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あなたの最期《死にざま》を教えます

 死に際して、人間最後の、そして最大の欲望は、今、消えかからんとする命の炎への未練一杯の「生命欲」でしょう。

 その生命欲の断絶が「人の死」ですから、死に対する悲痛の叫びは、これまで長い間に養われた生に縋
(すが)り付く感情から言って、余りあるものがあります。しかし、悲痛の叫びも、生命の火が消える現実を前にしては、全くの無力です。

 もし、「死」という、人生最大の悲痛が現実であるならば、この死生観を乗り超える為に、これを克服をしなければなりません。
 この克服こそ、「死の超剋」と謂
(い)われるものです。

 人は、無闇矢鱈
(むやみやたら)に長生きすることだけが能ではありません。世界一の長寿国・日本は、表面上の数字面では長寿国の様相を呈していますが、その実情は「薬漬け」です。
 病気のまま病院の固いベットに寝かされて、ただ延命剤を投与されて、長生きをしているに過ぎません。
 しかし、病気で長生きするということは、それだけ苦しみが長引きます。

 したがって、死ねば、それで苦しみが消えるというのも、また大間違いです。
 死にざまによっては、それが未来永劫までの苦しみとなります。

 医者から見放された恢復
(かいふく)の見込みのない重病人でも、延命の為の治療が行なわれ、自然には、中々死なせて貰えないものです。
 更に、見るも痛ましい七転八起する末期癌患者でも、安楽死は中々させて貰えません。こうした家族の中には、病人の苦しみを思うあまり、暴力団から麻薬を買い、それを密かに患者に投与している実情もあると聞きます。

 こう考えると、「死」は非常に苦しいもの、痛いもの、難しいものであると言うふうに想像されてしまいがちです。しかし、こうした死に対する恐怖を、回避する手立てはないものでしょうか。

 人の死にざまにおける、臨終の有り様は、生涯でこれほど難しいものはなく、また一大事です。
 では、この一大事は、何が決定するのでしょうか。

 生きざまの立派な人は、世界中に掃いて捨てるほど居
(お)ります。しかし、死にざまとなると、一体何人が、この人生の正念場を無事通過しているでしょうか。

 臨終は人生の一大事です。
 ところが、死を以て、人生の終わりとするのではありません。
 見ようによっては、死が一切の終わりのように映ります。しかし、死は、生の終焉
(しゅうえん)ではありません。

 生の本質を見れば、生きていると言うことは、肉体と言う「容器」に収まり、これを形取ることで成長し、年を老い、病気になり、やがて臨終を迎えると言う現象に至ります。生・老・病・死の現象は、単に変化するだけのことであり、これは非実在界の幻
(まぼろし)にしか過ぎません。

 死はもともと、厳粛
(げんしゅく)なものであり、荘厳(そうごん)なものなのです。
 人は、世に生きている間、どんなに苦しんでいても、一度死ねば、極楽浄土へ行けると信じている人がいます。

 また、死ねば一切が終わって、総べてが終わると言う妄想を抱いた、自殺願望者がいます。しかし、死して、果たして本当の死を迎えたでしょうか。
 未
(いま)だに、生を得ず、我が命を自ら絶って、果たして荘厳な死は迎えられたでしょうか。

 生きている時は、何にも良いことがなかったが、死ぬる時機
(とき)は、せめて「大往生」をと願う人がいます。果たしてこの人は、本当に大往生を得たでしょうか。

 こうした考えは、年から年中、貧乏をしていて、せめて大晦日
(おおみそか)と正月三箇日だけは俄(にわか)金持ちになりたいと願う人です。
 また、年から年中、病床に臥
(ふ)せっていて、正月の元旦だけは清々しい健康人ありたいと願望する人です。
 果たしてこうした「俄」的な、願望は本当に成就されるのでしょうか。

 人生を精一杯生きる事なく、今日一日を無駄に過ごし、人生に逃避を企てながら、最期の死の場面だけが、どうして荘厳であり得ましょうか。

 死とは、その人の一生を集大成する一大事であり、臨終が一見平凡のように見えても、これこそがその人の人生の総てを裏書きする、荘厳な約束手形の総決算をしなければならない時機なのです。
 人は、この約束手形の総決算によって、再び、次の永遠の命を約束されるのです。




●人間は死ぬ時はどうなるのだろう

 大部分の人は、死ぬ直前または死と同時に意識がなくなります。しかし、肉体と霊体が分離すると、再び意識を取り戻します。この時に、生前に死後の世界の存在を否定したり、人間は死ねばそれで全て終わりだと考える人は、死後の世界の事を考えませんから、自分が死んだと思わずに、現世に止まる行動に出ます。

 ところが、こうした状況が、段々と把握(はあく)できるようになると、周囲の樣子に違いに気付き始めます。したがって、《死後の世界》の勉強をしなかった人は、状況の変化に戸惑いを感じます。研究した人と、そうでない人とは、両者を比べた場合、その分だけ魂の進化の進歩は遅くなります。この遅さが、また憑衣現象や憑霊現象を起こします。

 精神分裂病を始めとする躁鬱(そううつ)病や神経症は、一般に、軽いものは自律神経失調症と言われるもので、自律神経系の失調による症状を指します。これは神経症の身体的表現と考えられ、倦怠(けんたい)・のぼせ・冷え性・眩暈(めまい)・頭痛・肩凝り・動悸(どうき)・息切れ・食思不振・腹痛・便秘・腰痛・下痢・多汗・無汗・不安・抑鬱(よくうつ)など自覚的愁訴は、多彩で、しばしば強く現れますが、器質的異常を欠いて、医学的には不定愁訴症候群と言います。

 要するに、こうした状況下に憑衣・憑霊される側と、憑衣・憑霊する側の相関関係が生まれるのです。そして一度こうした現象が起これば、精神科の薬だけでは治る事は難しく、常に毎日飲み続けて、副作用に悩まされながら生きる現実が付き纏(まと)います。

 また憑衣・憑霊した方は憑衣・憑霊した方で、この事に気付かず、肉体を持たない霊体の間まで、自らからも苦しむ現象に憑衣した方は、「自分が悪かった」と悟るまで続きます。しかし多くの場合は、憑衣・憑霊したまま、その人に死ぬまで付き纏(まと)って、捕り殺してしまう場合が少なくありません。自殺者の行動はこうした憑衣・憑霊による病因が起因しています。

 死後の世界を知らなかった為の、悲劇と言う他ありません。現代は、昔に比べて、食べ物の欧米化が進み、生活様式も欧米流の環境が好まれる為、悪い想念ばかりが充満していて、現実問題として、魂の進化を疎外(そがい)する傾向にあります。
 そして現代は《悪い想念》ばかりが、先行されている為、それに応じた悪い状況が現れます。現代社会こそ、本来の人間の究極の目的(魂の進化)を見失っている時代と言えましょう。



●人の死にざまには、どういうものがあるのだろう

 人間にとって死が訪れる臨終の瞬間には、大きく分けて二つあります。
 一つは自然死で、もう一つは不自然死です。この不自然死は、一般には事故死と言われ、自ら求めて死に至る自殺や、他殺、交通事故死、戦死、災害死、病死等がこれに入ります。

 さて、事故死には次のものがあります。
 末期癌等の病気による抗癌剤投与による死亡、殺人による死亡(絞殺死、刺殺死、毒殺死、撲殺死、射殺死、斬殺死、落下死、水溺死、感電死)、交通事故による死亡(水難船舶・自動車・飛行機・列車などの交通事故死)、生き埋め事故による死亡、天災による死亡、放射線事故による死亡、過労による過労死や突然死、その他、自殺(首吊り、入水、飛び降り、飛び込み、睡眠薬、ガスなど)、水死(溺死)、落盤事故死、火事等での焼死、野山での遭難死、船舶転覆後の漂流死、機械等に挟まれての圧死、特攻隊による突撃死、暗殺による狙撃死、崖淵や岸壁からの転落死、爆死、凍死、窒息死、輪姦(りんかん)・強姦死、行き倒れによる死亡、餓死、感電死、落雷死、生体実験死、薬害死、服毒死(河豚(ふぐ)毒やトリカブトなどの野草毒の摂取)、刑死(銃殺刑・絞首刑・斬首刑など)、拷問(ごうもん)による死亡、冤罪(えんざい)による死刑、獄中死、抑留死(強制収容所での死)、堕胎死(中絶手術、水子発生)等が上げられます。

 これらの事故死による、こうした死に方をした人は、生に対して執着し、死に対して恐怖を抱いて死んだ人です。
 したがって現世への執着の余り、生への未練が強く、また、死ぬ瞬間のショックの大きさから、極度に波動が乱れ、魂が落ち着く事のできない苦悩を味わっています。
 霊魂は肉体を持たず、物質的な存在でないというのは、この為です。

脳波の波形とその周波数領域。脳波には、脳が瞑想や落ち着いた意識の状態の時に現れるα波と平壌意識のβ波、眠りに近い状態の時のθ波、深い眠りの時のδ波の四種類がある。

 だから強い乱れた波動(θ波)だけが歪(ひず)みとなって現世に残こります。これが「唸(ねん)」と言われるものです。
 事故死は、肉体の波動の強烈な荒々しい「β波」と、強烈な霊体波動の「θ波」が急激な分離変化によって生じ、また、自然死は穏やかな霊体波動(θ波)と穏やかな肉体波動(β波)の緩やかな変化で、優しい柔らかな脳波(α波)によって、徐々に死に向かう形をとるものです。

 つまり事故死は、強烈な肉体波動と、強烈な霊体波動が霊体波動に移行して、肉体的な苦しみを総て霊体波動が担ってしまう事であり、そこには強烈な歪んだ「θ波」が空中に浮遊します。

 また自然死は、「β波」が心地よい安らぎの「α波」に移行して、空中に唸(ねん)を残さないという最期を向かえるのです。これを「眠るような穏やかな死」と言います。

 換言すれば、結果と原因の逆説的な《予定説》の考え方からいくと、強烈な二者の分離が行われますから、その死に方は事故死。また穏やかな遊離が行われますから、その死に方は自然死となるわけです。これこそ、結果が先で、原因が後に来る《予定説》の現実があると言えましょう。

 人の運命は、他力と自力の両方が交互に巻き付いていて、その時の盛運期と衰運期の周期によって、結果を残すわけですが、予定されていた結末から考えると、人に死は、人生を形作る運命以上に、非常な苛酷(かこく)なものと言えます。
 波動が急激に変化するから事故死に見舞われ、また、波動が緩やかに変化するから自然死となるという、この宇宙の玄理(げんり)は、その根本に食餌法(しょくじほう)が大きく関与していることが分かります。
 それは一体何故でなのでしょうか。

 霊的食養道で言う「肉(じし)喰った報い」は、人間の性(さが)に近い物を「食べる」ということで、哺乳動物を食べたと言う、食べられた側の恨みが絡んで来ます。哺乳動物は人間の脳に近い辺縁系の哺乳類脳を有しています。

 この哺乳類脳には人間と同じ、愛情があり、他と触れあう交流の意識が存在します。こうした、極めて人間の意識に近い動物を食べる事は、その恨みから、事故死を招く結果を作り出してしまいます。食餌法の正しくする為には、人間の性より遠い、穀物だけが人間に許された唯一つの食べ物なのです。それに附随する副食(御数)としては、近海で採れる小魚等の魚介類やワカメ等の海産物だけです。
 これを無視し、動蛋白を摂取しますと、死にざまは断然、事故死が多くなります。

食と霊層界の波調の関係。人間の性に近い哺乳動物ほど、幽界や地獄界に沈む唸があり、逆に遠い穀物ほど、神霊界に近いものがある。

 そもそも、人に死は予(あらかじ)め決められているからです。「死ぬ」と言う事は、生まれた時から予定されたものなのです。
 但し、こうした「予め定められた」とする《予定説》ですら、実は非実在界の虚像に過ぎないのです。つまり虚想をして、《予定説》と唱えたのです。総ては想念の為(な)せる技だったのです。
 これこそ唯一の「想念から起こる予定説」であり、然(しか)も、想念を用いれば、最終的にはこれが決定論となり、また目的論にまでなってしまうのです。創造主が人知を超えて、こう決めたと断言出来るものなのです。

 一見この考え方は、不合理なように見えますが、人の「死に方」には、個人各々に現われるのですから、ある人は選ばれて自然死となり、ある人は選ばれずに事故死となる、という苛酷な《予定説》が、想念に大きく関わっているのです。
 そして、自然死と事故死の比率は、圧倒的に事故死の方が多いのです。

 人の死にざまは、「神が予(あらかじ)め計画を予定する」非実在界の想念であり、個人に及ぼす想念はまぎれもなく《予定説》であり、私たちは間違いなく、この決定論の中で自らの想念を描きつつ、死出の旅立ちをするのです。

 さて、死ぬ瞬間を考えた場合、両者は波動変化の上においては同じですが、それが《肉体の波動》であるか、《霊体の波動》であるかという事が問題になります。
 ここに肉体主体で生きた体主霊従者と、肉体の酷使を止めて霊的波調を高めた霊主体従者との間には大きな差が生じるのは当然の事です。

 死亡する時の「死」という刹那せつな/あまりにも短い一瞬で、仏教的な時間を指す)の瞬間で感じる次元は、物質界の尺度で計れば、時間的には同じものですが、そこから解放される者と、解放されない事故死者と、自然死の大きな違いは、自然死が、肉体と霊体の二つの波動が遊離する時、徐々に行われるのに対し、事故死は一気に、急激に二者の分離が行われますから、そこに強烈な痛みと、苦しみと、恐怖が伴うのです。

 例えば、飛行機事故で、遥か上空の空中に投げ出され、そこから落下して、地面に叩き付けられるという死にざまを経験しなければならなくなった時、この死はまさに断末魔のそれであり、恐怖そのものと言わねばなりません。これは畳の上で、家族に看(み)取られながら、静かに死んで行くのとは天地の隔たりがあります。

 先祖の苦しみとは、こうした事故死による非業(ひごう)な死に方をした人が、苦しんでいる波動の唸ねん/音声から出る言霊の一種あるいは強い想念。非業の死と遂げた人は、苦しい、悔しい、惜しい、辛い、痛い、無念などが唸波となる)が、憤懣(ふんまん)やる方ない激しい波動(θ波であるが、実際にはβ波とθ波の合体で、肉体を持たない為にθ波がβ波を代表する形となる)となって空間に漂い、それが霊的エネルギーとなって浮遊し、それを身内に呼びかけるというのが、精神分裂病患者の実態であり、分裂病患者が共振・共鳴しているという実情が、自我が潰れた病因となっているのです。
 つまり恐怖のβ波を、θ波が代行していると言う事になります。これが「心の連続性」であり、唸は継続されると言う事を顕(あら)わしています。

 霊体並びに肉体の各々の波動が、急激に分離する時は「事故死」、緩やかに遊離する時は「自然死」が、予め予定され、その目的に従って死に方が決まったと考えられます。人間の死に方は、これに集約されていると言っても過言ではありません。これは決定論であり、一旦想念が潜在意識に焼き付いてしまえば覆(くつが)えす事は出来ません。
 それは肉体から抜け出した死者の霊体が、二度と同じ肉体をもって、この世に生き返らないくらいの確率で明確な事実となります。

 人間は、生存中、自分の努力でその活計(くらし)や、環境や、貧富の差はある程度変える事が出来ます。しかし死に方を変える事は出来ず、これは予め決定されたものであると言えましょう。
 またこれは「救われる者」と「そうでない者」の差であり、死に方は予定説の範疇(はんちゅう)にあるものなのです。つまり決定されたものは、この時点で覆(くつがえ)す事が出来ないのです。ここまで来たら、何人たりとも宇宙の掟(おきて)に甘んじるしかないのです。