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| トップページ >> 技法体系 >> 二刀剣 >> 合気二刀剣戦闘理論(九) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||||
この佐久間象山を斬ったのが、熊本肥後藩の攘夷派浪士の川上彦斉(河上という名字で示される事もある。後の高田源兵衛と改名。攘夷派思想のテロと矛盾の真っ只中に奔走し、象山暗殺や、熊本鶴崎での密偵暗殺などの多くの暗殺事件に関与した)という手練(てだれ)の剣客(けんかく)であった。 川上は肥後熊本藩の武士で、道場内での竹刀競技の剣術では弱かった(剣術自体が弱いのではなく、競技としてのポイントを取る小手・面・胴の当て合いに不向きであった)が、実戦では非常に強かった武士である。「人斬り彦斉」とも言われ、真剣を交えると、その多くは震え上がったと言う。そして希代稀(きだいまれ)なる暗殺の名人であった。 川上は熊本藩に伝わる伯耆流居合(熊本藩に伝わり、流派の開祖は名和伯耆守長年。天正一五年、肥後宇土城主・村上伯耆守顕孝が豊臣秀吉に降伏し、細川氏の入国後は同家に仕え、この居合を同藩に伝承した)の達人で、有無も言わせぬ抜打の達人で、擦れ違い態に相手を斬り据える特技を持っていた。 もともと象山は武術家というより、学者肌の人であり、兵学も学問の為の兵学であり、武術実戦の兵法家のそれではなかった。 川上は、馬に乗っている象山の右脚に、擦れ違い態に、抜打で第一打を加えた。しかしこれは生命に別状が及ぶ程の致命傷にはなっていないので、象山も十分に反撃を加えるチャンスがあったのだが、それでも反撃の意図は示さなかった。 更に、馬丁に手綱(野繋勤)を取らせるという、二重の愚行を犯している。 象山は、確かに当時としては、一流の蘭学を修めた西洋通の学者であったかも知れないが、単に広舌家であり、武術や馬術には、大した腕は持ち合わせていなかったようだ。 そして象山が、こうした不穏な通りすがりの武士に注意を払わないという事は、彼自身に居合の心得がなく、同時に日本武術を、西洋の小銃や大砲などを使った機械的な兵法より、一等も、二等も、過小評価し、甘く見ていた節(ふし)が否めないようだ。 一方、川上は第一打で相手を仕留める程の手練であった。その彼をして、手練に押し上げるその腕の冴えは、つまり「迷わぬ」ところにある。
つまり竹刀剣術での間合は、約一間(普通一間は六尺で約1.818メートル)離れて各々が竹刀で対峙する。 斬るか、斬られるかは問題ではないのである。戦闘において、無分別こそ、迷いをなくす最短距離であり、他人にどう思われようと、それは全く問題ではないのである。 象山は日本武術の何たるかを知らず、西洋式兵法こそ、一等も、二等も、高度な技術であると過信した為、結局、易々と討ち取られる事になった。 また象山は、西洋馬術の先覚者のような自称が至る処に多く見受けられ、馬に関する多くの詩も残しているが、その腕前の程も如何なものか。 象山の詩の「騰々たる快馬洋鞍軽し……云々」等の文句を見い出す事が出来、更に「兵士は騎兵調練も調い申すに御座なく候にては、御武備に整い候とは申し上げ難く……」などの、乗馬に対する心がけや、馬上における銃撃戦なども建議しているが、その一方で、彼は馬術に対する論策や研究は怠っていたようである。 彼が門を叩いた佐藤一齋は、陽明学にも通じ、幕府の名門・昌平黌(しようへいこう/江戸幕府の儒学を主とした学校で、林羅山が上野忍ヶ岡に創設した弘文館に始まる)の教授でもあった。
陽明学といえば、「知る事は、行う事である」で始まる「知行合一」が売り物だ。しかし彼は知る事は知っていたが、行う事までは手が届かなかったようだ。 王陽明の唱えた「知行合一」は、「致知」の「知」を「良知」であるとし、「知」は行の源泉であった。また「行」は知の発現であるとし、知と行とを同時に一源のものと捉えた説である。 北条五代を作り上げた北条早雲(伊勢新九郎長氏と名乗り、剃髪して早雲庵宗瑞と号を称し、北条氏五代の基を開いた)の『北条五代記』(初代早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直。早雲の生まれた1432年から、高野山に放たれた氏直の1591年までを北条五代という)の中には「早雲教への二十一箇条」なるものがある。その中には「侍たる者、馬の口取らするには一代の不覚、仮初(かりそめ)の馬上にも大将たりと雖(いえど)も馬の口(轡掛り)を取らするを、馬下手故か、弓馬の心掛けなき人かと指をさし候」と厳命しているのである。 つまり馬術に優れた武将は、馬の手綱を馬丁などの他人に取らせるのではなく、自分で手綱は握れ、と家訓に戒めているのである。 さて、同時代に生きた福沢諭吉は、大の武士嫌い、大の武術嫌いであったが、フリーメーソンだった彼は、慶応三年(1867)十一月、坂本龍馬(フリーメーソン)が刺客にあって殺された時、「今度は俺の番か……」と、恐怖したと言う。龍馬は、フリーメーソンの深層部を知り過ぎた為に暗殺されたという説が濃厚である。 1857年(安政4)江戸幕府がオランダに建造させた軍艦・咸臨丸(原名ヤパン号)に乗って、1860年(万延元年)遣米使節新見正興(幕府外国奉行)の随行者の一人として、勝海舟(咸臨丸艦長)とともにアメリカに渡り、そこでフリーメーソンの洗礼を受けた福沢も、龍馬が暗殺されて以来、安穏としては居られなかった。 こうして考えると、日頃から命を狙われながら大不覚をとった佐久間象山と、福沢諭吉の危機管理意識は、雲泥の差があったと言えるのではあるまいか。
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