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●人間大量死のシナリオ

 日本海軍の真珠湾攻撃で、華々しく始まった太平洋戦争(日本側から見た大東亜戦争。但し、アメリカ側は太平洋戦争とは異なる、「PACIFIC WAR」と呼び、中国大陸問題も含んでいた。また、日本海軍はこの戦争を大東亜戦争と呼ばず、最初から太平洋戦争と呼称した)は、年を追うごとに、次第に負け戦(いくさ)のような様相が濃厚になり、昭和18年(1943年)に入ると戦争遂行が困難になっていきます。日本の戦時経済は、破綻(はたん)寸前にまで追い込まれます。

 一方、軍需産業だけは増強されましたが、基礎資材の不足により、昭和19年(1944年)になると、兵器、艦船、飛行機の生産が急激に下降線を辿り、戦時物資の欠乏が表面化してきます。

 更に、成人男子が前線に出払っているので、徴兵前の学徒までが戦線に駆り出され、少年兵や女子挺身隊までが組織されるようになります。そして多く若者が戦場で散ったり、女子挺身隊については、軍需工場等で就業中、アメリカ軍の焼夷弾爆撃で、戦火に巻き込まれて焼け死んでいきました。

 こうした死んで行った、無名戦士の霊は、一体どうなるのでしょうか。
 仏教では死後の世界を、天上・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道に分類しました。

九天図。人間を取り巻く階層は九天図に示される通り九つの階層で分かれている。

 また、神道では死後の異次元を九つに分け、これを「九天(きゅうてん)」と呼んでいます。異なる異次元世界が、九層あると言う事であり、「九天図」には総ての次元が、一番下の階層人間の足許(あしもと)で結束している事を説き、超越神界の入口は現世の中に在(あ)るとしています。

 死者の霊は、幽界にあって修行を積み、霊界・浄明界・神界・根元世界と入って行くのですが、幽界には五段階在(あ)り、また霊界は七段階、浄明界は九段階とされます。こうした階層は、悉々(ことごと)く意識の階層であり、上に上がる為には修行者がその意識を高め、プラス思考の想念で光明思想を学ぶとされています。

 しかし、浄土教・念仏宗はその説くところの俗諦(ぞくてい)で言う、阿弥陀如来の世界が、単に霊界域最下層に止まっています。念仏宗で言う「極楽浄土」とは、霊幽界(精霊域の三段階)から霊界(五段階)までの霊界と霊幽界の二層まで(霊幽界三段階の最上階と霊界の最下位の一段階目)の世界を指し、極楽と雖(いえど)も差別の在る事が窺(うかが)えます。

幽界から根元世界までの階層構造。念仏宗の言う「極楽浄土」とは、霊界と霊幽界の僅か二段階の二層を指すものに過ぎなかった。

若槻内閣の後を受け継いだ田中義一内閣。昭和2年4月20日、組閣。対中国強硬外交を推進、山東出兵を行う。張作霖爆殺事件の処分問題で総辞職。

 こうした階層での異次元世界では、幽界の最下位になると、同じ時代の、同じ苦しみを味わった人達が集団で悪想念の塊(かたまり)を落としています。すなわち、これが「物の怪」もののけ/物の気)と言われるものです。
 こうした悪想念の塊は、死んだ人の霊が、強い意識で出来た集合体をなしていますので、ここにはある種の地獄のような想念が集団を支配しています。

 喩(たと)えば、戦争や飢饉等で、一度に多勢の人間が死んだ場合、その想念は巨大であり、臨場感のある巨大な地獄を出現させると言われています。
 つまり同じ不幸現象で横死すると、その人間の霊は数ある地獄の中でも、同じ地獄に行き着くと言うことなのです。これが迷える霊の正体であり、地縛霊(しばくれい)の猛威はこうした所に存在していると言えます。

 そして現世と重なった、この世と地獄を連絡の通路を遣(つか)って、行き来しているとも言われます。
 その悲願は、成仏であり、連絡路を行き来しながら、救われる時を待っていると言う事なのです。

田中義一首相。田中は若槻礼次郎内閣の後を引き継いだ陸軍大将だったが、「満州某重大事件」の事件の処置のまずさに天皇から不信を買い、昭和4年7月辞任に追い込まれた。

 昭和4年に始まった世界恐慌は、それより以前に始まっている昭和2年の金融恐慌(1927年3月14日、衆議院予算委員会の席で、蔵相・片岡直温の「失言事件」で東京渡辺銀行に取付騒ぎが起こった)では相当なダメージを受けており、それが二年後、更に強力な大恐慌として日本を襲います。都市には失業者が溢れ、打ち続く異常気象で農作物は凶作となり、農村部では酷い飢餓状態が続いていました。
 そして、戦争に至るシナリオの始まりは、やはり昭和4年の世界大恐慌に端(たん)を発します。

 東北地方の農村では、夫を兵隊に取られ、小作農階級の妻達は極貧の中で子供達を育てねばなりませんでした。更に、大凶作に見舞われ、飢饉状態に陥っていました。
 そうした頃、日本陸軍内部の上層部では、軍閥内での派閥争いに明け暮れ、困窮する農村の窮乏等、どうでもいいように見えていたのです。

 昭和2年当時の治安維持法下、暗い世相に拍車をかけるような出来事が次から次へと襲います。この年の4月に入ると、大小の銀行が軒を並べて休業や倒産に追い込まれ、金融恐慌が起こりました。憲政会の内閣は総辞職し、これに代わって、政友会の田中義一内閣が政権を担当します。
しかし、若槻内閣に代わって登場した政友会の田中内閣も、順風満帆とは行かず、内閣を発足させて、僅か二年足らずで政権の座を、民政党の浜口雄幸内閣へと譲ってしまいます。



●軍部の大陸進出と満州国の画策

 昭和3年(1928年)4月内乱の続く中国では、北伐軍(国民革命軍)の再編成に成功した蒋介石(しょうかいせき)は、東三省(中国東北部の遼寧省=奉天、吉林省、黒龍江省=満州)を牛耳る北閥の大元帥・張作霖(ちょうさくりん/中国の軍人・政治家で、奉天派軍閥の総帥)に対し、攻撃を再開します。張作霖は北京の奉天に司令部を構え、北京に向かって再攻撃を開始する蒋介石麾下の国民革命軍を迎え撃ちます。
 しかし奉天軍は、同年国民革命軍の北伐軍と戦って、河南で大敗を喫します。

 国民革命軍の満州進出に懸念(けねん)をした田中内閣は、前年の第一次山東出兵に続き、国民革命軍の北上を牽制(けんせい)する為に、「青島(チンタオ)済南の居留民保護」を名目に、約1万5千名の日本軍を派兵します。これは、排日気運が高まりつつある中国各地の抗日運動に油を注ぐような形になります。要するにこれは、日本の軍事干渉でした。

張作霖。1927年、北京で大元帥となる。

 これに対して、国民革命軍は日本軍の布陣する済南を巧みに迂回(うかい)しながら、北京の天津(テンシン)地区まで肉薄しました。これによって張作霖の奉天軍の劣勢は確定的となり、北京防衛は不可能に近くなります。

 しかし一方で、中国から独自に分離して、親日政権を作ろうと目論んでいた関東軍(満州で中国東北部に駐屯した日本陸軍部隊)は、これを絶好の機会と捕らえます。関東軍にとっては、南北両軍閥の闘争は満蒙の画策の為に、絶好の機会と映ったのです。
 日露戦争以来、日本軍に協力的だった馬賊の出身の張作霖は、大正15年に東三省の軍事的政治的実権を握ってから、独自に自主的路線を強化しつつありました。そして、北閥の奉天派軍閥の総帥となり、1927年、北京で大元帥となります。

 日本は関東軍を使って、日露戦争によって手に入れた関東州(大連等の遼東半島)と、南満洲鉄道の付属地だけではなく、満州全体の支配を目論むようになりました。こうした日本軍の動きを阻止する為に、張作霖は、関東軍との関係を次第に悪化する方向へと向けていきます。
 一方、そんな張作霖を、権力の座から引き摺り降ろす為に日本軍は工作を開始します。そして、張作霖を失脚させる為に、南北両軍閥の闘争を絶好のチャンスと捕らえるのです。その急先鋒が、関東軍参謀の河本大作大佐でした。

 田中義一首相としては、張作霖を満州に帰らせて、満蒙問題の前に横たわる様々な諸問題が逸早く解決して、満蒙問題だけに的を絞り、親日派による満蒙支配を考えていたのです。張作霖は、こうした日本側の動きを察して、あらゆる諸問題を拒否し続けます。
 これを受けて日本政府は、予(かね)てよりの関東軍の意見具申に基づき、「満州地方の治安維持に関する措置案」を決定し、この覚書を張作霖と蒋介石ならびに、蒋介石麾下(きか)の国民革命軍第二軍団長・馮玉祥(ふうぎょくしょう)らに手交します。

張作霖爆殺。関東軍参謀の謀略と言う情報が届くと、この爆殺事件は「満洲某重大事件」として昭和天皇の耳にも入った。これにより、天皇の不信を買い、田中内閣は辞任に追い込まれる。

 張作霖はこの覚書に激怒し、拒否しますが、参謀格の息子の張学良(ちょうがくりょう)や楊宇霆(よううてい)に説得され、渋々、北京から引き上げつことを決意します。

 昭和3年6月3日の深夜、張作霖の乗った北京発、奉天行きの十二両編成の特別列車は北京を離れます。そして予定では、4日の午前6時前後に奉天駅(現在の瀋陽駅)に到着する予定でした。

 奉天駅を目前にした、京奉線が満鉄線とクロスする鉄橋に差し掛かったとき、河本大作大佐らが仕掛けた爆弾が爆発して、列車ごと、木端微塵(こっぱみじん)に吹き飛ばしました。
 張作霖は瀕死(ひんし)の重傷を負い、側近達に抱えられて奉天城内の自邸に運ばれましたが、午前10時過ぎに間もなく息を引き取ります。

 しかし、この事件を日本軍の謀略と見た奉天省長の臧式毅(そうしきき)は、張作霖が死亡した事を伏せて、負傷した事だけを発表します。これは日本軍出兵の口実を押さえる為でした。臧式毅の機転の良さに、河本大作らの謀略グループが目論んだ「事件の混乱に乗じて、出兵をし、全満州を一挙に占領する」という計画は成就しませんでした。
 この野望は、昭和6年(1931年)9月18日、奉天北方の柳条湖の鉄道爆破事件を契機とする日本の中国東北侵略戦争である「満州事変」まで待たなければならなくなります。

 河本大作らの謀略グループが仕掛けた事件は、田中首相の事件処理のまずさに、天皇から不信を買われる事になります。田中義一は陸軍大将でしたが、陸軍首脳の圧力を押さえるだけの力がなく、結局、陸軍内部に振り回されて、不信を買い、退陣を余儀無くされたのでした。



●金融恐慌

 大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、突如、マグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲いました。これが「関東大震災」と言われるもので、この大地震は、日本に深刻な不況の影を落とします。そして、こうした状況下、社会情勢は更に不安定さを増し、街には失業者が溢れることになります。

 脆弱(ぜいじゃく)な基盤の上に構築された日本経済は、関東大震災によって、不況の度合いを益々深刻化させて行きます。こうした不況の最中、日本共産党が結成され、社会主義や無政府主義を綱領に掲げる反体制運動が活発化して行きます。

郵便局への非常取り付け騒ぎ。

 この不安定な社会情勢を巧みに捕らえた、革命後のソビエト連邦は、共産主義インターナショナルを通じて、全世界に革命を起こそうと、各国の共産主義者達に呼び掛けます。
 これに危機感を募らせた日本政府は、治安維持法を大正14年に公布して、反体制組織の弾圧に乗り出します。この取締の尖兵として猛威を揮ったのが「特高」と言われる特別警察でした。

 「特高」という特別高等警察は、この時に生まれ、大本教等の新興宗教の幹部や、左翼活動家達をビシビシ容赦なく取り締って行くことになります。これを境に、世の中は暗黒の時代へと突入し、暗い世相の事件が相次ぎます。

 昭和2年(1927年)4月には、大小の銀行が軒を並べて休業や倒産に追い込まれ、金融恐慌が起こりました。そして、これまでの憲政会の若槻内閣は総辞職し、政友会の田中義一内閣がこれに代わります。
 しかし田中内閣も前途多難でした。陸軍大将であった田中義一は、陸軍首脳に押しが効かず、田中内閣は、発足から僅か二年足らずで、天皇の不信を買い、辞任に追い込まれます。昭和4年7月のことです。

 そして政権は、民政党の浜口雄幸へと移って行きます。昭和4年7月2日のことでした。
 しかし、日本の金融恐慌がどうにか小康状態になった頃、今度はアメリカ経済に大恐慌が発生し、1929年(昭和4年)10月24日朝、ニューヨーク・ウォール街で株式が大暴落する言うパニックが発生しました。世に言う「暗黒の木曜日」です。

 この大暴落は世界規模の恐慌となって、やがて日本へもその影響が波及しました。街には失業者が溢れ、残飯を求めて浮浪者の長蛇の列が出来ました。
 こうしたアメリカで起こった大恐慌は、瞬く間にヨーロッパへと波及し、更には、日本を直撃しました。輸出産品価格は下落し、在庫は山をなし、当時の日本の主力輸出品は生糸(きいと)で、総輸出品の四割を占め、生糸はその約九割がアメリカ向けであり、大打撃を受けることになりました。

 この深刻な状態は、紡績工場を始め、日本の主要産業は生産調整を迫られ、アメリカ同様に馘切り旋風(せんぷう)が吹き荒れ、日本各地では労働争議が激化して行きます。