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| ●ソロモン・ブラザーズの真の狙い 当時の多くの日本人投資家は、「日経平均株価は10万円に到達する」と信じて疑わない人が多くいました。誰もが強気で、今こそ、この好景気に乗って、買いに転じる時機(とき)だと確信していたのです。その結果、バブルは急速な加速度をつけて、瞬く間に膨らみ始めました。 この時、ソロモン・ブラザーズは信じられない事をニューヨーク・ウォール街で展開していました。 1989年11月、彼等は「東京株式大暴落の図式」に則り、『プット・ワラント』という金融派生商品を売り始めていたのです。 『プット・ワラント』とは、「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という新商品であり、この商品をアメリカの大口機関投資家に大量売り込みを図っていたのです。また、これには大口投資家も飛びついたのです。 彼等の新商品に対するキャッチ・フレーズは「年末から年始に掛けて、日本の株式は大暴落するから、60年前の《1929年10月24日の暗黒の木曜日》の時と同じくらいの大儲けが出来ますよ」でした。 しかし日本の株価は、ついに40,000円台に突入するかのように見えました。1989年12月29日、株価は空前絶後の38,915円になり、40,000円まで、後一歩のところまで迫りました。日本国内は株価の高騰で湧きに湧いていました。 日本人投資家の多くは、年明けとともに40,000円台に乗る事を誰もが確信していました。 しかし、1990年1月2日、ニューヨーク・ウォール街では、日本とは逆に、信じられない現象が起こっていました。突然、為替が円安へと向かったのです。この円安はソロモン・ブラザーズが『プット・ワラント』販売に因(ちな)み、債券や為替や株価の「トリプル安」を企てたものでした。 そして1月が過ぎ、2月に入り、その月は既に中旬に入っていました。この頃、日経株価はジリ安でしたが、大暴落の兆しは現われていませんでした。 日本人はまだ、この時にも何も気付いていなかったのです。そして日本経済が、瀕死(ひんし)の重傷に陥っている自覚症状すら、エコノミスト達は感じ取ることが出来なかったのです。 当時の政治背景としては、自民党の政治家は2月中旬の衆議院選挙で大勝したことに祝杯を上げていた頃で、政界も財界も危機管理意識はなく、全く無防備でした。 日本人は、まさに「ライオンに、餌を差し出す為に手を伸す呑気(のんき)な兎」でした。腕ごと食いちぎられるか、体ごと丸呑みされるかの、こうした危険すら感じる事もなく、呑気な行動をとっていたのです。 日本人投資家が、株を買いに奔走している頃、アメリカの金融の裏側ではソロモン・ブラザーズの売り攻勢が激化を極め、これまでジリ安で状態であった株価は、一挙に大暴落へと転じました。バブル崩壊の引き金はこの時に引かれたのです。 ついに1990年2月末には、膨らむだけ膨らんだバブルは、日経平均15,000円台を大幅に割れ込みました。一挙に大暴落が起こったのです。 ソロモン・ブラザーズの秘密兵器はデリバティブでした。 デリバティブは説明の通り、現物と先物との価格差を狙った「サヤ取り」であり、「裁定取引」と「オプション」で、日本の株価は下落したら大儲けという派生商品です。この派生商品を、至る処に仕掛けておいて、株価を自由に操ったのです。バブル崩壊の大暴落は証券会社のみならず、大蔵省までを翻弄(ほんろう)の渦に巻き込んだのです。 この巧妙な仕掛けでソロモン・ブラザーズは、僅か三年の研究とその実行で、一兆円にも昇る莫大な利益を手にしたのです。 そしてこの後、日本では更に悲惨な状態が続くことになります。 日経平均株価の大暴落は、株式市場の株価下落だけに止まらず、不動産の分野にも悪影響が及びます。この悪影響は、政府が不動産融資へのマネー供給を停止するという事から始まり、今まで高騰(こうとう)を見せていた大都市の不動産の資産価値が急速に下落したことでした。 この現象は大都会だけに止まらず、地方にまで波及していきます。不動産の資産価値が下落するとは、それを担保にしていた金融機関の担保価値も大幅に減少したということになります。こうして不良債権の波及が表面化するのです。 これに対して政府の後手政策は、次から次へと傷口を広げ、日本の資産とマネーの急速な収縮は、今日に見る不景気と連動し始めることになります。 昇り詰めたものは、いずれ落ちる。これは物事の道理です。この道理に随(したが)い、ソロモン・ブラザーズは、次のプロセスへと準備にかかります。 ソロモン・ブラザーズの真の目的は、ただ単に、日経平均株価を下落させて大儲けすることだけではなかったのです。彼等の真の目的は、日本人の個人金融資産の1300兆円にも上る郵貯(郵便局で取り扱う国営の貯金事業で、元金・利子の支払いは国によって保証される)の食い潰しでした。日本のエコノミスト達は、この事すらも見抜けなかったのです。 ソロモン・ブラザーズが研究の末に計画した事は、こうした下落が生じた時、政治家はもとより、財界人を始めとして、証券会社等が「これを何とかしろ」と、政府に詰め寄り、殺到することを計算に入れていたのでした。これこそ彼等の真の目的であり、ここに「日本発世界大恐慌」を画策した真の狙いが、ここにあったのです。
昭和6年当時、民政党の浜口雄幸内閣は「重要産業統制法」を制定したではなかったかという計算を読んでいました。その当時の資本家は、カルテルやトラストを作って、自己資産の防衛に入ったではないか、こういう計算をしつくしていたのです。ソロモン・ブラザーズはこの事を能(よ)く知っていたのです。これは、日本人の情緒的な心理を計算に入れ、国民気質(かたぎ)を研究したものと思われます。 また日本人は、表面的には武士道を標榜(ひょうぼう)しますが、真は武士道など何処にも存在せず、いざとなれば180度転身してしまう、移り気の国民であると言う事も知り抜いていました。 この頃になると、やっと鈍重な政府も重い腰を上げます。 大蔵省は、愚行ともいえる財政投融資制度を活用し、第二次国家予算(大部分は国民の血と汗の結晶である郵貯)を国会の承認なしに、「株の買い支え」の一大・大作戦に転じます。これまで膨大な蓄えとなっていた個人金融資産である、郵貯や簡保や年金をベースにした、巨額なマネーを以て「株価維持作戦」を展開するのです。 しかしこれが効果を奏したのは、最初のうちだけでした。15,000円まで下落した株価は、4,000円ほど値を戻しましたが、政府が買い支えているにもかかわらず、1993〜94年にかけては、一進一退の小康(しょうこう)状態が続きました。日本政府は、まんまとソロモン・ブラザーズの策に嵌(は)まっていたのです。 一方、株価は20,000円近くに値を戻し始めました。これを受けて、政府と日銀が金利を大幅に引き下げた為、今まで株価下落で、売り上げの落ちていた大企業は、銀行から更に借り入れを行い、借金によって規模を拡大する道を選択します。その結果がどうであったか、「ダイエー」や「そごう」を見れば一目瞭然です。 そしてソロモン・ブラザーズは、日本政府の「情報隠し」という、日本人特有の国民気質も見逃しませんでした。 また、嫌なものには蓋(ふた)をする国民の習性があり、責任転換がうまく、それを有耶無耶にしてしまう高級官僚達の性質も、充分に研究し尽くしていたのです。 これらは、嫌な事への「先送り」に見られ、今日の事は、今日しない、「明日があるさ」の「ツケの先送り」をする、甘い情況判断が日本の、今も昔も変わらぬ実情なのです。しかし市場原理は、そんなに甘いものではないのです。この事もソロモン・ブラザーズは見逃しませんでした。 太平洋戦争当時、「大本営発表」という情報ほど、当てにならないものはありませんでした。彼等は大本営発表の裏側を能(よ)く知っていたのです。 日本人は失敗しても、江戸時代の武士と違って腹を切ることはなく、トップは責任を、下に押し付けて、責任逃れすることを知っていたのです。 事実、東京裁判(極東国際軍事裁判)の時、戦争を真っ先に始めた海軍の高級軍隊官僚を棚上げして、陸軍を悪玉にして「陸軍悪玉説」をでっち上げ、軍隊官僚のトップで、死刑判決を受けたA級戦犯は東条英機ただ一人であり、後はB・C級の戦犯らの下級将兵が多く処刑されただけでした。 戦犯容疑のトップは、僅か七人(絞首刑は、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、荒木貞夫、それに開戦当時の総理大臣で陸軍参謀総長の東条英機)が死刑判決を受けただけで、その殆どは巣鴨に収監されただけで、死刑にはなりませんでした。また、責任分担の有耶無耶も、立ち所に感知したです。こうした日本人の国民気質が、ソロモン・ブラザーズには重要な情報源となっていたのです。 そして、このように市場原理を甘く見た日本人は、以降「サラ金地獄」をドサ廻りする、愚かな自転車操業を繰り広げるのです。 今日の長引く不況には、こうした経緯があるのです。そして今日のこうした状態は、60年前の1929年10月24日の株式大暴落から1945年8月15日までの、山頂から谷底に落ちる図式と、余りにも酷似しているのです。 そして太平洋戦争で日本は三百数十万人もの犠牲者を出し、国家資産の損失は現在の貨幣価値に換算して、1300兆円と言われます。 日本人は戦後の焼け野原から立ち上がり、ようやく今日の繁栄を築きましたが、平成バブルの崩壊によって、再び1700兆円もの国民総合の国家資産の損害をも被ったとも言われます。これは国民一人当りで換算して、1400万円の損失であると言われています。 私たちは、今こそ、何故このような事態が起こったか、それを知る必要があるし、また未来に、何が起ころうとしているのか、その真相や本質を捕らえる事が必要ではないのでしょうか。 ●バブル景気とは一体何だったか 私たちは、いま、振り返って、「平成バブル」とは、一体なんだったかと、首を傾(かし)げたくなります。誰もが浮かれ、地上げに土地転がし狂奔(きょうほん)し、その中で砂上の楼閣(ろうかく)にも等しい虚妄を抱き、日本中が狂喜乱舞した時代でしたが、一転して平成3年(1991年)の5月からは、バブル不況に喘(あえ)ぐ事になります。 経済企画庁の経済白書によると、「バブル景気」というのは、昭和61年(1986年)12月から平成3年(1991年)4月までの53ヵ月間を言うそうです。 この、泡のように膨らんだ経済構造は、金融経済が実体経済を超え、膨張した状態を指したものでした。株式や地下の異常な高騰(こうとう)は、一方に於いて「カネ余り現象」をつくり出し、日本人に「消費は美徳」と言う意識を一時的に植え付けました。そして、こうした意識が必然的に社会や風俗現象に波及し、浮かれ騒ぐ、乱痴気(らんちき)ムードが広く世の中に蔓延(まんえん)しました。 この構図は、大正4年(1915年)中頃の「大戦景気」と言われた時期とよく似ています。 大戦景気と称されたこの当時、経済界は大いに繁栄し、成金時代を齎(もたら)しました。会社数はこれまでの1.7倍となり、資本額に於ては3.1倍を超える発展を見せました。特に、製糸業、海運業、鉄鋼業界の飛躍は目覚ましく、更には、重化学工業の発展に伴って、大企業への資本や生産の集中が進み、日本は農業国家から工業国家へと変貌する時期でした。 こうした発展の裏側には、ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦が大きく関与していました。 第一次世界大戦は1914年(大正3年)6月28日、セルビアの民族主義的青年が、来訪中であったオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを、サラエボの街角で暗殺した事から起こります。この時の銃声が、全世界を戦争に巻き込む大戦争へと発展するのです。 1914年7月、オーストリアはセルビアに宣戦し、セルビアを後援するロシアに対抗して、ドイツがロシア・フランス・イギリスと相次いで開戦して、同盟側(トルコとブルガリアが参加)と、協商側(同盟を脱退したイタリアのほか、ベルギー、日本、アメリカ、中国などが参加)との間で、国際戦争に拡大していきます。
この大戦による日本側の損害は極めて軽微であり、むしろ日本では大戦景気となって、ロシアやイギリス向けの軍需物資の増加と、アメリカ向けの生糸輸出が増大して、日本中は好景気に湧き返ります。 ところが、大戦が終結するとその繁栄も、泡のように消えて無くなりました。各方面の諸産業は、この時期を基盤に、飛躍的な発展を遂げましたが、発展に伴って、金融資本による産業支配が一段と強化され、増強されていったのですが、その経済効果は一般民衆にまでは及びませんでした。 また、大正6年(1917年)には小作争議(大正中期から昭和初年まで各地に勃発)が起こり、同年の11月には米騒動が起こります。大戦景気のバブル経済は、この年に泡と消えて無くなり始めていたのです。 この構図は、平成バブル景気と非常によく似ています。その後、一転して「平成バブル不況」が、日本中を襲いますが、この時期は、経済企画庁の経済白書によれば、平成3年5月から平成5年10月までの30ヵ月間を限定されています。 バブルに湧いたカネ余り現象の狂騒は、平成2年(1990年)2月末の株式大暴落と共に、文字通り「うたかた」と消えました。そして当時、燥(はしゃ)ぎ過ぎたツケは、いま、高価な代償として金融業界や証券業界、はたまた不動産関連で巻き込んで、バブル不況の影響下に置かれ、その後遺症に苦しんでいるのです。 |