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西郷派大東流と武士道

御式内礼法・武門の心得
(おしきうちれいほう・ぶもんのこころえ)

●腰骨に脊柱を垂直に立てる

 人間は、何事かに打ち込んでいる時よりも、その場から一旦離れ、一息ついて休憩している時に、その実体が顕(あら)われる。

 例えば、稽古に励んでいる時は、真剣な眼差しをして教えを乞う人であっても、これが休憩ともなると、途端に態度を崩してしまい、無態(ぶざま)な恰好で寝転がってしまう人が居る。
 だが、礼儀を心得え、礼法を知っている人は、姿勢を崩して休みたいのを我慢して、容儀(礼儀にかなった身のこなし)正し、自己の態度を歪ませるような事は、決してしないものである。

 道を志す者は、容儀を正すと言う一点に存在意義を見い出し、これには大きな価値観があり、これを生涯貫けるか否かで、その人の人間的価値観は決定されるのである。礼儀を知る者は、客観的な視野からみて、どこまでも態度が立派でなくてはならず、呼吸を整え、正中線を正し、安易に攻め込まれない姿勢を保ち、腰骨の上に脊柱を垂直に立てると云う、礼法の基本原理を学ばなければならないのである。
 また、ここにこそ、道の修練の大きな意義が存在するのである。

 礼法的に云って、品位があると信じられている剣道界にあっても、品位を失わないで容儀を正している人を見かけるのは、昨今では非常に少なくなったが、一方、剣道の高段者であっても試合から離れれば、人目を盗んでルーズに流れる人は、決して少なくないようだ。
 こういう局面に関して、酷い人は徹底的に酷いようだ。また、スポーツ界にあっては、今迄に礼儀正しい人など、一人も見た事がない。

 英雄視されている事に有頂天になり、有名人である事を鼻にかけている。マスコミ受け、観客受けには気を遣っているものの、その態度は慇懃無礼(いんぎんぶれい)であり、傲慢の塊(かたまり)のようなスポーツマンが少なくない。

 礼儀正しいか否かは、どのような目的意識を以て、稽古に励んでいるかと言うところに如実に顕われるものであり、同時に、それはその人の品位となる。そしてその品位は、その集団の「格」となって、全体を評価する判断材料になる。
 まず、自分を主観的に判断するのではなく、他人から視(み)て、自分はどう見られているかと言う事を判断すべきである。こうした注意は怠らないつもりでも、他人の目は非常に厳しいものがあり、「自分の事は棚に挙げて」という目こそ、まさに他人の目であり、こうした目が常に光っている事を忘れてはならない。

 容儀を正しておけば、他人の厳しい叱責の目が趨(はし)ったとしても、その品位を損なう事はない。その品位の原点は、腰骨の上に脊柱を垂直に立てる事であり、坐(ざ)して、この姿勢が立派であれば、他人からとやかく批判される事はない。
 礼法を身に付けている人は、呼吸法の吐納も正しく、何処に居ても姿勢が崩れないのである。

●子供の前頭葉未発達は、親の礼儀知らずから起る

 現代人は自分の居場所を明確に決定する事が出来ない。家庭崩壊が甚だしい現代、家長制度は完全に崩壊し、社会は父性(社会規範としてであり、父親の持つ性質。これが崩れると、無規範(anomie)になり、人々の日々の行動を秩序づける共通の価値・道徳が失われて無規範と混乱が支配的になった社会状態を作り出す)すら崩壊させている。妻の座は存在するけれども、良人(おっと)の座は存在しない。
 良人が仕事に疲れて家に帰ると、妻の座や子供の座は存在していても、主人としての良人の座などは何処にもないと言うのが、日本の中産階級の大半が占める実情であろう。

 不況渦巻く現代社会は、仕事に励む壮年期の実情として、父親は仕事熱心で、仕事をする姿はマニアに近く、家庭をあまり顧みないと云うのが、仕事のできる男の理想像のように思われている。こうした傾向は、本来、日本人気質と言うものかも知れないが、一時は「モーレツ社員」という名で企業に持て囃されていた事があった。

 今日は、かつてバブルに湧いた好景気が去り、低成長と云う「動」から「静」に社会構造が変化したが、家庭内だけはこの変化の切り替えが出来ず、家庭教育の未熟さから、青少年少女は様々な人格崩壊に匹敵するような事件を起こし、その精神状態が疑われる現実を招いた。
 そしてこの元凶の裏には、家長不在の妻を核とする「マイホーム型家庭」の実態が存在する。

 マイホーム型家庭の構造は、「婦主夫隋」(家庭の中心は主婦であるつまが実権を握り、妻の分身である子供がこれに準じ、そして最後に良人の小さな座があると云う意)で、良人は家に帰っても、与えられた座は小さく、座に坐らされたとしても、晩酌(ばんしゃく)をする僅かな御神酒(おみき)と供物以外には何もなく、一方、妻はその座が大きく、家庭内の行政や子供の教育は総べて妻の手に委ねられている。

 子供教育の実態は、家庭の躾(しつけ)を中心とする家庭教育ではなく、一流大学に至るまでの克明な設定路程が妻によって定められ、万一起るであろう病気の研究や栄養学の最新知識をはじめ、蓄財法や余生の設計に至るまで、母親オンリーで描き出されていて、父親はただただおとなしく、優しくその設計の完成までを見守ると云う事しか許されない、単なる働き蜂に過ぎない。
 こんな「婦主夫隋」の形で展開される家庭生活は、子供達の心に混乱を来し、子供が異常になるのは当然の成り行きである。家長制度の崩壊は、こんな処にも現れ始めているのである。

 家長制度崩壊の中で子供を育てた母親の多くは、子供が犯罪を犯しても異口同音に「小さい頃は、素直でおとなしく、本当に良い子でした」とマスコミに弁明する。また「親の云う事はよく聞いて、反抗したしする事はありませんでした。学校では勉強もよく出来、成績も上位でした」という、母親の育てた子供に限り、子供自身は自閉症であったり、登校拒否や精神異常の傾向にあり、精神が犯されていなくとも情緒未発達で、物事の分別をわきまえないと言う青少年が多い。
 そして子供が事件に関与し、犯罪者になると、「以前はこんなふうではありませんでした」と、我が子可愛さの弁明が矢継ぎ早にマスコミに発表される。
  親から視て、手が掛からず、素直で良い子というのは、親の立場や親の考え方かを基準にした、一種の偏った思考に過ぎず、「反抗しない」というのは、未だにその子供が乳離出来ていないと言う証拠でもある。

 子供が反抗すると言うのは親離れの始まりであり、これは子供の独立心の目醒めである。要するに、反抗期の遅れる子供こそ、後になって様々な問題を起こし、反社会的になり易いものなのである。
 人間が人間であると云う証(あかし)は、前頭葉(大脳皮質の中心溝と外側溝によって囲まれた前方部で、意志・思考・創造など高次精神機能と関連し、個性の座と見なされる)の活動に一任される。つまり前頭葉が充分に働くと言うのは、工夫したり推理したり研究したり創造すると云う意識の現れであり、これは日々精進しようとする意識から起るものである。

 この事が自立心を育て、忍耐力を養うのである。人間が忍耐力を持つと云う事は、前頭葉の働きがこれに深く関与し、この働きこそが知性を発達させる原動力となり、自分が育っていく態(さま)を、第三者の目で凝視している姿なのである。
 人間が自分を第三者の目で、客観的に見つめる事が出来ると云うのは、偏(ひとえ)に前頭葉の発達の有無に代表され、こうした特性が子供に見られる場合、これは感性の育成に充分な効果があったと言う事を物語っている。

 一方、忍耐力が養われれば、運動機能が鋭くなり、また反射神経も敏感になる。また平衡機能も優れたものになり、運動機能は、精神と大脳ならびに脊髄神経と手足と云う密接な連携によって、その精神構造までも強健にし、一層の発達を促すものなのである。
 ところが母親が、我が子に対して「よく遊ぶ、走り回る、直ぐ外に飛び出してしまう、ちっとも勉強してくれない」等と嘆き、これを止めさせて、家の中で過保護にしてしまうと、子供は自立心を失い、精神構造の発達が阻害されるから、やがては問題児と云う過程を通過しながら、反社会的な行動に至る事になるのである。

 昔から「寝る子は育つ」と云われる。寢る為には、それ以前に遊び回って、よく躰を動かしておかねばならない。よく動くから寢るのであって、動かなければ疲れる事もなく、したがって寢る事もないのだ。
 また遊びに、自分の得意とする領域を持っている子供は、知恵のある子供であり、創意工夫が遊びの中で構築されるのである。子供は遊びの経験を通して、将来の人生設計を創造しているのである。
 しかしこうした創造性を摘(つ)み取ってしまう母親は少なくなく、前頭葉の発達にすら、関与してそれを阻害する親も少なくない。

 こうした一連の悪循環も、元を糺(ただ)せば親の無知にあり、その無知は、親の礼儀知らずから出発している事が分かる。
 そして忘れてはならない事は、今後どんなに科学が発達して、どんな素晴らしい妙薬が発明されたとしても、心の悩みや、心の病気を完全に治癒する事は出来ない。一旦精神障害が発生すれば、前頭葉未発達の儘の状態で、人間不信に陥り、潰れた自我を背負ってしまった子供の病気は治す事が出来ないのである。

 「子供が存在する」と言う今の現実は、未来の人間が今、形成されつつあると云う現象であり、子供を取り巻く環境を、親自身が充分に理解し、その根元は、礼儀正しさからはじまると云う事を、親自身が知らなければ、次の時代は大きな歪みを生じさせ、狂った社会が出現するかも知れない。

●座という認識

 現代人はという認識が欠けている。
 座とは、自分の坐る場所あるいは位置するところであり、坐る場所事態を見失っている現代人は多い。それは偏(ひとえ)に礼儀知らずからはじまり、礼法の道理を知らないから起った現象である。
 そして現代人の多くが、最も多く見逃している事は、「出入口の正面が上座になる」という礼法の原則を知らないことだ。

 殿中ならびに道場においては、玄関に入り、その出入口の正面が上座であり、上座は「神座」とも書く。また普通の場合、道場には入口から正目に対して上段の間が設けられ、その一には神座が設置されている。あるいは神座がない場合でも、出入口正面は神座に当たる。
 殿中や道場に入場した場合、神座中央の神前に向かって拝礼するのが武門の作法であり、最高位の者は神座を背に向けて位置し、次に、次席はこれより右手となる。

 屋外の場合は、最高位の者は北側に配し、南に向かう場所が古来より最上席とされ、これを「天子南面」と言った。これは次席が西側に居て、東を臨む位置であり、西面、北面に関しては、時刻によってこれが変化し、午前と午後に於いてもこの位置が異なる。これは太陽の向きと大きな関係があるからだ。
 また屋内に於いては、家屋の構造上の問題もあり、天子南面を配する事は容易に行かぬものであるから、居心地のいい場所を神座にすればよい。

 座の認識は、原則的な思考として、最も快適な場所が最上席と云う、基本的な思考で礼法の原則が考えられている。この原則を古伝に照らし合わせれば、春夏秋冬の季節の移り変わりをする日本に於いては、「天子は南に座し、北に向かう」とあるので、屋外の天子南面とは逆になり、屋内にあっては、天子が南側を自分の背にして坐る事になる。そして「天子南面」は、屋外と屋内の違いが逆になる事を心得るべきである。
 しかしこうした座という判断の基準も、時代と共に薄くなり、屋外と屋内の遣い分けが出来なくなって、現代は礼の観念も崩壊している現実が顕著に見て取れるようだ。

 殿中の礼法から言うと、本来、客席は存在しないものである。また道場も同じであり、客席は存在しない。道場と言うのはあくまでも修練の為の聖域であり、古来より、神座を正面に置いて設計されている。したがって修練の場である道場に、客席は存在しないのである。

 一方、観客席が設けられている劇場などの建物は、その中で催されるものが「見世物」である事を意味している。見世物は衆人の目にさらされ、面白がられる事が基本あるから、珍しい物や曲芸や奇術などを見せる興行小屋であり、ここに道場と劇場の違いがある。

 多くの場合、劇場の構造は、客席が上座になるように作られている。また、客席の中心はロイヤルボックスであり、これから見ると、芸人が演ずる舞台は、完全に此処が下座である事が分かる。したがって芸人は、観客を見下すように演ずるのではなく、観客に観(み)られるように演ずるのである。この事により、芸人は、観客よりも一等低い場所と、低い地位にある事が分かるであろう。

 この違いを明白に物語るものが「天覧試合」である。
 天皇は、日本武術を諸芸能と同列に置いて、これを見物すると言う事はない。視(み)る事はあっても、見物とは異なるからだ。これは興行と修練の場である道場をはっきり隔てた考え方で区別している為である。

 武術や武道の名を用いて、一同に集めて何事かを行おうとすれば、観衆の有無が問題になってくる。観衆が居なかったら、日頃の練習も無駄になると思っている人が少なくない。自分の武術・武道人生と、観衆を結び付けて考え、大勢の見物人を前に試合する事に生き甲斐を感じている人間もいるのである。

 一方、道場を神聖な場所として考え、修練の為の聖域と考える人は、観衆と、稽古の成果を安易に結び付ける事が出来ない。当然の結果として、観衆を考えた場合、上座が観客席になるのであるから、聖域で日頃の修練の結果を披露する側は、一等下がって下座に落ちる事になる。
 これは娯楽の為の寄席(よせ)や漫才と、政事(まつりごと)などの行政を決定する会議と同じ意識で行うようなものであり、その違和感は甚だしいものであろう。

 かつて、日本人が身分制度によって固有の生活圏を各々に持っていた。ところが現代はこれと異なる。身分の違いによって独自の文化を各々が持っていた頃は、上座、下座の混乱はなかった。しかし身分制度が崩壊した現代では、かつての武家分化も、町人文化も、更には河原乞食と蔑まれていた芸能人達の文化も見事に入り混じり、座と言う認識を見失ってしまったのである。
 そして座の認識が失われれば、その国の向かうところは秩序の崩壊であり、やがては亡国に繋がる事になる。しかしこの危険性を知る者は、殆どいないようだ。

●服装を糾す

 秩序の崩壊は、ファッションに如実に顕(あら)われている。そして秩序崩壊化のファッションは、「ラフ」なことと、「だらしない」ことを同一視させて大衆を混乱させる為、日常と非日常の区別もつかなくなり、その変化の違いが眼の前に遭遇していても、これに逸(いち)早く気付き、対処すると言う能力の鈍化に、一層の拍車を掛ける事になる。

 現代の服装の流行に、シャツをズボンの中に入れない若者の生活スタイルがある。こうしたファッションは若者に限らず、三十代、四十代の中年層にも、こうした流行に便乗する者がいる。この種のファッションに便乗する者の多くは、シャツなどの上着が外に出ている為、腹部や腰の周りに、ナイフやその他の武器を隠し易い状態になっており、時として、事件や事故に巻き込まれる事がある。これは明らかに油断であり、こうした処にも隙(すき)をつくる原因があるから、単に流行から起るファッションに、安易に流れてはならない。

 暴力事件やその他の事故に巻き込まれたり、事件や事故の被害者になったり、あるいは加害者になると言う者の多くは、こうした現代流のファッションに寄り掛かる若者層を中心にした世代であり、ズボンからシャツを出すと言う、衣服の原則を知らない者は、被害者もしくは加害者になる場合が少なくない。

 疑心暗鬼の渦巻く現代社会に於いては、衣服の着方一つで、無防備になったり、隙を作ったりする事になる。また、流行に乗って安易に流れれば、同時に、心に隙をつくる事になり、その隙を衝(つ)かれたり、誤解を招く事になる。「ラフ」と、「だらしのない」ことの違いを知らない者は、着方自体に問題を発生させているのであり、また公式の場所に着て行けないような、だらしのない服装で外出はするべきではなく、こうしたスタイルは心に油断がある事を物語っている。

 外出着の服装の基準は、今自分の恰好が、突然、公式の場所に列席しなければならなくなぅった時であっても、即座にこれに応じれるかどうかを基準にして考えるべきで、問題は自分の服装が、夏ならばシャツの裾部分をズボンの中に入れ、ベルトが、外から見えるかどうかという事である。ベルトが外から見えれば、相手に対して、何かを隠し持っているという不信感を持たれずに済み、また、危害も与えられる事がない。
 逆に、外からベルトが見えなければ、ベルトに武器を挟み込んで居るのではないかと思われても仕方がない。現代は疑心暗鬼が渦巻いていると言う社会現象を忘れてはならないのだ。
 まず、武を志す者は、第一番目に服装を糺(ただ)すべきである。

 これは例えば、背広上下を着た紳士が、ネクタイを締め、ワイシャツの裾をズボンの外に出し、こうした背広姿が果たして見苦しいか否か、考えてみれば当然察しはつくであろう。
 見苦しい姿は礼法に叶っておらず、また他人から、武器を隠し持っているのではないかと言う、遊びのあるファッションは、武の実践者としては固く慎むべきである。
 これは道衣を着た場合に、有段者が、道衣の上着が黒帯の外に出てしまった着衣が、果たして人の眼から視て、尊敬に値するかどうか、これを考えてみれば容易に察しがつくであろう。
 また、袴を履いた有段者が、上着を外に出している姿が、見苦しいか否か、それを考えれば、服装を糺すと言う事が如何に大事であるか、武を志す者であれば容易に分かる事であろう。

 礼儀正しく、それを糺すと言う事は、単に挨拶したりお辞儀をしたりする事ではない。礼儀を糺すとは、人間が衣服を纏(まと)うと言う事であり、これは人間以外の動物に見られる事はない。人間であるから衣服を着用するのであって、この着用こそが礼儀の基本となる。その基本を無視して、「ラフ」と、「だらしのない」ことを区別できなければ、そこには当然、他人の目から見て誤解が起り、過剰に警戒されて摩擦が生じるのである。

 礼法の基本は、他人との摩擦を避ける為にこれが思考されると言うのが基本原則であって、誤解されたり疑心の眼で見られる態度は取るべきではない。

 服装を糺す基準は、武門ならば、大小の刀を腰に帯刀する事が原則であり、大小が差せない着方はするべきでない。昨今は、武道の指導者であっても、こうした基本的な着方を知らない者が多く、安易に流行に流されている者が少なくない。まず、こうした事からして、間違っている者が多く、そもそもの「作法」と言うものを、自分流の固定観念で曇らせているのである。

 上座と下座に対して、あまり抵抗を感じない今日の日本人は作法と言うものを堅苦しいものと一蹴し、これを排除する傾向にある。したがって無節操なスタイルであっても、これに違和感を感じない現実がある。しかし臨機応変に動く事の出来る柔軟性と、無節操なご都合主義は根本的に異なっているので、両者は全く別問題であると言う事を心得ておくべきである。
 とにかく、防禦と言う個人的な実戦経験の乏しい恣意的なご都合主義と、武の行使と言う、有事に際しての非日常は根本的に異なっているので、その時の都合で安直に考えてしまう事は、得に武術の場合、大きなシコリを残すので、基礎的な服装の態度から改めるべきである。

●非礼を非礼と思わない現代

 武士道が厳然として実践されていた時代は、身分制度を基本にして各々の階級が礼を考えていた為、差して混乱はなかった。ところが身分社会が崩壊して、かつての秩序が崩壊すると、各々の考え方も、自己主張を強めた個人的なエゴイズムが剥(む)き出しになり、その尺度は強弱論を基準にする考えが生まれた。

 ある総合体育館で、古流剣術グループの一人の、傍(そば)に置いてあった木刀が、別の空手団体の黒帯の一人に踏み付けられた事があった。踏んだ空手団体の一人と、木刀の持ち主はその場で眼を合わせたが、この後、どうなるのかと見ていると、踏まれた方が不愉快な顔をして踏んだ方を睨(にら)みつけたが、ただそれだけであった。

 こうして一言も文句を言わず、不発に終わった理由は、踏んだ方の空手団体の一人が、大勢のグループの一員であったことと、その男が中年の黒帯であり、一言文句を云えば、二言、三言返って来て、下手をすれば胸蔵を掴まれて、「たかが木刀を踏んだくらいで、その眼は何だ!」と、逆因縁をつけられると判断した為であろう。これなどは、典型的な強弱論に毒された考え方であり、多勢に無勢であると云う判断と、弱肉強食の理論が罷(まか)り通っている事を現す。
 踏んだ方は、何かを踏み付けたと思った樣子であったが、直後、木刀の持ち主と眼が合っただけで、別に恐縮して詫びたり、一礼する事もなく、不作法にもその場を通り過ぎて行った。

 木刀を踏み付けた空手の有段者の中年男が、どのような職業に就いているかは知らないが、踏み付けられた剣術の愛好者が自分の木刀を神聖な物として考える一途(いちず)な人物ならば、この事で、大いに火花を散らした事であろう。そして昔ならば、剣術(起こりは武士が中心)と空手(発祥は島津藩から武器を取り上げられた沖縄の漁民が中心)が同じ屋根の下で、同じ空間で、同じ次元の思考で練習をすると云う事は考えられなかったが、時代は変わったものである。

 現代人は礼儀を知らない為に、非礼を非礼と思わず、礼儀正しいと思っている者でも、自分の所属するグループが変われば、他には非礼を押し通し、結局この態(ざま)なのである。

 武道は教育的な運用が高いと信じられている。しかし武術界や武道界を広く見回してみると、少数の本格派の礼法を心得る一部の団体を除き、総て駄目で、それは一般人が、希望的観測で見誤った幻想に過ぎない。武術や武道の世界は、未だに世の識者達を納得させるような内容を、現今の武術界や武道界が備えているとは言い難いのである。縄張り争いや、勢力争いも相当なものである。

 礼儀正しいと自負している場合でも、それはグループ内でしか通用しない挨拶やお辞儀であり、単なる恣意的な習慣に過ぎない。また、礼節謙譲を重んじると言う謳い文句を掲げているグループでも、礼そのものが、グループ内の規律や規則と言うもので、個人の自由を縛り付け、単なる主宰者の道具に遣われている事が少なくない。

 また、根本的には、スポーツとしての立場を取る武道と、武を求道(ぐどう)と考え、これを精進させる為の「道」と考えている立場では、自(おの)ずとその価値観も違うようだ。


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