■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)
●無分別の思考
人間の「迷い」は、何処から来るものであろうか。
考えた挙句の決断つかずで、優柔不断の結果から来るものではあるまいか。
「迷い」を齎したものは、近代に一般化した「分別」である。
近代以来の科学技術と知識・学識というものは、現代人の生活に深く関与を始め、分別ある知的生活を強要してきた。
この結果、頭脳で考えるだけの思考が最優先し、その為、魂の自在性は失われ、魂に作用し、魂を豊かにする道は閉ざされてしまったと言える。そして人は、自分に分別がつけばつく程、魂の存在を忘れる事になってしまった。
今日では高く評価される、物質界の自然科学に目を投じ、科学知識のみを唯一の味方にする唯物論的一元論に入れ上げ、この中においてのみ、日常生活を物質界に帰順させて、快適で便利で豊かな人生を意思するようになった。
しかしこの事によって、人体の中に存在する、霊的なエネルギーを発動する力は失われ、こうしたものは益々荒廃するばかりである。
ニュートン以来の物理学と、ダーウィン以来の進化論は、現代人に古い形での科学知識を教え、独特の沈殿法で魂と精神、魂と肉体を切り離し、人間が自然物質界の一員であることを教えた。そして、こうした沈殿物を受け取った迷える魂は、自在性を持った活動の場を見失い、長らく封印される事になる。
更にその封印は、再起不能というまでに深層部の奥に閉じ込められ、その活動は停止されたまま、長らく眠り続けている。
こうした情況下で、霊的なエネルギーは、人体を規則正しく機能させる力を欠き、知的で、分別のある、既成概念の規範に閉じ籠る「愚」を冒し始めた。
五官に頼る、外的な知覚的感覚の存在にのみ目を向け、これに関連する物理的生体機能の範疇で、思考活動を行い、一般的な思考概念で魂の活動範囲を規制し、これによって魂は、長らく力を奪われることになる。
人間は本来、永い間の遺伝子伝承で、太古からの智慧と叡智を所有してきたのであるが、知識の範囲で頭脳に作用することを学習し、魂は蔑ろにされた。
そしてその教えは、物質生活、文明生活においてのみ、機能するようになっていて、魂が直接頭脳に作用する霊的な伝達は失われ、まさに魂的な力や、霊的エネルギーは、白痴状態に追いやられてしまったのである。
頭脳は思考するものだ、と唯物論者は定義づける。
しかしこの主張は正しくない。
人間の持つ言語中枢は、おのずと形成されたものではない。人間が「話す」ことを学ぶ事によって、言語中枢を形成したのである。これが「言霊」という霊的エネルギーであり、ロゴス(logos)に回帰されるところである。
ロゴスとは、人々の話す「ことば」の意味で、概念・意味・論理・説明・理由・理論・思想などを意味する不思議な霊威である。また、ここより言語と理性を司る事象が齎される。
人間の頭脳の言語中枢は、こうした言語の結果から構築されたものである。したがってまた、頭脳の活動も、思考の結果なのである。
思考するから頭脳が活動するのではない。頭脳は思考を通して形成されたのである。
今日一般化されている思考と、科学知識の優位性は、思考が霊的な叡智に浸透できない程、疎外されてしまった。物質的な「物」に関与し、これに反応する次元に止まってしまった。もはや魂は、その力を失い、霊的なエネルギーは発動できないほどに弱化されてしまったのである。
そして頭脳で感得する範囲は急激に狭まり、無分別に変わって、分別が支配するようになった。魂の停滞である。
つまり分別とは、知識優位において頭脳を規制し、正しく機能させる、魂の霊的エネルギーを失なわしめたに過ぎなかった。頭脳は思考を通して機能しなくなったといえるであろう。
また頭脳と思考力を正しく把握出来ないので、頭脳を規則正しく使うことは出来なくなったと言える。
そして頭脳は、単に、物を記憶したり、貸借の損得勘定を計算したり、科学技術の関与のみに深くかかわって、唯物科学の概念を受け入れるだけの器になってしまったのである。
またその事が、魂から発する思考を遮断し、霊的エネルギーの力を封じ込め、物質文明が目紛しく入れ替わる中で、その末端の現象のみに捕らわれて、魂が感得する意識は益々暗くなるのである。
こうした暗さの中で、脳は軟化状態に向かい、非彫塑的(ひちょうそてき)な軟塊(なんかい)に成り下がった。本来の意味の言語から発する思考力は、もはや言語中枢に指令を出すことが不可能と言える程、地に落ちたものになってしまったのである。
そしてこうした結果、人類の進化と深くかかわってきた、諸力を司る魂は、宇宙の玄理の中心核から、軌道を外して大きく反れてしまい、宇宙の霊的理解の面で、意識感得を感知できないまでに後退してしまったのである。
●霊・魂・体の各々の自立的作用
人間の時代的進化の過程は、大きく分ければ三つに分ける事が出来る。
一つは太古から上古代。二つは上古代から中世。三つは中世から近代である。
この、年代を経る事に、頭脳の言語中枢は、科学知識と交わる事を次第に強めていった。
太古から上古代にかけての年代期は、頭脳が思考を通じて霊的理解が貫かれていた。自由で、然も闊達(かったつ)であった。
ところが上古代から中世に入ると、次第に分別が生じるようになり、脳機能は軟化し始め、古代エジプトに起って、アラビア半島を経由してヨーロッパに伝わった、原始的な化学技術が、これ迄と変わって支配的になる。また同時に宇宙の霊的理解と、霊的波調が粗くなる事によって、物質優位の可視現象が唯一つの拠り所となった。これが錬金術(alchemy)だった。
そして中世から近代に至ると、これまでの錬金術が、近代化学の基礎がつくられるまで、全ヨーロッパを風靡する事になる。
更に「賢者の石」(物質を金に化したり、万病を癒したりする力を持つと信じられた物質で、西洋中世の錬金術師たちの探し求めたもの)の探究は、急激に科学的意識に向かうようになり、一元的唯物論が、この年代期を覆うようになる。
そして出来上がったものは、分別の範疇で、「頭脳は思考するものだ」と主張されるようになる。
そこで議論の対象になったものが、疑問と、それに対する唯物史観的証明であり、頭脳は思考を通して形成される、という順序に、前後が逆になり、内的ならびに、霊的な智慧は、根拠のないものとして一蹴されてしまうのである。
そして意識を齎す魂は、霊的認識を満たさぬまま、封印されるものになってしまった。つまりこれが、無分別を分別に向かわせた元凶になったのである。
頭脳は思考するものである、という唯物論的一元発想法は、これまで人間が所有してきた「十二の感覚」を喪失させた。
人間の感覚器は五官という、視角、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五官に支えられているが、本来はそれだけではなく、他にも、同じ温度でも場所や部分によっては寒暖を感じる「熱感覚」があり、上か下かを判断する「均衡感覚」、リズムを持つ「運動感覚」、生命の根源を司る呼吸吐納の躍動する「生命感覚」、民族の言霊という「言語感覚」、思考や直感という「概念感覚」、そして自分という自我に対する自意識の「個体感覚」がある。
吾々はこうした感覚の中で、物事を直感したり、思考したり、あるいは感情を抱いたり、意志を堅固にしたり、これらを総合して人生を生きている。
そして修行者にとって、最も重要な感覚は「静と動」を意識する運動感覚であり、自分に対してどの程度の外的圧力がかかるか、という触覚の部分であり、これは最初五官の触覚を通じて情報が伝達され、それを自分の脳か感じるという現象が運動感覚を総称した意識である。
これは上か下かという感覚に併せて、いずれが左右であるか、という均衡感覚や平衡感覚が起こり、特にこれが、上からのしかかる重力ともなると、これは即座に運動感覚と直結されてしまう。
そして「重力」という意識は、つまり個体本人を演ずる「自我」が感ずるものであり、「私」が感ずるものであるから、自分に対してどの位の圧力がかかっているかという事を、知覚し、それを最初に感じるのは触覚である。これは敵から受ける圧力ばかりでなく、自分が敵を攻撃する時の圧力でもあり、また自分が木刀などを握って、素振りする時に感ずる意識でもある。この意識は、即座に運動感覚に変換され、波動の中に吸収しようとする。
人間の意識を司る人体構造は、大きく分けて三つの部分から成り立っている。
それは「神経感覚系」「循環系」「代謝運動系」の三つである。
神経感覚系は主に頭部を司り、頭脳から中枢神経と上肢である肩・腕・手を支配する。
また、循環系は主に胸部を司り、呼吸や体液の循環をコントロールし、呼吸の吐納を中心にした機能を支配する。
更に、代謝運動系は腹部から下の下半身を司り、内臓部分の胃から下の代謝機能が入り、下肢部分に至る消化・排泄機能を支配する。また運動作用としては、下半身の腰・脚・膝・足を支配する。
さて、「運動感覚とは何か」という問いに対し、まず運動感覚は、動いているものを対象にする感覚ではないという事が解る。本来は自分の位置を認識する感覚であり、その位置を確認しつつ、次の重さの位置の移行に連結され、最後には直接自我に反映されて、「私」が感ずる意識となる。その意識の中で、スピードを感じたり、敵の威圧を感じたり、その強弱を感じたり、圧力を感じたりしているのである。また位置を基準に「動き」や「静止」を確認する事が出来る。
そして「私」という自我意識は、基本的には重力との対決を余儀なくされるものなのである。
したがって如何に達人といえども、この重力を無視する事は出来ない。
換言すれば、重力を体験するという事は「私」という自我意識が認識するという事であり、「私」がこれを認識して、逆に敵に対してこれを認識させないという事が、つまりは「合気の極意」なのである。
ただ残念なことは、人間は誰でも多かれ少なかれ霊的体験やその他の不思議体験を持っているが、その感覚の感知は肉体的なものと霊的なもので分離されていて、現代人は双方を同時に直接結び付けて、融合し合う状態で実体験を感知する事が出来なくなってしまっている。 |