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●人工的な神懸りからの脱出

 非実在界の現象人間としての真の行為は、まず、人工的な神懸りを行なうのではなく、自分自身の探究と共に、自分自身の心の掃除をする事が大切です。
 人為的な神人感合は、正流を受けられないばかりか、非常に間違いの多いものです。世に言う、「霊眼」(将来のビジョンが見える)、霊耳(霊の声が聞こえる)等は、一種の憑衣・憑霊現象であり、これを《霊能力》とするのは短見な見方です。あえて言えば、低級霊の仕業であり、こうした所産は害するところが少なくありません。

 人間の内側には、正守護神が次の進化を行なう段階として、自分自身の中に本来守護すべき、神的な自分を持っているのです。この意味からすれば、人は誰でも神と共に在(あ)り、逆に神的な自分を持っていない人など一人もおりません。
 内側に神が居る自覚があれば、それで済む事であり、故意に人工的な神懸り現象を作り出す必要はないのです。

 こうした事はむしろ危険であり、まして今日のように食が乱れ、色が乱れ、人倫が乱れ、個人主義が謳歌されてい現代社会において、霊的神性は極端に曇らされ、正流を受けられないと言うのが実情です。また、こうした時代であるからこそ、正流を受ける為に、食への慎みを忘れず、右回りの欲望から解脱して、自他一体、自他同格の意識を高めなければならないのです。

 地獄と極楽は表裏一体であり、極楽の横には地獄が隣接しています。複合的に重なる非実在界は、地獄が想念で創り出された悪想念の集合体であるとするならば、また、極楽も想念から創り出された善想念の集合体であり、いずれも非実在界の現象と言えます。
 したがって、地獄と極楽の構造は非常によく似ているのです。
 冒頭でも述べましたように、地獄も極楽も、見掛けはどちらも殆ど同じなのです。双方とも、大鍋を囲んで食事をしていると言うステージは全く同じであり、その食事の仕方に問題があるのです。

 地獄では、長い箸で大鍋の御馳走を少しでも多く、自分の口の中に入れようと誰もが競争して躍起になって、慌ただしく箸を動かし、「我先に」と大きな御馳走を掴んで口に持っていこうとします。その為に、巧妙な手段で相手を陥れて、この早食い競争から脱落者をつくり出そうと企てます。隣人はライバルであり、自分を中心にした脱落者の対象でしかないのです。そして自分に有利になるように、激しく争い、何びととも競(せり)りあいます。

 ところが、箸が長い為に、隣の者と絡まり合い、中々、口の中に御馳走を運ぶことが出来ません。この為、喧嘩が起こります。お互に「お前が悪い。俺の方が正しい」と、他を非難し、怒号が飛んで、辺りは喧騒(けんそう)たる様相を呈します。

 一方極楽では、こうした喧騒はなく、静かで穩やかで、何の争いもなく、笑顔を交えて、御馳走を口にしています。ここには地獄のような競争原理も働きませんし、奪い合いと言うことも起こっていません。お互いが、和やかに語らい、お互いを理解しつつ、「我先に」と言う人は、一人も居ないのです。
 そして、よく見ると、自分が長い箸で摘んだ御馳走を、対面の人の口に中に運んでいるではありませんか。

 対面の人は、自分の口の中に御馳走を運んでもらったことに感謝して、「有難う」と言葉を言います。また運んでやった方は、「どういたしまして」と言葉を返し、対面の人が笑顔を以て、美味しそうに食べている姿に、何とも言えない満足感を覚えます。何と美味しそうに食べている顔だろうと思います。そして自分は、対面の人の口の中に御馳走を運んだことに、何とも言えないような歓喜を覚えるのです。

 そうして歓喜に浸っているうちに、今度は対面の人が、御馳走を摘んで自分の口へと運んでくれます。それを口にして、「有難う」の気持ちが起こり、自分は対面の人に感謝の心を抱きます。対面の相手は、こうした感謝の気持ちに対して「いいえ、どういたしまして」と謙虚な態度を顕(あら)わします。
 そして、その時気付くのです。「今、自分の口に御馳走を入れてくれた人は、もしかしたら自分の分身ではないか」と。
 「悟り」の原点は、此処にあります。

 同じ環境に居ながら、地獄と極楽ではこのように異なり、「相手の事を第一に考えるか、否か」で、地獄か極楽が決定されてしまうのです。地獄では、相手に譲歩し、まず、喜ばせて滿足を与えると言う事がありません。常に、生存競争と競争原理の働く世界に身を置いて、「我先に、人より一歩リードする」という競争心が欲望を沸き立たせ、他人を総て敵にして、修羅(しゅら)の世界を展開するのです。やがてこうした修羅は、地獄へと転落していくことになります。
 そうした転落者達が、藻掻き、苦しみ、昏(くら)い影を引き摺(ず)っているのが地獄の不成仏霊の実態であって、こうした不成仏因縁を解消できないド素人が、神懸り等と言う人工的な行法にのめり込むと、如何に危険であるか、明白になります。

 こうしたオカルト指向にのめり込む、あなたは、果たしてどちらの人種なのでしょうか。

 真当(ほんとう)の神懸りとは、正守護神に、我が心が復帰した人を言うのであって、未(いま)だに煩悩の輪廻から抜け出せない人が、どうして鎮魂帰神で、神懸かる事がありましょうか。

 現代社会では、物質文明が極度に発達し、国民・大衆は高度大衆社会に突入して、物や金と引き換えに、自分の魂をこうしたものに売り渡しているのですから、外圧や外流の影響を受けないで高度な超時空の霊界に交流を持てる人などは、殆ど居ません。99.99%の確率で、人類の殆どが外圧や外流に冒されています。霊能者と自称する人も、占い師も、祈祷師も、霊能者も、総べて低級霊の憑衣者に過ぎません。これは彼等の日常生活をよく観察し、その食生活の実態を見れば明かとなります。

 食を乱し、色を乱し、人倫を乱し、取り巻に傅(かしず)かれ、若くて容姿端麗の女性信者を妾(めかけ)を囲い、高級服に身を包み、高級車を乗り回し、テレビ出演し、雑誌に掲載され、霊能だ、占いだ、祈祷だと言う人種の中に、如何程の神懸りがありましょうか。

 高度な霊界になればなる程、そこから流れる霊的波調は、非常に繊細(せんさい)で、微少であり、こうした「微かな神の囁(ささや)き」を聴ける人は、現代人には殆ど居ないと言う事になります。
 自分では霊能者を自称していても、動蛋白を中心にした食事や美酒に酔い痴れる霊能者など居るはずがなく、また動物性の高級衣類に身を包んで霊能者を自称している人も、霊能者とは名ばかりであることが分かります。そして、彼等に何らかの霊的な具現が見られるとしたら、これは高級霊等ではなく、人心の生霊が変異して、動物霊から発する外流に振り回されている結果だと言えます。

 したがって、正流としての霊的波調を受け止める為には、肉食や乳精神や鶏卵等の動蛋白摂取は不適当であり、また動物の毛皮や羊毛、更には正絹の着物までが、正しい霊的波調を乱す要因となり、見かけ倒しの道場や豪邸を構えている自称・霊能者の類は危険であり、また神社仏閣でも、そこの神官や住職が「荒霊」の眠りを呼び起こすような、心霊科学と称するものや、霊能者を気取って神秘主義者の真似を始めますと、かつての神域は直ぐに穢れた場所へと変貌(へんぼう)します。

 真当(ほんとう)の高級霊と言うものは、穢れた場所には寄り付かないものです。
 また、精神的かつ霊的な汚れとなると、特に神社仏閣では宮司や禰宜(ねぎ)、あるいは住職の思想問題から、食事の問題や趣味の問題まで絡み付き、これを昇華させる為には禊(みそぎ)の問題までが問われて来て、厄介な実情を作り上げます。

 心霊現象や心霊科学に興味を持った宮司や禰宜、住職が居る神社仏閣は、そうしても人心が変質した動物霊等の低級霊を呼び込み易いようです。また、神秘主義に入れ揚げてフリーメーソン系の団体(奉仕団体と称する金持ちの集まりであるロータリー・クラブやライオンズ・クラブ)に入会している宮司、禰宜、住職がいる神社仏閣も汚れて来ています。更に、神社仏閣を商業的に繁栄させようとする宮司や禰宜、住職が居る神域や仏域も汚れてきます。

 また霊能力を高める為に、滝行(たきぎょう)や千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)の荒行を積み重ね、肉体を酷使する行法を行なう人が居ますが、荒行を積めば確かに霊的能力が高められる事は確かですが、これは肉体を酷使する為、体力的な生命力が衰え、相対的な霊的比重が一時的に上がった現象に過ぎません。
 こうしたものは、結果的に予定説の法則で考えますと、体力的な抵抗力が墜(お)ちて、より低級な霊に憑衣・憑霊される原因を造り、この原因は結果として予定説で予定されていますから、魑魅魍魎(ちみもうりょう)に取り憑かれることは免れず、不成仏霊によって自分の命を奪われるということになります。
 荒行修行者の精神障害やガン疾患等が、その良い例です。

 人格を形成し、肉体を鍛え、霊格を高めた人が、深山幽谷に籠(こも)り、様々な荒行に挑んで、それなりの宇宙法則と、それなりの霊に対する礼儀を尽くしてこれを実践するのならともかく、一般素人の副守護神の状態から脱する事の出来ない、自他離別の考えを持った人が、こうした荒行に対し、見よう見まねで挑戦する事は、非常に危険であり、今迄の状態以上に悪い結果を生み、素人(普通人の意)としての正常な魂の育成さえ狂わせてしまうのです。

 ちなみに「正しい滝行」の、滝の精霊(せいれい)を被る意味は、頭の泥丸(ぢがん)で滝の水を受け、耳障りな《般若心経》を声高らかに唱える事ではありません。これこそ低級霊との憑衣・憑霊の元凶となります。何故ならば、既に宗教は終焉(しゅうえん)を迎えているからです。

 更には、《般若心経》という呪術的な功徳を失った「固定文」に問題があり、かつては漢文の経文を訳の解らぬまま読み、百回も千回も読むことによって、経文の呪術的な功徳は、神道の祝詞(のりと)の如く作用して、神秘的な感応を顕わすことが出来たのですが、近年はこうした感応が、多くの邪霊や不成仏霊に逆利用され、彼等は《般若心経》の読経者に口裏を併せ、まるで念仏の「南無阿弥陀仏」のように、反映されるだけになってしまっているのです。現代は、病気が治りにくいだけでなく、法力が非常に効(き)きにくい時代になっているです。
 その為に、滝行する多くの荒行者は、霊的に憑衣されてしまって、運勢を落とし、霊格や人格を下げ、悲惨な人生を送っている人も少なくないようです。

 真当(ほんとう)の滝行とは、日々精進して心身を鍛え、霊格と人格を向上させ、自他一体意識の認識ので来た人が、更に、大自然との一体を図る為に行なわれるものであり、後頭部の亜門宮を開くと同時に、ここから精水を心に向けて享(う)ける事で、肉体で受けるのではありません。しかしこうした行法も非常に難しく、ここに至るまでの日々の精進が重要になって来ます。

 人間は物心ついた時から、自他離別の心が生まれ、以降、自他同一の意識は、長い間封印されてしまいます。こうした封印状態になる人間が、霊能力等と称して、安易にこうした荒行に挑(いど)みますと、何処でも憑衣・憑霊現象の餌食(えじき)になり易く、運勢を狂わせている人も少なくありません。
 しかしこうした人の多くは、自分の運勢が狂わされていると言う自覚症状に欠け、一歩一歩と、自分が悪霊の巣に近付いている事にも気付きません。

 特に、占いに入れ揚げ、九星気学や方位等によって、自分を占っている人は、分けの分からぬ、いい加減な状態で滝行等をしますと、生涯憑衣された儘(まま)での憑衣・憑霊現象のまま、無駄な人生を費(つい)やします。素人の滝行をした人の中には、妻子が居ながら、不倫に奔る人が多いようですが、これは明らかに滝行をして結果、邪霊に憑衣されての結果であり、明らかに滝行の失敗であると言えましょう。

 そして、こうした人は、やがて経済的にも、あるいは種々の成人病の病気疾患等で、肉体的にも行き詰まるのですが、不倫、離婚、家庭内不和、子供の非行や犯罪、脱税、会社ぐるみの犯罪、警察沙汰、リストラ、懲戒免職、倒産等の、一見、民事・刑事の、総合的な表面現象に巻き込まれ、やがては没落していく運命を辿ります。

 こうした末路を辿る背景には、意識と想念の派生に、自他離別の感得があるからであり、自他離別感得にが、脳の前頭葉を退化する為の要因を派生させます。つまり爬虫類脳のR領域や、哺乳類脳の辺縁系の支配を受け易い状態になってしまうのです。

 前頭葉が退化すると、一方を善、もう一方を悪とする為、善を成立させる為に、悪の存在が必要不可欠となり、意識の中に善悪二元論が派生して、そこから争いが生じ、自分を善人、他人を悪人とする考えが起こって、自他離別の意識が生まれます。
 自他離別は、爬虫類脳のR領域と、哺乳類脳の辺縁系の制御不足から起こりますから、前頭葉の発達の状態が疎外されます。そして前頭葉の未発達が、あらゆる不幸現象を人類に齎(もたら)しているのです。



●前頭葉の働きをトレーニングして最終進化する事こそ、人類の最大の目的

 爬虫類脳のR領域と哺乳類脳の辺縁系の闘争や情愛の交流から解放されて、自分を見つめる目と、自分を成長させる想念の意識を用いて、最高の霊長類領域の前頭葉の働きをトレーニングする事こそ、人生最大の目標と言えます。これこそが、わが人生に与えられた最大課題なのです。

 今日の現代人に与えられている使命は、前頭葉をどれだけトレーニング出来るかにかかっています。このトレーニングの結果、前頭葉は著しく進化するのですが、この進化は「闘争」の根元である、まさに爬虫類脳のR領域からの脱出であり、また、哺乳類脳の辺縁系からの脱出を目指すものなのです。

 多くの不幸現象から起こる不運や不幸は、人間としての幼児期学習の際に、躾(しつけ)られるべく家庭教育において、甘やかされ、過保護にされ、その結果、前頭葉の発達が阻害されて、R領域や辺縁系の制御を充分に行なう能力を養えなかったということに起因しているのです。

 二十世紀を振り返ってみますと、この世紀では、地球規模で大きな変革が起こった時代でした。まさに「闘争本能」の爬虫類脳のR領域を剥(む)き出しにした時代でした。
 かつての支配階級と奴隷階級は、現象人間の非実在界から姿を消し、また国家的制約と中世の封建制度も一掃されました。
 更に、先進国と後進国と言う経済的な格差や、民族的優越も次第に薄れつつあります。

 そしてこうしたものに代わり、高度に発達した、物質至上主義の科学文明一辺倒の考え方もピークに達し、やがてはバベルの塔(The Tower of Babel/バベルはバビロンのことで、 ノアの大洪水後、人々が築き始めた天に達するような高塔)のように、自らの重さと狂いによって、崩壊に至る事でしょう。
 物質文明至上主義は、明らかに副守護神が齎した副産物であり、この物質的豊かさも、いつメルト・ダウンを起こしても、決して不思議でない時期に突入しています。

 神は、人間の自己神格化の傲慢(ごうまん)を憎み、人々の言葉を混乱させ、その工事を中止させたという『旧約聖書』(創世記11章)に因(ちな)む、バベルの塔の崩壊は、まさに現代を言い当てた警鐘(けいしょう)がそこに感じ取れます。

 人類の最終進化に際して、私たちの躰(からだ)の内部には、様々な現象が現れ始め、バベルの塔崩壊時と同じような事が顕われ始めています。
 現代人の躰の中で起こっている現象を挙げると、次のようになります。

 
現代人の体内で起こっている兆候
1. 物質や制度に依存する愚かさに気付き始め、また科学万能主義の神話は崩れ、権威の力は失われ始めている。
2. これを受けて、一人一人が自己の持つ意識を上手に進化させる必要性に迫られ始めた。この努力を怠ると、前頭葉の発育未熟から、高血圧や動脈硬化、高脂血症と言った怒りっぽい性格から起こる病因になる事が分かり始めた。成人病をはじめとする、ガンや精神病もこの一種である。
3. つまり、爬虫類脳領域や哺乳類脳領域の支配を受ける事なく、自己変革するまでの準備は開始されたと言う事になる。この準備に間に合わない場合、胃潰瘍や膵臓炎等の消化器系に異常が現われ、こうした状態が爬虫類脳領域や哺乳類脳領域が野放しになっていると言う証拠なる。
4. 次の時代を担う新しい人類としての自己変革が迫られていると同時に、熟成した霊長類に進化する為には、爬虫類的哺乳類的性質を持った大脳をコントロールして、次の時代の知性体としての風格を備えねばならなくなった。
5. 昨今の病気が複雑化し、融合化し、難病・奇病化している非実在界のこうした現象は、最早、人間の施す現代医学では完治しない事が立証されたものと言える。
 現代医学の最先端技術は、如何に進歩を遂げようとも、それで制御しうる治療の領域は複雑で難解になる一方、「治らない」という現象が起こっていて、現代医学は「治療」するのではなく、最先端医療機器で、新たな病名をつけ、単に人体を「調律」しているに過ぎなくなった。
6. 急がれるのは、前頭葉の発達度を高め、知性を成熟させて、一切の病気から解放され、穩やかで健康に満ちた、新しい体躯を持った人類でなければならない。この最終進化において、進化を遂げられる者は病気もなく、憎しみもない平和な知性体として進化を遂げられるが、そうでない者は、憎しみ合い、争いごとが絶えず、終わりなき闘争を繰り返して、やがては自らの魂も滅んで行く事になる。

 現代人には、誰も等しくこうした、体内での変化が起こっていますが、これに気付く人と、これに気付かず、種々の病因を抱えて、滅んで行ってしまう人に分かれます。
 それは偏(ひとえ)に、大脳内の前頭葉の発達度と知性の成熟度にかかっているのです。

 そして見事、前頭葉をトレーニングし、発達を完了した人は、次の進化に向かって《永遠の命》を約束されたと言う事になるのです。
 《永遠の命》とは、単に肉体的に生き続ける事を意味するのではありません。輪廻を繰り返す四有(生有→本有→死有→中有)のサイクルに迷いを造らず、スムーズに流れて行く魂の繰り返しを確立する事なのです。

 こうした《永遠の命》の流れが出来れば、最早ここには病気は存在せず、憎しみも争いもない平和な知性体として、完全な健康体に支えられったその姿で、地球にいつまでも君臨出来るのです。