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●睡魔の襲う時間

 眠りの中には、暗示に陥る時間帯があり、その最たるものが「レム睡眠」と言われるものです。
 レム睡眠とは、急速眼球運動(rapid eye movement, REM)の見られる睡眠で、脳波は覚醒時に似るので、逆説睡眠ともいわれる睡眠現象です。したがって徐波睡眠とは異なります。
 徐波睡眠とは、緩やかなな振動数の脳波が現れる睡眠で、レム睡眠以外の睡眠であり、成人では一夜の睡眠の約80%を占める睡眠で、ノン‐レム睡眠といわれるものですが、レム睡眠とは異なります。脳波はこの時、覚醒時に酷似します。

ナチス・ドイツの宣伝大臣パウル・ヨーゼフ・ゲッペルス。
 ラインラントのカトリック家庭に生まれ、ボン、ミュンヘン、ベルリン等、八大学に学び、哲学博士の学位をとった秀才。ヒトラー入獄中、急進社会主義に惹かれてナチス党に入党。ヒトラー演出の為に粉骨砕身した。


 これを徹底的に利用したのがヒトラーでした。
 彼は、「大衆は理性で判断するよりも、感情や情緒に反応する」と言わしめました。そして当時、ラジオというマスメディアと駆使して、「優秀なドイツ民族が世界を支配するということは神聖な義務である」と繰り返し放送し、洗脳し続けました。
 「悪魔の囁くの時間」に語りかけたのでした。精神科学的唯物弁証法に発する合理的洗脳法(マインド・コントロール)です。この時間帯は、同時に「睡魔が襲う時間」だったのです。

 ヒトラーが、青春時代を過ごしたウィーンの放浪生活以後、乱読した書物は、ル・ボンの『大衆心理学』、マクドウガルの『群衆心理』等でした。そしてこれを徹底研究した後、デマゴギー(Demagogie/実と反する煽動的な宣伝)の処方箋を大衆に向けて作り上げます。
 「宣伝は手段であり、また目的である。肯定は否定か、黒か白か、ズバリ明解に断定して、感情腺を刺戟せよ。賢人でない大衆は、物忘れの早い動物であるから、くどいほど同じ事をくり返せ。平易に、焦点を一点に絞り、何度でも同じ事を繰り返して話し掛けよ。論理を交えて、ああだ、こうだと言うな」
 これがヒトラーから課せられた宣伝大臣パウル・ヨーゼフ・ゲッペルスの使命でした。そしてゲッペルス自身、心理学を研究して、「悪魔の囁きの時間」と言うものを発見するのです。
 この時間こそ、不浄なものが体内に侵入して来る「魔の時間帯」だったのです。

 この方法は新しい思想や政治的ビジョンを一方的に繰り返し、聴覚から潜入し、それまでの考え方や思想を改めさせることを言います。それによって暗示か掛かり、人格が改造されます。

 こうした「悪魔の時間」に行為に及ぶことは、仮に不浄なものが潜り込んだとしても、これは全くの無知からくるもので、決して文句の言える筋合いではありません。自己責任に於いて、当事者の責任は重罪を冒した事になります。

 魔は時間と空間が悪いのです。その時空だけ魔が発生するのです。だから「凶」なので、悪が予定されるのです。
 この時間に、もし子供を作るとする場合、十分の一の陰性保菌者の遺伝子がコピーされるのは、全く疑いようが無く、恋愛という形を装って、保菌者同士が惹き合った現象と言えます。
 人間は、非実在界と言う現象人間の「行為」の中に、善も悪も、正も邪も、同時に兼ね備えている事を知らねばなりません。非実在界は善悪同根なのです。

 犯罪保菌者家系になるのは、最初父母のどちらかが、精神薄弱児であるとされる場合が多いと言います。近親結婚による血の濃いさが精神薄弱を齎(もたら)し、黒い血の保菌者が生まれると言う説もあります。あるいは陰性保菌の似た者同士が、惹(ひ)き合って保菌者となるべき子孫を残すこともあります。こうした因子が、災いの種になることは否定できません。

 繰り返しますが、パウロの黙示録の冒頭には「人間は災いなり、罪人は災いなり」とあります。これは非常に重要な言葉です。
 人間という陰性罪人予備軍は、その中から災いを齎す罪人が生まれるとしているのです。
 だからパウロは嘆くのです。「なぜ、彼等は生まれてきたのか」と。そして「善をなすものは一人も居ない」と。

 パウロが「ローマ人への手紙」によって行き着いた結論は、予定説であり、「神は予め選別した」という事実を認めることによってのみ、永遠の命を約束されるのであり、そうでない人は、一切が死に絶えるとしているのです。
 まさに生命の神秘、人間の死生観は、この予定説に含まれ、その見えざる手によって予め選別され、予定された予定によって計画通りに動かされているということになります。
 恋愛という「一種のトリック」によって……、私たちは未来に何某(なにがし)かの「血」を伝えているのです。



●男女の牽引に識別力を持つ

 恋愛の対象となる異性は、一般的に見て、自分の欠点や性格を補う型の人である場合が多いようです。性においても、男女の姿形が違うことからして、肉体的にも本能的にもそれによって、「補う」という形をとりながら、「魅せられ」「惹き合っている」ということが言えます。

 そもそも人間というものは「補う」という欲求が働いて、無意識のうちに異性に、恋慕の思いを募らせるというのが恋愛感情の正体です。
 その意味から考えると、宇宙意識は人間に対して、識別力(見通し)の有無を問い質(ただ)しているわけですが、その結果、男女の生命力を合体させるという根強い牽引(惹き合い)が働き、そこで不運な生命と幸せな生命とを選んでいる分けです。

 つまりこの生命を選別するに当たり、宇宙意識はまず、お互いに相需(もと)める牽引力(けんいんりょく)をもって第一次の審査とし、次に相惹(ひ)かれた同士が識別力によって互いを見抜き、その見抜いた結果、人生の見通しがあるか否かを、第二次の審査として、現象人間に問うのです。

 この時に、相需(もと)め、惹き合う力だけが強く、識別力に鈍感なカップルを、まず不幸のグループへ枠組みし、次に相需め、更にその識別力も充分に働くカップルを、幸福のグループへと選別していきます。

 また識別力があっても、お互いに牽引(けんいん)する力が無ければ恋愛は成立せず、また相需め合う力も、識別力も欠如していれば、これもまた恋愛が成立する事はありません。

 恋愛で問題になるのは、圧倒的多数を占める、牽引力が旺盛で、識別力に欠けたカップルの末路です。
 このカップルは相手の人物とか、人柄とか人格は二の次にして、肉体的な欲望とセックス遊戯に魅(み)せられ、人間が、時と共に老化現象へと向かうという事を忘れているという一点に、大きな不幸を抱えているという現実があります。
 十代、二十代の肉体は、五十年後までも続くはずがなく、また、生殖能力並びに性的能力も、多少は個人差があるものの、これも五十年後には大きく退化しています。

 繰り返ますが《類は類を呼ぶ法則》というものがあります。
 この法則に包含されている隠れた部分は、つまり同じ程度の同士が交わり、その交わりが、不幸を喚(よ)ぶという意味に回帰されているのです。したがって異性を選ぶ場合、自分に相応しいからぬ同類型の相手を選ぶということになり、そこが不運不幸のスタート地点であると言えるのです。

 もし恋愛に至り、認識力が正常ならば、自分の性格を補うような反対類型の異性に心を惹かれるのは当然ですが、その場合、相手の人柄等よりも、肉欲的な肉愛に多く惹かれるようになると、この同類型感覚は麻痺(まひ)してしまうことになります。
 つまり肉欲・愛欲が先行して、相応(ふさわ)しくない異性を選んでしまうことになるのです。そして、こうした形から入った恋愛は、時間と共に「幻滅」を齎すものです。

 先に仕掛けられた幻滅の予定の罠(わな)を知らず、こうした形から結婚に至った場合、真の意味での恋愛結婚という名には値せず、「墜落した肉愛」と言ってよいでしょう。肉欲は、持続性と継続性が伴わないのです。
 こうしたところにも創造主は、予め予定した救われる者と、そうでない者を選別しているという神の行為があり、神の仕掛けたトリックは、至る処で「選別の罠」を見る事が出来ます。

 逆に、恋愛とは正反対の、媒酌結婚や見合結婚の方がこうした罠に陥る確率は少なく、悲惨に陥る結果はあまりないと言えましょう。
 恋愛というものは、とかく相手を過大評価し、相手を理想化して考えるものですから、必然的にそこにはある種の幻影が混じり、冷める時期があるのは当然であると言えます。

 「結婚とは何か」ということを考えると、不完全な双方が結合することによって、双方の欠点を補う行為であり、次第に完成に向かって努力することを言うのです。これが念頭にないと、不幸現象の中に自らが飛び込んだことになります。

 さて、恋愛結婚に酷似した形に「同志結婚」というものがあります。
 今まで述べてきたように、恋愛結婚に長所があるとするならば、自分の足りないものを補う同類型の異性との結婚であり、逆に短所があるとするならば、それは時間と共に当初の異常な興奮が冷めるということにあります。この冷めるという現実には、余程の覚悟がいるのは言うまでもありません。その点、媒酌結婚や見合結婚は、こうした点が見当たらず、結婚したからには何とかこれを成功させねばならないという夫婦の努力の跡が見て取れます。こういう意味で、恋愛結婚より優れた一面を持っています。

 しかし最後に、もう一つのケースとして、同志結婚を上げてみましょう。
 これはある種の思想を持つ者同士が、その理想実現の為に、二人で力を合わせる結婚です。これは一種の恋愛結婚であるといえなくもありませんが、思想を同じくするところで、恋愛結婚のように、その話題から興醒(きょうざ)めすることはありません。これは恋愛結婚の長所と、媒酌結婚や見合結婚の長所を有している為です。

 人間が思想を持つ行為とは、その思想を実現化に向けて邁進(まいしん)するという実践が含まれます。逆に思想を持たなければ、共通する話題が無く、また教養の違いにおいても、同レベルに基準値を設定できないので、結婚後の話題は食い違いが生じ、白けたものになります。

 しかし、イデオロギーのみに囚(とら)われていると、こればかりを重視するあまり、人間的な修練の大事さを忘れ、思いも拠(よ)らぬところに破綻が待ち受けていることも覚悟しておかなければなりません。
 結婚は神の仕掛けた壮大な、人間の人生に関与する「一種のトリック」であるということを念頭に入れていおかなければなりません。このトリックを見抜き、慎重に行動するか否かで、あなたは幸・不幸の、いずれかを背負い込んだことになります。



●結婚とは、そして夫婦とは

 結婚は、恋愛結婚、見合結婚、媒酌結婚、同志結婚の総てを問わず、法的には、男女がセックスを許された唯一の合法的生殖行為であるといえます。肉体的にあるいは愛欲的に魅せられたとしても、またそれを厳粛(げんしゅく)に捉え、慎重に扱ったとしても、男と女が人生航路の進路を共有させて、生活共同体を作る事を意味します。
 そこで生まれてくるのが構成員の各々の役割です。

 しかし、ここで考えなければならないことは、人間は結婚に当たり、二つの問題を抱えることになります。一つは生物として、もう一つは人間としてです。
 生物としては、生殖としてのセックスを対象に異性を需(もと)めます。あるいは享楽としての、それを需めます。そして男女が性欲を満たす事になります。

 また、人間としては、相手に幾つかの自分にないものを需めます。双方は生物として、人間として相手に対し、幾らかの期待を需めるのです。こうした結果が、今までの結婚に至った経緯です。
 結婚は、生まれも育ちも違った男女の、他人と他人の同居であり、お互いが他人なるが故に、当然、異なった自己主張があるのは当然です。結婚して、新婚といわれる一時期は、その主張は、お互いが折れて妥協を見ますが、やがて両者は、本来の自己主張を通すことになります。夫婦間に争いが起こります。

 洋の東西を問わず、人類の歴史は、男女の役割分担は当然の如く決まっているかのように思われました。少なくとも原始時代から文明社会に至るまでは。

 男は得物を探しに外に出る。女は男が得物を獲ってくるのを家で待つ。あたかもそれは当然であったかのように。少なくとも前近代までは、これが常識と思われた夫婦の在(あ)り方でした。

 しかし現代に至っては、必ずしも役割分担が決まってないか、あるいは逆転してしまっています。女は、必ずしも家で待ってないことがあります。むしろ女の方も得物を需めて、狩りに行くことすらあります。
 現代は、狩りに出て、疲れて帰る男に休息の場がなくなりつつあります。男は他で休息することを余儀なくされます。
 では、何処で休息するのでしょうか。

 一杯飲み屋、スナック、キャバレー、クラブ、スタンドバーといろいろありましょう。それとも妾(めかけ)の待つ別宅でしょうか。
 男は外に出ると、七人の敵がいると言います。そして敵と戦い、疲れて家に戻ります。もし、ここで女が待って居なければ、困惑するのは当り前でしょう。家で安らげないとしたら、生活のリズムを狂うのは当然であり、人間の存在様式も当然変容を来たします。

 そこで夫婦共稼ぎの家庭では、男が妥協することになります。適当に外で慰安を需め、一時の悦を楽しみ、家へ帰ります。家は、男にとって単なる寝床でしかありません。寝床以外の存在は何処にもなく、しかし肉体の休息は、辛うじて得られるといった状態です。ただそれだけでなのです。したがって、精神の休息など得られるはずもなく、憩(いこ)いはここにはありません。

 同様に、外で働く女にも七人の敵がいます。女も男女平等の中で、企業戦士として戦い、そして疲れ果てます。
 疲れて帰るが時間差からか、そこに男は待っていません。元々、男は家で待つ存在ではありません。しかし、こうした習性を知らない疲れた女は、男が居ない事に困惑の色を見せます。そして家で安らげない女は、結局、何処で何をするのでしょうか。

 休息の場を需めて、あるいは一時の慰安を需めて、スナックや飲み屋に通う事になります。あるいはショッピングかカリスマ美容師の居るヘアーサロンに出かけます。不倫の隙(すき)も見せます。あるいは自身も不倫へのアバンチュールを密かに期待します。こうして女も、生物的なリズムは悉々(ことごと)く乱れてきます。
 夫婦不和の起因は、こうしたところにも隠れているのです。

 しかし、男も女も「家庭」というものを所有し、これに属することで社会防衛的には、辛うじて常識の範囲で防衛されています。何故ならば、人間社会の常識は、こうした最小単位の「家庭」が生活共同体の一構成を成しているからです。
 男女が異性を需める最大の理由は、生物的な動機からです。次に良き伴侶(はんりょ)を人生に求めようとします。
 夫婦は生物的なセックスにおける男と女ですが、人生の伴侶としては、各々の生活による役割分担であります。この役割分担は、時代が変わっても不変であると、つい五十年前までは信じられていました。

 ところが文明の発達は、男女の役割分担を奪ってしまい、それが逆転することも屡々(しばしば)となり、ここに混乱が生じたのでした。こうした事を結果から述べれば「離婚」の増加ということになります。
 離婚は不幸現象の一つです。そして、こうした時代背景の裏には、今述べたような事柄が複雑に絡み付いているのです。
 しかし、今日のように自己主張が激しく、男女が妥協を見ない箇所が殖(ふ)えている点を見ると、離婚という不幸現象は、益々増加の一途を辿るといえましょう。