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●霊導法実践において、いつ誰に何を語りかけ、誰を理解させるのか

 分裂病患者に話しかける時間には、その時間帯のタイミングと言うものがあります。
 それは積極的に霊魂が話題になったり、それに関わる先祖の話が出た時です。
 これは非業(ひごう)の死を遂げた人が、成仏を欲している現象と言えるからです。時間の経過と共に、死んだことへの納得であり、安住を求めているという欲求を表わしていることを意味します。

 さて問題は、この欲求に際して、非業の死と遂げた人が、死の自覚を持つ時、苦しみや悩み迷いを持って、死を自覚するか否かにあります。地獄と極楽の別れ目は、此処(ここ)に存在します。

 霊魂は宇宙創造と共に発生し、その消滅と共に、霊魂もまた消滅します。無限に続く輪状の時間は、その一瞬に、人間を造り出し、生を与えて70年、80年という、人生をも与えています。
 しかし、この世に存在する70年、80年という時間単位は、決して長いものではありません。
 宇宙から見れば、瞬(まばた)きの一瞬です。その一瞬を、人間は70年、80年と感じるのですから、宇宙は広大であり、また霊魂の時間から見ても、人間時間など止まっているに等しいのです。
 霊魂は永遠であり、宇宙が存在する限り、不滅です。
 問題は、この「永遠」に回帰されます。霊魂は輪廻転生を繰り返すということです。

 もし、霊魂が、迷い悩み苦しんで、宇宙空間に停滞・浮遊するとしたら、その迷い苦しみも悩みも、そこで永遠に、停滞・浮遊し続けることになります。
 宗教の多くは、こうした非業の死を遂げた人達の霊魂に対して、弔(とむら)い、祀(まつる)るという事を目的にしていますが、これだけでは直接苦しみや悩みや迷いを取り除いてやることはできません。

 ここで題する悩みとは、生・老・病・死という悩みと、その悩みから起こる苦しみです。苦しみこそが、また迷いの想念を作り上げるのです。本来ならば、これは、生きて居る間に解決するべき問題であったのです。
 しかし常人の多くは、これを真剣に考えたり、そうした事を先送りして、まだ自分は死なないと思う人が殆どであり、したがって、突然に死が襲って来た場合、衝撃と共に戸惑いが趨(はし)ります。いわば、苦しみと悩みの根源は、ここに由来し、双方が「迷い」と言う想念を作り出しているのです。

 さて、こうした現状を踏まえて、まず、霊魂という実体の「構造」を理解させなければなりません。それは非常に難解なことですが、科学的に、難しく理解させるのではなく、できるだけ易しく、単純明解にして、簡易図解的な説明が必要です。

 霊魂が有るか無いか、ということが不明瞭な場合、現実問題として霊魂の悩みや苦しみを救う方法は、何も生まれてきません。
 仏教徒であっても、キリスト教徒であっても、また新興宗教の信者であっても、科学者であっても、前向きに霊魂の存在を信じ得ずして、これは皆無です。喩(たと)え熱心に修行し、敬虔(けいけん)な信仰を持っていたとしても、あるいは学術理論に励んでいても、分裂病や酒乱は治すことはできません。物理学で言う、量子力学における素粒子とは、「何もなかった」と言う、肉眼では見えなかった霊子の存在を信じなければ、この方法は成就しません。

 現実問題は、非業の死を遂げた死者の霊魂に対し、死生観を超越する、苦しみと悩みを取り去った、解決策を見い出してやらねばならないからです。
 この足掛りとして、肉体と霊体の構造を知り、次に霊魂の存在を理解し、そこには救われる者と、そうでない者が存在することを教示しなければなりません。したがって教示する相手は、分裂病患者に重なった死者の霊魂であり、患者が霊魂のことに何か質問を始めたら、それが汐時(しおどき)と心得なければなりません。

 肉体と霊体の構造を要約すると、次のようになります。

1. 人間は肉体と霊体と、両者を繋(つな)ぎ止める「肉体の心」と「霊体の心」がある。
2. 人体は精(肉体)・気(心情)・神(霊魂)の三者で構成され、その深層部に本体がある。そしてこの四重構造は本体を人体の中枢部に起き、残りの三者は微妙に重なり合っている。
3. 「肉体の心」は性悪説からなり、「霊体の心」は性善説からなる。普段は、肉体の心が霊体の心を従え、通常では霊体の心を意識することはない。
4. 肉体と霊魂は各々の心で繋ぎ止められていて、これを車に例えるならば、霊魂が車を運転する運転手で、肉体が車であり、その両者をシートベルトという心で繋ぎ止めている。
 このシートベルトをしてなかったり、止め方が悪いと、悪路に入った場合、運転者は安定を失ったり、また事故を起こした際、大怪我をしたり、車外に投げ出されて致命傷を負う。これが分裂病という霊障である。

 以上の認識が術者にも被術者(患者)にも必要であり、患者自身は意識がはっきりしていますから、繰り返し聞かせるようにすると、何も返事をしなくても意識の中で、これを徐々に認識し始めます。
 非実在界の総ての現象は、総べて人間の想念が作ったものなのです。想念が現象世界の事物や事象を作り上げているに過ぎません。



●憑衣・憑霊者の精神構造

 憑衣・憑霊現象の冒され易い人は、その潜在想念の中に「悪想念」が蔓延(はびこ)っている事を忘れてはなりません。霊導法で憑衣・憑霊の対象者を解き放っても、被術者にこうした想念が心の片隅に残っていれば、再び精神障害が起こります。まず、こうした悪想念を被術者自身が消去する意思が必要です。

 憑衣・憑霊現象の実体は悪想念ですから、これを解消しなければなりません。
 そして精神障害を起こす人の性格には、次ぎのような心が、深層心理の中に宿っているのです。

1. 心がいじけていて、境遇的・能力的な劣等感が強い人。自分への同情を煽(あお)る人。
2. 愚痴(ぐち)や小言が多く、独善的に他人を批評する人。あるいは誹謗中傷する人。
3. 他人を羨む羨望心が強く、自我中心に物事を考える人。主観的に物事を見る人。おしい、もったいないの唸を残す人。我が子やペットを溺愛する人。
4. 言い訳と自己弁護を第一に考え、自分の非を認めない人。愚図な性格の人。固定観念が強く、発想の転換が出来ない人。
5. 逆恨みが強く、他人への思いやりがない人。人情に機微や、感謝を感じない人。感情的になる人。
6. 実力以上に背伸びしたり、見栄を張って、欠点を指摘されると、意気地が無くなって直ぐにぺちゃんこになる人。

 以上が精神障害を起こし易い人の正確ですが、これは原因ではなく、結果から現れた《予定》です。こうした結果があるから、それに向かって原因が派生するのであって、原因から結果が導き出されたのではありません。この点を理解することは非常に大事です。

 一般には、原因がないのに結果が起こるわけがないと信じられていますが、これは逆で、結果が先(心に描いた事が現実化する心像化現象)で、その描かれた事象に沿った原因が起こるのです。その原因の要素は、既に、母胎に我が身が宿った時から始まります。
 そして結果を実現すべき要因が、次から次へと起こり、既に《予定》された事が結果として、間違いなく実行されるのです。

 したがって、こうした因子を持って生まれた来た人は、今世において、心の深層心理に残ったものを総て消去しておかないと来世へと持ち越します。そして来世においても、精神傷害で苦しむという《予定》を、今世に植え付けてしまうのです。
 これが憑衣・憑霊される、来世への《予定》です。

 憑衣・憑霊する不成仏霊は、亡者の霊魂であり、極めて霊的波調が低い為に、どうしても霊的波調の低い心を持った人や、先祖霊で遺伝子的波調が同じ人だったに縋(すが)ろうとします。霊魂は、あくまでも意識体であり、自分の持つ意識を表現する為には、肉体を所有する人間に取り憑くしか、その表現方法がないのです。

 そして、現世という世の中は、念仏宗(浄土に往生することを願う仏教宗派で、融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗など)の「南無阿弥陀仏」という念仏を上げても、亡者の魂を救う事は出来ず、また「仏」とは、架空の存在であって、唱名念仏では救えないのが現実であり、特に、悪想念から発した亡者の唸には、殆どその効果がありません。

 亡者集団を与(くみ)する亡霊の唸は、以上に掲げた人の、落とした想念の塊(かたまり)であり、これは霊魂と言うより、実体を伴わない悪想念であり、この悪想念が霊的波調の低い人に、次から次へと取り憑くのです。こうした「取り憑くメカニズム」を把握しておかないと、精神障害者は救う事が出来ません。現代という時代は、念仏と言う方便は、既に終わってしまっているのです。

 ちなみに祈祷師や霊能者と言われる占い師ごときは、確かに、何人かは除霊の能力を持っていますが、被術者の心の中に潜む悪想念を取り去る事が出来ない為に、一時的に良くはなっても、再び憑衣・憑霊されて旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻ります。要するに追い払った後に、食体系を変えない限り、再び憑かれてしまい、前より手強(てごわ)い不成仏霊に侵入されて、益々酷くなる場合もあります。
 再び被術者が憑衣・憑霊されない為には、被術者自身が、悪想念を心の深層部から、完全に消去する必要があるのです。そして然る後に、これまでの食体系を改めて、浄血を実践しなければならないのです。



●時代が高度化されて複雑になると、単純な病気も治らなくなる

 さて、時代が複雑多岐に亘る時流に投じられますと、その複雑な構造から起こる病気自体も、難病・奇病化します。
 しがたって、病気が治りにくくなっている事も、また事実です。

 現在、厚生労働省は、ハンチントン舞踏病(アメリカの神経学者G. S. Huntington1851〜1916に因む病気で、顔面・手・足・舌等に一種の不随意的急速運動を現す、踊るような身振りを主徴とする疾患。中年に始まり精神障害を伴い、進行性で予後不良が特徴)を合わせて、約30種の難病を指定していますが、こうした特殊な疾患ばかりでなく、胃腸障害や肝炎や喘息(ぜんそく)、神経痛やリュウマチのような、元々単純であった病気すら、中々、治らないものになって来ています。

 つまり、非実在界が構成する「現代」という時代は、現象人間の病気が、時代の風潮と深くかかわり合い、「淘汰」の様相を見せ始めているからです。これこそが救われる者と、そうでない者との選別であり、人類は既に、最終進化の時代に突入したと言えましょう。

 例えば、「鞭(むち)打ち症」(自動車で追突された時などに、躯幹が前に圧されるとともに頸部が衝撃的に後方に振れ、筋・靱帯・関節、時に脊髄が損傷する疾患。痛み・めまい・耳鳴り等があり、しばしば症状は慢性化し、過伸展損傷ともいわれる)と言う、追突事故の際に起る症状がありますが、同じ病棟に、こうした患者が過半数を上廻ると、全く鞭打ち症でない人までが、鞭打ち症と同じ症状を招くと言う事が報告されています。
 同じ病室では、どの患者も、集団で鞭打ち病を患ってしまうのです。これは明らかに、想念が齎(もたら)しているものであり、想念波が「悪い想念」で派生しますと、病棟と言う小空間の中で、「伝染する」と言う一つの現象をつくり出します。

 また近年には、福祉国家が標榜(ひょうぼう)されるようになり、電車やバスに乗るにしても、あるいは駅の階段を上るにしても、「車椅子優先のシンボルマーク」が目につき、躰(からだ)の不自由な人や弱い人は保護し、同情すべきだという政治理念が働いていますが、こうした風潮は、障害者にとって、身体的弱者である為に、世間から大事にされるのは当たり前と言う、いわば、ある種の被害特権を植え付け、心の傲(おご)りを増長させて、「甘えの構造」を是認する風潮があり、社会意識を危険な状態に傾けていると言えます。

 多くの人は、自分が病気になった時、被害者意識をもってこれを煽(あお)り、憫(あわれ)みと同情を得ようとします。憫みを受け、同情を受ける事を当然だと思い、こうした態度は、実は有形ならびに無形に、周囲の人達に非常な迷惑を及ぼす、加害者でもあるのです。しかし、この事に気付いている身体障害者は殆どいないようです。

 特に、精神障害を起こした精神分裂病を始めとする精神障害は、その家族も非常に辛い思いをしますし、また経済的な負担も相当なものです。ところが、こうした病気を患い、精神科や神経科で治療を受けている当の本人は、全く迷惑のかけっ放しで、感謝とか、反省とかが全くありません。したがって、こうした無関心状態も、この種の病気を非常に治りにくくしているのです。

 また、幼児期に訓練されるべきはずの前頭葉未発達が大きく関わっているのですが、この未発達と言うことこそが、既に《予定》された事柄だったのです。だから精神障害を起こしたのであって、結果から原因が派生すると言うことを考えれば、精神障害であるから、幼児期の養成されるはずの前頭葉は、未発達のまま放置されたと言うことになります。

 もし、自他同根の意識を幼児時代から、親にしっかりと教育されていれば、まず「自我が潰れる」等という事はあり得ず、周囲の者に世話を受け、迷惑をかけると言う自責(じせき)の念が深ければ、絶対に精神病になるはずがないのです。これが「精神病は本来は存在しない」という理由なのです。
 しかし幼児期に親からの教育を等閑(なおざり)にされ、親子共々、怠慢(たいまん)の限りを尽くせば、やはり、こうした病魔には太刀打ちできなくなります。

 一方、幼児期に「自他一体意識」と、自責と言う「自己責任の意識」が明確な形で教育を受けますと、万一病気になった時には、当然周囲の者に対して感謝の気持ちを持ち、自分を反省する気持ちが生まれますから、治りも早く、病気自体も軽度で完治してしまいます。
 そもそも感謝と反省は、病人としての義務であり、だからこそ、食を乱さず、慎み、心の持ち方を一新させて、生活態度を正すという意識が生まれるのです。

 私たちは歴史の中で、「三重苦」と戦ったヘレン・ケラー(Helen Adams Keller)女史を知っています。彼女が、一生弱者として終わらなかったのは、我が身に如何なる生涯が襲い掛かっても、それに憫(あわれ)みや同情を受ける事なく、自らの力で立ち上がり、努力し、行動したことが、彼女の輝きある人生を《決定》したのです。

 もし彼女が、憫みを受け、同情を受ける被害者特権に身を委ね、「世間は、私を大事にするのが当り前」という意識を持っていたら、彼女の二歳で盲聾唖(もうろうあ)となった、それから以降の人生は、一体どうなっていたでしょうか。

 弱い者、あるいは障害者に対して、弱者であるが故に、手を差し伸べる事は決して悪い事ではありません。しかし弱者故に、世間から大事にされるのは当り前という考えが先行してしまったら、その人は永遠に救われない魂で、人生を終える事になり、また、それが次への因縁となって、再び我が身に跳ね返ってくるのです。不具を免れ、五体満足に生まれたとしても、怪我や事故で障害者になってしまいます。感謝と反省の足りない障害者は、再び来世も障害者としての人生が決定されてしまいます。

 如何に善意であっても、障害者に対してのボランティア活動は、老人や病人や障害者は、「甘やかされる誘惑」がある事を充分に理解させるべきなのです。
 そして精神分裂病患者が、こうした「甘え」の現実の中で、人生の意義にも気付かず、そのままで狂い死ぬような結末を迎えれば、これこそ、その魂は永遠に蘇(よみがえ)らないのです。また、これこそが横死の最たるものになってしまうのです。



●災いなる人間は何故生まれて来るのか

 もう一度、「パウロの黙示録」を思い出して下さい。

   人間は災いなり、
  罪人は災いなり、
  なぜ、彼等は生まれたのか。
                とあります。

 パウロは人間である事の「災い」を指摘しています。「災い」は「想念」が招くからです。「想念」を考える上で、パウロの言葉は重要な意味を持ちます。
 では、私たち人間は、「何の為に」生まれて来るのでしょうか。
 それは「霊魂の進化」の為です。

 さて、この世の顕界(げんかい)時間と、霊界時間を比べますと、霊界時間は非常に時間が経つのが遲いところであり、生きている人間から見れば、まるで止まっているように映ります。時間が経つと言うのが「遅い」ということは、それだけ「変化が少ない」ということであり、したがって「進化も少ない」ということになります。

 それに引き換え、私たちが生きる現世は、時間の経過が早く、それだけ「変化に富んでいる」と言う事になります。「変化が多い」と言うことは、それだけ進化する機会も多いとい事であり、その「進化」を求めて、霊魂は肉体に宿り、私たちは生まれて来るのです。

 肉体と合体した霊魂は、変化の激しい現世に於いて、生きていく為に働き、衣・食・住を求め、家族を養います。世間と言う人込みの中で、もみくちゃにされ、上下の人間関係に苦労し、家庭を快適に構築する為に苦労を重ねます。そして、不完全な未熟な魂は、「苦労」という通過点を通り抜ける度に、私たちは少しずつ、自分の魂が進化していくのを確認するです。苦労を重ねれば、進化する真実が理解できるようになります。

 この進化の真実を明確にする為に、私たちは、あえて「災いを齎(もたら)す人間」として、この世に生まれ、苦労や困難を重ね、それを少しずつ解決し、心の歪みを正して、悔い改めていくのです。

 苦労に苦労を重ね、難解な複雑なものを一つ一つ解き明かし、考えに考え抜いて、努力の結果、それが一つ解決すれば、その分だけの真実を知る事が出来ます。

 仏道では、現世の事を「苦裟婆」(くしゃば)と言います。
 裟婆とは、本来、忍土や忍界を指し、苦しみが多く、忍耐すべき世界が現世であり、苦しむということから、現世を別名、苦裟婆としているのです。

 人間が現実に住んでいるこの世界は、苦しい事の方が圧倒的に多く、民主主義の世は自由を標榜(ひょうぼう)しながらも、その自由は何処にもありません。また、一つの問題が片付いても、新たに何処からか、次の問題が湧(わ)き起ります。一難去っても、また新たな問題や事故や事件が起こります。一時も心が休まる暇もありません。

 しかし、これは想念次第で変える事が出来ます。つまり「愛する想念」を持てば、自分の周囲は一変一新するのです。この「愛する想念」に行き当たる為に、私たちの霊魂は、この世に修行に生まれ出て来たのです。

 ところが、この世で修行できる時間は、霊界時間に比べれば非常に短く、高々50年か100年程度に過ぎません。やり残した事があっても、未解決の事があっても、寿命が尽きれば、再び霊界へと戻らなければなりません。そして、これらは来世へと持ち越されます。

 しかし果たして、現世は仏道で言う程の苦裟婆なのでしょうか。
 現世は想念の抱き方一つで、同じ派生した現象でも善くもなり、悪くもなります。問題に突き当たり、難事が山積みされれば、悩みの種になり、苦しみの種になりますが、これを真摯(しんし)に取り組み、積極的に解決していけば、それが処理し終えた時、そこには大きな喜びが残ります。大きな歓喜(かんき)が訪れて、今迄の苦しみは総て帳消しにされます。それは生まれて来た目標を達成したからではないでしょうか。

 こうした一つの目標達成の為に、私たちは、男女の不浄(ふじょう)な性の中から生まれ出て、これを穢(きたな)くするも、美しくするも、それは私たちの心の裡側(うちがわ)の、抱くの想念一つにかかっているのです。

 多くの人は、人生を「目的」と勘違いしています。しかし人生は目的ではありません。過去から未来に繋がる接点として、現在と言う「今」があり、この「今」の連続が人生なのですが、人生は「手段」であって、目的ではないのです。

 何故ならば、過去・現在・未来と連続する数直線上において、未来への進化を目的としたものですから、「今」の連続である人生は、未来へ向かう為の、単なる「手段」でしか過ぎないのです。本当の目的は、もっと別の所にあるのです。