山行きの為の装備 3


●登山に欠かせないその他の装備品

 人生はアクシデントの連続です。順風満帆(じゅんぷうまんぱん)に行く事は殆どありません。常に予期しない事が派生し、人は度々それに悩まされます。
 そこで俚諺(りげん)に云う、「転ばぬ先の杖」が必要なのです。細心の注意を払っていれば、何かが派生しても「備えあれば患(うれえ)なし」なのです。

 福智山への山行きは、その山の標高が低いからといって、侮(あなど)る事が出来ません。思わぬアクシデントは、山を侮った時に起ります。
 遭難して助かる人と、助からない人の差は、心の慢心にあります。物事を侮る人は、常に不幸現象に振り回されます。

 しかし普段から、準備をしていれば、万一の事態(天候などの影響で露営をしなければならなくなったと期など)が起きても、心配しないで済むものです。日常ばかりでなく、非日常に備えるべきです。
 一見、不必要と思う物でも、万一の事を考えて、リュックサックに備えてあれば、いざと言う時に役に立ちます。

 トレッキングに必要な、道具や機器を上げてみました。特に、山中で一泊以上の露営(ビバーク)をする場合には、以下の物が必要となります。
 また、自分では一泊や二泊する気持ちがなくても、不慮のアクシデントにより、露営を余儀無くされる事があります。こうした、万一の場合も考えておかなければなりません。何事も、備えあれば患(うれえ)なしです。

そ の 他 の 装 備 品
ウエストポーチ
腎臓型の飯盒
拇指・人差指割りまたは各指割りの軍足
軍手
大型懐中電灯または筆型懐中電灯
万能野外工具
灯油式ランタン
ホワイトガソリン用ランタン
保冷用水筒
えび結びのロープ
携帯用クーラーバック ステンレス製またはチタン製の湯呑カップ
携帯用LPG
コンパス
ブドウ糖
携行食・非常食
記録手帳
ヘッドキャップライト

 その他にも、鶴首の着火式ライター、方向磁石(コンパス)、懐中電灯(ワイヤー式発電ライトあるいはLEDヘッドライト)、携帯ラジオ(電池式トランジスター・ラジオまたは手回し充電式のもの)、電池、古新聞紙、料理はさみ、カッターナイフ、山行き記録手帳、カメラ、携帯燃料(LPG)、雨具、ザックカバー、シート、種々の着替え、トイレット・ペーパー、テッシュ類、ビニール袋、ゴミ袋、ロープ(えび結びにした8メートルロープ)、種々のタオル類などがあれば便利です。

 食料品や携帯品としては、ペットボトル入りの自然水または水筒、あるいは携帯魔法瓶、それに詰める飲料水および一般救急医薬などです。
 非常食としては米五合程度、ブドウ糖、甘納豆、蕎麦粉(万一の場合、お湯で溶かして簡単に呑む事が出来る)、缶詰やパック食などの携行食や非常食の食糧、飯盒(はんごう)炊飯のできる場所では、米などを用意しておきます。飯盒炊飯によって食べる米の味は格別です。

 また、日本でも有数な名峰に挑戦する登攀者(クライマー)の中には、岩場に取りつき、そこを制覇した後、「勝利の一服」などと称して、タバコを喫煙する人が居ますが、福智山では、こうした傲慢(ごうまん)な態度は無用です。タバコを吸えば、吸い殻を無意識に捨てる事にもなります。
 ゴミなどは総て、必ず持ち帰ります。


【尚道館〜鱒淵ダム〜福智山に向かう途中で拾った風景】
 
出発点の尚道館から、鱒淵ダムに向かうまでの途中には、都会では見られない色々な珍しい風景が見られます。こうした風景を見ながら歩くのも、トレッキングの楽しみの一つです。
 また、鱒淵ダムから福智山山頂に向かう途中の風景も、大自然の美しさを感じさせるものばかりです。
 福智山ハイクは、頂上に向かう目的地に急行するばかりでなく、途中の風景を楽しんだり、森林浴などにも心配りをします。無意識の中で、心の洗濯をし、健康意識を身に付けて行きます。

赤い吊橋を渡る時に見た風景。鱒淵ダムの湖面は静だった。

畑の中の大きな一輪。

鱒淵ダム下の螺旋階段。
刈り入れ前の実った稲。

栗を包む毬(いが)栗。
福知山山頂の神社の祠(ほこら)

からす落分れ。
茸発見!ヒラタケかも。

歩庭平(ほってだいら)
熊笹とススキ。

ある沢の流れ。
帰路の途中の夕陽。

合馬(おうま)の蓮池で。
福智山渓流の下流域。
ススキ原。



●洗心錬成会の会員は、なぜ同じTシャツをきるのか

 私たち、洗心錬成会の会員は、同じデザインのTシャツを着て、まず同じ目的に向かってハイクをする仲間同士と云う、意識の疎通(そつう)を図ります。
 また、万一途中で道を迷ったり、登山不能に陥った人が出た場合、それから先を登るか否かをリーダーと共に考え、会員同士で助け合う意味を含んでいます。お互いは、共通の人生の目的地に向かう、同じ仲間であり、家族なのです。

同じTシャツを着るのはこの団体が、会員同士の助け合いを意味しているからだ。そこに年齢も、貧富も、社会的地位や肩書きも、男女の性別の差もないのである。これこそが「大自然の中での平等」である。(平成19年8月14日、たぬき水にて)

 また足が遅く、万一、道に迷った人が出た場合、他のハイカーに「地下足袋を履いて、これと同じTシャツを着た人を途中で見かけませんでしたか」と訊(き)く事も出来ます。これは連帯を高める為の助け合いの精神の発露であり、また、「護送船団方式」でハイクをする為、足の健脚な、早い人に合わせるのでなく、一番遅い人に合わせて、山行きを行う会なのです。

 普通、「護送船団方式」などというと、悪い意味に使われます。
 太平洋戦争末期には、輸送船を守る駆逐艦や水雷艇は、船足の一番遅い輸送船の速力にスピードを合わせ、太平洋やインド・シナ海を航海しました。その為に、敵の潜水艦に直ぐに発見され、多くの艦船は撃沈されて、戦争遂行の為の軍事物資や食糧が、わが軍の前線に届きませんでした。

 当時の日本軍は、後方支援が不完全で、橋頭堡(きょうとうほ)が築けず、兵站部(へいたんぶ)の重要性を知りませんでした。戦いの何たるかが、戦争専門家の職業軍人にも、全く理解できなかったのです。そして、これが太平洋戦争の敗因の一つとなりました。

 また、近年では、市中銀行の護送船団方式が、資本主義の競争原理を妨げているという批判も起り、護送船団方式は悪の権化(ごんげ)のように語られました。
 しかし、現実に病気を罹(かか)っている人や、体力のない人が居ることは事実であり、単に「弱いから」という理由で、捨て置くと言うのは、余りにも「人情に機微」に悖(もと)ります。

 「適者生存」と云う、社会ダーウィニズムが常識とされる現代、優勢を誇る人だけが傲慢面(ごうまんづら)して、この世を生きる権利など何処にもありません。体力のない弱者や、病弱からの克服を願う人も、一旦下界を離れ、高き上空の大気を腹一杯吸い込む権利はあります。

登っていた場所が險(けわ)しい山路と思っていたら、それを遮るように沢が流れていたという事は、自然にはよくある事である。これまでの登山が突然沢歩きと変わる。こうした突然の変化を強いられる時、この変化に馴染めない人も出て来る。
 したがって、こうした人は同じ目的に向かって歩く同行者として、救出の手を差し伸べなければならない。これが「護送船団方式」であり、自他同根の意識である。人間は助け合う生き物なのである。

 私たちの洗心錬成会は、難しい岩場に取りつくロック・クライミングの技術を競う登攀者(ロッククライマー)の会でもありませんし、また、健脚を競う山岳会でもありません。

 もっと自然に、もっと人間としての根本的なものに眼を向け、福智山ハイクを通して、誰もが、「自分とは何か」あるいは「なぜ自分は生まれて来たのか」という疑問に対し、常に問う体制を提示して、これをもっと、現代人に考えて貰(もら)いたいと思っているのです。野山の散策の中で、こうした疑問を自分自身に投げかけ、自問自答をトレッキングの中で繰り返して頂きたいのです。

 本会はこの一点に絞り、福智山ハイクを実施しているのです。險(けわ)しい山路を歩き、沢を横切り、登り・降りの葛折(つづらおり)の山路を歩く事により、自分の躰(からだ)を通じて、「自分とは何か」あるいは「なぜ自分は生まれて来たのか」という疑問をぶつけてもらいたいのです。

 具体的な答はでなくとも、「なぜ自分は現代と言う、この世に生まれて来たか」を考える事は、これには何かの理由があると確信が持てるはずです。この「確信」こそ、本当の人間の「生命の尊さ」を知ると云う事ではないでしょうか。



●人間本来の命の重さを取り戻せ

 現代の世は、「人の命」が余りにも軽んじられています。青少年の犯罪は一段と凶悪化し、その残忍ぶりは曾(かつ)てなかったほど、残虐非道なものです。
 現代の日本では、テレビや新聞などが「人の命の尊さ」を教える報道が盛んに行なわれていますが、いっこうに効果が上がらないばかりか、実際の大人達も、「なぜ人の命が尊いのか」これを具体的に応えられる人は殆どいません。

 せいぜい応えて、「法律で禁じられているから」とか、「殺人罪は他の犯罪に比べて罪が重く、へたをすると死刑になるから」などの程度でしか、応えられないのではないでしょうか。

 また、法的には力関係によって、「人の命の尊さ」を誤魔化し、喩(たと)えば、今日の現行法を平たく解釈すれば、「人間以外の生き物(食肉用の牛、豚、羊、鶏などの鳥獣や魚介類の命)を食べる為に殺せば、まず問題にもならず、彼等からの報復もなく、その儘(まま)で治まってしまうが、人を殺すと、相手も人間である以上、恨みを抱く。殺された遺族側は、必ず殺人事件の事を問題にし、生涯、その恨みを忘れる事がなく、いつまでも遺恨(いこん)を残し、また当事者同士の報復合戦を恐れる為である。その為に、法的処罰がとられ、加害者は被害者の恨みを、法によって課せる」となっているのです。

 しかし、これだけでは実際に殺人事件は減少せず、傷害事件にしても、未(いま)だに増加の一途にあります。そして、今日ほど、人の生命が軽んじられている時代は、歴史のどの時代を探しても見当たりません。いったい何処が間違っているのでしょうか。

 国家権力の力関係に於いて、秩序の問題が道徳に摺(す)り替えられ、また、社会秩序が家庭教育の躾(しつけ)の不徹底をあげつらい、此処に責任があると押し付けています。
 つまり、家庭教育での道徳や倫理に摺(す)り替えてしまっているのです。これでは子供達に、「人の命は実に尊いものだ」を力説しても、説得力はありません。
 何故ならば、「人の命は尊い」ということ事態を、親自身が知らないからです。
 現代は、「親の程度」も次第に、そのレベルが低下していると言えます。

山に登ると、「自分はなぜ生まれれきたのか」という、自分を見つめ直す機会が生まれる。人間は大自然の中の枠組の中に居る、生態系の一部なのである。(平成19年8月11日撮影)

 人の命が尊いのは、自分自身で「自分はなぜ生まれて来たのか」を、常に自問自答し、これを考え続けるから尊いのであって、これを考え続けることができない人は、人の命の尊さなど、理解する能力がありません。

 したがって、人を殺したり、傷つけたりと、理不尽な事が平気で出来るのです。悪しき個人主義から生まれた、単なる愚かしい自己主張に過ぎません。根本を深く考えるべきです。
 やはり、「自分はなぜ生まれて来たのか」と、真摯(しんし)な気持ちになって、自己を探究しなければならない時代が来ているのではないでしょうか。



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