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大東流の基本となる日本刀の操法

■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)

●逆転劇での意外性

 日本人が最も感動し、そして情熱を燃やすものは、こうした逆転劇であり、奇蹟である。だからこそ、今日においても、こうした逆転劇は大衆の多くに持て囃され、後世の語り草になっているのである。

 そして日本人が最も情熱を燃やし、感動を呼び起こすものは源義経の「鵯越え」であり、楠木正成の「千早城」であり、織田信長の「桶狭間」である。
 こうした戦いは、誰が考えて見ても、勝つような戦いではない。むしろ負ける方が九割方を占めた戦いであった。
 ところが巨大な敵に対し、誰が見ても勝てないような敵に、最後の最後に逆転劇で勝つ。それにこそ、日本人は異常な情熱を燃やすのである。ここに日本流の特異な戦争観があり、古来より、日本人はそんな逆転劇の戦勝に大喜びしたのである。

 歴史上、日本流の戦績を分析すると、日本人が最も喜ぶのは鵯越え、千早城、そして桶狭間だ。これらはいずれも、比較を絶する大敵に圧勝した逆転劇が、歴史に刻み込まれている。
 しかしこれを裏側から見れば、客観的には、まさに無謀な戦いである。誰が見ても、最初から勝ち敗けが決まった、十中八九、勝負が着いた戦いであった。

 ところがである。
 一方で無謀な戦いであると言われながら、名将に率いられて戦いを展開する、「小能く大を倒す」の構図は、日本人の最も絶賛する模範的な戦闘でもあるのだ。
 小兵力が、特異な秘術の策を以て、大敵を打ち破る、これこそが、日本人が最も好み、そして大衆が支持する戦いである。
 したがって「武士道の何たるか」という、実際問題を挙げた場合、単に知的ゲームの言葉のやり取りや、和歌応酬の歌詠みではないという事は、明確であろう。

 新渡戸稲造の挙げる『武士道』の一節には、安倍貞任の「衣川の合戦」での歌詠みが武士の誉として紹介されているが、結局、貞任は前九年合戦で源頼義や義家と戦い、厨川柵(くりやがわだな)で敗死している。
 問題は、この「敗死」である。
 敗死するとは、心身ともに「弱い」からであり、また、家伝伝来の「秘術」を持ち合わせていなかったからに他ならない。

 こうした秘術を持ち合わせない、武士が「歌詠み合戦」で、一時を生き存えたとしても、結局、最後は敗死するのであるから、何とも情けない話である。
 むしろ誇り高き武士ならば、せめて巴御前くらいの秘術を身に付けておく事が必要であった。みすみす敗走し、そしてそれが元で死ぬのでは、あまりにも悲惨という他ないではないか。
 こうした武士に、一体、どこが「武士道を全うした」と新渡戸稲造は感動し、こうした愚にもつかぬ挿話を、尤もらしく「武士道」と称しているのであろうか。

 「文」の世界しか知らぬ、軟弱な机上の空論家が、歌合戦で武士道を弄ぶ振舞いは、全く理解に苦しむ限りである。
 もし、英訳の新渡戸本が、そのまま外国人に受け入れられて、これこそ「日本の武士道の極めだ」と勘違いされては、実際に、日夜武士道を全うしている人にとっては、甚だ迷惑千万な限りである。

 武士道とは、「文武両道」であって、はじめて武士道実践者と言えるのであって、「知識」の部分のみが優れ、それをひけらかし、「戦いの智慧」(実技)を蔑ろにする者を「士道」のレベルで論ずる事は、まさに江戸時代の馬鹿殿礼賛であり、食事の時の箸も一々奥女中から口に運んで貰い、糞を垂れても、自分の尻を奥女中に拭いて貰う、あの愚行丸出しの馬鹿殿では余りにも情けないでないか。

 卑怯者、臆病者というレッテルは、健全かつ単純な思考の持ち主ならば、これに対して、まず最初に反応する事はない。これこそ侮辱的言動であるからだ。またこれが、武家の道徳的な拘束力になっていた。
 そして日本では中世より、こうした考え方で武家は、幼少時代より教育を受け、この観念を頼りに人生を歩み始める。
 そして一旦事が起きれば、この道徳的な拘束力が武士道を全うする原動力になり、この原動力をもって、戦闘を行ってきた。即ち、戦闘とは、攻撃的な要因と防禦的な要因を相互に含む、行動原理であった。そしてこの原点は「奉仕」である

 ところが戦闘において、知的で情緒的な、和歌を詠むなどの詩歌が加わると、これまでの単純かつ健全なレッテルは剥がれ落ち、知識の為の歌詠みゲームにとって変わられ、失墜する事になる。
 そして一方で、武士は桜花に象徴されつつも、また一方において、武技の実践者として軽視される思考が登場した。
 つまり「文」を頂点において、その傘下に「武」を組み入る考え方が支配層の一般的な思考になったのである。
 またその事が、江戸城を創案した太田道灌(どうかん)の最期に、武士道としての「余裕」を残したと、新渡戸本では褒めちぎっているのである。

●歌詠み・太田道灌

 太田道灌は室町中期の武将で、また歌人でもあったと日本史には記されている。
 道灌は扇谷(おうぎがやつ)上杉定正の家臣で、名は資長(すけなが)と言った。俗に持資(もちすけ)とも言われた。
 彼の得意とするところは、築城技術であり、また兵馬の法に長じ、学問ならびに文事も好んだと言われる。しかし後に讒言(ざんげん/あしざまに言って、人を陥れること)を信じた主人・定正に謀殺された。
 その時の道灌の気持ちを察して、新渡戸はこう言う。

 道灌が定正の送り込んだ刺客に、槍で刺された時、刺客は道灌の歌に長じた事を知っており、一突きした刹那に、

  かかる時さこそ生命の惜しからめ

 という上の句に対して、

  兼ねてなき身と思ひ知らずば

 と、道灌は息も絶え絶えに下の句を詠んだと言う。
 新渡戸はこれが勇気であり、スポーツ競技者のスポーツマンシップ(sportsmanship/正々堂々と公明に勝負を争う、スポーツマンにふさわしい態度)の要素を含んでいるとまで、言わしめているのである。そしてこれこそ「余裕」であり、その歌人としての学問と知識は、末代までに尊敬に値すると言うのだ。

 しかし知識は、本来の目的を成就させる為の、智慧や叡智を導き出す、単に手段であったはずだ。
 ここに新渡戸の大きな勘違いと、武士道認識の誤解があった。
 果たして「余裕」があったのなら、死に際に、息も絶え絶えに、脇腹に絶対的な致命傷を負いながらも、歌を詠んだりするだろうか?
 武士道の実践者で、武士であるならば、歌の一首を捻り出すのではなく、最後の全力を振り絞って反撃し、刺客を叩き伏せるべきではなかったのか。

 この場面を、巴御前に侮蔑を罩めて卑怯な振舞に至った、内田三郎家吉に投影させてみたらどうだろうか。
 六十人力と称される剛の三郎家吉が、巴の髪を掴み、引き摺り落として辱めようと考えていた彼に、彼女が声高に上の句を投げかけ、それに彼は下の句で応えただろうか?
 こうした戦闘状態にあって、歌のやり取りは無用の長物であり、ナンセンスといわなければならない。やはりこうした緊張状態にあっては、巴の会得した秘術が大きな説得力を持つ。屈辱は行動を持って示すしかない。これが武士というものである。

 もし巴が上の句などを投げつけていたら、「何をほざくか」の一蹴で、即座に馬から引き摺り落とされたに違いない。そして武装を剥ぎ取られ、衣服を剥ぎ取られて、大勢の関東武士の見ている前で、辱めを受けた事は必定であったであろう。これこそ巴にとっては、恥辱であり、唖然とさせられる、悲惨な場面が登場しのではあるまいか。そしてこれが常習となって戦いの歴史は以後、淫乱に向かったのではあるまいか。

  戦乱と淫乱とは、秩序の上で大きく異なるので、これらも心得ておくべきである。
 いかにルールのない戦争といえども、戦争観の何たるかの目的が明確でない場合、その汚名は歴史に残る。特に戦場での、己自身の身の処し方は、後世まで語り継がれる。
 しかし日本人は先の大戦において、戦乱と淫乱を取り違え、中国大陸や朝鮮半島の女性に多大な迷惑をかけた歴史を持つ。著者も日本人として、非常に恥ずかしい限りだ。

●戦争観を取り間違えれば、戦乱は忽ち淫乱と化す

 近代日本史には、中国大陸と朝鮮半島の人民に大きな迷惑と、恥辱を与えた歴史を持つ。
 この歴史は豊臣秀吉の朝鮮半島に対する「朝鮮征伐」(1592年の文禄の役、1596年の慶長の役。朝鮮では壬辰倭乱と呼ぶ)から始まり、先の大戦の朝鮮・韓国の「従軍慰安婦」、同じく大陸での「中国女性の凌辱ならびに強姦後の虐殺」など、日本人が戦乱と淫乱を取り違えた歴史は、決して少なくない

従軍慰安婦として日本軍憲兵に連れ去られる朝鮮女性

▲従軍慰安婦として日本軍憲兵に連れ去られる朝鮮女性

 しかしこうした戦争観の取り違えは、何も日本人だけとは限らない
 日本人以上に、大戦末期、火事場泥棒のように満洲になだれ込んだソ連軍の無法は、日本人の行動レベルを遥かに上回る、残酷極まるものだった。特に字学の無い、ソ連兵士のそれは、日本人婦女子に対して筆舌に尽くし難いものであった。ここが、一応尋常小学校までの教育を受けた日本兵の行動のそれとは、大きく異なっていた。

 戦場の最前線において、当時、欧米列強およびユーラシア大陸の軍隊は、主将が戦死すると、その軍隊組織は崩壊した。指揮官がいなくなると、忽ち烏合の衆になり、暴徒と化す。したがって兵を指揮する将校の役割は大きい。逆に言えば、将校が戦死すると、副官がこれに代わるのであるが、副官も戦死すれば、指揮系統は乱れる。したがって兵だけの軍隊は、あまり存在しない。

 ところが日本兵の組織は違っていた。
 例えば分隊において、上級の下士官(曹長・軍曹・伍長・兵長)が戦死して、上等兵以下(上等兵・一等兵・二等兵・赤ベタ)の兵だけとなっても、この組織戦闘は機能を失わない。基礎的な字学がある為、命令系統は健在であり、これによって組織戦闘は可能である。この意味で下士官・兵は、日本の場合、優秀であったといえる。

 しかしこれを指揮する将校は、上に行くほど無能となり、これによって日本軍は、陸海軍ともはっきりとした戦争観を持たず、自ら墓穴を掘る事になる。
 戦争を指導する者に「戦争」の実態を知らない者がいると、戦乱は直ぐに淫乱に摺り変わり、やがて至る処で凌辱や強姦事件が後を絶たなくなる。
 その意味では、当時大陸に派兵された日本軍将兵も同罪であろう。

 そして当時の帝国陸海軍軍人は、自らを「皇軍」(天皇の軍隊)と自称しながらも、その仮面の下は淫獣に他ならなかった。
 日本人の島国的特徴は、概ね如何の如きものであろう。
 将兵の一人一人は日本の内地に居る時は、女房や恋人や兄弟姉妹の手前から、淫獣の牙を隠し、大人しくしているが、一度日本を離れると、その淫獣は牙を剥き、魔性が姿を顕わす。

 そして日本人の、内地と外地の魔性を使い分ける長年の伝統は、先の大戦で終焉したのではない。今もその延長上にある。
 現に、東南アジアなどに出て行く商社マンの九割方が、こうした類の企業戦士であり、彼等もまた、外地に出た途端に淫獣の魔性を蘇(よみがえ)らせる。大人しいのは女房・子供や、恋人の手前で、恰好を付けている内地に居る時だけである。

 これまでの歴史の中で、日本人は「尚武の民」と自称しながらも、一体何を以て「尚武の民」と自称するのか。
 新渡戸本の如く、歌詠みに長けた上級武士を、武士道実践者の帥(すい)と決め付けるのか。
 しかし和歌を巧みに詠み、教養面だけをひけらかす事が、武士道とは思われない。
 新渡戸は「武士の情」を「内在する仁」と解いている。おそらくこれは儒教あたりから引っ張り出してきた「飾り言葉」の類であろう。

 では「内在する仁」とは何か。
 新渡戸は言う。
 「母の徳であり、それは内在するやさしい仁」だと。
 高潔な義、厳格な正義、慈愛に満ちた母性、やさしく諭す力……云々を上げている。
 だが、武士道を全うしたと信じる帝国陸海軍の高級軍人に、果たして「さむらい」は居たのだろうか
 他人に対する慈悲は「武士の情」と称するそうだが、果たしてこの「情」は、慈愛と連動していたのであろうか。

 日本軍が敗戦後、完膚無きまでにアメリカに解体され、徹底的に細部まで分解されたのは、こうした「義」とか、「仁」を掲げる、一部の日本軍閥の欺瞞を、アメリカの支配中枢が知るところになり、これが為に解体に及んだのではあるまいか。
 表面的な軍部解体は、現憲法の第九条による「戦争放棄」であるが、内面的には、日本人の「霊的認識」と「言霊認識」の解体・分解であった。むしろアメリカは、この点に力を置いたと思われる。
 こうした歴史の側面に、付着した陰謀に気付く者は少ない。

 日本国民の大半は、欧米の陰謀を信じない。
 したがって現憲法でも、建前の上で戦争を放棄し、本音の部分では自衛隊を内在するという欺瞞的な部分の矛盾に気付かず、戦争放棄と平和主義の、美辞麗句のみに目を奪われている人が少なくないようだ。
 日本のこうした矛盾に、諸外国の何処の国家が、日本の二枚舌をすんなりと信用するであろうか。

 さて、近代民主主義はデモクラシーを実現する為に、市民社会の存亡をかけて、近代的な軍隊を組織編成する事で、国益をぶつけあいながら戦争を繰り返してきた。これは極めて重要な事であり、欧米列強およびユーラシア大陸や、朝鮮半島はこの思想の下で今日も動いている。
 ところが日本人はどうだろうか。
 戦争に負けると情緒的になり、「国敗れて山河在り」などと、のんびりな事を言っている。こうした民族は世界中でも、日本人だけではあるまいか。

 事実、フランス国家の「ラ・マルセイエーズ」は、祖国防衛の為に進軍する市民から組織された義勇軍の歌であるし、アメリカ国家の「星条旗よ永遠なれ」は、アメリカ独立戦争で敵国イギリス兵の銃弾に斃(たお)れた愛国者の歌ではないか。
 そしてこうした戦争を戦った兵士への激励は、「正しい戦争」を戦う事であった。然も勇敢で、死をも恐れない兵士を、最後まで称賛し、その武勇を賛えているのである。

 ところが日本は違った。
 欧米人の戦争観は「正しい戦争」を戦っている為に、あるいは「勇敢な兵士」である為に、日本人のように、戦闘の緊張から起こる異常性欲を満たす為に、戦場に売春宿を設けなかった。聖戦に、か弱き女を持ち込み、それを慰めとする意識は、表面上存在してはならないものであった。

 これに対して、愚かな一部の、日本軍贔屓の論説者はこう言うであろう。
 「日本人は、敷陣した海外の婦人を辱めたり、姑娘探しに夜の巷をうろつき、こうした品位のない状態を慎む為にも、自前で慰安婦を持参した」と。
 しかしこの考えは、大東亜共栄圏建設の思想に準ずるならば、大きく矛盾する事になる。大東亜共栄圏は「聖戦」のみにおいて、筋道が通る。

 聖戦とは、戦場において「淫乱行為」が存在しない事だ。顰蹙(ひんしゅく)を買う行為が存在しない事だ。そしてアジアから、アメリカやヨーロッパ諸国の軍隊を駆逐してこそ、この建設の目的は為される筈であった。
 ところが敷陣先で、戦乱を淫乱に結び付けてしまうと、この聖戦論理は忽ち崩れる。

 本来、戦争は矛盾に充(み)ちた、国益の誘導である。
 普段、市民は法律の上、殺人や暴行は禁じられている。多くはこうした事が、生まれた時から、いけない事であるという事を百も知っている。
 ところが一度戦地に駆り出され、戦士として敵を攻撃し、殺害する事は躊躇ってはならないと軍事教練では指導される。

 この矛盾を誤魔化す為に、心理的な洗脳メカニズムが動員され、軍人は「任務を遂行するを第一と為す」という任務遂行主義が最優先の基盤となる。
 任務を遂行して手柄を立てると、勲章が与えられ、「名誉」として賛えられる。
 しかし先の大戦で、日本人のしでかした事は、戦争への矛盾を実践しただけではなく、戦乱のそれを、淫乱のそれと取り違えてしまった軍首脳部の不手際があった。そう言う意味で、日本の軍隊は、天皇の軍隊ではなかった。

 では何故、そうなったか。
 自称・皇軍は、等しく、武士道の何たるかを理解せず、戦争観を理解していなかった為だ。これは戦乱のなくなった以降の、江戸時代以来の伝統である。
 そして「武士道とは?」に答えを詰まらせた者が、「武士」とは、「さむらい」とは、かくあるものかと、新渡戸本を、「和歌」という教養で解釈したところに大きな誤りがあった。

 こうした和歌で紛らす伝統は、帝国陸海軍には多々あり、玉砕(ぎょくさい)で自決する前は、和歌の一首を捻り出し、敵と闘う事もなく死ぬ方を選ぶ。著者は、こうした最期を一概に否定しない。
 しかし軍人は、戦争技術者であり、生きて戦う事が軍人に最後まで課せられた遂行任務であるはずだ。戦意と戦力を残しながらも、死に急ぐのは、全く戦争観を理解していないという事になる。

 かつて人斬り半次郎として恐れられた、維新の志士・桐野利秋(幕末・維新期の軍人で陸軍少将。薩摩藩士出身)は、「刀が折れたら手で戦い、手を切られたら、足で戦い、足を切られたら、這って歯で戦い、命を取られたら魂で戦う」と言った。
 これこそさまに戦争技術者の、敵に向かう闘魂というべきものではないか。
 自決するのは、精も根も尽きた最後の最後でいいのだ。
 武器がなくても、最終手段としては魂戦があるではないか。

 事実、こういした戦闘は、朝鮮戦争でもベトナム戦争でも、現地民等が人海戦術として、国連軍を(実態はアメリカ第八軍)を散々悩ませた歴史がある。
 『朝鮮戦争史』を読んでみると、北朝鮮軍とともに参戦した中国軍は、銃弾の雨霰と飛び交う激戦地でも勇敢であったとの記述を多く見るが出来る。
 そして当時の中国軍の実態は、かつて日本軍がチャンコロ(「中国人」の中国語音zhongguorenの転訛。当時は 中国人に対する蔑称として使われた)と侮蔑して憚らなかった、勇敢な中国人民解放軍(1947年当時の国民党との内戦中、前身の八路軍や新四軍などの、中国共産党の指導下にある常備軍)であった。

●文武両道とは何か

 戦いにおいて、唯一の説得力を持つのは、辱めを受けた後の歌詠みでもなく、あるいは学識でもない。「小が大を倒す」秘術会得の有無なのである。
 これこそ多くの人間に感動を与え、感銘を与える、唯一の行為なのだ。

 赤穂義士四十七士も、討ち入りではなく、話し合いで吉良邸に詰めかけていたらどうだったであろうか。吉良上野介はあっさりと、これを同意しただろうか。
 むしろ門前払いされるか、屋敷警護の腕の立つ、浪人崩れの当家の家老職であった清水一学あたりに、あっさり斬り捨てられて、江戸中の笑い者になったのではあるまいか。
 激しい戦闘においても、戦闘力だけを問題にせず、知的なゲームでも勝負するべきだと称する新渡戸のそれは、単に「文」の世界しか知らない偏見者の、愚かな幻想にしか過ぎないのである。

 日本人は江戸期を経て、従来の霊的な武士道の要素を、腐らせてしまった観が否めない。
 平安後期から戦国時代末期まで連綿と続いた「日本武士道」は、徳川家康の幕府開設と同時に中央集権体制によって、武士道の根幹が崩れ去り、以降、反戦と平和主義の世の中が登場する事になる。
 そして江戸中期の元禄時代に至ると、武士道というものは、武士階級から完全に抜け落ちてしまい、武士は職業をして、刀を差した階級に成り下がってしまう。こうした時期に、一喝を与えたのが山本常朝の『葉隠』であった。

 『葉隠』は当時の武士に対して武士道を論じた書であり、元佐賀藩士山本常朝口述、田代又左衛門陣基(つらもと)筆録による全十一巻なる書物である。そしてこれが完成したのが享保元年(1716)であった。藩内外の武士の言行の批評を通じて、武士の道徳を説いた書物である。別名、「葉隠聞書」あるいは「鍋島論語」ともいわれる。

 この書物が完成したのは、元禄一五年十二月十四日(1703年1月30日)の赤穂義士の討ち入りより十三年後の事であるが、当時の武士階級の道徳や倫理は、地に落ちていたのである。

武士道年表

▲武士道年表(クリックで拡大)

 口述者常朝は、珠盤勘定(そろばんかんじょう)に趨ったり、死ぬ時期を見逃した武士を痛烈に批判している。また当時は、それほど武士の意識が地に落ちていたのである。
 こうした武士階級の意識が地に落ちたまま、幕末、そして明治維新と目紛しく入れ替わるのである。

 やがて明治の帝国陸海軍は、大正・昭和と引き継がれ、昭和軍隊官僚が世代交代するが、ここで多くの日本人が学んだものは、奇しくも「平和主義」と「無抵抗主義神話」の、武士道崩壊時の江戸期の思想だった。
 つまり安倍貞任に見るような、あるいは太田道灌に見るような、新渡戸稲造の定めた独善的な武士道であった。死するまで戦う事を第一義とせず、理性を第一義とする、体裁の良い無抵抗主義である。

 赤穂義士の討ち入りが、吉良邸前の歌合戦の応答問答であったら、という事は既に述べたが、例えば第二次世界大戦においてのヨーロッパで、もし、ユダヤ人がナチス・ドイツに対し、無抵抗主義を貫いていたら、果たしてヒトラーは強制収容所による彼等の虐待を止めただろうか?
 むしろ、ユダヤ人の大量虐殺は加速度が掛かったのではあるまいか。

 ベトナム戦争後の、78年以来のカンボジア内戦で、一時的に政府を樹立したポルポト派による大量虐殺、また、つい最近では、ユーゴスラビアにおける89年以来の「民族浄化」と称する大量虐殺など、無抵抗主義に徹すれば徹するほど、敵をつけ上がらせ、全く逆の結果になってしまったという事例は、多々ある。

 しかしこうした情報の事実は、マスコミ操作によって、日本人に対しては、故意に伏せられている。
 そして日本人が学んだ「無抵抗主義」は、無抵抗で、敵に一切反撃しない事こそ「善」であり、武力で抵抗して「国防という意識」を持つ事は「悪」という世論操作が行われ、これが国民の間に、徐々に醸成されて行くのである。

 今日の反戦団体や市民平和団体はこうした、無抵抗主義の理念に基づき、衆愚政治を展開しているのである。
 しかし、日本の国土が消滅し、日本列島から日本人が駆逐(くちく)されるような破目(はめ)になって、何が無抵抗主義だろうか。
 インド独立の為に、ガンジー(マハートマーという「大聖」を異名に持つ、インドの政治家・思想家。インド国民会議派の指導者で、インド独立の父とされるが……)の無抵抗主義運動が、インド建国に大きな影響を齎したというのは、戦後の日本に再武装させない為に、連合国軍(特にアメリカ)が日本に押し付けた思想教育である。

 そもそもインド独立運動当時のイギリスは、インド人やアジア諸国の有色人種を、人間とは思っていなかった節が多分にあった。猿同然の、どう酷使しようが、あるいはどう殺そうが、何の呵責にも責められず、あの悪名高い、十字軍のイスラム諸国の侵略と全く同じ意識を持っていたのである。
 したがって、ガンジーの無抵抗運動など、武力で叩き潰そうと思えば、あっさりと潰せる状態にあったのである。

 インドを本当の意味で独立させたのは、ガンジーの無抵抗主義などではなく、チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)率いるインド国民軍と、インド反英独立運動の指導者達であった。彼は自由インド独立政府を樹立する為に、武力独立を目指し、孤軍奮闘を続けた人物であった。

 西欧の白人が居座るインドやインドシナ植民地から、西洋を追い払ったのは、インドにおけるボースや、ビルマにおけるアウンサン(Aung San/アウンサン・スー・チー女史の実父で、ビルマの軍人・政治家)らである。
 特にアウンサンは、太平洋戦争中、最初日本軍に協力し、民族独立運動の先頭に立ち、1944年抗日に転じ、戦後も独立達成に努めるなど、武力独立を目指す集団が相次いで蜂起した経緯を持つ。そして遂に、イギリスもこれを弾圧できずに、折れたと言う形であった。

 こうした意味からすると、ガンジーはいわば「漁夫の利」によって、最もおいしいところだけを得た恰好で、インド人は彼をマハートマー(大聖、偉大な魂)として讃仰する事になったのである。非暴力・不服従主義により、インド民族運動を指導したとは、これを支持する体制側の宣伝であり、彼は勝手に担がれたと言えよう。

 無抵抗で、功を奏するなどありえないのである。
 例えば、強盗が、無抵抗な人を見て、感動して何も奪わずに引き揚げるだろうか?こんな話は、絶対にもないはずである。
 襲われた者は強盗に対して、激しく抵抗するから、あるいは傷つけられる危険も顧みず、負傷する事を承知で抵抗するから、逆に強盗は手を焼き、奪う事を断念せねばならないというのが実情である。

 むしろ無抵抗で両手を挙げて、ホールド‐アップ(hold-up)するのと、抵抗するのとでは、結果において大きく異なっているのは、犯罪事例を見ても明らかである。抵抗した場合の方が、強奪にしても、強姦にしても、奪われたり、犯される確率が遥かに少ないのである。
 まさに武士道の原点はここにある。戦う時機に、戦えないのは武士道実践者でないのである。

●武士道と知行合一

 人間は霊的な存在である。
 だからこそ、霊主体従なのだ。
 霊主体従とは、意志が肉体を動かすという事である。つまり肉体を動かすに至る行動である。脳で考えるから、行動を起こすのではなく、意志が脳に働き、それが肉体を通じて行動になるのだ。

 そして行動があって、その行動を智慧で裏付けるのが「知行合一」である。
 知っているだけではなにもならない。知っている事は、つまり行動に反映されて、はじめてそれが智慧として通用するのである。
 したがって「知行合一」を武士道実践者の言葉で置き換えるならば、「文武両道」あるいは「友文尚武」となる。

 相手を口先だけでなく、真から屈服させるには理論を戦わせるだけでは通用しない。理論を裏付ける行動が必要であり、この行動は理論から起こった行動ではなく、意志の現われである。そして行動原理を実践する為に、これに理論を裏付けるのであって、行動あっての理論だ。だから逆ではない。

 巴御前に対する三郎家吉の乱暴が、「上の句」でその乱暴が収まる筈がなく、また、徒党を組んでの赤穂義士の「上の句」の進言が、吉良上野介に届く筈もないのだ。
 そんな事をすれば、益々相手方は図に乗り、増長するばかりである。

 ちなみに、こうした相手方の増長を、今日の出来事や国際問題で探すとするならば、それは特に、日本の外交政策に見る事が出来る。
 日本の丸腰外交は、海外から、圧力をかければこれに屈し、「日本は脅せば、幾らでも金を出す」というような、嘲笑され侮られるところがある。現に中国や北朝鮮はこうした威圧外交で日本政府に脅しをかけている。ここに日本外交の脅しに屈する『ひ弱は花・日本』(ブレジンスキー著)の現実があるのだ。

 日本のこうした現状は、例えば強請(ゆすり)に遭って、警察に被害届を出す事も出来ず、骨の髄までしゃぶり獲られてしまうという弱腰な被害者同様、今日の日本政府が海外に向けての外交政策は、こうした弱腰外交で展開されているのである。

 また日本政府が、世界の国家の中で、最も弱腰であり、優柔不断である事は、誰一人知らぬ者がない程なのである。
 脅しで屈し、気持ちが常に揺れ動く政府。それが日本国なのだ。
 外には弱く、裡面(うちづら)だけが傲慢で威張り散らす、まさに幼児的態度を示すのが、日本政府の高級官僚や国会議員達なのである。

 そして国民が、政府の脅し獲られた分だけの穴埋めを、税金として取り上げられ、そのツケを支払わされているのである。
 果たして、これだけ海外から侮られた国家が、「尚武の国」なのか。
 机上の空論で空転させれば、武士道すら愚かな幻想として、海外から侮られるのである。


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