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●双方の自己主張の対立

 離婚は単に夫婦間の問題には止まりません。その影響は子供にも波及するのです。
 本来ならば、夫婦とはお互いが控えめで、相手を労り、よき心遣いをすれば、その自己主張を超越して素晴しい結果を生むものです。しかし不協和音が連続すれば離婚も止(や)むなしとなるです。
 だが問題はここにあります。

 それは子供に大きな影響が生ずるからです。
 離婚問題が持ち上がると、まず子供の取り合いが始まります。子供はこうした状態に戸惑い、右往左往します。
 特に幼児は、物事の実情が余り把握できませんが、小学校高学年ともなると、こうした両親の動向を敏感に察知します。また中学生ともなると、困惑するばかりでなく、積極的に立ち回って、家出する場合もあります。

 性格的に逞(たくま)しい子供は、とにかく自力で乗り越えようとしますが、そうでない、純粋な性格を持った子供は逃げる事も、乗り越える事も出来ずに、両親の狭間(はざま)で葛藤(かっとう)が起こります。
 そして最後には疲れ果て、それがピークに達するのが、両親の離婚時から数えて、二、三年後には体調を崩し、精神に錯乱を覚え、結果として、人間的な存在様式を変容しなければならないような状態に追い込まれていきます。この変容こそが、世間で言われる精神分裂病です。
 自己主張の対立という、性格的不一致が招いた離婚騒動は、結局、子供を犠牲にして、後味の悪い結末を迎えるのです。

 精神分裂病と言う病気を逆から見てみますと、両親が離婚した家庭の子弟が、この病気に罹(かか)るケースが多いようです。精神科や神経科に通院・入院している半数以上の患者は、自分が幼い頃、両親が離婚していることが多いようです。この事は、離婚後の母子家庭や父子家庭に、何らかの霊的な異変が起こっていると言うことを現しています。

 そして、こうした分裂病の裏には、少年少女の「老い」という現象が現れ、「狂う」現象人間の暴走ですから、その深層心理に潜むものは、恐れと不安が入り交じった複合的な、「片親が離婚した」というコンプレックスが離れなくなって来ます。
 ひたすら「現状」と言う立場を守る、消極的な働きが主体になりますから、これだけに懸命になりますと、当然、そこには「老い」という心の疲弊(ひへい)が現れて来ます。

 老いは決して、肉体的な年齢によって決定されるものではありません。将来が見通せなくなり、夢を捨てて、現状の窮地を回避する緊急避難ですから、そこに「かりそめの幸せ」を求めると、その意識が老いへと向かわせます。

 既に、少年期にこうした老いを背負い込んでいる若者は決して珍しくなく、家庭不和から強いショックを受けて、ノイローゼや心身症に陥っていることもあり、また煩(わずら)わしい対人関係を逃避して離人症に陥っている少年少女も少なくありません。
 そして、周囲から受け取る刺戟(しげき)に対して、心が無限の抵抗力を失い、物事を吸引する吸引力が退化し、次の時代の不幸を作り上げていきます。



●血統の保菌者に対し、霊統の保菌者が関与する恋愛結婚

 血統と霊統は、表裏一体の関係にあります。
 血統は「血の繋(つな)がり」を顕(あら)わすもので、一般には「血筋」という言葉が用いられますが、ここには「黒い血」の保菌は背後に流れています。

 それに対して霊統というものがあり、血が反応して脳が惹(ひ)き合うのではなく、憑衣・憑霊する霊と霊との囁(ささや)きが恋愛に発展すると言う現象です。憑衣・憑霊物の欲する意識によって、肉が血を通じ、それに近寄る現象であり、自分の心情によって意識するものでありませんから、心が惹き合うものとは区別する必要があります。

 憑衣・憑霊物が恋するものを恋し、自分の欲求に忠実なるものを、自分自身の生活に取り込んで生活するのです。そして、こうした男女が結婚した場合、憑衣・憑霊物の奴隸と言う形態を取ります。
 浪費癖が旺盛で、贅沢(ぜいたく)好みの上、最後は家庭が破綻(はたん)するという恋愛結婚者の多くは、自分自身の想念は眠らされていますので、外圧や外流の影響を強く受ける事になります。

 そして、外圧や外流は、右回りの拡散・膨張する渦巻きですから、この中で生きると言う事になります。右回りの拡散・膨張する波動の中には、その拡散・膨張によって霊的波調が「粗」となりますがら、粗くて低いものになり、同一波調の低級なものが交流をしますから、そこには歪(ひず)みが生じ、自惚(うぬぼ)れや侮りや優越感だけが旺盛になって、やがては自分を見失い、不幸の中に突き進んで行く事になります。

 霊的波調は次元が下がると、非実在世界では、低級なものに同調すると言う特性を持っています。
 現代人の殆どは、霊的波調が粗くなって低下化している為、憑衣・憑霊物の奴隸になっていない人は、居ないといっても過言ではないでしょう。

 上は政府の高官や高級官僚から、下は肉食に狂い、色に狂い、それを貪(むさぼ)る庶民までの総べてが、物欲と性欲に取り憑(つ)かれ、金力欲や権力欲や闘争欲に煽(あお)らて、こうした低級波調で一致を見ると、霊統から来る恋愛遊戯が始まります。

宇宙の左右の旋回による波動の粗密。右回りすればする程、その霊的波調は粗くなる。また低い方向に向かう為、これが欲望の原点である、拡散・膨張へと奔(はし)る要因となる。

 さて、「霊統」というのは、血族・血縁での繋(つな)がりではなく、霊的に繋がっている事を言いますから、その繋がりは、前生では親子であったり、兄弟姉妹であったりします。しかし、こうした繋がりを観(かん)じる人は少なく、霊統は眠らされたままであるというのが現代社会における実情です。

 現代社会で考える親・子・孫の繋がりは、血統によってその繋がりに帰順します。したがって、血統が活発に働く社会は、物質的な生産活動や経済活動が促進されます。こうした社会傾向が主流になると、文明は著しく発達を遂げます。

 しかし一方で、霊的かつ精神的な向上は閉息され、霊界からの正しい霊気の交流が無くなりますから、霊統の活動は、非実在界では益々小さくなってしまいます。
 そして霊統を人々は観(かん)じなくなりますから、現代社会で観じる霊的な交流は、次元の低いものばかりです。また、憑衣・憑霊の場合に於てのみ、これが具現されますから、現代社会で起こる現象は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の妖怪的なものばかりであり、こうした現象が表面化されたものが、ガン疾患であり精神分裂病やそれに準ずる神経症等の疾病・疾患です。

 こうした霊統的な形で、現在、現れている霊的派生は、憑衣・憑霊が殆どであり、また血統によって生み出された文明は、血のネットワークであり、短期的には目覚ましい発展を見せますが、やがては行き詰まり、悲惨な末路を辿ることになります。



●宗教が終わった時代に、宗教ビジネスとして産声をあげる新興宗教

 今日の新興宗教を見てみると、その約80%が神道的な教義を借りた団体であり、残りの15%ほどが仏教系、そして5%未満が勝手に創造された団体というふうに分類する事が出来ます。
 そして、全体の80%を占めるその殆どが、大本(一般には大本教として知られるが、正しくは大本)の幽斉を引用したもので、大本の前身は金光、天理、黒住と遡(さかのぼ)ります。

 大本教から分離したものには、生長の家(谷口雅春)、菊花会(小田秀人)、真の道(萩原真)、璽宇(長岡良子、真の道からの分派)、惟神会(岸一太)、三五教(中野与之助)、神道天行居(友清歓真)、松緑神道大和山(田沢清四郎)、世界救世教(岡田茂吉)であり、更に世界救世教から分かれていったものが世界真光文明教団(岡田光玉)、白光真宏会(五井昌久、生長の家からの分派)、神慈秀明会(小山美秀子)、救世主教(牧喜之助)、救世神教(後藤英男)、世界浄霊会(野沢明一)、世界明主教(木原義彦)、救いの光(大沼光彦)、救世真教(小野田松造)、神の里(矢井清勝)、天安真教(松本明重)、五六七大栄会(中島三千彦)、崇教真光(岡田恵珠)、世界真光文明教団(関口栄)、大本光之道(池内一次)、黎明教会(多田光行)、青光教会(中村一郎)、みろく神教(石坂隆明)、慈永堂(勝沼久子)、神幽現救世真光文明教団(依田君美)らであり、大本から日月神示の流れが、ひかり教会(岡本天明)の家(川端善雄)です。
 しかし人を集め、宗教として何かを授ける時代は終わりました。

 180年前から今日に至る「神の計画」は、人類に明確なメッセージを携(たずさ)えて、神事を降ろして来た事を現しています。黒住教、天理教、金光教、そして大本教へと、バラバラに見える神道系の宗教界の流れは、一連の霊的磁場を派生させて預言を与えて来た事になります。

 しかし、今日の人類が、亜人類として進化に失敗して没するか、あるいは最終進化に成功して、半身半霊の体躯と、前頭葉を進化させて新たな進化した脳を得るか、これは新興宗教が関知するところではありません。
 ここに来て、宗教の時代は終焉(しゅうえん)を迎えたのです。
 ところが一方で、危険な要素を含む古い型の、時代に逆行した「鎮魂帰神」が行なわれています。

 人間の霊体意識の中には、霊体本体とは別に心体意識を有しています。この中には、正守護神と副守護神があり、副守護神の意識が強くなれば物質的な文明が発達し、また正守護神の意識が強くなれば霊的な精神世界が強くなります。

 しかし多くの新興宗教で行なわれている鎮魂帰神法は、その修法に起こり得ると言われる「神人感合」の現象とは異なり、間違いなく副守護神の作用によるもので、物質的な恩恵を求めて奔走・展開するものです。
 某宗教法人の街角での布教活動を見てみますと、時代に対する大きな間違いが見て取れます。
 既に外流の煽(あお)りを受け、外流に接してしまっている実情が少なくなくありません。また、初心の霊的修行者に対し、鎮魂帰神法によって副守護神を改心させると言う遣(や)り方は、大きな弊害があり、未熟な想念状態では、直ぐに憑衣・憑霊の餌食(えじき)となってしまいます。

 正守護神の顕(あら)われを、未(いま)だに見る事の出来ない素人が、鎮魂帰神法を行ない霊的行法としてこれを行なっている現実は、非常に危険な事であり、彼等の交流しているものは、霊界と言うにはおぞましい、低級なものばかりと接した霊界疑似体験であり、実に危険であると言えます。

大本教綾部総本部の金龍殿で「鎮魂帰神法」の神人合一の神懸り感合をする信者達。(大正10年2月) 聖師として絶大なる指導力を発揮していた出口王仁三郎(昭和11年3月)

大本教に対する第一次弾圧事件。不敬罪で家宅捜索を受ける出口王仁三郎の自宅。この事件は、大正天皇の大葬の恩赦で免訴となる。(大正10年2月) ファシズムの中で治安維持法および不敬罪違反で、大本教は第二次弾圧を受ける。
 大本教がこうまで弾圧の対象になってしまったのは、宋代で具体的な未来世界の予測であった。大正期に日米開戦や日本の敗北を予言していた。写真は大本教大阪分院。
(昭和10年12月23日)

 巷間(こうかん)に流行している新興宗教の多くは、《てかざし》という特異な修法で「病気治療」という奇跡的現象を、この非実在界に具現して、これを売り物に布教して来た分けですが、この奇跡も実際に数えれば究めて稀(まれ)な事であり、《生長の家》の初代総裁・谷口雅春が指摘した「人生の妖怪化」が、もう既に始まっています。
 現代社会の複雑に絡む社会現象は、難病・奇病を更に複雑化し、宗教では癒(なお)し難い次元にまで陥ってしまいました。

 したがって、鎮魂帰神法で失敗した素人の信者が、精神病を煩(わず)って精神科の治療を受けている例を多く見ますし、チャネラーと言われるオカルト指向の連中や、オウム真理教などで見られた、誤った超能力開発も、こうした修行の失敗の弊害だと言えましょう。そして信者の多くが、入信前より、更に精神状態を悪くして、不幸になっているケースも見かけます。

 特に、未熟な修行者が《生霊》(これは人間が放射したままの悪想念であり、この破壊想念が「物の怪」へと変質したもの。ガン疾患の直接的な因子も、実は「物の怪」の変質)と関わった場合、これは非常に恐ろしく、《非業の死を遂げた先祖霊》の比ではありません。植物的な、寝た切り人間にまで陥れられ、廃人同様になってしまいます。《生霊》はそれほど頑迷な意識であり、物わかりの兇(わる)い、頑固一徹に固執している為、これを説得し、解脱させることは容易ではありません。

 未熟な人間が発した悪想念の意識放射は、非常に悪質なもので、大自然界すら汚してしまいます。そして、こうした汚れは「穢れ」へと変質し、この破壊想念は「物の怪」(もののけ)というものになって、自然界の生物に憑衣浸透して、狐狸や猫に取り憑き、各種の異常を発生させているのです。
 本来、狐狸や猫の類はそれ自身で、人間に影響を与える霊的な能力は持ちませんが、生霊や不成仏霊が取り憑(つ)いて、こうした動物と合体した意識は、更に人間へと憑衣浸透する能力を蓄積して、人間へと襲い掛かります。

 ところが霊的波調が低い為に、霊的波調の同程度の格の低い人間にしか取り憑くことが出来ません。格の低い人間とは、心の片隅に恨みや妬みや憎悪等があり、何らかのコンプレックスを持っていて、他人への誹謗中傷が好きで、評論家的で、自分一人では何も出来ない怠け者の性格の人を指します。
 こうした人が新興宗教等に入信して、信仰活動に没頭しはじめると、劣等感の裏返しの優越感が浮上して、人心が変質した動物霊に憑衣され盲目的に操られることになります。

出口王仁三郎・スミ夫妻

 更に酷い場合は、恢復不可能な重症の鬱病(うつびょう)に陥って植物状態か、これが躁(そう)状態に時期にあれば自殺に趨(はし)って命を落とす場合すらあります。自殺者の多くは、自己の意志決定によって自殺に趨るのではなく、霊統もしくは生霊の憑衣により、恨みや妬みが複雑に絡み合って、こうした行動をとらせます。
 また、介護を必要とする植物状態の場合は、本人の意識がしっかりしているだけに、寝た切りで生霊との格闘が繰り返され、更に哀れです。

 ここで断言しておきたい事は、「霊界」に関わると言う大事は、その道に精通した人だけが関与するべき事であり、素人同然の初心者が、日常生活の不規則や不摂生や食への乱れも改めることなく、これに関わるべきではないと言う事です。また、祈祷等を職業としているこうした自称・精通者も、多くは憑衣で狂わされており、多くの人はパラノイア等の精神異常者であるので、自称霊能者には近付くべきではありません。

 大本聖師の出口王仁三郎自身、鎮魂帰神法のような、人為的な神人感合は、その弊害が起こる事から、これを実践するに当たり、消極的であったと言われます。
 また、大正11年2月の第一次弾圧後は、こうした勝手な神懸(かみがか)りは慎むようにと信者の前では訓戒を促しています。

 人為的にこうした霊的修行を行う事は、百害あって一利なしであり、非実在界からの未完成な現象人間が、人工神懸りを行なうのは、極めて危険な行為なのです。

 現代社会を生きている現象人間に与えられた人生修行の理念は、人為的に神人合一の神懸り現象を作り出すのではなく、心を清掃して、自他同一の意識を作り上げる事であり、この課題にこそ、修行の中心が置かれるべきものなのです。