■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)
●源平時代の霊的認識
さて吾々は、古人が培い、養った、表面的な技術を探るばかりでなく、霊的な面からも探究しなければならない。
特に霊的な認識の持つ意味は大きく、古人がどのような経路を辿り、それによって、どのような形態を為(な)したか、それを探究しなければならない。
特に江戸時代前の、武士起こりを開花させた平安末期から、鎌倉、室町までの、十一世紀後半から十六世紀後半にかけての霊的認識が、本能的にはどう言うものであったか、それを解く鍵は、この時代の武士道観にかかっている。この時代は確かに乱世の世であり、室町期に至っては、日本列島は乱れに乱れた。この時代を「戦国時代」と言う。
そして、その序曲が「承久の乱」である。
承久の乱は、承久三年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討滅を図って敗れ、かえって公家勢力が衰微し、逆に武家勢力の強盛を招いた戦乱である。
そしてこの序曲は、「応仁の乱」へと移行される。
応仁の乱は、「応仁文明の乱」とも称され、応仁元〜文明九年(1467〜1477)に亙る戦乱であり、足利将軍家および管領畠山・斯波両家の相続問題をきっかけとして、東軍細川勝元と、西軍山名宗全とがそれぞれ諸大名を引き入れて京都を中心に対抗した大乱である。京都は戦乱の巷となり、幕府の権威は悉々く地に落ち、社会や文化を含めて、大きな時代の画期(区切り)となった戦乱である。そしてこれ以降、本命の戦国時代に突入する。
日本では、応仁の乱以後、織田信長が天下統一に乗りだすまでの時代を「戦国時代」と言う。
そして序曲から始まる時代を経て、人間は霊的構造がどのように変化したか、それを探る必要がある。
こうした時代の人々が、救いを求めて、霊的なものへ向かう、感情の置場は、当時産声を上げたばかりの法然・真鸞の念仏宗(阿弥陀仏)か、後の日蓮の妙法蓮華経への帰依であった。
そして武術の世界も、「飯縄使い」(いいづなつかい/想像上の小さい管狐(くだぎつね)を使って術を行うこと)なるものが登場して、この時代の武芸者は、また一方で、幻術や妖術を遣う、霊界の働きを熟知した特別な人達と思われていた。
日本で流名を上げた、一番古いと称される剣術流派は、飯篠伊賀守家直(いいざさいがのかみいえなお)を流祖とする天真正伝神道流と言われている。
天真正伝神道流を詳しく記す『本朝武芸小伝』によれば、「飯篠山城守家直は、下総國香取郡飯篠村の人で、幼少より、刀・槍の術を好み、精妙を心得、鹿島香取神宮に祈念し、その技芸を天下に顕わさんとして、その流名を天真正伝神道流と名乗った」とある。
しかしこれ以前にも、正式な流名こそないが、既に源平武士の時代に各々の武家で「秘伝」と称される門外不出の武芸が存在していた。
さてそれを探究する為には、源平時代まで遡らなければならない。
この時代、源平二氏が武士の棟梁(とうりょう)としてあらわれ、互いに盛衰興亡のあった時代を「源平時代」と言う。平安後期の、十一世紀末から十二世紀末の約一世紀をこう呼ぶのである。
この時代、武士の表芸であったものは、弓術、馬術、組打(組みついて討ち取ること)であり、最後に打物(鐡を打ち鍛えた武器。刀・槍・薙刀・長巻の類での斬り合い、突き合い)というものがあり、この四条件もって「武芸」と称していた。
源平時代の戦場での常は、弓術、馬術、組打が中心で、打物を持ってそのまま討ち取られるという事は非常に少なく、打物で敗れても、戦闘意欲が残っているので、最後の詰めは組打による、組伏せて馘を掻くというのが最後の手段であった。
しかし一口に組打というが、今日に見る柔道のような、投げられれば一本、抑え込まれれば一本というようなものではなく、投げられても、抑え込まれて捻じ伏せられても、戦意が残っているうちは、組み伏された下から、鎧通し(反りのない、重厚に鍛えた短刀)を抜いて、上になった武士を刺して、馘を掻くというものであった。
その為、自分の方から、わざと投げられたり、下に組み伏されるような恰好になって、敵に油断と隙を与え、それに乗じて止めを刺すというものであった。
また組打においても、一般に想像される組打は、騎馬武者同士が馬から降りて、格闘するのではと想像するであろうが、これは真に馬術を知らない素人考えで、組打の基本は「馬上組打」というものであった。
源平時代の多くの戦記物を見てみると、馬上で打物の格闘をやめて、組打に挑む場合が多かった事を記している。
打物とは太刀、槍、薙刀、長巻などであり、これらは、よく折れる為、どうしても最後は組打となるのである。
では、どうして折れるのか。
太刀、槍、薙刀、長巻などの鍛え物は、よく折れた。
それはこれらの武器は鍛えられた鋼であり、鋼を持って叩き合いをすれば、刃切れを起こすからである。棟打(むねうち/みねうち)も刃切れする。
一般人が考えるように、これらの武器はそんなに丈夫なものではない。特に太刀は、一度打ち合っただけで、刃毀れ(はこぼれ)がし、二度目の打ち合いでは、刃切れを起こし、三度目には折れる事がある。槍、薙刀、長巻も同じであった。
多くの日本人は、テレビの時代劇やチャンバラ映画で、誤った日本刀観を抱いてしまっている。日本刀は素人が思うほど丈夫でなく、またそんなに人間が大根のように斬れると言うものでもない。
剛の者でも、敵対した一人目は何とか斬り伏せても、二人目は血糊(ちのり)で刀が引けなくなり、敵の躰に当たっても、決定的な致命傷を与えることは出来ない。そして、三人目と対峙した時には、刀が飴の棒のようにグニャグニャに曲がっているというのが実情だ。
その為、日本刀における刀操法は非常な修練が必要であり、敵を斬っても刀に血糊を付けず、「いかに素早く斬り抜くか」という事が研究課題だった。これが源平時代より後の、剣術の技法になっていくのである。
しかしこうした剣術も、江戸時代に入ると、実戦には役に立たないものになる。多くの剣術流派も、戦場で通用するような斬り合いの為の武芸の伝承は、怠る傾向に駛(はし)っていた。つまり道場内稽古に止まっていたのである。
単に木刀、もしくは袋竹刀を持って、一対一で相手の躰のポイント稼ぎの箇所に当て、叩き合うというものに変貌する。
そして江戸末期の幕末になると、北辰一刀流なるものが出て来て、神道無念流の斎藤弥九郎(激剣館)、鏡新明智流の桃井春蔵(士学館)と並んで幕末の三剣士と言われるようになるが、北辰一刀流の千葉周作(玄武館)のそれは、更に「叩き合い化」を極める。
この叩き合いは、これ迄の剣術とは大きく異なり、武士のみに限らず、その裾野を町人にも広げたものであった。その為、軟弱化し、小手・面・胴を模した防具を付け、その部分のみを打ち合って、優劣を競うという競技剣術が姿を顕わす。
戦場理論から言っても、脚の「脛」を払う事が常識になっていた中世、「脛」の部分の打ち払いは、この時代に至って姿を消す。
そしてこれらは「打ち合う」というもので、「斬る」と言う戦場理論での思想は完全に抜け落ち、実戦からは大きく後退した、競技の一種の武技になってしまった事は言うまでもない。
今日の近代剣道は、北辰一刀流の競技思想が基盤となっている。
こうした「打ち合う」競技思想は、乱世が治まった江戸時代の軟弱武士の登場に由来する。
江戸時代に入り、戦乱がなくなった時代、武士階級の間では、刀を必要以上に神聖視する傾向が生まれた。
これが江戸時代全般、明治全般、そして戦前・戦中の大正・昭和の時代にまで常識化され、日本刀は益々神聖化され、「日本刀の拵(こしらえ)は完全である」等という、愚かしい暴言まで飛び出すようになる。
今日においても、一般的な見地から、「打刀」形式の日本刀の拵は極めて軟弱であり、特に「栗型」(くりがた)においては、鞘に張り付けただけという、その略弱な欠陥が大きく目につく。
こうした欠陥を一度も補う事なく、戦前・戦中の大正・昭和の帝国陸海軍は、軟弱な日本刀を模した半太刀拵の軍刀を、将校や下士官に配給したのである。欠陥だらけの装飾品を武器にして、戦争に勝てる分けがなかった。
こうした武器の欠陥に対し、軍首脳では、殆ど誰もその略弱な欠点を指摘する者なく、中国侵略、そして太平洋戦争と向かわせたのであるから、もともと勝てる筈の戦争であっても、勝つ事が出来なかったという事は、ごく当り前の事である。
そして世界の軍隊の中で、日本だけが刀に固執し、これを実用兵器として重要視していたのであるから、そのこだわりには時代遅れの観が否めない。
太平洋戦争当時、最前線に赴任した下級将校や、軍刀を吊す事を許された下士官の間からは、特に陸軍が制定した軍刀は、「欠陥だらけであるので、これを、アメリカ軍のように、全ての将兵には小銃携帯させたらどうか」という意見具申が度々あったと言う。
しかし大本営陸海軍部は、こうした現場の具申に耳を貸さず、「皇軍の魂は日本刀である」という、一点張りで、これを退け、装備に欠陥があるのにもかかわらず、敗戦までこれを押し通してしまったのである。
日本刀とその拵に欠陥がある以上、勝てる戦争でも、勝てなかったというのは、至極当り前の話である。
武士の「表道具」である日本刀の「打刀」は、特に江戸時代に入って「栗型」に欠陥を露にした。また「鞘」においても、鐡の刀身を厚朴(ほお)の木で包むという、世界でも珍しい軟弱な仕様で作られた。柄も、鮫皮を巻いた上に、正絹などを巻き突けた装飾品に近いものである。
坂本龍馬が、京都・近江屋で中岡慎太郎と伴に刺客(幕府見廻組とも言われるが)に遭遇した時、龍馬は刺客の第一打を刀の鞘で受けているが、深く斬り込まれて防ぎ切れず、致命的な傷を負い、第二打で即死状態に討ち取られている。
また、新選組の藤堂平助は出動の度に、刀の柄を一回一回巻き直さねばならぬほど握力の強い持ち主と言われたが、こうした、握力の強い、更に「茶巾絞り」の強い者には、従来の日本刀拵は、殆ど役に立たなかったと言えるであろう。
江戸時代に流行した武士の打刀は、武器というより、むしろ装飾品に近く、激しく打ち合う戦闘にはあまり役に立たなかったと言えるようだ。
以上を総合すると、やはり戦場における戦闘は、刃毀れを起こし、刃切れを起こす太刀、槍、薙刀、長巻などの武器を持っての戦闘は、第二の手段に退き、第一の手段はやはり馬上による「組打」であった事が分かる。
●巴御前の馬上組打
平安末期・鎌倉初期の武家の女性に巴御前という美女がいた。彼女は組打の名人であった。
巴は木曾の豪族・中原兼遠の娘で、今井兼平の妹であった。
武勇に優れた女性で、源義仲(平安末期の武将で、為義の孫。二歳の時、父義賢が義平に討たれた後、木曾山中で育てられ、名を木曾次郎義仲という)に嫁し、武将として最後まで随従した。
後に夫義仲は戦死するが、その後、和田義盛(鎌倉初期の武将で、幕府初代の侍所別当で、三浦義明の孫。源頼朝挙兵以後、常に従って功を立てた。代表的な鎌倉武士であったが、北条氏の挑発に乗り挙兵して敗死、一族滅亡)に再嫁し、その夫の敗死後、尼となって越中に赴いたという、波乱万丈の人生を辿った女性である。
さて一般に組打というのは、馬から降りての組打と誤解されやすい。しかし源平時代、馬上での組打の例は、以外と多い。
組み伏されて止めを刺されるというのは馬から落ちて、格闘以後の事であり、単にその後に勝負を決した(馘を掻いた)という結果に過ぎず、しかし馬上において、馘を掻くという例も少なからずあった。
通常の場合は馬上組打が開始されて、その結果双方とも落馬し、格闘戦に縺れ込んで馘を落とすのであるが、中には馬上組打の状態で騎乗したまま馘を掻くという事があった。
その記録の中で、巴御前が内田三郎家吉を馬上組打で討ち捕った名勝負は、知る人ぞ知る語り草になっている。
巴は伝説によれば、超人的な剛勇の女性となっている。
しかしこの根拠は何処にもない。むしろ彼女は、組打の妙技を身に付けていたのではあるまいか。つまり「耶和良之術」(やわらのじゅつ/弥和羅ともいい、柔取ともいう)である。
本来、組打の妙技を身に付けていれば、馬上で勝負を付けるという事も可能である。
巴は中原兼遠の娘である。また今井兼平の妹であった。木曽の山中で育ち、豪族の名門であった。本来こうした名門の家に生まれた子弟は男女を問わず、家訓に則って、家伝の秘術を習得する義務が課せられている。
彼女が組打の秘術「耶和良之術」を習得し、極意を授けられていたという事は容易に想像がつく。こうした秘術の極意を会得したればこそ、一方の指揮者として、従軍した事は当然の成り行きであり、元来、戦闘の指揮をする将軍格はこの時代、何らかの特技を持ち、それを縦横に駆使して大軍を率いるというのは、ごくありふれた常識となっていた。だから配下が付き随った。これがなければ将軍としての資格を失うのである。
主君とか、大将格の重臣が平和惚けで軟弱になり、家柄だけで上座に祀り上げられるというのは、江戸時代に入ってからの事である。
この時代に入ると、大軍を率いて戦闘に明け暮れるという事よりは、政事(まつりごと)を司るというのが「主君」の職務となり、次第に武門の家訓は色褪(いろあ)せ、軍事教練は趣味の範囲を出なくなる。
ところが源平時代は戦時であり、平時とは異なる生活と、家伝として伝わる秘術を習得する事が、武家では当然の勤めであった。
馬上組打の勝負である。
内田三郎家吉は敵の陣営に唯一人、長い髪をなびかせる女を見た。髪をなびかせ、馬で疾走する端麗な女を見たのである。それも絶世の美女だった。
三郎家吉に不埒な心が起こる。女と侮る慢心が起こる。その慢心・傲慢に合わせて、馬を叱し、女の後を遂う。そして、いきなり女の髪の毛を掴んだのである。
そのまま組み伏して、犯そうとしたのか、あるいは女の馘を掻こうとしたのか。
女は振り向いて激怒した。巴であった。
巴はまさか、剛の者がこんな卑怯な方法で、髪の毛を掴むなど想像もしていなかったので、激怒したのである。武士にあるまじき行為だ、と憤慨した。
「何者ぞ!」巴は発した。
「内田三郎家吉と申す」
「やよ、内田三郎家吉とやら、汝も聞こえた勇士にあらずや!」
「如何にも」
「女の髪の毛を掴んで、討ち取るとは、武士にあるまじき卑怯の振舞い!」
巴は三郎家吉の不埒な行為を激しく戒め、辱めた。
三郎家吉も己の卑怯に気付いたのか、ただちに巴の髪を放した。
「いざや組まん!」巴は告げる。
「おお!」
そして改めて、尋常な組打態勢に入ったのである。
組打は本来ならば、掛け手は身体を馬上から乗り出し、先手にて、相手の小手を取りに行って、自分の方にグイと引くのであるが、「耶和良之術」を心得た者は、敵が手を出してきた時に、吾が手を掴ませず、「抜手」(拇指方向に切り上げる術)を切って、逆に敵の手を掴んでしまうのである。
ところが剛力の者は先手争いを競って、互いに打手の手を先に握ろうとする。「外し手」と「掴み手」の攻防が繰り返されるのである。そして握った瞬間、剛力に物をいわせて引き摺り落とすのである。したがって正直に組もうとする者は、必ず剛の者に引き摺り落とされる。
こうして敵を引き摺り落とした後、馬に角を入れて(馬を走らせる為に、両の鐙(あぶみ)で馬の腹を蹴り、拍車を加える事をいう)疾走させ、戦意を失ったところで、馘に鎧通しを突き立てるのである。
この時も、三郎家吉は巴に対してこうした組手術で対抗するつもりでいた。勝負はついたも同然の気持ちでいた。
ところが、いつものようにはいかなかった。
三郎家吉は、巴の手を掴み引き立てようとした。すると三郎家吉は忽ちのうちに、巴に捻り伏せられてしまった。そして鞍の前輪(まえつわ/鞍橋(くらぼね)の前部の輪形に高まった所)に押し付けられ、あッと言う間に鎧通しで馘を掻き切られてしまったのである。恐ろしい早さだった。鮮やかに、首と胴体は切り離された。但しこれは、後の時代の後人による茶利(ちゃり)の可能性もある。
しかし巴が、三郎家吉を馬上で押さえ付けた事は十分に考えられる。ここに馬上組打の秘術が隠されている。
ではどのように、これを実行したか。
まず、彼女は馬上に足腰を押し付けて「丹田の気」(臍下丹田の気)を下方に下げ、脚を締め、後輪(しずわ/前輪と後輪を居木(いぎ)に取りつけ、鞍の骨組をなす後方部分)に当て鐙を踏み、体勢を一旦確保しておいて、三郎家吉が手を出してくるところを待ち構えていたものと思われる。
三郎家吉は己の剛力に自信があり、その大力に物を言わせようとしたのである。しかし巴としては、「待ってました」の体勢であり、三郎家吉の侮りの心理を見抜き、彼が「手取り」にするつもりで、鞍から尻を浮かした瞬間に捻り伏せたものと思われる。
この組打体勢は、巴が三郎家吉の組手を先手にとって、逆手にして引き回し、そのまま鞍橋の前輪に押し付けたものと思われる。これが組打による、耶和良之術による「腕取り」である。
三郎家吉は小手捻りの要領で捻り取られ、次に小手返しの業で仰向けにされて、巴と彼との両馬間で、掛け橋のようになった処を、彼女は素早く鎧通しを抜いて馘を掻き切ったものと思われる。
こうした情況下、巴は関東武士が見ている環視(かんし)の中でやってのけたのだから、それを視ていた大勢の武人達は、さぞかし彼女の凄さに度胆(どきも)を抜かれた事であろう。
ここで非常に重要な事は、内田三郎家吉のような大剛の男を、馬上で刺殺する事が相撲のような力技では決して出来るものではないと言う事だ。また柔道のような組み入りの剛力でも出来るものでない。耶和良之術は後世に、剣の裏技として起源する「柔術の手」が、当時既に「組打の極意」として、高貴な身分の武家には「秘伝」として伝えられていたと考えられる。巴はそれを会得していた為、剛の者を組み伏し、馘を掻いだと言えるであろう。
つまり巴は、大剛の男の馘を掻くのに、耶和良之術で勝ったものであり、後世に言われているような、彼女自身が剛勇で、大力の持ち主であったという言い伝えは、むしろ根も葉もない茶利に思える。
事実、耶和良之術をもってすれば、馬上組打で敵方の馘を掻くという事は、極めて可能な事なのである。
『大日本史』(神武天皇から後小松天皇までの歴史を纏め上げたもので、徳川光圀の撰で、397巻の漢文の紀伝体)によれば、以後、巴はこれまでの武者姿を女姿に身を変え、女装で戦場を逃れ、しばらく越後に身を隠していたが、後日頼朝に呼び出されて、和田義盛に嫁がされ、再婚したとある。
巴が、内田三郎家吉を耶和良之術で討ち取ったのは事実であろうが、しかし彼女が決して非力の女性であったという分けではないようだ。
彼女は朝比奈義秀の母であり、義盛が強い子供を生ませる為には、巴が必要不可欠であったことから、非常に頑強な身体の持ち主であった事が想像される。その為、義盛は頼朝に懇願し、彼女を嫁にと切望したのであって、その遺伝・血統は我が子・義秀に受け継がれる。したがって巴自身、優れた体力の持ち主であった事は疑いようもない。
朝比奈義秀の母・巴の遺伝・血統は、彼の遺伝の血の中で受け継がれ、やがて大力無双の若者に成長する。
そして義秀は、1213年(建保元年)、父・義盛が北条氏を攻めて敗れた時、安房に走り、のちに不詳の謎と、種々の伝説を齎すが、今日でもこれは小説や演劇や舞踊の題材にされ、その母、巴御前は今でもその武勇が称賛されている。
そして巴が討ち取った内田三郎家吉は、当時六十人力の剛の者と言われた。したがって、これを討ち取る為には、彼女の体力と「耶和良之術」の秘術が必要であり、その秘術との相乗効果が、彼女に三郎家吉を討ち取らせる事を可能にしたのである。
この組打において、内田三郎家吉もまた武士であり、巴が詰問を促すと、
「やよ、内田三郎家吉とやら、汝も聞こえた勇士にあらずや!」に対し、
これに応えて、三郎家吉も、
「如何にも」と即答し、巴に対する今までの非礼を愧じ、尋常の勝負に挑んだ事は、恥を知る武士として、後世の称賛に値する。
本来ならば、これこそ「士道全うの武士」ではあるまいか。
これに対して先に述べた『武士道』の著者・新渡戸稲造は、平安中期の豪族の安倍貞任の「衣川の合戦」の歌詠み応答を挙げているが、本来、戦いとは、単に知的ゲーム感覚の頭脳戦だけではあるまい。
特に戦場において、知的な勝負の決着は、一般の将兵には非常に分かりにくい。知的水準も生活水準も、上士に比べて低い下士は、むしろ教養をベースにする知的ゲームよりは、秘術の限りを尽くして、誰が見ても、はっきりするものを好む。そして誰が考えても、勝ち目が無いという者が、逆転劇で勝ちを修めるという奇蹟に大きくうたれ、感動するものである。
江戸時代に大流行した相撲は、以上述べたような要素が入っていた。相撲が庶民に大流行したのは、この時代に「土俵」が発明され、誰が見ても勝敗が明確になり、それが単純化されたからだ。
そして最も人気を集めたのは、身体の小さな力士が大男の力士を倒す、その一瞬だった。多分に逆転を期待するところがある。今日の大相撲でも、こうした逆転劇を演じたり、小兵でありながら大兵を敗る力士は人気が高い。
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