■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)
●武士と軍人の違い
徳川時代の武士は一種の職業であり、行政官吏であることは以上述べた通りである。そして武士階級は軍隊組織のそれでないことも、既に述べた通りである。
さて、一つの集団が軍隊組織として認められる為には、最低でも、二つの条件を満たしていなければならない。
その条件の第一は、武装が重装備であること。そして第二の条件は自己完結性を有していることである。
重装備とは、二本差しの日本刀以外に、小銃を各員が所有し、組織には山砲等の大砲や、破壊工作の為の爆薬やその他の火器を携帯・所有して戦闘できる状態にあることである。
したがって刀や槍、薙刀と言った類は、武器というより、鉄砲が既に存在していたのであるから、実質上は美術装飾品であり、軍隊の所有する、敵を殺傷する武器のそれではない。
徳川時代の、日本刀に勝る有力な武器は、その長さから考えて、槍や薙刀や長巻といった類だが、長距離からの攻撃道具としては、到底、鉄砲にはかなわなかった。
しかしこの鉄砲すら、徳川幕府を始めとして、親藩や外様雄藩を含めて、これを足軽以上の武士に、一人一挺という質的な配備は勿論のこと、量的にも儘ならず、こうした火器を取り上げると、著しく低下していて、軍隊水準のそれとは言い難く、また、性能や質的にも退化の一途にあった。
関ヶ原の戦いには、六万挺の鉄砲が使用されたという。しかし江戸中期の元禄の頃になると、その数は一挙に三割程度に減ってしまい、その間、鉄砲の質的向上や性能は、十六世紀の乱世のレベル程度であった。
こうした情況が幕末まで続き、大砲にしても、十六世紀のレベルの旧式品で、既に西洋では一般化していた、アームストロング砲(William George Armstrong/イギリスの工業家が発明した大砲。アームストロングは、大砲の他に、回転式水力発動機や各種の水圧機などを発明。1810〜1900年)には、到底太刀打ちできなかった。
また、黒船の砲艦外交の際には、日本の旧式大砲では、全く飛距離が出ず、骨董品同様の代物であった。
更に、軍隊組織としての訓練を、この時代二百五十年以上も怠り、鉄砲隊における操作訓練や、集団的組織を司る戦闘訓練は皆無であり、最早、軍隊とは言い難いような、著しく退化した、レベルの低いものを担当していたのが武士階級であった。
こうした事から考えても、徳川封建時代というのは、非武装思想が徹底された時代であり、反戦一色に埋まり、上から下まで、治安と秩序の整備された時代であったという事が分かる。そしてこの時代に、軍隊は存在しなかった、と言えるであろう。
そして「軍隊」を定義した場合、決定的な条件は「自己完結性」を所有しているか、否かにある。
自己完結性とは、一切の事を自前で出来、集団内部にあらゆる機能を内包している組織を言うのであり、これはかつての旧陸海軍と、今日の警察の違いぐらいに匹敵する。
例えば、最前線で仮設営舎を設営するにも旧陸海軍は、工兵という専門の特殊技能を持った将兵が居て、彼等が野営する為の営舎を建てる。あるいは橋を架けたり、飛行場を作ったり、鉄道を敷いたり、陣地建設にも当たる。
ところが警察は、警察署自体にこうした専門職が無い為、その他の建築物も、その種の建築建設の専門家に頼んで建造物を建てる。
病院にしても、旧陸海軍は陸軍病院、海軍病院を持ち、野戦病院や病院船も持っていた。そしてそれを担当したのは、階級を持つ軍医や衛生兵・看護兵であった。更に通常の医科学とは異なる、銃創などの、特殊な戦場外科学を指導する為に、軍医学校まであった。
しかし警察には、警察病院があるにはあるが、それを担当するのは警察官ではないし、軍医学校に匹敵する教育機関は持たない。
また旧陸海軍には、各々に軍事法廷を持ち、軍法会議を開廷出来る、階級を持った軍事司法官がおり、その参加には、陸軍刑務所や海軍刑務所といった警務施設までを持って、それを担当したのは陸海軍の階級を持つ警務の将校や下士官・兵であった。同時に、軍隊には陸海軍司法権までをも持った警察機構までが存在し、陸海軍の憲兵や警務隊が、軍隊内の犯罪捜査を担当した。
兵站部(へいたんぶ)を確保して、軍事物資を運ぶのは輜重兵(しちょうへい)がおり、輸送手段を持っているし、軍車輌や航空機を飛ばすにも、専門の操縦者がいたし、その整備は整備兵が当たった。
金銭の出入りや、物資の購入には、専門の陸海軍の経理学校を卒業した主計将校がおり、機械類を動かすには機関学校出身の機関将校がこれにあたり、機関兵がその手足となって働いた。
また、小銃、野砲(機動性のある軽カノン砲)等の武器・弾薬、戦車や装甲車、軍用機や軍艦の設計には、技術将校が造兵廠や兵器本廠や海軍工廠などで、それにあたった。
こうした組織は、人類が軍隊という組織を形成した時に、既に始まっており、アレキサンダー大王や、ローマ皇帝カエサルの軍隊にも、漢帝国や唐帝国の大軍も、あるいは中世の十字軍も、こうした自己完結性を持っていたのである。
つまり軍隊とは、自前で何でも出来るオールマイティー組織であり、軍隊と警察の大きな違いは、ここにあるのである。
こうして考えてくると、江戸の徳川封建時代は、まさに自己完結性の欠けた、登城出勤集団の群れが武士階級であり、どうみても、これは軍隊というべきものではなかった。今日で言う、禄(ろく)を貰うサラリーマンに過ぎないのである。
この時代の武士は、軍事思想と戦争観の希薄(きはく)な階級となっていた。そして当時の日本人の、約7%が武士階級であり、約二百五十年間も非武装社会を形成した。
こうした伝統において幕末の動乱を迎え、明治維新を起こして、近代に突入するのであるから、軍事的発想を無くしてしまった者が、「尚武の民」とは言い難く、この後遺症は、太平洋戦争敗北で、大きな傷痕(きずあと)を残す。
そして日本人は、「根本的な日本の弱さ」を見透かされて、以降、欧米追従の政策をとり、丸腰外交を展開し、外交交渉においては、外国から金品だけを脅し取られ、弱さの幻想の中に埋もれる民族と成り下がったのである。
●尚武の希薄な民族・日本人
江戸期、徳川幕府は約二万五千名の旗本や御家人を抱えていた。これに諸藩の武士を併せると、おおよそ十万人程度であろう。つまり日本人民の約7%程度しか、武士は居なかったことになる。
幕末期の黒船砲艦外交の時、十万人もの武士が居ながら、僅か600人のペリー艦隊に「降参」してしまうのであるから情けない話であり、これは世界軍隊史上、ワースト・ツーに挙げられるもので、まさに「その弱さ」はギネス・ブックものである。
ちなみにワースト・ワンは、僅か160人のスペイン人に、八万人もの常備兵を持つインカ帝国が、易々と彼等に征服された事件である。
こうした事件に際し、多くは西洋列強の武器の差、もしくは当時の国際情勢を挙げるであろうが、これは言い訳にならない。
尚武の気風があれば、如何に最新の武器を所持していようと、これに激しく抗(あらが)い、戦うはずである。
事実、朝鮮戦争がそうであり、ベトナム戦争がそうであった。
黒船の砲艦外交当時、尊王攘夷を掲げ西洋列強の脅威と戦ったのは、薩摩藩一藩のみであった。薩摩藩だけが、強豪のイギリス艦隊を相手に戦ったのである。
この抵抗で薩摩の街は火の海になったが、一方イギリス艦隊も多大な損害を出した。
また長州藩においても、1863年下関海峡を通過する外国船を砲撃する事件が勃発する。これこそ、まさに尊王攘夷であり、一般には馬関戦争と言われている。
ところがこの砲撃に対し、翌年の元治元年、英・仏・米・蘭の四ヵ国連合艦隊が下関を砲撃する事件が起こった。これが四国艦隊下関砲撃事件である。
この事件は、前年長州藩が下関海峡を通過する外国船を砲撃したので、その報復として行われた事に端を発する。そして長州藩は勇敢に戦ったが、武器が古いこともあって苦戦を強いられ、無態に惨敗する。
以上の二つの事件を併せて、当時の日本人の心情を探ると、薩摩藩と長州藩以外の日本人は、「黒船」と聞くと、まるで今日の日本人が、「癌イコール死」と結び付けて恐れているように、黒船の所有する大砲を、原爆並みに恐れていたのである。
したがって時代に慣らされ、非武装に慣らされた平和ボケの幕府の役人どもは、自らの弱さや、日本人の戦意の無さを無意識に感じ取り、競って防壁の門扉を開き、「開国」に廻ったというのが実情であろう。
こうした中に、当時の武士階級には、武士道など微塵もなかったと言ってよい。
そして武士道不在の実情は、やがて尊王攘夷を主張していた佐幕派にも拡大され、彼等も討幕後の、政権取得に近づくにつれ、非武装国家・日本が、この場に及んで、慌てて軍備を施しても攘夷が不可能であると悟るのである。
つまりこの時期に至って、武士階級の一部から、これまで表面上の武士道を豪語してきたが、これは虚仮威(こけおど)しと気付き、素直に日本人の弱さを認め、開国し、文明開化に至るという、いわば宗旨替えを公然と行ったのである。
当時の武士階級は「もののふ」という、表面上の威勢だけはよかったが、もう一方で、「もののふ」としての戦士、あるいは軍隊という基本概念すら理解していなかったのである。その為に、簡単に列強に屈してしまう、インカ帝国の守備兵ごときの、戦意の無さ、弱さがあったのである。
本来ならば、装備や武器や戦術に大きな差があっても、真の戦意があれば、簡単には負けないものである。
関ヶ原の戦い以降、日本人は戦意を失い、軍隊組織の基本理念さえ欠如していた。
この事は、兵站部の重要性や、工兵や輜重兵の本質も理解できなかったし、騎兵の意味すら知らなかった。
騎兵とは、江戸時代において、五百石以上の上士のみが騎乗できると勘違いする程度のものであり、身分の差によって、騎馬侍(きばざむらい/騎士)と徒侍(かちざむらい/徒士)の上下関係を認識した程度であった。お粗末な限りの、当時の日本人の武士道観である。
このお粗末な武士道観が、実は太平洋戦争敗戦まで余韻(よいん)を続け、大きな弱点となって、日本列島に暗欝な翳りを落とすのである。
●お粗末な武士道観と悪足掻き
明治の政治家や軍人達は、徳川封建時代から引きずった「非武装思想」から抜け出す為に、近代デモクラシーの何たるかを欧米列強に学んだ。
そもそもデモクラシーとは何か。
明治の政治家や軍人達にとって、これまでの非武装思想を抜け出して、日本を近代国家に作り替える為にはどうしたらよいかを真摯に考え、必死の努力を重ねる事が大きな課題であった。
民主主義を徹底させる為には、市民自らが軍隊を所有せねばならず、その軍隊無しに、国家を民主国家へと作り替える事は出来ないと考えた。
しかし欧米を模倣して、何とか軍隊らしきものを形成するに至るが、所詮それは付け焼き刃に過ぎず、この程度の付け焼き刃で、大多数の国民に軍隊組織の本質と、その機能を理解させるには至らなかった。
そして後年、軍隊の形態は辛うじて外形の体裁は整ったものの、肚の据え方と、度胸が認識できなかった為、外国の軍隊とは太刀打ちできず、結局、軍事思想と戦争観の何たるかは、ついに分からず仕舞いであった。今日も、その延長上にある。特に日本の外交には、こうした余韻を引き摺っている。
明治から大正・昭和と、時代が下る度に、軍人が夜郎自大化されて、自分の力量を知らないで、幅を利かす態度をとり始め、明治の軍人が、欧米の軍学に学んだ事を余所目に、自身は怠慢に趨り、この欠点が至るところで目立つようになる。こうした類に酷似しているのが今日の政財界のトップであり、特に外交を展開する政治家は、当時の日本人の夜郎自大と五十歩百歩である。
『史記西南夷伝』には、夜郎(中国の南西、今の貴州の西境にいた少数民族で、漢代の西南夷の一つ)の王が漢の広大な事を知らず、自らを強大と思って、漢の使者と接した事から、自分の力量を知らぬ者への例えが載せられ、これはついには国を滅ぼしたと伝えている。
こう言う意味からすると、大正・昭和の陸海軍の軍人は、まさにこれであり、この結果が「生き残って生き愧じをさらさず」という、「死んで還る」といった「死の美学」を奨励し、初めから効果の期待できない自殺機械(特攻機/当時は「空飛ぶ棺桶」といわれた)に詰め込まれた、特攻隊などの青少年の出征を賛美するような、奇妙なマゾヒズム集団と化していくのである。
その点、欧米の軍隊は、勝ち目の無い戦いでも、自殺行為を働くのではなく、如何なる戦況であろうとも、その如何にかかわらず、「どれだけ多くの敵を殺して、必ず還ってくる」と云う戦争観を理解していた。この点が、日本の旧陸海軍将兵との戦争観に、大きな開きがあった。
幕末から明治にかけて、日本人の弱さを知っていた明治の軍人達は、苦慮を重ねていた。しかしそうした懸念にもかかわらず、世代交代と共に、その後、五十年程で「日本人一億・総尚武の民族」を自称するようになり、日中戦争および太平洋戦争では「無敵不敗の帝国陸海軍」と思い上がった暴言を豪語するようになった。
こうした当時の思い上がりに匹敵するものを歴史の上から探すとすれば、二十世紀初頭の帝政ロシアと、大正から昭和にかけての、敗戦までの大日本帝国が酷似する。
ロシア革命前のロシアの国土は、その広大な領土と人口の多さと、甚だしい対外膨張政策と、ペテルブルグ宮殿の豪華さで、内外の眼を欺いてはいたが、その内実はフランス革命当時のベルサイユ宮殿と酷似する、瀕死寸前の国家であったと言える。
ロシア国民の九割以上の大部分は文盲であり、貧しい農民の上に国家が形成されていた。その上、規律と秩序の習慣が無く、労働者としても、あるいは兵士としても、その適性に欠いていた。また、こうした国民性を旨くコントロールして、レーニンのロシア革命が容易に成功したと言えるだろう。
しかしロシアの国民の文盲を除けば、日本人もロシア人以上に、労働者の適性に欠け、兵士の適性に欠けるところがあった。
それは「尚武の民」を自称しながらも、実は「尚武の何たるか」という理解を、官民揃って、大正・昭和の大日本帝国国民は、全く知らなかったのである。
この意味で、当時のロシアと比較すれば、非常に酷似した共通点が浮き彫りになる。
例えば軍人の威張り腐った傲慢は、ロシア革命前の政府組織のそれを彷彿とさせるものがあり、一部の反政府の不満分子らを煽動する元凶を招いた事は明白だった。
緒戦における、太平洋戦争開戦当時の昭和十七年までは、先制攻撃のスタートも華々しく、連戦連勝を自称していたが、ミッドウェー以降、その華々しさは萎(しお)れ、日本列島を焦土と化す奈落の底へと転がり落ちて行く。
太平洋戦争の露払いであった、日清・日露の戦争は、もともと相手国が弱かったから勝ったまでのことであり、日本が意図的に相手国を選択したものでなく、単に偶然にも、幸運だったという事に他ならない。
そして日本はそれ自体を、自らの実力だと勘違いし、日本人は我が国を「尚武の国」、我が国民を「尚武の民」と信ずるようになるのである。
●「尚武の民」と錯覚を抱いた日本人気質
今日でも、多くの日本人は自らが、先祖の血を受け継ぎ「さむらい」と信じ、自称「武士道観」を体得していると、信じ切っている人が決して少なくない。
その信奉は、スポーツ武道や格闘技を愛好する人だけに止まらず、刀剣愛好家や企業の経営者、著名な文筆家や文化人、政財界のトップにまで及んでいる。
こうした錯覚を抱く人達は、専ら精神主義で叱咤激励することが得意で、精神が肉体を動かし、精神が遣る気を作るものだと信じている。まさに精神主義の悪しき禍根が、これである。
日本人の多くは、日露戦争の勝利は日本海海戦で勝利したからだと信じている。
日露両海軍の決戦した日本海海戦は、1905年(明治38)5月27日から翌28日に亘った、日本海対馬沖での、連合艦隊司令長官・東郷平八郎麾下の連合艦隊が、世界最強と称されたバルチック艦隊を相手に戦った海戦である。そして東郷司令長官の得意なT字戦法で、バルチック艦隊を壊滅させたと信じている。
ところがこの海戦を、裏から凝視すると、一つの大きな落し穴に行き当たる。
日本が勝ったのではなく、相手国が弱かった、あるいは弱っていたというの実情が浮かび上がってくるのである。
当時の帝政ロシア海軍には、海軍水兵による叛乱が相次ぎ、当然日本に向かっていたバルチック艦隊にも、何度か叛乱があり、旗艦が砲門を向けて、叛乱艦を鎮圧した事があった。
黒海艦隊では、戦艦ポチョムキンが叛乱を起こし、ブルガリアに遁走した事は、映画(社会主義宣伝用)にもなって有名でもあるし、この遁走を全艦隊が制止したり、鎮圧する事もなかったのであるから、当時のロシア海軍の士気と責任感が、どんなに低下したものであったか、容易に想像がつこう。
また、こうした組織系統が乱れた中で、まともに戦争が出来る分けはなく、この状態は、太平洋戦争末期の日本陸海軍の崩壊寸前の状態に酷似し、また徳川幕府崩壊寸前の大政奉還の頃に酷似する。
日本は、日露戦争当時、国際ユダヤ資本から多額の借金をして、戦費を捻り出し、戦艦三笠以下の軍艦を外国で建造し、それを操艦して、必死の思いで戦ったのであるが、「やっと勝った」という状態で、蓋(ふた)を開けてみれば、こんなに弱い国の軍隊と戦ったのである。
しかし当時の日本人は、弱い軍隊と戦って、勝たせてくれたとは露程にも思っていなかった。実力で勝ったのだと信じ切っていたのである。
したがって日露戦争戦勝祝の堤灯行列と、太平洋戦争開戦当時の真珠湾奇襲攻撃(アメリカが意図的に叩かせてくれた)の成功を祝う堤灯行列とは、酷似するものなのである。戦勝祝いに、一昼夜踊狂い、日本中が堤灯で埋まったのであるから、この馬鹿騒ぎは、何と浅ましいものであったか、想像に難しくない。
いわゆる弱い敵と遭遇して、単にその弱さが連続した現象が、連戦連勝という結果に他ならなかったのである。
剣豪・宮本武蔵は、巌流島の決闘以降、剣を捨て、書画に打ち込み、ついに『五輪の書』の完成を見る。
では何故、武蔵が剣を捨てたか。
それは対戦した相手が、「弱かったからだ」と悟るところが多かったことからである。
幸運にも、弱い相手と戦い、勝たせてくれて、今日まで生き存えた、と気付くからである。
しかし大日本帝国陸海軍の戦争指導者達は、そうではなかった。
日本が、欧米列強と対等に肩を並べ、明治維新以来、連戦連勝をし、これが日本の偽わざる実力と思い込んでしまっていた。
つまり日本人が、一様に「尚武の民」と思い込んでしまった思い込みが、運と実力を錯覚させるに至るのである。
この錯覚は、長い間、謎に包まれ、最近まで解明する事が出来なかった。
今日でもこの錯覚を安易に信じ込み、日本人が「尚武の民」である、という事を本気で信じている人は少なくない。
そしてこうした錯覚が、個人の場合でも、企業の場合でも、あるいは国家の場合でも、民族の場合でも、危険な傲慢に追い込み、太平洋戦争を敗北した戦後に至っても、この愚かな錯覚の為に、アメリカやヨーロッパ、はたまた、中国や朝鮮半島から、海外支援という名目の、高価な代償を支払わされている現実があるである。
太平洋戦争の最大の敗因はアメリカに挑発されて、決して弱くない、背後にユダヤが控える、強大なアメリカと戦った為である。
当時の日本人が、こうした錯覚に陥る事がなければ、英米を相手に、あるいは中国大陸の泥沼に、決して足を踏み入れる事はなかったであろう。
「孫子の兵法」に従えば、やはり逃げたはずである。
こうした敵を知らず、自分を知らない愚かさに、悲惨な悲劇が隠れているのである。
●忠の一字に賭け、忠の一字を知らず
太平洋戦争の敗北は、日本人から「尚武と民」の意識を抜き取ってしまった。
ところが一方において、「武士道」を豪語し、これを公然と口走る者がいる。そしてこうした事を口走る大多数は、江戸時代の武家社会の幻想を抱きつつ、この幻想によって、人生が開けるのではないかと錯覚している人達である。
例えば、柔道の専売特許のように思われている「柔能く剛を制す」などの言葉もこれに入り、しかしこの言葉ほど、信憑性に欠ける言葉はなく、もはや死語と言ってよい程の言葉である。
今日の柔道に、この言葉の真価は微塵も見られない。
力による強引な「崩し」は、「柔」などではなく、「剛」そのものであるからだ。「剛」が「柔」を上回って、はじめて相手を倒す事が出来るからだ。
ところがこれにロマンを感じ、「やわら」の幻想を抱き、こうした錯覚を信じて、一時的な幸運(偶然)を、実力と勘違いする者は少なくない。
こうした錯覚現象は、今日の外国に進出した企業にも見る事が出来る。特に、経済面での日本の突出を、同種の錯覚をもって抱く者は決して少なくないのだ。
日本は経済大国と自称する。しかし果たしてそうだろうか。
また一部の財界人や経済アナリストが唱える、労働の質や労使関係の良さを持ち出す日本財界人や、与野党政治家の国際主義者は、これまでの教訓である、愚かな幻想を抱いているのではあるまいか。「自称」から湧き起こる、自惚れと錯覚を抱いてはいないだろうか。
この自惚れと錯覚は、徳川封建時代を通じての元禄期に起こった「忠臣蔵の事件」を思い起こせば、その事件の確率が如何に稀少価値であったか、容易に想像がつくはずである。
徳川封建時代は「忠君」を尊び、「忠」の一字に賭けた時代であったが、この私的な変形が、今日では「義理」や「人情」と解されている。
さて日本人は、「忠」に対する好みが強い人種とされている。
ところが、こうした好みが強いからと言って、誰しもが、真当(ほんとう)に「忠」を尊び、これに準ずるとは限らない。
果たして日本人は、「忠」を尊ぶ民族なのか、人種なのか。
こうして考えると、日本人が本来「忠誠心」の強い民族かどうか、非常に疑わしいところがある。
これを日本人の歴史観から見ると、日本人は極めて忠誠心の薄い、義理と人情に欠ける民族であるという事が分かる。義理と人情を厳守するのは、一昔も二昔も前の、ヤクザなどの、特殊な人種に限られていた。そして今日、日本人は「人情の機微」においても、他民族に比べれば、極めて淡泊なのではあるまいか。
熱し易く、冷め安いこの民族は、表面的には義理と人情を好み、忠誠心を全面に打ち出して、忠君の如きポーズをとるが、その実、忠義とか、忠誠心とかは、殆ど皆無である事が分かる。
武家の世界で「忠」の一字を遡ると、十六世紀の戦国末期、豊臣政権が成立するまで、今日で言う、武士道といった観念は全く無く、更には主君に対して、忠義とか、忠誠とかは殆ど無かった事が分かる。
その証拠が、「下剋上」であり、もし、忠義とか、忠誠とか、あるいは人情に機微とかが存在するのならば、下剋上という、下士が上士を討つ、主君殺しは起こらなかったはずである。
そして当時の主従関係は、一節には滅私奉公と言われながらも、本来からの意味からすれば、「忠」の一字は、所属する軍事行政組織の大名が、主人である条件は、盟主とする自立性の長けた人間であるという事が必須条件であった。
つまり、地方の豪族でも、先見性に豊み、合従・連合といった、凡夫にはない離れ業をやってのけ、こうした画策や武略に豊んだ大名家が一目置かれ、家臣も、この関係において主従関係を全うし、主君を主君としたのである。したがって無能な大名には眼も向けなかったというのが実情である。
当時の戦国時代における各豪族を統率する大名家は、各軍団ごとに、一種の誓約で結ばれた連合組合のようなものであった。家臣とは扶持米によって契約がなされ、自前の一族郎党を引き連れた重臣達と、盟主たる大名が、彼等と雇用関係を交していた程度の繋がりであった。
したがってこうした関係では、その主従関係においても、雇用者においての従業員としての忠誠心も、忠義も育たなかったはずである。これは即ち、下剋上に回帰されるからだ。雇用関係にヒビが入れば、主君殺しもありえたのである。
とは言っても、人情の機微に長けた盟主がおり、その盟主のみが、大軍を率いる事が出来たと言える。家臣や息のかかる者を裏切らなかったのである。
こう言う意味からすると、豊臣秀吉は、巧みに人間を読み、人情の機微を最大限に生かした人物であったといえる。
しかしこの秀吉ですら、末期は、あれだけ眼を賭け、最も近い合従・連合国の盟主である徳川家康に、まんまと裏切られ、彼の死後、豊臣家が没落する末路を辿る。 |