インデックスへ  
はじめに 大東流とは? 技法体系 入門方法 書籍案内
 トップページ >> 技法体系 >> 二刀剣 >> 合気二刀剣戦闘理論(二) >>
 
大東流の基本となる日本刀の操法

■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)

●歴史に刻まれた教訓に学ぶ

 太平洋戦争には、多くの教訓が残されている。
 しかし「おぞましい過去の出来事」と一蹴すれば、この教訓は生かされず、再び歴史の繰り返しの渦に巻き込まれる事は必定である。歴史は、再び回帰する法則を持っているからだ。

 「戦争は、もうこりごりだ。二度とこうしたものは避けなければならない。戦争体験者は次世代にこの悲惨さを伝えねばならぬ……」という使命感を持ち、反戦運動に情熱を燃やす人が居る。一方で、この情熱は、何らかの使命感を帯びているかのような錯覚を抱く。
 しかしこの言辞は、戦争の根本を洞察するものではない。彼等の言辞のそれは、憎悪に満ちた「感情」そのものであるからだ。

 戦争は悪い、太平洋戦争は誤りだった、アメリカの無尽蔵な工業生産力を考えれば無謀な戦いだった、それ故に軍国主義に反対する等と豪語する感情が、いつの間にか「絶対的正義」のように取り扱われている現実を見る。
 またマスコミも一緒になって、こうした彼等の感情論に肩を持つ。しかし戦争は一方的に勃発するものではない。相手国あっての事だ。戦いに、一人相撲は存在しないのである。

 しかし反戦情熱家のそれは、必然的に、あるいは軍国主義者が一方的に戦争指導を行い、戦いの渦の中に引き込んだような錯覚を抱かせる
 そしてこれは、政治的な駆け引きに使われ、左翼政党や左翼反戦団体の政治スローガンとなって、如何にも正義であるかのような錯覚を抱かせ、善玉論と悪玉論を展開させて、悪玉の血祭りにあげたそれを絶対的無謀論と断定して、これに拍車を掛け、長い間、こうしたイデオロギーが王座の座に君臨し続けた。

 それは恰度、既に崩壊した、かつてのソビエトが、資本主義と民主主義を結合させて社会システムに採用している並の一般国家より、一等も、二等もランクが上で、優れた国家だと礼賛したあの愚行に酷似する。そして「反戦」という頑迷な絶叫が、左翼陣営の強力な感情論になって展開された。
 つまり何も原因を考えないで、「戦争はもう懲り懲りだ」という思考である。

 しかし、良く考えて見れば分かる事であるが、このような感情論を以て、次世代に歪められた歴史の局面を豪語するのは、極めて危険であり、また傲慢である。
 そしてこの事が次世代の思考感覚を愚弄(ぐろう)し、彼等の判断を感情に任せて、誤らせるという危険な要因を孕む結果を招いた。
 その事が、次世代の歴史を検証する判断力や洞察力を奪い、次世代が自らの感情の発露として、正しい目標を見失わせる、悪しき体験主義に陥らせる危険性を齎したことであった。

 今日、国民の多くは結果に照らし合わせて、そこに至った原因究明の冷静な探知の目を失っている。
 戦闘理論を考える武略観は、感情で語るのではなく、理性や知性を拠り所にして戦争体験を語り、それを冷静に瞶(みつ)め、その中から必須要因や敗因を洞察すべきで、感情を全面に打ち出し、ヒステリックにシュプレヒコールを上げる事ではない。

 戦闘と言えば眉をしかめ、軍事と言えば貌を背け、戦争は悪の権化、おぞましいものの最たるものと評する人達を一概に否定はしない。
 しかし何故、戦争が起こるのか。どうして戦いが始まるのか、というメカニズムと、その過程に至るまでのプロセスについては、それが例え誤りであっても、感情論を振り回し、ヒステリーに糾弾しても、決して解決できる事ではない。人類は地球上から戦争を無くしたり、争いを無くしたりする程、完全無欠には完成されておらず、話し合いでこれを片付けるほど、まだ十分に進化していないのである。

 二十一世紀に至っても、国際紛争は後を絶たず、世界の至る所で戦争の火種は燻っている。防衛問題一つ上げて見ても、過去の昏(くら)い体験論や、それの混合されたイデオロギー的観念論が、一人歩きして、今なお、巷を徘徊中である。
 率直に言えば、歴史的な教訓を伝えようとする場合、悪乗りで、便乗気味の反戦主義者の言よりも、実際に戦争の現場に従軍し、それを戦い、その結果、人命の尊さや平和の有難さ、あるいは戦闘を通じて悲惨さを痛切した人の言の方が、数倍も重みを持っている事は明らかだ。

 そして戦争観を通じて分かってくる事は、例えば太平洋戦争を指導した軍人を分析していくと、結局、当時の戦争指導者並びに職業軍人の多くは、「人間を知らない。政治を知らない。外交を知らない。歴史を知らない。そして軍人でありながら、戦争そのものを知らない」という由々しき事態に突き当たるのだ。
 これは今日の、肉体を信奉し、好戦的に物事に挑む、格闘技愛好者や競技スポーツ愛好者に酷似し、同程度の近視眼的視野と類似するのである。

●感情論では自滅する

 感情論に傾けば、挑発に乗って同程度の戦力で戦い、奮戦しても、やがては裡側から崩壊するものである。
 戦いに、怨念や遺恨は禁物である。それは冷静さと洞察力を失うからだ。

 戦闘における近代史の中で、毛沢東の「一をもって十にあたり、十をもって一にあたる」の戦法は、孫子の兵法に基づくものであるが、これは力学的合理主義から考えても、理に叶った結論である。

 孫子の兵法を借りれば、「戦争の法則は、我が軍が敵の十倍であれば敵を包囲し、五倍であれば攻撃し、二倍であれば我が軍は二分して敵と戦い、互角であれば全軍で戦い、我が軍の兵力が敵軍より少なければ退却し、我が軍の兵力が敵に及ばなければ戦いを避けるべきである。したがって小勢力にあるにもかかわらず、頑強に戦うならば、多数の敵の捕虜になる」と《謀攻篇第三》にはある。
 これは力学的合理主義の孫子の兵法を示したものである。

 これを手本として、日本軍と国民党軍の優勢な兵力と戦った毛沢東は、「『勝れていれば戦い、勝てなければ去る』これは、今日の我々の運動戦に対する通俗的な解釈である。この世に、攻撃だけを認めて、移動や退却を認めぬような軍事家はいないはずである」(『中国革命戦争の戦略問題』より)と言って、彼も又、孫子の熱心な信奉者であった。

 この兵法上の思想は、スポーツ格闘技やスポーツの試合と相反する考え方を持っている。
 毛沢東は、実戦が如何に厳しいか、熟知していたのである。挑まれても、感情論で応戦せず、「勝てなければ」あっさりと移動し、退却して、次の機会を狙うという集積を、こまめに繰り返して行ったのである。
 この差が、中国大陸から日本軍を締め出し、蒋介石の国民党軍を台湾へ追い出したのである。

 兵法を知る者は、勝てない相手とは戦わないものであり、神出鬼没に姿を顕わす一方、逃げる場合も、逃げに逃げたのである。こうした逃げの戦法で、決して感情論に趨らず、その兵法の奥儀を極めた者が宮本武蔵であった。

●日本は「武士道」の国というが……

 多くの日本人は、今日でも、日本人気質の中には「武士道精神が宿っている……」等と、心の底から信じている者が少なくない。
 では、「武士道とは何か?!」と、問われた場合、これを明確に説明できる者は決して多くない。否、殆ど皆無かも知れない。
 それは西洋の騎士道に対峙して、レディー・ファーストあるいはエチケットや、礼儀の類ではないかと、それらと同様に考えられている節が強いからだ。

 「武士道とは何か?」と問われた場合、では、いつの「時代の武士道」を言っているのか、と言う、その時代的な設問がある事を読者諸氏は、ご存じだろうか。
 武士の起こりは平安時代後期と言われる。

 敬虔なクリスチャンで、フリーメーソンの高級メンバーでもあった、日本とアメリカの架け橋の渡し役であったとされる、新渡戸稲造(思想家で教育家。南部藩士の子として生まれ、札幌農学校卒業後、アメリカ・ドイツに留学。京大教授や一高校長などを歴任したのち、国際平和を主張し、国際連盟事務局次長や太平洋問題調査会理事長として活躍した。英文で書かれたその著書『武士道』は有名。1862〜1933)はその著書『武士道』で、第一章に「道徳体系としての武士道」を挙げている。

 これによると、 「武士道(chivalry/騎士道と同義語で使われている)はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史のセキヨウ集中に保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態を取らないけれども、それにかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている」(岩波文庫より)と述べている。

 そしてここに述べられている中心課題は、日本の土壌の固有の華として、「桜花」を挙げ、これこそが力の美を備えた「生の対象」であり、この根底には道徳的雰囲気の薫が放たれて居ると言うのである。

 これを象徴するものが、安倍貞任と源頼義・義家とで行われた衣川の合戦(前九年合戦)であり、十一世紀後半、衣川の堤で行われた戦闘の際の歌合戦を例に取っている。
 平安中期の豪族で頼時の子であった貞任は、東国の軍の将として、指揮を取っていたが、義家軍に攻め込まれ、敗走した。
 義家は逃げる貞任に向かって、「きたなくも、うしろを見するものかな。しばし引きかへせ。物いはん」と大声を飛ばした。
 それを聞いた貞任は馬首を返すと、勝者・義家は、

 「衣のたてはほころびにけり」

 と即興に歌を詠んだ。
 これに貞任応えて、

 「年をへし糸のみだれのくるしさに」

 と返したのであった。 
 この時、弓を引き絞っていた義家は、突如その手を緩め、馬を返して討ち取るはずの敵将を逃がしたという逸話がある。
 この義家の奇妙な振る舞いに、部下たちは詰問し、「何故逃がしたのか」という事に応えて、「敵にあのように激しく攻められながら、心の平静さを保持している武将を捕えて、屈辱を与え、馘を討つのは余りにも忍びなかった」と答えたのである。

 武士道を全うした武将は、激戦の最前線においても沈着冷静である。崩壊寸前の悲惨な事態にあっても、心の平静さは失わぬものである。砲弾が飛び交い、地響きがして、天地がひっくり返るような惨然とした状態にあっても、慌てる事なく、平然としているのが武将の大将たる所以であるという。
 したがって迫り来る危機の中でも、詩歌を作ったり、死に直面しても、詩を吟ずる人間こそ、立派な人間であり、尊敬に値するというのである。

 また勇気の気質は、体力猛々しいだけではなく、文字遣いや、音声にも何の乱れも見せず、そして余裕を保っている人間こそ、その度量の大きな証拠であるという。
 したがって合戦は、単に荒々しい戦闘だけではなく、一方において、知的な戦いでもあるというのだ。
 更に、こうした勇気の側面には、平静を保った「落ち着き」が必要だというのである。

 だが実際に、時代が下がる程、落ち着きを得た武将など、時代と共に消えうせ、江戸時代末期に至っては、武士階級の中からは、かつてのこうした「武士道」を育み、尊敬し、それを育てたと信じる社会的条件は、その殆どが消え失せていた。

●山本常朝の武士道観

 一般に武士とは、武士道の実践者として、刀を差し、武芸・武技を習い、軍事に携わる者を「武士?」と思っているようだが、これは誤りである。
 広い意味で、一般にはこうした類を指すが、武士を武技を職能として生活する職能民と捉える立場からは、平安後期に登場し、江戸時代まで存続した社会層を、一般的には武士階級と言う。
 しかし武士というだけで、武士道の実践者であるとは限らない

 更には「さむらい」「もののふ」「武者」「武人」「武将」という言葉がある。
 これは『続日本紀』の「文人武士は国家の重んずる所」とあり、また『平家物語』には「武士ども散々に射奉る……」等の一節があり、これらは広い意味で武士を表現したものである。

 そして、武士の儒教的な思想に基づき、おのが行動を思想と一貫させて大成し、鎌倉時代から江戸時代にかけてこれが普及・浸透し、わが国の武士階層に受け入れられた倫理や道徳が「武士道」である。
 したがって時代的には非常に新しく、周知が先入観で思い込んでいるほど、古いものではない。

 この武士道は、鎌倉時代後期頃から発達し、江戸時代中期頃に、儒教思想に裏づけられて大成する。封建支配体制の観念的な支柱をなし、その背景には忠誠・犠牲・信義・廉恥・礼儀・潔白・質素・倹約・尚武・名誉・情愛などを重んずる思想が含まれていた。

 山本常朝(つねとも)の口述書『葉隠』の冒頭には「武士道と云ふは死ぬ事と見付たり……」で始まり、これは衆目の知るところである。
 では、なぜ常朝は武家社会に対して、更めて「武士道の何たるか」を説かなければならなかったか?
 これは日本人に元々、武士道の何たるか、が欠けていたからである。

 したがって常朝の『葉隠』は、江戸時代の、お上(主君)から扶持米(俸禄あるいは報酬)だけを貰う腰抜け武士に「喝」を与えたと言えるものであろう。
 常朝が声を大にして言いたかった事は、「武士道」は、どんなに頭脳明晰あるいは能力的に有能な人間であろうとも、それは個の頭脳から発生したものではない、という事であろう。

 また、如何に優秀な人間であろうとも、それはその人が、その生涯を通じて、その経験に基づき、それが武士道を構築したものでもない。これは、むしろ数百年単位の集積が、武士をして、その生き態に生き方を授け、その生き方こそが、武士階級における有機的な産物であると力説している事である。
 そしてこれは、気宇壮大な倫理観とも密接に繋がっているのである。

●アーサー王物語が母体になった騎士道

 また西洋には、日本の武士道に対峙するかのように、騎士道(chivalry)があり、中世ヨーロッパで、騎士身分の台頭によって起った騎士特有の気風が生まれた。
 そしてこの母体になっているものが、『アーサー王物語』(Arthurian romances/六世紀のウェールズの武将で、後のブリタニア王アーサー/Arthur)である。

 アーサー王物語は、実際には実在したか、否かは不詳であるが、武将アーサーと円卓の騎士達とを主人公にした武勇と恋愛の物語である。
 古くは九世紀初めの文献にその名が見え、十二世紀以降、フランス・イギリス・ドイツの三国を中心に、ヨーロッパ全土に伝播した。中世後期には、トリスタン伝説や聖杯伝説も混入して、韻文・散文の物語が成立し、イギリスでは十九世紀の文学や絵画に復活して、一般には「円卓の騎士」あるいは「騎士道物語」として知られている。

 騎士道はキリスト教の影響をも受けながら発達し、忠誠・勇気・敬神・礼節・名誉・寛容・女性への奉仕(ladies first/女性を尊重して優先させる欧米風の習慣)等の「徳」を理想とした思想である。
 しかし日本の武士道と、ヨーロッパの騎士道には決定的な一線において、違いがある。

 それは儒教とキリスト教という宗教的な違いでなく、日本のそれは、全体の奉仕であるのに対し、ヨーロッパのそれは、騎士や貴族階級の為の奉仕であり、これを現代風のアメリカの民主主義流に置き換えるならば、レディー・ファーストと相互して、「金持の、金持ちによる、金持の為の奉仕」であり、何人も分け隔てなくという思想は、その根底にはない。そこに存在するものは、階級社会のそれである。

 そして日本の武士道は、「忠君」であるが、日本のそれも、江戸時代に確立されたと称するが、この思想の確立と、その思想を背景とした「実践」という行動力から見てみると、「考え方」と「行い」に大きな差が生じている事が分かる。
 これは太平洋戦争当時の、日本の旧陸海軍軍人に、これを置き換えれば一目瞭然となる。

 太平洋戦争当時、「武士道を実践した」軍人など、殆ど皆無だった。軍人はかつての武人の生き態をわが胸中に抱いて奔走したが、それは果敢ない幻想であった。
 自らに降り掛かる危険も顧みず、勇猛果敢な軍人がいる一方、他方においては、高級軍人の大半は、前線より遥か後方に布陣し、ここに司令部を置いて、武士道の欠片など一ト欠片もなく、階級が佐官→将官と、上に行く程、それは甚だしかった。日本の敗戦における戦争指導責任は、実はここに回帰される。
 しいて勇猛な将軍の名を上げれば、大戦末期、硫黄島を死守し、連合軍を震憾させた、小笠原兵団の兵団長・栗林忠通(ただみち)中将くらいなものであろう。

 また逆に、卑怯窮まりない、敵前逃亡同前の敗走をしたフィリピン第四航空軍司令官・冨永恭次中将は、マニラ守死を強行に主張しながらも、自らは台湾に逃げ還って、温泉に浸かり保養したり、戦後は政府から貰う年金や、高額な軍人恩給で安穏とした余生を送った。
 こうした意味では、海軍の福留繁中将も同罪であろう。

 海軍に、乙作戦計画書漏洩事件というのがあった。
 これは連合艦隊司令部が、パラオからフィリピンに逃げ出した事に端を発する。連合艦隊司令部の高級将校を乗せた一式大型飛行艇が、悪天候のためミンダナオ島近くの不時着水した。その後、連合艦隊の参謀長であった福留中将と、その側近が、アメリカ将校の指揮するフィリピンゲリラに柔躙され、捕虜になって、重要な作戦計画書を奪われその為に、日本海軍の以後の諸作戦は、悉々くアメリカ側の知るところになったという事件である。

 この事件の張本人である、福留中将はおめおめと敵の捕虜になりながらも、自決もしなければ、軍法会議にかけられる事もなかった。それどころか、第二航空艦隊司令官に栄転したという、まさに唖然とするような待遇を受けた。
 これが帝国海軍の実態であったのだ。
 ちなみに福留は終戦時、第十方面艦隊司令官として、シンガポールで無事に終戦を迎えている。そして戦後は多額の軍人恩給と年金を貰いつつ、優雅に余生を楽しんだと言われる。

 以上の二つの事件の首謀者の実態は、こうした高級軍人に、武士道の一ト欠片もなかった事を雄弁に物語った事件であり、国民としては絶対に見逃せない太平洋戦争の真実であった。
 そして反戦論者の中で、太平洋戦争並びに、日中戦争に対する戦争責任の追求の声はあるが(特に昭和天皇に対して)、「戦争に負けた事の戦争指導者の責任」は、まだ一度も追求されていないのである。

 また、日本を焦土と化し、その上、作戦の失敗や、前線を放棄して敵前逃亡を図った将軍や提督達は多く居たが、こうした高級軍人に対し、戦後、国会で糾弾したり、あるいは国民裁判などが開かれて、彼等を裁判にかける等の行動は、ついに行われる事がなかった。
 当時の高級軍人ほど、天皇をダシに使い、天皇の統帥権を利用して、天皇の名において、国民の多くを戦地に向かわせ、戦後は天皇の名において、「日本復興」という、歯の浮くような名目で、恥知らずにも、おめおめと生き残り、最近まで厚生省からの高額年金と軍人恩給の禄にありついていたというのが実情である。

 彼等は、天皇の軍総司令部である「大本営」(戦時または事変の際に設置された、天皇に直属する国防の最高の統帥機関。1893年(明治26)に制定され第二次大戦敗戦後廃止)を牛耳った首謀者であり、天皇に最大限の巨大な権力を名目上与えながらも、その実、何もさせないという大きな矛盾を、天皇に押し付けていた。
 そしてこの事が、国家的な意思と、国家的な戦略は何も構築されないまま、日本は中国侵略の泥沼にどっぷりと首まで浸かり、この足枷が、やがては太平洋戦争へと向かわせた事は歴史の示すところである。
 そして愚かな戦争指導者は、日本を焦土と化す方向に向かわせるのである。また、勝てる戦争を敗走させる要因を作った。

 果たして戦場において、高級軍人は勇敢であったか?否、彼等は何処にも武士道の欠片一つ見い出す事は出来なかった。
 実は、彼等は戦場においては、激戦地より後方の安全地帯に居て、最前線の将兵に死守を力説し、特攻隊を力説して憚からなかった、無能な職業軍人であった!

 大本営を牛耳った戦争指導者達は、武士道不在と国家的戦略構想を持たないまま、幾多の人命を失なわしめ、天皇をロボット化した夜郎自大の輩(やから)であった
 そしてこの基盤は、既に江戸時代に「武士道擬き」が確立されていて、それを、見掛け上、後世の高級軍人達が猿真似したに過ぎなかったのである。

●非武装思想と徳川封建時代

 鎌倉時代に端を発した武士道は、江戸中期に至っては、既に崩壊していた。
 その理由が、非武装国家を徹底させた「江戸時代」という特異な時代で、徳川封建時代こそ、日本列島は非武装で覆われた時代ではなかったか。
 この時代の歴史を洞察すれば、徳川二五十年間という歴史は、まさに「非武装・反戦の時代」であった。

 徳川時代、日本には事実上の軍隊は存在していない。
 単に、士・農・工・商の頂点に立つ「武士」という身分と、階級が存在し、それは職業であった。そして幕府はおろか、各藩の武士も、軍人というより、行政官吏でしかなかった。
 常に武士階級は、行政官吏の域に止まり、その武力と行動は、せいぜい治安警察行為(江戸・南町奉行、北町奉行の枠内の司法機関ならびにその他の警備)の範囲内であった。

 徳川家康が天下を取った十七世紀前半には、「大坂夏の陣」や「島原の乱」が発生したが、これを鎮圧する為に、軍隊的な武力行動は一度も取られた事はなく、「立て籠りの叛乱集団」に対して、今日で言う、機動隊が立て籠りの赤軍過激派集団を封じ込める「浅間山荘事件」(日本連合赤軍が人質を取って山荘に立て籠り、警官隊と銃撃戦が繰り広げられた事件)ごときのものであった。これらは軍事行動と言うより、一種の行政・司法官吏集団が、凶悪犯を取り囲み、それを鎮圧するという規模のものであった。そしてそれ以降、徳川封建時代を通じて、軍事行動と称される事件は、一度も起こっていない。


戻る << 合気二刀剣戦闘理論(二) >> 次へ
 
Technique
   
    
トップ リンク お問い合わせ