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●激動の昭和初期

農村部では貧農達が生活苦に喘いでいた。

 歴史的に見て、昭和初期と言うのは、日本にとって明治以来の、最大の危機に直面した時代であったと言えます。

 大正時代は、第一次世界大戦の好景気で溢れ返り、華やかな大正ロマンと大正デモクラシーを謳歌(おうか)した時代でした。ところが、春の夜を貪(むさぼ)る大正自由人達に、冷や水を浴びるような、震憾(しんかん)させる関東大震災が起こりました。この天変地異を皮切りに、打ち続く天災は、またも続きます。

 十勝岳大爆発(昭和元年(大正15年、1926年)北海道十勝岳の活火山が大爆発。死者行方不明144人、北丹後大地震(昭和二年(1927年)M7.5、死者2925人)、駒ケ岳噴火、三陸大地震(昭和8年(1933年)、3千人以上の死者)、室戸台風(昭和9年(1934年)9月21日、暴風雨・高潮のため全国の死者・行方不明者約3千人以上)、北伊豆地震、函館大火(昭和9年3月21日烈風に煽られ2万4千余が焼失。死者行方不明2716人)、そして中でも昭和5〜9年の異常気象による、東北の農村部全域には大凶作が起こり、壊滅的な状態となります。

 こうした社会の状況下で、多数の社会主義運動が起こり、またそれを国家権力は武力弾圧で封じ込め、世の中はテロと暗殺の嵐が吹き荒れます。
 その結果、昭和6年(1931年)9月18日夜には満州事変(満州事変の発端となったのは柳条湖事件。この事件は関東軍参謀・石原完爾中佐らの謀略計画により、柳条湖で満鉄線路を爆破し、中国軍のしわざと偽り、攻撃を開始し、これが満州事変の始まり)へと突入します。
 それより前では同年の1月18日、上海では田中隆吉少佐が工作する事件が起こっていました。この事件は、日本人僧侶が中国人に殺害されると言う事件で、これを口実に、日本海軍は海軍陸戦隊を差し向け、中国軍と交戦に及びます。これが「第一次上海事変」と言われるもので、昭和7年(1932年)1月28日に起こりました。

 また、満州事変によって画策された中国東北侵略戦争(現在日本政府及び、科学文部省は中国大陸侵略を、「大陸進行」という言葉で濁しているが、紛れもなくこれは「大陸侵略政策」だった。そして石原完爾の東亜連盟の目指した「世界最終戦争」とはなり得なかった)の企てによって、同年の3月1日には満州国が建国されます。

5.15事件で射殺された犬養毅首相。

 更に、同年の5月には、軍部急進派の海軍青年将校の指導したクーデター事件(陸軍士官候補生・愛郷塾生らも参加)、5.15事件が起こり、犬養毅首相が射殺されます。この事件は、陸軍士官候補生らや愛郷塾塾生らも参加し、首相官邸等を襲い、犬養毅首相を射殺して、政党内閣制に終止符を打つ切っ掛けをつくりました。そして日本には、ファシズムに陰が忍びよります。

 さて、5.15五事件直後には、もう一つのエピソードがあります。
 昭和7年(1932年)5月16日、アメリカの喜劇俳優・チャップリンCharles Chaplin/映画俳優で監督。1889〜1977年)が日本に来日していました。
 彼はロンドン生れのユダヤ人(アシュケナジー・ユダヤ=人種的にはカザール人で、ユダヤ教に改宗した白人の肌を持つ)で、ハリウッド映画界(ユダヤ人映画芸術集団)の強大な影響力を持ち、またその一方で役柄は、哀調をたたえた滑稽味をもつ独特の仕種と扮装(ふんそう)で、弱者や貧者の悲哀と現代西欧社会の不平等への怒りを表現し、大衆に親しまれました。
 彼の作品には「黄金狂時代」「街の灯」「モダン・タイムス」「ライムライト」「独裁者」等があります。

 もう、お気付きと思いますが、彼の作品には大衆を策動させる思想的な内容が含まれていて、マルクス主義及びユダヤ教(『タルムード』の教義。ユダヤの選民意識)を中心とした宗教闘争に連動する思想工作の一貫だったのです。
 しかし、こうした思想的政治的視野に乏しい、日本の映画評論たちは、チャップリンの表皮の面だけを捕え、親愛と尊敬の念を罩(こ)めて彼を絶賛したのです。

ハリウッド映画の喜劇王・テャールズ・チャップリン。

 さて、平成13年9月11日に起こったアメリカの同時多発テロ事件(一種の近代戦争)の強烈な実像は、私たちの記憶に今でも生々しく迫ります。

 イスラム原理主義テロ集団は、この時、世界貿易センタービル、ペンタゴン、また、大統領の別荘であったキャンプ・デービットを攻撃したが、それに併(あわ)せてハリウッドにも攻勢をかけていたのです。それは何故でしょうか。

 実は、ハリウッドHollywood/アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス北西部の一地区にあるアメリカ映画産業の中心地。俗に Holly を Holy と誤り「聖林」と書く。タルムードに由来するとも)は、ユダヤ人映画芸術集団の巣窟であり、ここで数々の反アラブ(反イスラム世界)並びに反ナチス(あるいはホロコーストに抗議する「アンネの日記」など)の映画が作られています。

 喩(たと)えば、スピルバーグの「インディージョーンズの冒険」等の多くの冒険映画は、「反ナチス」を克明に意識した映画であり、彼自身がユダヤ人(アシュケナジー・ユダヤ)です。したがって、ナチスに迫害されたユダヤ人の怒りを映画の内容に叩き付けています。一種の大衆を巻き込んだ宗教闘争に、観客を引き込もうとする意図があるのです。大衆工作であり、その震源地がハリウッドと言うわけです。
 ハリウッドでの映画収入の大半は、イスラエルへ、多額な軍資金となって送らています。こうしたことを、回教信徒のアラブ人達は、よく知っているのです。

チャップリンの独裁者。ヒトラーを徹底的に揶揄(やゆ)するものであった。

 また、こうした事実(本当の日本人の敵とは誰か)を、戦前の日本の右翼集団(当時は真性右翼。現在右翼は、少数派の真性右翼と、ユダや傘下の統一教会や同教会傘下の勝共連合やTC企業から資金を貰う仮装右翼に別れる)は、よく知り抜いていました。
 5.15が起こった翌日、チャップリンは東京の帝国ホテルに滞在していました。
 そして前日、海軍将校・三上卓らを首班とするクーデター事件が起こり、この報道を聞いたチャップリンは、一瞬蒼白(そうはく)になり、身に危険を感じたのでした。そして、彼の身に感じた危険の直感は、見事に的中していました。

 それは犬養首相暗殺と同時に、ハリウッド映画界に強大な影響力を持つ、チャップリンも暗殺リストに名前が上がっていたからです。

 この構図は、アメリカの同時多発テロ事件のとき、テロ集団がその攻撃目標にハリウッドを上げていたことを考えれば、海軍青年将校らの攻撃目標がチャップリンに向けられるのは、ごく当り前のことでした。
 この図式を分析すると、こうした裏側には宗教闘争があり、「イスラム世界」(「神への服従・帰依」の意)対「ユダヤ教徒」(宗教国家イスラエル)の闘争意識が浮上するのです。しかし多くの日本人は、こうした水面下に隠れた、宗教闘争の実態を知ることは少ないようです。

 5.15件の翌日、チャップリンは、秘書に命じ大急ぎでトランクを整理した後、タクシーを飛ばして横浜港に駆けつけました。そして出航直前の商船に乗船し、危機一髪であったと言います。
 チャップリンの後を追った日本人記者団は、彼の船室に押しかけ、インタビューを申し込むと、それに応えて彼曰(いわ)く、
 「クーデターの連中は、チャップリンを暗殺したら、日米戦争が起こると単純に考えているらしいが、ぼくを殺したって、戦争などは起こるはずがない」という言葉を遺して横浜港を跡にするのです。

 そしてこの談話は、翌日の新聞に「チャップリン笑えず、急いで帰国」と、大見出しで報じられました。
 しかし当時、チャップリンは単なる「喜劇王」として、日本人大衆層には、その表皮だけが紹介され、彼の表皮内部に隠れる「敬虔(けいけん)なユダヤ教徒」という心臓部は、ベールに包まれて、覗(のぞき)見ることはできなかったのです。

 そして、チャップリンの否定の言葉は裏返しになって、日本は、アメリカ第三十二代大統領ルーズベルトのユダヤ財閥(この集団は戦後「軍産複合体」と名乗る)の「戦争策動」の意向に隨(したが)って誘発され、昭和16年(1941年)12月8日、日本は三年八ヵ月の悲惨な太平洋戦争へと突入するのです。
 こうした歴史の一連の流れを見ると、アメリカの二人の「ルーズベルト」を名乗る大統領は、奇(く)しくもユダヤ人やユダヤ系のニュー・ディーラーたちに操られた大統領であったと言うことが分かります。

血盟団の指導者で日蓮宗・護国堂の井上日昭。 三井財閥理事長の団琢磨を暗殺した血盟団員・菱川五郎。

菱川五郎に射殺された元大蔵大臣・井上準之助。

 さて、日本国内のテロに目を向けますと、昭和7年(1932年)の2月から3月にかけて、日蓮宗・護国堂の井上日召らが結成した右翼団体「血盟団」が、一人一殺主義に徹して、元大蔵大臣・井上準之助(2月9日、本郷での民政党の駒井候補の応援演説会で射殺。犯人は当時21歳の小沼正)や三井財閥の合名会社理事長・団琢磨(3月5日、日本橋の三井ビル入口で射殺。犯人は当時22歳の菱沼五郎)を暗殺する血盟団事件が起こります。

 また、双方の事件に使われたピストルは、霞ヶ浦航空隊の藤井斎(ひとし)大尉の手から団員に渡されたもので、井上準之助を射殺した小沼正や、団琢磨を射殺した菱川五郎らは東北農村出身の、貧しい欠乏生活を余儀なくされていた貧農青年達でした。

 昭和8年(1933年)2月20日には、プロレタリア作家の小林多喜二(秋田県生れのプロレタリア作家。特に『蟹工船』は有名)が、築地(つきじ)署に検挙され、拷問によって死去します。
 政治犯や思想犯の取り締りを専門に行なう、特別高等警察組織が作られ、警視庁に特高課が設けられたのは、明治44年8月のことでした。前年に起きた大逆事件の為でした。

官憲の手で拷問を受け、死亡したプロレタリア作家・小林多喜二。

 大逆事件は、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)を首班とする無政府主義者が明治天皇を暗殺する為に爆弾を用意したと言う理由で、24名が死刑を宣告されましたが、うち坂本清馬(さかもとせいま)ら、12名が無期懲役に減刑なると言う事件でした。この事件に検事として辣腕(らつわん)を揮ったのが平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)でした。

 ちなみに、平沼は東大法学部卒業後、検事となり、大逆事件を担当して、その功績が大いに認められて検事総長まで上り詰め、司法界に巨大な勢力を築く傍(かたわ)ら、右翼団体「国本社」を創設し、昭和11年(1936年)枢密院議長を経て、昭和14年(1939年)には平沼内閣を組閣します。戦後はA級戦犯に指名され、終身刑を受けています。

 さて、特高警察の取調は極めて荒っぽく、小林多喜二が拷問で殺されたのは、昭和8年2月20日の事でした。多喜二は同日の昼過ぎ、赤坂の路上で逮捕され、築地署に連行されました。
 そして拷問を受けて、絶命したのは午後8時頃で、遺体は翌日、母親のセキに渡されました。
 多喜二の死を知った宮本百合子や佐多(さた)稲子が遺体を清める為に下着を脱がせてみると、下半身には拷問の為に受けた傷がドス黒く変色していたと言います。

 また、同年3月27日には国際連盟を脱退し、日本は世界の中で孤立します。

 昭和10年(1935年)8月12日には陸軍省軍務局長・永田鉄山少将が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されます。これが「相沢事件」(永田事件とも)です。
 陸軍省内で統制派の軍務局長永田少将を斬殺した事件で、後の2.26事件の誘因を作ります。

永田鉄山少将を斬殺した皇道派の、相沢三郎陸軍中佐(陸軍幼年学校を経て、陸士第二十二期卒)。仙台陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校第二十二期卒。 斬殺された、陸軍省務局長・永田鉄山陸軍少将。永田は陸士第十六期を恩賜おんし/トップの意で、天皇から恩賜賞賜る)で卒業し、統制派のリーダーだった。


西田悦。元陸軍少尉。事件当時34歳。

 昭和10年8月、相沢中佐は広島県福山歩兵第四十一聯隊(れんたい)付きから、台湾歩兵第一聯隊への転任命令を受け取りました。8月10日、相沢は福山を出てその日の夜、三重県宇治山田市で一泊し、翌朝、伊勢神宮に参拝しました。それから名古屋へ出て、東京行の列車に乗り、明治神宮を参拝します。更に、千駄ヶ谷の西田悦(にしだみつぎ)の家に行き、ここで泊めてもらう事にしました。

 西田は明治34年、鳥取県生まれで、陸軍幼年学校から陸軍士官学校へと進み、卒業して見習士官を経験した後、少尉に任官しましたが、間もなく病気で退役します。士官学校時代の同期生には、昭和天皇の弟である秩父宮(ちちぶのみや)がいました。
 西田はまた一方、士官学校在学中に、黒竜会や猶存社の国家主義者達と交流を持ち、少尉時代の大正14年5月、病気の為に依願予備役となりますが、その後も、大川周明の行地社に入社して国家改造運動を展開します。

 西田の二期後輩には野中四郎、三期後輩には村中孝次、香田清貞、更に一期下に安藤輝三、磯部浅一らがいました。こうしたメンバーは総て2.26事件の中心人物達でした。
 相沢は、西田に最近の中央軍部の樣子を窺(うかが)います。
 西田は、「陸軍大臣は林銑十郎(はやしせんじゅうろう)だが、陸軍の実際の采配(さいはい)を振っているのは軍務局長の永田鉄山少将だ」と言います。

永田鉄山によって辞任に追い込められた皇道派の、教育総監真崎甚三郎陸軍大将。2.26事件後の尋問は、「知らぬ存ぜぬ」で押し通した。

 林は、神奈川県生まれの陸軍大将で、満州事変時に朝鮮軍司令官として独断で満州に侵攻した前歴があり、教育総監を経て陸相を歴任した軍人でした。
 また、永田は陸軍士官学校を恩賜賞(トップ成績者で、天皇から銀時計や軍刀や短剣等を賜る)で卒業し、陸大は二番で卒業すると言う秀才で、エリート中のエリートだった。更に、統制派のリーダーでもあった、陸軍大臣の林は、元々皇道派に近い人物でしたが、永田のせいで統制派に取って代られていました。その布石として、皇道派の、教育総監だった真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)大将を辞任に追い込んだのです。

 陸軍では、参謀総長、大臣、教育総監の三つの重要ポストが「三長官」と呼ばれていました。そして陸軍内部では、三長官の協議によって決められる事になっていました。
 当時の参謀総長は閑院宮(かんいんのみや)やであり、統制派は、真崎大将を追い落とす事によって、陸軍の中枢を完全に掌握しようとしていたのです。そして、この背後には軍務局長の永田鉄山の画策が働いていたのです。
 こうした事情を知った相沢は、「永田を斬るしかない」と予々(かねがね)から思っていました。上京した目的はここにありました。

 そして翌朝、西田の家を出ると、円タク(一円タクシーの略で、大正末期から昭和初期にかけて、料金1円均一で走ったタクシー)で陸軍省に向かい、士官学校時代の隊長であった山岡重厚中将をたずね、永田に面会を求めます。

 山岡は陸軍省にあっては数少ない皇道派の一人で、この頃、整備局長をしていました。山岡も、人事異動で中央から追われる身でしたが、一部の反対があって居残ったままになっていました。山岡は、相沢の心中を見透かし、「永田に会ってはいかんぞ」と釘を刺しますが、これを無視して、相沢は永田の室に行き、天誅に及びます。
 これが相沢事件であり、この事件は後の2.26事件の誘因になります。