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| トップページ >> はじめに >> 刺客の凶刃に斃れた浅沼稲次郎(二) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
特に『風流夢譚』の中には、天皇一家が処刑される場面が描写され得ており、これが右翼を憤激(ふんげき)させる材料になった。 当時、敗戦直後から中道を逸(いっ)して、赤化の方向に傾き始めた『朝日新聞』は、浅沼刺殺事件後、中央公論の嶋中社長の談話を載せ、『風流夢譚』を掲載した事は誤りであるとし、中央公論編集長を解任する旨を伝え、記者会見で次のコメントを載せた。 また、この中央公論の嶋中社長の談話を受けて、言論界では、大きな動揺が起った。 更に当時、政治漫談で売り出し中の漫才師コロンビアトップ・ライトは、「知人がおかしなメモを手に入れましてね。日教組の小林委員長、社会党の浅沼委員長、ほら、おまえさんたちは七番目にねらわれているというんです。まさかと笑っていたら、その三日後に浅沼事件だ、青ざめちゃったな」(『朝日新聞』昭和36年2月11日付)とコメントを掲載している。 事実、警察の取調に対し、元大日本愛国党党員・山口二矢は次のように自供した。 そして、「浅沼は何故刺されたのか?」となる。 この時、浅沼自身、自分の都合のよい方に解釈し、「日和見主義」で、一方に於いて、不満層(具体的は農組連や炭労やタクシー組合。それを雄弁に物語るのは、炭鉱合理化で、北海道芦別炭鉱のスト支援の浅沼の揮った熱弁は不満層を大いに沸き立たせた)の受け皿として、特に日本の労働者を取り込む形で動いていた観があった。 要するに、組合運動をすると、組合員から集めた組合費から、使途不明金を派生させて、高利貸し以上に、暴利を貪(むさぼ)る事が出来るからである。また、戦前・戦中の政治家や軍人が、国民の血税を湯水の如く使い、その金で、東京赤坂の高級料亭で、タダで芸者を抱くというような、「役分」というものもあろう。つまり、組織というものは、「役分」という甘い汁に群(むら)がる輩(やから)が、必ず居るというものである。 これは今日の革新政治家や、かつての全共闘や労働組合などを、影で誘導し、指導した、ブルジョワ路線をひた走る、進歩的文化人らに見られる、「二股をかける手法」だ。最初から二足の草鞋(わらじ)を履いているのである。 例えば、日教組(日本教職員組合のことで、全国の国公私立の幼稚園から大学までの教職員で組織する労働組合で、1947年結成)の組合員が、現場教師の代表として、日教組幹部や役員となり、衆参両議員の何(いず)れかに立候補して、国会議員になっていく、この構図である。この構図こそ、戦前は聖職と言われた教師が、戦後は労働者の名を語り、国会議員に変身する、あの欺瞞(ぎまん)の構図である。 つまり日教組は、組合の幹部や役員が、組合を私物化し、末端の教師である組合員を利用して、県代表となって県会議員や、国の代表となって国会議員に栄達するまでの踏み台であり、一個人の野望を達成する為の道具に、組合が利用されているに過ぎないのである。ここにどうして、庶民を代表とする民主主義の原理が働いているのであろうか。これでは、底辺の労働者を喰(く)い物にする、まさに資本家の、あの露骨な野望、そのものではないか。 また、連合(全日本民間労働組合連合会の略)も似たようなもので、ここの幹部員や役員は組合員を利用し、個人的な野望達成の為に、組織を踏み台にして、国会議員に打って出る時機(とき)を、ひたすら待つのである。 以上の、こうした組合運動に、社会党右派が関与し、オルグとして、組合活動の組織者として、これを喰い物にする為に活動したとしても、何の不思議もないだろう。 ここで再び、アメリカの労働組合組織を思い出して頂きたい。アメリカでは組織者(オルグ)が年俸で働くと既に述べた。日本では、各政党が労働組合運動に肩入れし、労組から某(なにがし)かの政治資金を受け取っていることは、あまり報じないが、少なくとも、当時の社会党は、浅沼が行動的に全国を飛び回り、炭労などのスト支援に出向いている。これは社会党自らの、無料奉仕であったのだろうか。
●二股をかけた進歩的文化人の思惑
さて、進歩的文化人の論は、「大衆は無知である」と定義する。 大衆の無知は、何処に見られるかと言うと、地球温暖化や環境汚染の目から、環境を、地球を汚す人間が絶対に赦(ゆる)せないと言いながら、実は、自分はヘア−・スプレーなどの噴霧器を、しょっちゅう遣(つか)い、また洗濯廃水や台所洗剤廃水をバンバン流す。これこそ、大衆の「無知の最たるものではないか」と言うのである。 また一方、選挙で金を集め、その金をバラ撒(ま)いて、票を集める自民党や公明党に投票しておきながら、これを「金権選挙だ」と罵(ののし)り、他人の悪を徹底的に批判する。こうした大衆こそ、羞恥心のない人間の集まりで、これを正しく教導しなければならないとするのが、進歩的文化人の大方の意見である。そして彼等は「デモクラシーの厳守」を訴える。 しかし、この言にも矛盾はある。 何故ならば、国民に大多数の意見で、かの政党が選ばれたからだ。 ところが、進歩的文化人は、これを「デモクラシーの冒涜(ぼうとく)」と決めつける。そして問題の所在がボケて、大衆は当惑する。その大衆を当惑させる手段に用いられるのが、一見、労働者や革命家の味方のようなポーズをする進歩的文化人やシンパサイダーの態度である。 今日の進歩的文化人の矛盾したポーズを追うと、昭和35年(1960)10月12日、三党首大演説会の日比谷公会堂での演説中に、社会党の浅沼委員長が何故刺されたのか、明白になって来る。 彼等の言うデモクラシーは、最終票の「一票」に還元される大多数者の原理でなく、知識や真理を把握し、それに基づいて行動する、知的選挙民の総括の元に置かれた時のみ、このデモクラシーは正しく機能するとして、したがって選挙民である大衆を、自分達の知識をもって、自分達が彼等を正しく誘導しなければならないと自負している。彼等の言う「知的人間」の根拠は、ここに由来する。何と、大衆を馬鹿にした、横柄な論理ではあるまいか。 こうした自負が、大衆を更に混乱させる。 戦後の日本には、社会主義性善説や社会主義正義説、あるいはマルクシズム絶対視に凝(こ)り固まった大学教授(立命館はその巣窟であった)や文化人が多く居た。彼等はソ連を尊敬して止まなかった。 例えば『前衛』に、これを見ることができ、また『朝日ジャーナル』などにも、これを見ることができる。事実『前衛』は、1958年初頭まで、戦後から十年間、一貫して「ソ同盟」を敬称している。また『朝日ジャーナル』も、似たような表現で、マルクシズムを絶賛し、現場のマルクシストとは一線を画(かく)しつつも、良心的なポーズを取り、学生を、労働者を、貧農を、末端分子を、暴力革命へと煽(あお)り立てた。 そして、社会主義国家とソ連礼賛に明け暮れ、特に『朝日ジャーナル』は、70年安保闘争(1970年にも条約の延長をめぐって反対運動が行われた)の時、学生や労働者に社会主義性善説や社会主義正義説を大いにアピールした。 そして今、あの当時の『朝日ジャーナル』の編集長は、今どうしているか。あるいは、これに追随した当時の進歩的文化人の暮らしぶりはどうか。 では、かくも進歩的文化人が、何故デモクラシーに入れ揚げるのか。 例えば、これは芸能界と陸続きになっている、スポーツの世界を見れば一目瞭然(りょうぜん)であろう。つまり、デモクラシーは、野球のうまい奴、ゴルフのうまい奴、サッカーのうまい奴、相撲の強い奴がプロ選手になり、また柔道の強い奴や、その他のスポーツ競技で話題性のある選手や、オリンピック入賞選手を、「芸能人並み」に扱って、大スタートして崇(あが)める事である。 崇める対象は、あくまで人間である。スタートして祭り上げられた有名人を崇めるのであって、神の崇めるのではない。これ則(すなわ)ち、アメリカの持ち込んだデモクラシー。 人間の作り出した、スポーツ競技や格闘技競技において、また芸術や芸能において、音楽や娯楽において、その頂点の座に着く人間を作り出し、ひと握りのエリートを英雄として崇(あが)める、こうした原理が働く世の中を、「デモクラシー」という。スターが誕生し、大衆の頭上に輝くことだ。 その点においては、碁や将棋のプロ棋士も同様であり、その証拠として、NHKの教育テレビやBS2では、毎日ように、組織の底辺の裾野(すその)を広げる為に、名勝負が企てられ、解説が行われている。つまり、背後のは政治的な駆け引きと圧力が掛かっているのである。 いわゆる、娯楽としてのプロスポーツ競技や、碁や将棋の名勝負は、どうすれば決勝戦を華々しく競い、ファンを喜ばし、満喫させる、ここには芸能に通じるものが横たわっている。 また、顔のいい奴、スタイルのいい奴、あるいは容姿端麗(ようしたんれい)で、その他の庶民とは、ケタ違いに群の抜いて演技のうまい奴を舞台俳優か、映画スターに押し上げ、あるいは歌のうまい奴を、かつての戦前・戦中の国家神道的神主主義に成り変わって、スターに祭り上げて、「国民の英雄」として崇め、彼等人間を拝む事を言うのである 民主主義の本場であるアメリカでは、映画スターが大統領になったり、州知事になったりする現実は、要するにデモクラシーが、芸能界と地続きになりうるシステムが出来上がった政治体制が、その背後で働いているということだ。それは俳優出身の大スターが、政治能力があるかないか、それは二の次である。 要するに、被選挙人は政治的経済的な能力の関係なしに「お飾り的な存在」なのである。大衆に名の知れた、有名人であればよいのである。有名人の学力的かつ知力的な能力の不足分は、その下に控えている官僚が行うからだ。ここにデモクラシーと官僚の結びつく要素がある。俳優出身の大スターは無能でも、官僚の作った作文を議会で朗読すれば、それでよいのである。 しかし、大衆は有名人の名前だけに眼を奪われている為、学力不足、知力不足の芸能人でも、議員候補の一人として投票してしまうのである。 この流行を日本に持ち込んだのが、アメリカのハリウッド映画であった。差し詰め、ロンドン生れのユダヤ系アメリカ人・チャップリンなどは、人間が神格化される、最初の人間であったであろう。何故なら彼は、映画『独裁者』で、ヒトラーを、彼の演技の持てる総(すべ)てを駆使して侮蔑(ぶべつ)し、徹底的にこき下ろしたからだ。
大衆娯楽の殿堂、ハリウッドでは、ある意図をもった試みがなされ、大衆を誘導する。大衆は無自覚のまま誘導される。その誘導には一つの流脈によって、人工的に画策する企てが隠されている。しかし、日本人はこの事実に気付かない。 アメリカ映画を見ると、必ず黒人の俳優が大活躍する場面が登場する。この傾向は、ハリウッド映画に非常に多く、時には、黒人が白人の優位に立って、物語を展開するストーリーが組み立てられている。日本人はこれを見て、アメリカは自由で平等な国だと思う。しかし、これは見せかけである。 そして、ハリウッド映画では、世界的にユダヤ化を押し進める、ユダヤ系アメリカ人の映画監督のスティーヴン・スピルバーグと続く。彼の映画作品の多くは、「インディー・ジョーンズの冒険」などからも分かるように、ストーリーの中にナチス・ドイツを登場させ、それを徹底的に叩く場面が登場するからだ。 また、一見反戦映画に思える、アンネ・フランク(Anne
Frank/1929〜1945)をモデルにした『アンネの日記』である。この映画は、ナチスの迫害を逃れて、家族と共にオランダ・アムステルダムに隠れ住んだ1942年から、二年間の生活記録を題材にした『アンネの日記』である。 若い親達は、こうした裏側のカラクリを知らないで、我が子に、この種の児童書を買い与えている。しかし、購入し、読み与えるならば、裏側の解釈を知った上で、その「種明かし」も、同時に聞かせるべきで、現代のアメリカの政治の裏では、キリスト教とユダヤ教の宗教戦争が起っている事も、合わせ以て、教えなければならない。 デモクラシーとは、神が、神の座から転落し、それに代って、人間が神として崇(あが)められる政治システムなのだ。今日の日本人の意識の中に、「一億総芸能人」の感覚は、デモクラシーの持つ「エゴイズムの社会性」に由来している。そして、これこそ、進歩的文化人が指摘した、「一億総中流的な、エゴイズムの社会化の見落し」ではなかったか。 人間は本来、利己的な生き物である。幾ら主義主張を力説しても、詰まる所は「金」である。そして「金」以上の、人間を幸福にするものは、未(いま)だに見つからないと心の中では思っている。多くの現代人は、金以外に自分の信ずる信念を貫く、意志力は存在しない。これは思想の左右に関係ないようだ。 この、誰にでも見抜ける図式で、昭和35年(1960)10月12日の刺される、一秒前の浅沼を見た時、「何故刺されたか」という命題が、明確になるではないか。 刺される前の浅沼は、「アメリカ帝国主義は日中の共通の敵」と断言していた。これは昭和30年3月の中国訪問の際に、中国訪問使節団団長として訪中し、毛沢東と会見して、革命の情熱を露(あらわ)にした時からだった。 世界情勢は、日本叩きの方向に動いている。特に東南アジアでは、日本叩きが克明になり、朝鮮半島では、反日感情が激化している。今日でも朝鮮半島では、日本を未(いま)だに、「日帝」と呼び、日本国天皇を「日王」という呼び方する実情は、これを雄弁に物語っている。この反日感情は南北両国にもある。 特に韓国の場合、この国の文化人達は、大統領自らが先頭になって、大学教授などの文化人も巻き込んで、天皇を侮辱する発言が多く目につく言動を発している。そして、韓国の国民を大衆誘導するのは、まさに日本の進歩的文化人の如し……である。それは、大衆が、まるでヌーの群れのように誘導され、煽動される媒体であるからだ。
さて、浅沼が社会党で辣腕(らつわん)を奮って居た時の、60年安保闘争から十年前、朝鮮半島では朝鮮戦争が勃発した。1950年6月25日のことであった。 ソ連、中国、朝鮮半島、台湾、フィリピン、インドネシアなど総(すべ)ての国が、共産化していく中で、日本だけが孤塁(こるい)を守る事が出来たか否か、非常に疑問である。 当時のアメリカの選択肢は、東アジアに於いて、安易な共産化は認めないことを、選択したことだった。その為の朝鮮戦争の参戦であった。 しかし当時、「朝鮮戦争」と「日米安保」が、ワンセットという世界観を持つ政治家は、日本には、そうざらには居なかった。 浅沼は、当時の国際情勢と日本の戦後史を正しく正視していなかった。この意味で、浅沼を「人間機関車」とか、「大衆と共に歩いた政治家」と持て囃(はや)し、その後の文化人や有識者が褒(ほ)めちぎっても、この事実を抜きにして、浅沼を軽々しく、「大衆と共に歩いた英雄」とするには、あまりにも片手落ちであろう。
●浅沼稲次郎の生い立ち
浅沼は明治31年、東京三宅島のある小さな村落で生まれた。父の名は半次郎と言い、神着村の村長をしていた。この半次郎と、愛妾・浅岡よしとの間に生まれたのが、稲次郎だった。 稲次郎は演説が好きだった。三中に入学した時の秋、彼は学校の雄弁大会に出演した。その時の模様を『私の履歴書』の中に、「みんなに煽(おだ)てられて出たが、すっかり上がってしまって、やたら甲高(かんだか)い声で喋り、わが生涯初の演説は、散々なものであった」と綴(つづ)っているが、本心は満更(まんざら)でもなく、これが弁論への第一歩であった。 大正五年、同校を卒業して早稲田予科を受験しようとするが、父親に反対され、陸軍士官学校を二回、海軍兵学校を一回、受験するが何(いず)れも失敗した。 早稲田では、まず、相撲部とボート部に入部し、更には同校の雄弁会に入った。そして、そこで頭角を顕わしたのは、相撲やボートではなく、雄弁会での弁論であり、彼が政治に興味を抱いたのも、この頃であった。 早稲田の「雄弁会」は、東大の「新人会」が発足したのに対抗したものだった。そして、早稲田では、高橋清吾(たかはし‐せいご)、北沢新次郎(きたざわ‐しんじろう)、大山郁夫(おおやま‐いくお)らの教授陣を中心に据え、「民人同盟」を結成した。 「民人同盟」に参加した学生は、浅沼稲次郎の他に、三宅正一(みやけ‐かずまさ)、稲村隆一(いまむら‐りゅういち)、田所輝明(たどころ‐てるあき)らであった。しかし、「民人同盟」はやがて分裂の憂き目に遭(あ)い、浅沼は、次に北沢新次郎教授を中心とした「建設者同盟」を結成し、新たな政治運動を展開した。 そして浅沼の行動的性格は、大正11年、日本共産党に入党した。しかし、共産党の社会科学を論拠にした論理的な体質に嫌気が差し、脱党して、自らの行動的エネルギーを農民運動へと向けはじめる。 その先頭に立って、大ストライキを指導した浅沼であったが、この争議には、多くの犠牲者が出た。そして検挙され、懲役五ヵ月の実刑を於けた。この事件で、浅沼を弁護したのが、片山哲(かたやま‐てつ)、麻生久(あそう‐ひさし)、三輪寿壮(みわ‐じゅそう)らであった。 大正14年(1925)、普通選挙が成立し、ようやく男子のみ、それが実現をみた。 無産政党は分裂と結合を繰り返し、浅沼はその中で日本労農党に止まり、その後、日本労農党は、日本大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党と変化して行く。その中で、浅沼は日労系の主流を歩いた。 戦後における浅沼の活動は、無産政党系の諸派が連合して結成した社会民主主義政党での、接着剤的な存在だった。昭和22年(1947)5月、初代委員長・片山哲を首班として、連立内閣により、一時政局を担当した。しかし、僅か八ヵ月にして、同じ与党の予算委員長をしていた鈴木茂三郎(すずき‐もさぶろう)の造反(ぞうはん)にあい、連立政権は敢えなく潰(つい)える。 その後、左派と右派の対立は激しく、日本社会党は、左右の対立に於いて、異なった二つの政策がある為、「二本社会党」と蔑称で揶揄(やゆ)されるようになった。そして、左派と右派の接着剤として、対立する度に駆り出されたのが浅沼であった。 日本の敗戦により、戦前から戦時中にかけて獄舎に囚われていた、共産党指導者や無産主義者らは、次々に解放された。特に、日本共産党の創立に参画した徳田球一(とくだ‐きゅういち)らは得意満面の笑顔で裟婆の世界に復帰した。彼等は、日本の敗戦を手放しに喜んだ。 一方、その他の革新陣営でも、日本の敗戦を利用して貪欲な動きを見せ始め、河上丈太郎(かわかみ‐じょうたろう)、松本治一郎(まつもと‐じいちろう)、西尾末広(にしお‐すえひろ)、平野力三(ひらの‐りきぞう)、水谷長三郎(みずたに‐ちょうざぶろう)、河野密(こうの‐みつ)らが、日本社会党結成の準備を始めていた。 また、こうした西尾、水谷、平野といった旧社会民衆党系と、鈴木茂三郎(すずき‐もさぶろう)、加藤堪十(かとう‐かんじゅう)、黒田寿男(くろだ‐ひさお)といった旧労農系の連中がおり、彼等は旧社会民衆党系の出身者と、常に論争を繰り返し、意見が合わなかった。 そうした中で、浅沼は黙々と沈黙を保ち、組織を充実させ、体裁を形作る事務方として党造りに邁進(まいしん)した。 また、「闘う社会党」を標榜(ひょうぼう)し、日本を東西に駆け巡り、やがて「人間機関車」の異名を取るようになった。行動派の浅沼は、昭和35年6月の安保改定に反対する社会党議員団の街頭デモでも先頭を切って行進した。 浅沼は日本社会党右派の領袖(りょうしゅう)として活躍し、昭和35年3月24日、党大会に於いて、鈴木派の絶大な支持を得て、西尾末広の後を受け、遂に委員長に就任した。
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