福智山・山行と強健術 3

●武術鍛錬としての山登り

 古人は武術修行の場を、「山稽古」に求めました。大自然の懐(ふところ)こそ、自らの修行の場と感得したことでした。
 日本で起源した「日本武術」もしくは「日本武道」といわれるものは、難解な言葉を使うと「礼に始まり礼に終る」というもので、ここには精神的な修練の結果、苦しみの中より、「自己保全」の為の安心立命(あんしんりつめい)の境地を得る事でした。

 それに併せて、東洋的な瞑想や道教的な神仙術(しせんじゅつ)、禅や密教の密儀、儒教的な武士道精神が求められ、単に肉体の鍛錬だけでは無く、精神修養に重点が置かれました。

 したがって、古人は、道場内稽古の、例えば竹刀競技などのような稽古上手や、練習上手では実戦には通用しないと考え、屋内から屋外に抜け出し、自然を知り、自然を考える思考へと進化したものと思われます。

 その進化の跡(あと)に見る事が出来るのが、これまでの二次元平面の道場内稽古を逸して、三次元立体に戦闘ステージを移行させたことです。
 山脈には、必ず高低差があり、山脈の頂きを極める為には、左右にくねる葛折(つづらおり)の山道を登って行かなければなりません。そして、此処を実戦鍛錬の場と考えた時、まず、「足場」の事を考慮しなければなりません。

山稽古は二次元平面の整備された足場とは全く違う。

 山稽古の足場は、一般の二次元平面の平坦な試合場とは異なり、岩や石が散在し、不安定で、險(けわ)しく辺鄙(へんぴ)であり、地形全体も、屋内道場とは異なります。これこそが現象人間界の現実であり、人間のルールにより、意図的作為として作り出された、整備された試合場やスタジアムとは異なります。

 更に、屋内競技でないのですから、これに天候の有無や寒暖や風圧が加わります。これこそが、現象界の本質であり、大自然の本質です。
 また、生きている人間が無限と感じるのは、実は「有限の世界」の範疇(はんちゅう)だったわけです。

 有限と云うのは、無限を無限たらしめる、一つの「あや」【註】物の面に表れたさまざまの線や形の模様)に過ぎません。これを、着ている物に喩(たと)えたら、「縞(しま)の柄(がら)」や「模様の柄」のようなものです。
 したがって、「それと見せ掛ける」のもであり、「形」であり、また、「香」です。つまり、「生」は、実は「無」の領域の中の「有」であり、仏道に例えるならば、「空(くう)」に則(そく)した「色(しき)」ということになります。

 古人の言葉を借りれば、大自然の中には、人間が見習うべき様々な、極意の数々が隠されていると云うのです。
 人は、大自然の存在に気付きながら、これを凝視(ぎょうし)したり、探究したりすることは殆ど無く、以外とその存在の真意を見逃しています。

 そして、個人的闘技の優は、屋内で闘われる格闘技のみが、世界を制するような錯覚に陥れ、人間の範疇(はんちゅう)を主体に考え、大自然から視(み)た人間が、その中の一部であることを見逃しています。格闘技選手も、また大自然の一員に過ぎず、この世が有頂天に舞い上がっている選手の名声で動いていないことは明白です。

 世界最強と自称する格闘技選手も、山を知る、山への「畏敬の念」を抱くマタギと山に一緒に入れば、こうした自称者も、僅かに2、30分で道に捲(ま)かれてしまうでしょう。それだけ、二次元平面と、三次元立体との格差は大きいと云うことです。
 したがって、ここに武術修行者は山稽古をしなければならない「武術修行の宿命」が残されているのです。

 どんな強靱(きょうじん)な人も、どんな才能に恵まれた人も、やがては生・老・病・死の四期を辿り、死を迎えることになります。その「死を迎える際」、自分の死に態(ざま)は、如何なるものか考えておく必要があります。臨終に臨む心構え駄大事です。

 とはいっても、一般に思われているような死ではなく、自分の抱えている想念の普遍性です。一見「死」とは、死んでいなくなるのでなく、仮にそうなったように見えるだけのものです。この時、勿論肉体は消滅し、物質としての形は失いますが、生前抱いていた想念は、死した後も意識として残ります。それは、人間と言うものが、「意識体」としての存在であるからです。

 死した後、肉体は土に帰り、水に戻り、その他種々の元素に還元されて、形の形成は解除されますが、一方、その魂は許(もと)に在(あ)ったところに帰って行きます。

 例えばこれは、人生の舞台で役者を演じていた、「その人の役」の舞台役者が、総ての演劇時間を終(お)えて、舞台裏に引っ込むのによく似ています。したがって、演技が終了すれば、客席からは見えなくなってしまうのです。

 これは、演技終焉(しゅうえん)と倶(とも)に居なくなったのではなく、客席からは居なくなってように見えるだけで、この演技を演じた舞台役者は、ちゃんと楽屋に存在しているのです。見え方が違っているだけのことです。この事は、霊魂の不滅を顕わしています。

 不滅の霊魂は、精進(しょうじん)を重ね、修行をしていく存在なのです。
 大自然は、人間の生命の玄妙(げんみょう)であり、荘厳(そうごん)なるところを教えます。
 生命の、妙不可思議な力を教えます。これを思料すれば、人の生命の流れは、生命から心へ、心から霊へと移り変わっていく、忽焉(こつえん)としたプロセスが大自然の中に内蔵されていることが分かります。そして急に変化が現れるさまが、その偉大さを知る「悟り」というものではないでしょうか。

 生命と言うものは、人間の力、特に作為(さくい)と言うもので、どうこうすることのできないものです。こうした生命が、親の肉体を通じて、世の中に形として顕われ、人生を経験して行くのですから、そこには「生命の本体」とも云うべき、「もと」がなければなりません。その「もと」を見出せるのが、実は大自然だったのです。

 大自然はこれまで多くの生命を生み出し、育(はぐ)んで来たのです。その「もと」を知ることが、実は「山稽古の根本」にあるのです。そして、これを識(し)る事が、実は古人の云う「悟り」だったのです。



●山岳思想と精的なエネルギーの連鎖

 山岳の位置する処と、精的活力の関係は密接です。これは中国の老荘思想を視(み)ても分かります。老荘思想や東洋医学の基礎になっているものは、道教の齎(もたら)した「タオイズム」です。
 この思想の教えるところは、「この世に形があるものは、やがてその形を変え、そして消えて行く」という事実です。

 そして、東洋医学の説くところも、「命の変化」もしくは「命の変幻」が思想的な基盤となっています。
 しかし、道教について考えると、「姿形あるものは変化して、やがて消えて行く」と説きながらも、その一方で、「性的エネルギーだけは膨張する」と説いているところが、何ともエロチシズムを感じます。【註】「性的エネルギー」と「精的なエネルギー」は異なるので注意)

 現象人間界の、下界での人間の営みは、至る所で性的エネルギーが膨張し、満々に充(みた)たされています。むしろその捌(は)け口を求めて、右往左往しているのが、老いも若きもを含めて、人間界の現実のようです。

 したがって、今日世界の人口が既に60億【註】1999年10月12日にはついに60億人を突破))を突破しましたが、それでも増え続け、繁殖率は鰻登(うがぎのぼ)りに、人口爆発の状態にあります。更には、2050年頃には89億人を突破すると予測されています。
 性的エネルギーだけが、無限大に膨張し続けているのです。

 この人口爆発状態を、タオイズムに借りて表現するならば、世の中全体はエクスタシー【註】人間が神と合一した忘我の神秘的状態をいい、恍惚あるいは忘我の状態)の顕われであり、私たち人類は、エクスタシーの中から生まれて来たと言う事実があります。
 そして、人類はエクスタシーにより行動を起こし、その中で生活を営み、「性的なエクスタシーのエネルギー」によって動かされ、影響され、人生を営むという図式が成り立ちます。

 人類の歴史は、この中にこそ、最も大きな価値観を求め、エクスタシーにより、性的エネルギーが溢れる現実を作り出しました。
 テレビでも映画でも、また小説でも歌謡曲でも、更にはアニメでも、若い男女が主役であり、そこには性(セックス)が絡んで来ます。性交遊戯だけが、その主体となっています。男女の絡み合いに終始し、それに執着する事が、まるで「美しい」とも錯覚してしまう実情をつくり出しています。
 また、マスメディアを通じて眼から入って来る情報は、情愛と言う、捨て置き難い色恋沙汰が、凡(おおよ)そ人生の大半を支配しているかのような錯覚を抱かせます。

 この現実は、今も昔も変わりません。また、現象人間界で、これ等を商品として売ろうとすれば、これ等の商品は、性的エネルギーの息の懸(かか)ったものでしか売れないのが実情です。

 その他の、食品であれ、乗用車であれ、住宅であれ、家電製品であれ、パソコンや携帯電話にしても、消費者の購買意欲をそそるのは、そこにエクスタシーが絡み、性的な自己満足を促すものしか売れないようになっています。現世の世は、性的な自己満足こそ、人類の性的エネルギーに喚起を呼び起こすものだったのです。

 さて、タオイズムから言うと、老荘思想に登場するのは、概(おおむ)ねが「仙人」です。この仙人は、何百年も何千年も生きると言われています。
 彼等は「後天の気」によってエネルギーを得ていると言いますが、一方、「先天の気」は腎臓に宿っていて、ここはご存じの通り、腎臓は生殖器と密接な関係を持ち、この臓器は、骨と耳に関係しています。

 生命と言うものが、みな様々な形に姿を変えて行く中で、仙人だけは、その姿形を殆ど変えずに生きる事が出来ると言います。それは何故でしょうか。
 仙人は「先天の気」からではなく、「後天の気」から、エネルギーを吸収していると言います。

 食物の中には「精(せい)」が生きており、そこから「命の元」になるものだけを抽出して、これを躰(からだ)に溜め込む方法を、仙人は編み出したと言われます。
 一般に「仙人は霞(かすみ)を食べて生きている」と云われていますが、一体この意味は、どういう事なのでしょうか。

 人間は親から貰(もら)った「先天の気」、つまり生まれながらの性的エネルギーを、色情に狂って猛り、繁殖に使い果たして、最後は死んで行きます。これは、他の動物も、ほぼ同じ経路を辿ります。
 ところが仙人は、貰った命を、体内で増やす工夫を凝(こ)らします。その工夫が「山に登る」ことだったのです。山に登り、山地に棲(す)むことだったのです。つまり、「山に居る人」ということで、「仙人」と言われたのです。

 これに対して、一方「俗人」と云われるのは、「谷に落ちる人」という名で呼ばれ、貰ったもの総(すべ)てを、「後天の気」を無造作に使い果たし、「身を落して行く」ので、これが「俗人」と呼ばれたのです。

 仙人は山地に棲(す)み、自分を高い処に置いて、大気の澄み渡った綺麗(きれい)な空気を吸う人だったのです。
 一方俗人は、谷間に、わが身を落して、平地の下界に棲み、そこで重い、濁(にご)った、淀(よど)んだ空気を吸って生きて来たのです。まず、ここに仙人と俗人の違いが明確になります。

 また、俗人は子供を作りますが、仙人は躰(からだ)の中に「光の子」を宿すと言われます。この「光の子」というのは、「昇華された性的エネルギー」の事で、次世代に繋(つな)げる性的エネルギーに加えて、更に食べ物の中から、性的エネルギーに繋がる同じようなものを抽出して、これを蓄えると言います。
 つまり、性的エネルギーを、「精的なエネルギー」へと変換してしまうことなのです。こうして仙人は、長寿を学んだと言われます。

 つまり、俗界に淀んだ蟠(わだかま)ったエネルギーは、肉欲を掻き立てる「性的」なもので、一方、山地の澄んだ清らかな場所に存在するエネルギーは、「精的」なものであった分けです。この意味は「天地の差」ほどありますので、よく認識することが大事です。

 そして、仙人の長寿の秘訣は、「山地に棲(す)み、空気の綺麗な、濁りのない、また淀みのない処」に住まって「精」を求め、一方俗人は、下界の、谷に落ちた平地や、山から遠い海辺の平野部に棲んで「性」を求め、淀んだ重い空気を吸い、常に新鮮な空気の酸欠状態にあるのです。
 そして俗界に落ちた俗人たちは、「性」を浪費して、自分の寿命を待たずに、早々と死に急ぎます。

 事実、大都会と言う俗人の集合体は、多くは海側に近い平野部にあり、まさに此処は山の頂からすれば、「下界」の名に相応しい処です。
 新鮮な空気がなく、濁って淀んだ二酸化炭素混じりの、重たい空気を吸ってばかりいたらどうなるでしょうか。

 人間に必要なのは、食べ物を二種類の行程の中で、性的エネルギーを「精的なエネルギー」に変える新鮮な大気(酸素の含有を多く含む)です。二酸化炭素混じりの重たい空気ではありません。

 空気を定義すると、地球を覆い包んでいる「無色透明の気体」のことで、地上から高度80kmまでの水蒸気を除いた、組成はほぼ一定で、体積比で酸素が20.93、窒素78.10、アルゴン0.93、二酸化炭素0.03の他に、ネオン・ヘリウム・クリプトン・水素・キセノンなどを微量に含んでいる、「大気」のことです。

 しかし、下界では、二酸化炭素の体積比が非常に多くを占めます。つまり、酸素が少なく、二酸化炭素が多くなります。二酸化炭素濃度が濃いくては食物を分解することは出来為せん。

 食べ物を二種類の行程で、性的エネルギーに変換し、次に「精的なエネルギー」から「精」を齎(もたら)すのですが、これが酸欠状態にあり、然(しか)も二酸化炭素の体積比が多くなると、食べ物は血を造り、体細胞を作る働きを低下させるばかりでなく、二番目の行程で大事な、「心」と密接な関係にある「精的「」なエネルギーをも、作り出す事が出来なくなります。

 したがって、人間は繁殖に、その総てのエネルギーを使い果たし、まさに「愚かな性欲」に溺れ、「性的エネルギー」を、「精的なエネルギー』に変換することも知らず、生・老・病・死の四期を辿りながら死んで行くのです。
 この「死んで行く態(さま)」に、「識(し)らない」という凡夫(ぼんぷ)の不憫(ふびん)さがあります。



●三人集まれば山岳会の愚

 昔から、「三人集まれば山岳会」という話が、山男たちの間でよく語られました。これとよく似た現象を、駅の階段などでよく見かけることがあります。
 それは、東京とか大阪などの大都会に行くと、東京駅や大阪駅などで、出勤前のサラリーマンたちが、駅のエレベーターやエスカレーターを使わず、わざわざ階段を駆け上っている人の姿です。

 この「駆け上り」を遣(や)っているサラリーマンたちは、これが自分の健康に少しでも寄与していると、信じて疑わない人達です。
 また、健康に少しでも寄与していると疑わない人達は、日頃の運動不足を、階段を駆け登ったり、駆け降りたり、あるいは連絡路を走ったりする事で、運動不足がこれで解消されていると自負している人が多いようです。

 しかし、こうした自負は、正しい意識から生まれて来たものなのでしょうか。
 駅の階段を駆け登ったり、連絡通路を爆走したり、あるいは階段を駆け降りたりと、この気ぜわしい行動は、単に健康管理の為の手段なのでしょうか。
 こうした人を傍(はた)から視(み)ていて、決してそのようには見えません。
 何かに多忙に任せ、自分自身が気ぜわしく動かなければならないと言うような、強迫観念から、そのように装っているようにも見えます。

 こうした人は、自分でも正体の分からないものから憑(つ)き纏(まと)われて、安易に肉体を酷使しているように映ります。下界での階段を駆け登ったり、駆け降りたり、連絡路を爆走したりと、遣(や)れば遣るほど、健康から遠退いているような感じすら抱きます。

 何故なら、下界でも最も淀(よど)んだ空気が溜まり易い、地下通路や、地下道の階段でこうした愚行をしているから。
 健康に寄与するどころか、汚れか空気を一杯吸い込んで、健康を害して入るのではと、疑いすら起ります。

 駅の階段などで、出勤途上や退社途上に、この手のトレーニングをしている人は、そのトレーニングの成果を山行きで試せば、これまでのトレーニングが如何に無駄な弊害(へいがい)であったか、一目瞭然となり、化けの皮が剥(は)がれます。
 例えば、駅の階段を、出勤途上や退社途上を利用して遣っている人は、その駆け登るにしても、駆け降りるにしても、また、連絡路を走っても、その距離はせいぜい50m止まりでしょう。

 しかし、險(けわ)しい山路は遥かに長く、その踏み歩く石段も、整備された平地での平面な石段ではなく、辺鄙(へんぴ)な場所の名に相応しい、岩や石混じりの悪路です。決して、皮靴やハイヒールで走れるような処ではありません。
 したがって、山行きとなると、直ぐに、「くたばってしまう体力」しか持ち合わせていないことは疑いようもありません。

 山は、肉体力や腕力では登れないものです。また、平地を走るようなわけにはいきません。高低差があるだけに、その辺鄙(へんぴ)な地形は、難儀(なんぎ)を強要されます。単なる体力主義や腕力主義では、山行きは、無理が生じれるのです。山行きに体力や腕力の傲慢(ごうまん)は禁物です。

 しかし、こうした傲慢で乗り切ろうとしている人も少なくありません。
 昨今は、入山人口が増えています。それも中高年を対照にした年齢層の登攀者が増え、「三人よれば山岳会」という名の通り、勝手気儘(きまま)な山岳会が出来て、そこによき指導者が入ると、忽(たちま)ち20名30名と膨れ上がります。

 会員が20〜30名ほどに増えると、一年か二年と経たないうちに、その山岳会は分裂し、また新しい山岳会ができると言うような有様で、昨今は野山を歩くハイクも多種多様です。
 あるいは山には二、三度しか行ったことのない、自称・山男が会長になったり、冬山を視(み)たことがないような山男がリーダーとなり、こうしたことが珍しくなくなり始めました。それに加えて、最近では「山岳ガイド添乗員」なる新種の商売が出て来て、民間レベルで資格を取らせ、ド素人の中高年の山行きを喰い物にする商売まで現われる始末です。

 登山が一般化されればされるほど、この傾向は強くなり、山はこうした輩(やから)に乱され始めたとも言えます。そして、駅の階段の登り降りや、連絡路をトレーニング代わりに使っているこの手合いが、山を傲慢(ごうまん)で乱さぬよう、筆者としては願うばかりです。

 人間である為には、まず「清らかな心」を以て、人間らしい行動が出来なければなりません。決して、傲慢であってはならないのです。山を、こよなく愛し、「清らかな心」の持ち主が増えることを願うばかりです。



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