■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)
●忠義と忠誠の啓蒙
十七世紀半ば、荒廃した武士階級の間に「武士道」なるものが起こる。忠誠心を欠いていた武士階級に、「喝」を入れたのが、『葉隠』の口述者・山本常朝(元佐賀藩士)であった。
常朝は、当時の武士の荒廃ぶりを嘆き、武士道を論じた書『葉隠』を著わす。この著書は、山本常朝口述で、田代又左衛門陣基(つらもと)が筆録した、全11巻からなる武士道書である。
1716年(享保1)頃に完成し、藩内外の武士の言行の批評を通じて、武士の道徳を鋭く説いた、『葉隠論語』あるいは『鍋島論語』といわれた書物である。
そしてこの書は、忠義の手本となり、「忠臣」という、忠義の心に大きな影響を与える。
この忠臣で有名なのが「忠臣蔵」の物語であり、読んで字の如く、忠臣に捧げた家臣の物語が、江戸中期に登場する事になる。
この物語の大筋は、播州赤穂藩藩主・浅野内匠頭(先祖は浅野長晟(ながあきら)の代からはじまる安芸広島藩主で、赤穂浅野家はその分家)が殿中で刃傷事件(内匠頭の躁鬱病が原因であったといわれる)を起こし、藩主・内匠頭が切腹となり、お家断絶となった事件である。
この事件の発端者は吉良上野介だったので、浅野家の遺臣四十七士が徒党を組み、吉良邸に討ち入りして、上野介の首を刎ね、四十七士は忠臣と表されながらも、全員切腹刑が命ぜられたというものだった。
粗筋は無謀極まる、大袈裟な暴力的な復讐事件であったが、主君の恨みを晴らしたという事で、約五十年後に、忠臣として絶賛を受けるのである。この大筋を許に、浄瑠璃の芝居仕立てになったものが「仮名手本忠臣蔵」である。
さて、この刃傷事件の真相に迫ろう。
播州赤穂藩は五万二千石で、家臣は三百人程の小藩であった。
つまり士分以上の身分の者が三百人も居ながら、討ち入りに参加したのは、たったの四十七人という事であったのである。
この参加率は、僅かに15%程度のものだった。
つまり、忠臣と騒がれた赤穂藩にして、僅かに15%程度だったという事は、1000人の武士階級を想定した場合、武士道の「士道に背かず」という、これを実践するのは、たったの15人に過ぎないということなのだ。
残りの85人は、二本差しで、家柄や格式を自慢しながらも、中味は、忠臣とは程遠い、腰抜け侍であったという事が分かる。赤穂藩にしてこの程度であるから、当時の日本全体から見れば、この忠臣的忠義度は、更に低下するはずであるから、忠義の武士も、せいぜい10%程度のものであったのではあるまいか。
つまり忠臣の名に相応しく、武士道を全う出来る心構えを持った武士は、たったの一割に過ぎないという事である。
この当時の現実を、更に武士階級の道徳と倫理に照らし合わせていくと、徳川二五十年間において、藩主が切腹を命じられたり、何らかの謀反の疑いをかけられて、一方的に、お家断絶になった藩は赤穂藩以外にも、二百有余藩(実際に徳川二五十年間で断絶大名家は399家あったが、そのうち大名家の都合や、世継ぎがなかったり、制度上の都合などで断絶した藩は除く)あり、その中で遺臣が徒党を組み、亡き藩主の恨みに対して、忠義・忠誠を誓い、決起したのは、播州赤穂藩ただ一藩であった。
この一藩の中でも、四十七人というのであるから、そのパーセンテージ(percentage/百分率)は、僅かに0.5%以下となり、武士千人に対し、五人しか、忠義の武士は居なかった事になる。何と、悲しい数字ではないか。どうしてこれで、日本が「尚武の国」「武士道の国」と言えようか。
●忠臣の為に、尚武の心意気を示したのは赤穂浪士ただ一例
ヨーロッパにおいても、中世から近代にかけて、皇帝や国王などが各々に勢力を誇り、その内の巨大勢力は、弱小の封建諸侯の貴族階級を、次々に取り潰すという事件があった。直接諸侯を捕えて、殺した事もあるし、彼等の居城に攻撃をかけて、取り潰しを企てた事もあった。
この時に最も多かったのは、徳川幕府と同じように、一方的に難癖をつけ、謀反の疑いをかけたり、何らかの罪状を捏ち上げて、「領主不適当」という烙印を押して、領地を取り上げるというものだった。
しかしこうした事件が発生した場合、約三割以上が必ず戦争になっている。
皇帝や国王が、領国の諸侯の居城に攻勢をかけても、諸侯に忠誠を示し、大軍勢には力及ばずとも、「一矢報いる」の精神で、一戦する家臣が実に多かったのである。
中には、居城を遂われながらも、主君と共に、反撃の機会を狙って、諸国を流浪する忠義集団も居たのである。まさにこれこそが、「忠臣」そのものではないか。
こうした忠義集団は一方において、経済的困窮や食糧事情により、群賊化して、ロビン・フッド(Robin Hood)のような、十二〜十三世紀のイギリスの伝説上の義賊集団のような忠義集団も居たのである。
彼等は森に籠り、悪代官を懲らしめ、貪欲な僧侶の金を奪い、貧民に施したという伝説が生まれたが、一方で、征服者ノルマン人に対する反抗を表す集団でもあり、多くの民謡や物語のモデルになった、元諸侯は、実はこうした、お家取り潰しが原因で、巨大勢力に反攻の牙を剥いた忠臣ではなかったか。
君主に御供し、それに隨って、反攻の機会を窺い、挽回・逆転の時機を狙う家臣の忠誠心は、中々大したものである。
それに比べて、日本の徳川時代の武士はどうだったか。
この時代において、二百有余藩が理不尽な理由で取り潰されている。しかし忠臣を全うし、武士道を実践したのは、赤穂藩ただ一藩であり、その一藩も、家臣三百人も居ながら、三百人中、主君の為に討ち入ったのは僅かに四十七人で、これは日本の武士階級の総数からすると、余りにも少ない数字である。
お家が取り潰され、お城明け渡しともなると、一度は「籠城(ろうじょう)し、城を枕に討ち死にせん」と豪語する武士は、必ず何人かがいる。時には、「家臣一同切腹して、その武士の生き態(ざま)を天下に知らしめん」と、息巻く武士もいる。
しかしこうした事は、一例もなく、二五十年間の中で、赤穂浪士四十七士ただ一例だけが、討ち入りをして、主君の恨みを晴らすという事に止まったのである。
結局のところ、日本において、理不尽な横暴に対し、勇ましい掛け声はかけるが、いつの間にか、一人去り、二人去るというのが実情であり、最後は全員が浪人になったり、町人に身を窶(やつ)すというのが偽わざる武士の実態であったようだ。
『武士道残酷物語』に描かれたような、武士の苛酷な生き態は、現代風にアレンジされた小説上の作り話である。
徳川時代の武士の忠誠心は、以上述べた程度のものであり、武士道を全うし、士道に忠誠を誓って、武士らしい生き態を示したのは、幕末期の新選組くらいなものである。
一般には江戸時代を封建時代という。
しかし封建時代における社会構造は、古代の氏族・奴隷制社会と、近代資本主義社会との中間に存在し、これは封建制度を基盤とする社会である。
この社会構造は、封建制度が国家や社会の仕組を基準にした時代であるとともに、政治制度そのものが、主君に対し、家臣が滅私奉公的に仕える制度でありながらも、君主は家臣に対して俸禄(ほうろく)を与え、代りに軍役の義務を課する主従関係を中核とする制度である。
日本では鎌倉時代から明治維新まで、ヨーロッパでは六世紀頃から十五世紀末頃までを封建時代と称するが、多くの場合、漠然とした中世全体を指し、一般に言われる「封建」の意味は、「二君に仕えず」という命題と条件を果たしていない。
その大きな誤解と錯覚が、徳川封建時代には、重臣の子は重臣、軽輩の子は軽輩と、総て家柄や格式において、身分と職種を相続したと思われているが、実はそうではなかった。
むしろデモクラシー全盛期の今日の方が、親から子への伝承の為の保守指向は強い。
つまり政治家の子供は政治家、実業家の子供は実業家、舞台俳優や役者の子供はそれと同格の芸能タレントになり、これこそ、中世の封建主義を地で行く姿である。
もし近年に、「封建」と云う言葉が残っているとするならば、誰もが声高らかに謳う、民主主義の世の中こそ、封建主義の最たるものが生き残っているといえよう。
これは恰度、ブルボン王朝期、国王の子は後の国王、貴族の子は貴族、靴屋の子は靴屋、金貸の子は金貸、貧しい農夫の子は貧しい農夫というように、生まれながらにして、身分と階級が定まった、悪しき時代の産物と同じ構造である。
ところが江戸時代は、一見封建主義に見えながらも、実はそうではなかった。
士分でありながらも、出世欲は旺盛で、商人同様に金勘定に聰(さと)く、意外に主君や主家を平気で変え、条件の良い就職先や、他藩に転職するという転職組も多かったのである。
事実、賄賂政治と批判?され、天明飢饉などにより、失敗に終ったといわれる田沼意次(おきづぐ)・意知(おきとも)の時代は、貿易振興・蝦夷地開発・新田開発など幕政の積極的打開を意図したがそれは成就することがなかった。
田沼時代((明和4〜天明6の20年間)の当来は、意次が小姓を経て側用人となり、遠江(とおとうみ)相良(さがら)の城主に取り立てられ、老中にまで登り詰める出世競争を考えて見ても、幕政の実権を握った意次が、どの程度の武士であったか、容易に想像がつこう。
だから武士道が起こった。
武士の為体(ていたらく)を嘆く、憂国の士によって「武士道とは何か」と、再検討されたことは、必然的な成り行きであった。
そして驚く事は、「忠臣蔵」のモデルになった討ち入りした四十七士も、こうした転職組の武士達であり、大部分は親の代、もしくは本人の代になって、浅野家へ仕官した家臣で、祖父の代からの家臣は数える程しかいなかった。
では、浅野家・家臣四十七士は何故、徒党を組み、討ち入りに参加したのか。
それは彼等が親の代、あるいは本人の代になってからの転職組であり、それ以前は浪人であった。彼等は浪人生活の苦しさを熟知している。
したがって浅野家断絶後、転職したり、町人に身を窶したりした武士も、相当に居たかも知れないが、再び浪人して苦しい生活に戻るよりは、徒党を組んで、ひと暴れし、世間をアッと言わせる方を選択したと言えなくもない。
しかし武士は「二君に仕えず」と言うけれども、これはあくまで建前の事であり、本音は「飢えは恥じより苦しい」というのが、当時の武士階級の偽わらざる心情であった。
●徳川幕府は中央集権体制に守られた社会制度であった
徳川封建時代の特徴は、「中央集権的封建社会体制」である。
この封建社会体制が、「中央集権的」であったという事が、徳川幕府二百五十年の歴史を支えたのである。これは、それ以前の室町幕府や鎌倉幕府と比べると、根本的に異なる点である。
室町幕府や鎌倉幕府の時代において、お家取り潰しという事件は、むしろ珍事であった。
かの明智光秀ですら、最初は織田信長の「知恵袋」として活躍するが、最後は知恵の回りを疎まれて、近江滋賀郡の十万石と、坂本城を手放さねがならなくなる。しかしそれでも、お家取り潰しにはならず、信州への国替えであった。
しかし徳川時代に入ると、家康の重臣として働いた、加藤、福島、最上という五十万石クラスの大大名に、難癖をつけ、易々を取り潰している。こうした大大名ですら、幕府に対しては、全く抵抗の意志を見せていないのである。
せめて、こうした大大名が豊臣家の大坂冬の陣、夏の陣くらいに抵抗していたら、徳川幕府も、二百五十年という歴史は築けなかったはずである。
ところがこうした大大名家も、何の抵抗もせずに、領地を幕府に差し出し、城を明け渡しているのである。
こうして考えると、この時代、武士道は不在であった。
戦い、抗い、遺恨を晴らす手段は幾らでもありながら、大大名は大大名なるが故に、家臣は安泰の上に、長く胡座をかき、主君の恨みを晴らす機会を失い、無抵抗で、汚名と生き愧(は)じを一挙に、ひ被ったのである。
ところが、当時の日本では、小は小なりに、忠義を示す手段が幾らでもあったのである。
「忠臣蔵」の赤穂義士達がそれであり、自立性が乏しかったとか、武器が貧弱であったとか、武技の鍛練が未熟であったとかは、言い訳にはならないのである。
武士道における、忠義や忠誠は、武力の強弱によって決まるものではない。
また武器の威力に裏付けされるものでもない。決定的な真理は、理不尽な横暴に対し、あるいは屈辱に対し、義憤に燃えてその是非を質(ただ)し、その真意に迫る信念が、武士道を全うする側に有るか、否かということである。
しかしこうした武士道を実践し、忠義に励む武士が、如何に少なかったか、というのが、徳川二百五十年間を通じて言える事なのである。
つまり、武士階級において、武士道が全うされていれば、徳川幕府など、幕府成立後も数年を待たずして、崩壊してしまう可能性が高かったのである。
非常に不安定な、幕藩体制にあるのにもかかわらず、奇蹟的に徳川二百五十年の歴史が築けた事は、江戸時代の武士が如何に腰抜けであったということに他ならない。
口では武士道を口走りながら、実は、士道とは言い難い、打算的駆け引きに奔走していた商人(あきんど)と同質、あるいはそれ以下と言う事が出来る。その証拠が、転職組の武士の存在であり、人は不憫なるが故に、打算に趨るという事実だ。これは、もしかすると、町家の商人以下かも知れない。
そしてこれを如実に物語るものが、徳川幕府の崩壊に至る足掛りとなった、1867年の、薩摩長州の下級武士を中核として蜂起した尊王攘夷の暴動であり、これを境に、徳川幕府は一挙に崩壊する。それもたった薩長二藩の決起によってである。
この時、幕府と徳川将軍に忠義・忠誠を尽くし、命賭けで徳川家の為に戦った旗本・御家人は皆無であり、辛うじて新選組だけが、士道を全うしたと言えるくらいである。
しかし新選組は武士集団というより、浪士集団であり、主君に仕えた経験のない、百姓や町人や貧困の浪人から構成されていた。
また戊辰戦争当時、佐幕の為に尽力した会津藩や桑名藩は、徳川本家の親戚筋である遠縁の松平家であり、この親戚筋も僅かに二家であって、他の親戚筋は薩長土肥の連合軍に対して、全く抵抗を試みなかった。
そして武士以上に武士らしく振る舞った新選組は、こうした親戚筋(松平家)の臨事雇の外郭団体であるガードマン程度の扱でしかなく、京都見廻組もこれに準ずるものであった。
●日本人の変わり身の早さ
しかし徳川幕府には、臨事雇の外郭団体の警護を頼るような事ではなしに、もっと中核的な、関ヶ原以来の旗本八万騎という、将軍を護る直属の直参(じきさん)の将士が居たはずである。
江戸時代、将軍直属の家臣のうち、知行高が一万石未満の直参で、御目見(おめみえ)以上の格式のあった者を「直参旗本」と言い、旗本でも御目見以下を「御家人」(ごけにん)と言った。
しかし幕末になると、この数は激少し、旗本・御家人を併せても約二万五千人だったという。それでも会津藩や桑名藩の御家中(登城出来る上士)よりも多く、また新選組に比べれば、更に多い、数百倍に匹敵する大勢力であった。
ところが幕末期、最後まで幕府に忠誠を尽くしたのは、外国奉行・町奉行・勘定奉行・軍艦奉行を歴任した小栗上野介忠順(ただまさ)ただ一人であった。
結局、小栗上野介は薩長軍に柔躙され、切腹(一説には打ち首)へと追いやられ、潔く切腹して徳川幕府に忠節を尽くした。
他の約二万五千人の大半は、これまでの資産の保全と、我が身の保身を図り、その商人のような奔走に身を窶した。そして勝安房守海舟(名は義邦。通称、麟太郎)のような、直参旗本がいて、積極的に江戸城の門扉を開き、敵を招き入れて、裡側から降参し、徳川幕府を滅ぼす方に廻った者もいた。
江戸城無血開城と簡単に言うけれども、「尚武の民」の気質からすれば、勝海舟のこうした行動は、一種の裏切り行為であり、忠臣というには余りにも保身家と言うべきであろう。
こうした幕府のトップの位置にある軍艦奉行の勝海舟が、このざまであるのだから、もっと下級の旗本や御家人は、命がけで、将軍に対し、忠義・忠節を尽くす者など、居ようはずがないのだ。
江戸城開城に際して、一部の旗本・御家人併せて、約三千人程が上の野山に立て籠り、「彰義隊」なるものを結成するが、威勢の良かったのは最初の一時間程で、たった一日弱の戦いで、その組織は壊滅し、以後再び再編・組織される事はなかった。
世界史で、徳川幕府という二百五十年続いた中央集権体制の大組織が、約二万五千人もの格式と、地位の高い正規の警護軍を持ちながらも、その99.99%の旗本衆に裏切られ、一挙に四散して滅んだという珍例は、世界史上極めて珍しい。
そして幕府崩壊まで、薩長土肥の連合軍に最後まで戦ったのは、意外にも、幕府の軍事顧問団であったフランス軍であり、彼等の方が一宿一飯の恩義から言っても、幕府直参の旗本よりは、余ほど義理堅かった。
幕府軍の一部は甲陽鎮武隊として江戸、流山から長岡、会津を経て奥州に転戦し、最後は函館で幕を閉じるが、この時も転戦に最後までつきあったのはフランス軍の軍事顧問団と、その将兵であった。
明治元年三月、鳥羽伏見の戦で敗れた幕府軍は、幕府軍艦・富士山丸で江戸に逃げ帰った将軍慶喜の後を追って、新選組局長・近藤勇昌宜、副長・土方歳三は甲陽鎮武隊を組織して、東海道から東下する官軍に当たるべく千葉県流山に駐屯し、奮戦を続ける。しかし局長・近藤勇は官軍にはかられて柔躙され、同年の四月二十五日板橋宿で打ち首になり、享年三十六歳であった。
こうして会津戊辰戦争の際、会津藩や同藩お抱えのガードマン・新選組、そしてフランス軍将兵が懸命に戦っている最中、旧幕府軍の直参旗本や御家人達は、有利な就職先を求めて奔走したり、明治新政府の官吏に採用して貰おうと、官吏募集に殺到したというのであるから、この変身振りには唖然とさせられるものがあり、この変わり身の早さは、実は、太平洋戦争敗戦当時の旧日本陸海軍の高級将校ならびに、日本政府官僚(特に内務省や、その傘下にある特別高等警察や、憲兵隊)や財閥系社員の変わり身の早さと酷似するのである。
こうして考えると、日本人には「尚武の気質」など、何処にもなく、わが身と家族の為の「保身」という、変わり身の早さに唖然とさせられるところがある。そして一方で、忠臣を説きながらも、その実態は、「裏切り」であった事が、その至る所で鼻につくのである。
これは徳川幕府崩壊、あるいは太平洋戦争敗北のみにおける、特殊現象ではない。
もともと日本人には、こうした変わり身の早さ自体を「裏切り」とは感じないところがある。良く言えば新時代への「順応能力」、悪く言えば主君を思う「信念の欠如」があり、変身の即興性と寸劇が、非常に上手な民族なのである。熱しやすく冷め易い信念の薄弱は、実はここに由来するのである。
敗戦直後、マッカーサー元帥率いるG・H・Q(General Headquarters/連合国軍総司令部)は、その占領下において、日本の官僚や財閥系社員の相当な抵抗を覚悟していたと言う。ところが実際には殆ど抵抗がなく、あまりにの無抵抗に拍子抜けしてしまったと言うのだ。
これは、同じ敗戦国の西ドイツと比べても、大きな違いであったと言う。
西ドイツは教育制度の変革も、財閥の解体も、強硬に抵抗し、多くの犠牲者を出している。
ところが自称「尚武の民」と言われた日本人は、こうした事に何一つ抵抗を示さず、憲法改正までも難無く受け入れて、欺瞞に満ちた憲法を押し付けられても、これに抗議するどころか、今日まで頑迷に守り通そうとする、アメリカへの義理立てが、忠義と言えば、言える唯一つのものなのである。
こうして考えてくると、日本人は「尚武の民」を標榜しながらも、実は、忠義・忠誠の民などではなく、体制が変化し、新時代が当来すると、旧態依然の体制を頑(かたく)なに守るのではなく、時の流れを、打算的な計算で見極め、強者に屈するという、変身のしたたかさが、その国民性を為(な)しているのである。
「勝てば官軍」という発想はここに帰着する。
その中心的な思考が時代時代の権力に対する「長いものには巻かれろ」という、強い者への追随であり、したたかに、強い方を見極めながら、「寄らば大樹の蔭」という心情的評価を働かすのである。
●「寄らば大樹の蔭」という幻想
多勢に無勢で襲われると、少数勢力は混乱に陥り、戦う前に戦意を失ってしまう。
では何故、戦意が失せるか。
それは敵に圧倒され、これをピンチと考え、気合と士気を失うからだ。
相撲でも土俵際に押し詰められれば、体勢的には非常にピンチである。
ところが「打捨り」の機会を窺う力士にとっては、またとないチャンスであり、その違いは要するに、土俵際に追い詰められて「このまま押し出されて、負けるのでは……」と思っているのか、何が何でもどっこい残って「勝ってやろう」と思っている気力によるものである。
しかし後者を選択した場合、これにはそれなりの伎倆(ぎりょう)と経験と知恵がものを言う。
どれひとつ欠けても、ピンチをチャンスに変えることは出来ない。
さて、劣勢でありながら、ピンチをチャンスに変える少数勢力を「少数精鋭主義」という。
戦力は「量」と「質」の相乗積である。
しかし何かの都合で、多数を募兵出来ない場合は、少数の不利を質に変え、精鋭の「利」によって体勢を補おうというのが少数精鋭主義である。
こうして考えると、烏合の衆の多勢より、精鋭の方が効率の上がる事は確かだ。
また少数で一気奮戦していると、いつの間にか鍛えられて、精鋭になっている場合がある。
宮本武蔵の京の吉岡流(吉岡憲法直元が開祖とされる)の吉岡一門との決闘(血闘とも)は、まさに少数精鋭の利を物語っている。
吉岡流剣術は吉岡伝七郎の時から「吉岡流」と称したとされるが、吉岡流はもともと憲法流とも称され、憲法兄弟の曾祖父・吉岡直元(天文年代の頃)が、足利第十二代将軍・義晴に仕え、軍功があり、それ以来足利将軍に仕えたということで、足利将軍家の兵法指南の家柄であった。
当時は、道場を「兵法所」といい、現在の同志社大学敷地に位置する場所に、これを構えていた。父・直賢(又三郎)も名を憲法と称し、足利義昭の剣術指南を勤めていた。
俗説に新免無二斎と試合したのは直賢といわれている。その子は二人いて、兄が源左衛門直綱(前名は清十郎)は、後に父の跡目を継いで憲法と名乗った。また弟は又市直重であった。
そして『二天記』によれば、宮本武蔵玄信が京の吉岡一門と決闘して勝ったのは慶長九年の春で、武蔵が二十一歳の時であったと記している。
また逆に『吉岡伝』によれば、「最初の試合には武蔵が眉間を打たれ、出血多量で斃れ、再度の試合は武蔵が姿を晦(くら)ませて、逃げてしまった」と、為体(ていたらく)を記している。
さて、こういう記述には身贔屓(みびいき)やハッタリがつきものなので、どちらが正しいか判定は難しい。
武蔵が負けたとする資料は、彰考館本の『剣術系図』にも記され、武蔵に勝ったのは吉岡憲法の甥である吉岡七左衛門尉で、後に七左衛門尉は九州の立花飛騨守(たちばなひだのかみ)に仕えたと記されている。
しかし吉川英治の小説『宮本武蔵』は、こうした武蔵の負けを、「華々しい血闘」で紹介し、物語り風に仕立て上げているので、吉岡一門を敗ったことになっている。 武蔵の吉岡一門との決闘も、敢えて言うなら少数精鋭の賜であったと、後世の研究家は判断しているようであるが、戦争の歴史を見ても、少数精鋭が、多数のド素人に袋叩きにあって、実は敗れているということがあったのである。
例えば、中世ヨーロッパのプロ軍隊は、もともとアマチュアの市民大衆から組織された共和国軍に敗れている。
また日本においては、長篠の合戦で武田騎馬軍団の超精鋭の騎士が、素人臭い織田信長の軍に敗れている。
更に明治初年の戊辰戦争や西南の役では、剣術流は手練の武士の精鋭部隊が、明治新政府の下士・足軽・町人・百姓からなる多数の徴兵集団に敗れている。
要するに多勢に無勢であり、アマチュアがプロフェッショナルより新式の武器を持ち、組織系統、命令系統を簡潔化し、戦法を極めて単純化したことにその勝因がある。
本来ならばド素人より、プロの方が強い。
しかし玄人が素人に圧倒されるのは、玄人が新しいものに抵抗し、古いものに固執した場合である。
そして「寄らば大樹の景」という固執的な古い考え方は、逆転の発想からすれば、これを転じて「小が大を倒す」ことにも繋がっているのである。
吉岡一門と、武蔵との決闘は、どちらが勝ったか判定はつけ難いが、もし武蔵が勝ったというのであるならば、これはやはり、玄人集団が骨董的な考え方に陥って、新しいものに抵抗し、古いものに固執した結果に起こったと考えるのが筋道ではなかろうか。
武蔵の戦い方は、一度に多数を敵に回すのではなく、一人一人に対峙して、順にこれを敗り、小さな勝ちの集積にあった。
ある意味で、武蔵はこれまでの武芸者と考え方を一新し、その思考は柔軟であったといえるからだ。
後に武蔵が、二刀流によって「多数之位」を編み出すが、これはずっと後のことである。 |