十代後半で、脂肪肝に苦しむ少年少女も珍しくありません。

日本人は山岳民族の名残りを残し、山の緑に郷愁を覚える国民である。(写真は福知山山頂から山並みの稜線を見る。平成19年8月11日撮影)

 さて、現代人が忘れてしまった、もう一つの危機があります。それは日本列島の構造が四方を海に囲まれた島国であり、この国は、深水の浅い列島国であるという事です。
 私たち日本人は、海岸の周辺が非常に浅い「遠浅」の海岸線を持っている為、ここから害敵が忍び込み易く、日本人に危害を意図も簡単に加えてしまうと言う実情があります。昨今、騒がれている北朝鮮の日本人拉致問題も、実は日本列島の海岸周辺の殆どが深水の浅い遠浅の海岸線をもち、ここから自由に出入りできるという事です。こうした実情の前に、日本人拉致問題が起りました。

 つまり、現代において、日本人のその殆(ほとん)どは、自分達の棲(す)む国が、深水の浅い海岸線に囲まれた島国に棲(す)んでいる事を忘れていたのです。誤った学説に、日本は四方を海に囲まれ、この四方の海が濠(ほり)の役目を果たし、明治維新を迎えるまで鎖国を遣(や)り、国内の人民は海に護(まも)られていたという考え方がありますが、これはペリーの砲艦外交によって、「日本列島四海外濠論」は一挙に崩壊し、これが幻想であった事に気付かされます。

 また、鎌倉時代の蒙古来襲を見ても分かります。鎌倉時代には、「文永の役」(1274年の文永11年)と「弘安の役」(1281年の弘安4年)という、二回に渡る元軍の来襲です。先の役には壱岐・対馬を侵し、二回目の役には博多に迫り、元のフビライは日本に入貢(にゅうこう)を求めた結果の来襲でした。この二回に渡る来襲の為に、当時の日本人は恐怖のドン底に陥れられたばかりでなく、鎌倉幕府自体が弱体化する要因となりました。

 更には、太平洋戦争の末期では、意図も簡単に沖縄戦が仕掛けられ、アメリカ軍の上陸を赦し、戦闘員たちは沖縄島民を見捨てて、簡単にギブアップしてしまいました。
 近年にぎわせている北朝鮮による日本人拉致問題で、日本の沿岸防備は手緩(てゆる)い事が分かります。これは何よりも、日本の海岸線が、何(いず)れも深水が浅く、容易に外国人は潜入し易いという事を物語った実情ではないでしょうか。
 一見、強固に思えた「日本列島四海外濠論」は、他国の侵入者で一挙に崩壊してしまったのです。

 日本人を太古の歴史から探ると、『海幸彦と山幸彦』の神話からも分かるように、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)である山幸彦が、兄の火照命(ほでりのみこと)の海幸彦と、猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求める為、塩椎神(しおつちのかみ)の教えにより海宮に赴き、海神の綿津見神(わたつみのかみ)の女(むすめ)豐玉毘売(とよたまびめ)と結婚し、釣針と潮盈珠(しおみちのたま)と潮乾珠(しおひのたま)を得て、兄を降伏させたという話に由来します。

 これは天孫民族(てんそんみんぞく)と隼人族(はやとぞく)との闘争の神話化とも見られますが、一方に「海人族」がおり、もう一方に「山人族」が対峙(たいじ)したポーズが『海幸彦と山幸彦』の神話を生んだのです。
 日本民族の一方が海人族であるならば、また一方が山人族であり、この一族は神話によると、高千穂の峰に降った邇邇芸命(ににぎのみこと)です。

 神話によれば、ある日のこと、邇邇芸命は、九州の南西にある「笠沙(かささ)の岬(みさき)」で、見目麗(みめうるわ)しき乙女(おとめ)に出会います。この女(むすめ)に名を問うと、大山祇神(おおやまつみのかみ)の女(むすめ)、木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)であると言います。邇邇芸命は直ちに求婚します。

 邇邇芸命は、日本神話に登場する天照大神の孫で、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の子でした。天照大神の命によって、この国土を統治する為、高天原(たかまのはら)から日向国(ひゅうがのくに)の高千穂峰(たかちほのみね)に降り、大山祇神の女(むすめ)、木花之開耶姫を娶(めと)り、火闌降命(ほすそりのみこと)・火明尊(ほあかりのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生んだのです。

 さて、『海幸彦と山幸彦』の神話となった木花之開耶姫が火闌降命・火明尊・彦火火出見尊を出産する話から始めましょう。
 邇邇芸命が木花之開耶姫に求婚を申し込んで、父である大山祇神のところに赴いた時の事です。大山祇神は大変に喜び、姉の石長比売(いしわながびめ)まで添えて邇邇芸命に献上しました。ところが姉の石長比売は美貌(びぼう)の女とは云い難く、大変に器量(きりょう)が悪く、それだけの理由で親許(おやもと)に返してしまうのです。そして邇邇芸命は木花之開耶姫だけをとどめて、一夜を倶(とも)にしました。

 この事を知って、大山祇神はいたく嘆き、悲しみます。
 「私が姉妹を揃えて献上したのは、石長比売によって、天津神(あまつかみ)の御子(みこ)の命が常盤(ときわ)の石のように揺るがぬよう、木花之開耶姫によって御子の未来が花の如く栄えるようにと祈ったからです。しかし、石長比売を返されたからには、天津御子(あまつみこ)の命は木(こ)の花(はな)のように虚(うつ)ろい易くなるでしょう」と、予言めいたことを申し送って来たのです。

 邇邇芸命(ににぎのみこと)の子孫である天皇の寿命が、年齢的に制限をされてしまったのは、この為だと言います。
 やがて木花之開耶姫は大きな腹を抱えるようになり、出産を告げて来ました。この報告に邇邇芸命は不審を抱き、どうしても合点がいかないものでした。それというのも、たった一夜の夫婦の営みで、木花之開耶姫が妊娠してしまったからです。

 「お前は、たった一晩で妊(みごも)ったのか。それは恐らく国津神(くみつかみ)の子であろう」と、不倫を疑うような嫉妬深いことを云います。
 木花之開耶姫は良人(おっと)の思わぬ言葉に愕然(がくぜん)とし、深く悲しみます。

 そして次のようなことを言います。
 「もし私は生む子が、国津神の子でしたら、決して無事には産めますまい。でも、あなたの子でしたら安産に違いありません」

 彼女はこう言い終わると、出入口のない産屋(うぶや)を作り、その中に籠(こも)って火を放ちます。その火が真っ盛りの時に生まれたのが、火闌降命(ほすそりのみこと)・火明尊(ほあかりのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)だったのです。

 『海幸彦と山幸彦』の神話は、一番上の子の火闌降命(ほすそりのみこと)と、一番下の子の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の物語です。この兄弟は、成長すると火闌降命は海幸彦と称して漁に就きました。また弟の彦火火出見尊は、山幸彦として山で狩りを行います。

 ある日のこと、二人の兄弟は戲れから、獲物を取る道具を交換し、山幸彦は兄の釣り道具をもって漁に出かけます。ところが釣りの経験の無い山幸彦は、一匹の魚も釣る事が出来ません。そして一匹の魚も釣ることが出来ないばかりか、釣針(つりばり)までなくしてしまいました。

 弟の山幸彦は剣500本を砕いて釣針を作ります。ところが兄の海幸彦は、元の釣針でなくてはダメだと、言う事を聞きません。
 山幸彦が困り果てて海辺で嘆いていると、塩椎神(しおつちのかみ)が顕われ、「海神(かいじん)の娘が何とかしてくれよう」と舟を貸してくれます。

 山幸彦は舟に乗り、潮に任せて、やがて海神の宮殿に辿り着きます。山幸彦は海神の綿津見神(わたつみのかみ)の女(むすめ)豐玉毘売(とよたまびめ)に迎え入れられます。二人は人目でお互いが好きになり、結婚して幸せな日々を過ごします。
 こうして三年が過ぎました。更に失った釣針も見つかったので、山幸彦は一人先に故郷に帰ります。

 ところが海幸彦は依然として弟を許しません。帰って来た山幸彦に、なんだかんだろ文句を言います。しかし、海神からお土産に貰った潮の満干を操る潮盈珠(しおみちのたま)と潮乾珠(しおひのたま)を遣(つか)って、海幸彦を懲(こ)らしめました。遂に海幸彦は山幸彦に降参してしまいます。

 「私は今後、子孫代々まで、そなた一族の昼夜の護り人となって仕えましょう」

 後に宮廷で、溺れた仕種(しぐさ)を舞うようになったのは隼人族の子孫で、隼人はこの海幸彦であると言います。

 やがて山幸彦の子を宿して、お産の為に豐玉毘売(とよたまびめ)がやってきます。彼女は海辺の鵜(う)の羽根を屋根にした産屋(うぶや)を築き、中に入った時に、
 「全ての物はお産のときは、もとの姿に戻ると言います。どうか私の姿を見ないで下さい」と懇願(こんがん)しました。ところが良人(おっと)である山幸彦は、妻の言葉を不審に思い、そっと覗いてしまったのです。

 すると豐玉毘売は巨大なワニザメに変身して、産屋で這(は)いのたうっていたのです。これには山幸彦もびっくり仰天(ぎょうてん)します。山幸彦が驚いて逃げ出すと、豐玉毘売は未練を残しながらも、生んだ子を置いたまま海に帰って行きました。

 海幸彦と豐玉毘売の間に生まれた子供は鵜葦草不合命(うがやふきあえずのみこと)と名付けられ、豐玉毘売が送ってよこした妹の玉依毘売(たまよりびめ)を乳母として育てられました。そしてこの一族は、神話では九州の地の西南に中(あた)る、「笠沙(かささ)の岬」を選び、ここを都として宮(みや)を営んだとあります。

神々が降下する社堂。

 日本は、海岸から浜辺、浜辺から平野、平野から山裾(やますそ)と繋がり、その先は山地をなし、やがて山岳地帯となります。この山岳地帯に海人族ばかりでなく山人族も大いに栄えた事は神話などからも窺(うかが)え、やはり山の多い日本列島の住民は山岳民族だったと思われます。
 日本人が海だけでなく、山を愛するのはその為かも知れません。先祖の血が、私たちを山へと惹(ひ)き付けるのです。

 かつて、天孫、邇邇芸命(ににぎのみこと)が高天原(たかまがはら)から日向国(ひゅうがのくに)の高千穂の峰に降りてこられる時に、道案内をした神が猿田彦神(さるたひこのかみ)だったのです。猿田彦神は、先頭に立って道案内し、のち伊勢国五十鈴(いすず)川上に鎮座したという神です。容貌魁偉(ようぼうかいい)で鼻長七咫(ななあた)あた、身長七尺余と伝えられ、眼は鏡のように光っていたと云います。とても人間とは思われない神であり、この神は戦の神でなく、「道案内の神」であったと云われます。つまり先導者と云うわけです。

 山へ行く時は先頭に立つ人のことを「リーダー」と云います。つまり猿田彦神は邇邇芸命を道案内したリーダーだった分けです。そして、猿田彦神は中世に至り、庚申(かのえさる)の日に、この神を祀(まつ)り、また、道祖神と結びつけたのでした。日本人の心の深層心理には、常に猿田彦神が道祖神に姿を変えて、私たち日本人を山への郷愁(きょうしゅう)に誘(いざな)うのです。

 そして山への郷愁(きょうしゅう)をもって、先祖の血を引き継いだ私たちは、先祖のロマンと共に、山に惹(ひ)き付けられるのかも知れません。
 また、登山をする事は毛細血管の回路を開き、血液の循環をよくします。下界との気圧差が異なる為、毛細血管の働きが闊達になります。そして、山の新鮮な空気に洗われ、身も心もリフレッシュするのです。
 こうした目的を以って、「洗心錬成会」が誕生したのです。


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