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大東流の基本となる日本刀の操法

■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)

●佐久間象山と伯耆流居合の手練・川上彦斉

 さて、愚かな幻想の一つに、佐久間象山が刺客に殺された事件を指摘したい。
 佐久間象山は 幕末の思想家であり、兵学者として知られる。信州松代(まつしろ)藩士で、名は啓(ひらき)、通称は修理と言われた。

 佐藤一斎の門に学び、また、蘭学や砲術に通じ、特に西洋馬術にも長じた事を自称した人物で、また嘉永(1848〜1854)年間には「海防」「攘夷」(外国を排撃し、鎖国を主張する論で、儒教の中華思想に由来する)の急務を主張した思想家である。
 1854年(安政元年)、門人の吉田松陰の密航の事に挫折し、のち幽閉され、1864年(元治元年)幕命によって上洛したが、攘夷派の浪士に暗殺された。

佐久間象山像

▲佐久間象山像/中村不折画

 この佐久間象山を斬ったのが、熊本肥後藩の攘夷派浪士の川上彦斉(河上という名字で示される事もある。後の高田源兵衛と改名。攘夷派思想のテロと矛盾の真っ只中に奔走し、象山暗殺や、熊本鶴崎での密偵暗殺などの多くの暗殺事件に関与した)という手練(てだれ)の剣客(けんかく)であった。

 川上は肥後熊本藩の武士で、道場内での竹刀競技の剣術では弱かった(剣術自体が弱いのではなく、競技としてのポイントを取る小手・面・胴の当て合いに不向きであった)が、実戦では非常に強かった武士である。「人斬り彦斉」とも言われ、真剣を交えると、その多くは震え上がったと言う。そして希代稀(きだいまれ)なる暗殺の名人であった。

 川上は熊本藩に伝わる伯耆流居合(熊本藩に伝わり、流派の開祖は名和伯耆守長年。天正一五年、肥後宇土城主・村上伯耆守顕孝が豊臣秀吉に降伏し、細川氏の入国後は同家に仕え、この居合を同藩に伝承した)の達人で、有無も言わせぬ抜打の達人で、擦れ違い態に相手を斬り据える特技を持っていた。
 象山は川上に襲われた時、擦れ違い態に右脚を斬られ、恐怖のあまりに刀を抜く事なく逃げ出している。そして不覚にも落馬し、止めを刺されている。

 もともと象山は武術家というより、学者肌の人であり、兵学も学問の為の兵学であり、武術実戦の兵法家のそれではなかった。
 不意打ちに対しては、何の反撃も出来ず、また次の手の戦闘も展開できない程、武術には未熟であった。そして象山の徹底的な致命傷になったのは、自らが馬に騎乗しながらも、馬上から川上を斬り据える機会は幾らでもあったのであるが、馬術も未熟であった上、それも儘ならず、更に馬丁(ばてい)に手綱(たづな)の許と同じ轡(くつわ)ズラ(野繋勤/やけんろく)を曳かせるという二重の愚行をしでかしている。ために脚を斬られた際、混乱に陥って、落馬し、無慙に討ち取られているのである。

 川上は、馬に乗っている象山の右脚に、擦れ違い態に、抜打で第一打を加えた。しかしこれは生命に別状が及ぶ程の致命傷にはなっていないので、象山も十分に反撃を加えるチャンスがあったのだが、それでも反撃の意図は示さなかった。
 本来ならば、馬に乗っているのであるから、馬上から川上の頭部に抜打で、逆に仕留める事も十分に可能であったのだが、剣術に未熟な象山は、自分の刀を抜く事もなく、逃げ出したのだから、何とも情けない話である。

 更に、馬丁に手綱(野繋勤)を取らせるという、二重の愚行を犯している。
 そしてこの抜打は咄嗟の出来事であり、象山も馬も混乱したのであろうが、馬丁は慌てて馬を止めようとした為、痛手を負った主人は、馬から振り落とされて、あえなく止めを刺された。

 象山は、確かに当時としては、一流の蘭学を修めた西洋通の学者であったかも知れないが、単に広舌家であり、武術や馬術には、大した腕は持ち合わせていなかったようだ。
 しかし普段から命を狙われている事は承知していた筈であるから、当然不穏な浪士の動きには注意を払わねばならない。そして自分の右側から通り抜けようとする武士に対して、これに注意を払うべきだったが、これを安易に見逃している事は、彼が如何に観察力の欠ける人間であったか、そして警戒心が如何に欠如していたか、その怠慢振りが容易に想像がつこう。

 そして象山が、こうした不穏な通りすがりの武士に注意を払わないという事は、彼自身に居合の心得がなく、同時に日本武術を、西洋の小銃や大砲などを使った機械的な兵法より、一等も、二等も、過小評価し、甘く見ていた節(ふし)が否めないようだ。
 もし象山に居合の心得があるのなら、馬丁に野繋勤を握らせる等という事は絶対にありえなかったであろう。
 また馬丁も、こうした場面で野繋勤を放して、馬を疾走させるという事を、兼々申し渡されている筈であるから、馬丁は直ぐにこれを放し、その然る後に、象山自身が抜き合わせて、第二打を防いだであろうから、みすみす止めを刺されるという事はなかった筈である。

 一方、川上は第一打で相手を仕留める程の手練であった。その彼をして、手練に押し上げるその腕の冴えは、つまり「迷わぬ」ところにある。
 また、相手に考える数秒の暇を与えない、無分別があり、この無分別こそが、易々と相手を討ち取る要因になっている。

 つまり竹刀剣術での間合は、約一間(普通一間は六尺で約1.818メートル)離れて各々が竹刀で対峙する。
 ところが川上は、こうした剣術の常識を破り、長距離から襲い掛かる激剣術を編み出していた。その長距離からの技術が手裏剣に見立てた、打法後の斬り据えである。
 川上は、実際に手裏剣を打ち込んでから斬り掛かる剣客ではなかったが、そのイメージを以て、一気に斬り掛かった事は明白であり、第一打、第二打を打ち終えてからの、有無を言わせぬ猛突撃は、さぞかし相手を震憾させた事であろう。
 これは手裏剣を打ち出し、その後、猛烈の突進する、あの白刃をひっさげての恐るべき奇襲である。
 川上彦斉も、暗殺方法はこうした独自のイメージを会得していた。

 斬るか、斬られるかは問題ではないのである。戦闘において、無分別こそ、迷いをなくす最短距離であり、他人にどう思われようと、それは全く問題ではないのである。
 重要なのは、おのが生涯を通して、迷う事なく、信念を押し通す事である。
 そしてそれが定まれば、一切の己の行動に対して、後悔の念を抱かない事である。
 衆目を憚かって、体裁を付ける事はないのだ。無分別こそ、擦れ違い態の極意なのである。

 象山は日本武術の何たるかを知らず、西洋式兵法こそ、一等も、二等も、高度な技術であると過信した為、結局、易々と討ち取られる事になった。
 不覚千万と言う外ない。
 しかし彼自身も、一抹の不安は兼々からあったのであろう。
 つまり徒歩や駕籠の方が、もっと危険だと察して、馬にしたのかも知れない。もしそうであったのなら、象山自身、もっと常日頃から馬術に心がけ、武士の心得を疎かにせず、武術を練っていなければならない。この辺が甘いのだ。

 また象山は、西洋馬術の先覚者のような自称が至る処に多く見受けられ、馬に関する多くの詩も残しているが、その腕前の程も如何なものか。
 そして特に、川上から暗殺された事件当時、彼は皮肉にも洋鞍(ようあん)を馬装し、彼の吟じた詩の多くは、西洋馬術を礼賛したものが多かった。

 象山の詩の「騰々たる快馬洋鞍軽し……云々」等の文句を見い出す事が出来、更に「兵士は騎兵調練も調い申すに御座なく候にては、御武備に整い候とは申し上げ難く……」などの、乗馬に対する心がけや、馬上における銃撃戦なども建議しているが、その一方で、彼は馬術に対する論策や研究は怠っていたようである。
 単に、物知りの学者とはこのようなものかと、唖然とさせられるばかりである。

 彼が門を叩いた佐藤一齋は、陽明学にも通じ、幕府の名門・昌平黌(しようへいこう/江戸幕府の儒学を主とした学校で、林羅山が上野忍ヶ岡に創設した弘文館に始まる)の教授でもあった。

佐藤一齋像

▲佐藤一齋像/佐藤一齋夫妻像の内 椿椿山筆

 陽明学といえば、「知る事は、行う事である」で始まる「知行合一」が売り物だ。しかし彼は知る事は知っていたが、行う事までは手が届かなかったようだ。

 王陽明の唱えた「知行合一」は、「致知」の「知」を「良知」であるとし、「知」は行の源泉であった。また「行」は知の発現であるとし、知と行とを同時に一源のものと捉えた説である。
 そして「知行合一」の中心課題である「致良知」は、良知を致す事なのだ。
 しかし承山は良知を致さなかった。時に及んで、「名案」は最後まで出なかったのだ。
 また彼は、馬術に未熟なばかりでなく、兵学者のくせに、武術にも未熟で、日本武術の何かも知らず、また戦闘の何かという事も知らなかった。論語読みの論語知らずの観が、多分にある。

 北条五代を作り上げた北条早雲(伊勢新九郎長氏と名乗り、剃髪して早雲庵宗瑞と号を称し、北条氏五代の基を開いた)の『北条五代記』(初代早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直。早雲の生まれた1432年から、高野山に放たれた氏直の1591年までを北条五代という)の中には「早雲教への二十一箇条」なるものがある。その中には「侍たる者、馬の口取らするには一代の不覚、仮初(かりそめ)の馬上にも大将たりと雖(いえど)も馬の口(轡掛り)を取らするを、馬下手故か、弓馬の心掛けなき人かと指をさし候」と厳命しているのである。

 つまり馬術に優れた武将は、馬の手綱を馬丁などの他人に取らせるのではなく、自分で手綱は握れ、と家訓に戒めているのである。
 したがって象山が馬丁に手綱を取らせ、刀を抜き合う事もなく、一方的に斬り殺されたのは、彼には気の毒だが、まさに不覚千万と言う外ない。

 さて、同時代に生きた福沢諭吉は、大の武士嫌い、大の武術嫌いであったが、フリーメーソンだった彼は、慶応三年(1867)十一月、坂本龍馬(フリーメーソン)が刺客にあって殺された時、「今度は俺の番か……」と、恐怖したと言う。龍馬は、フリーメーソンの深層部を知り過ぎた為に暗殺されたという説が濃厚である。

 1857年(安政4)江戸幕府がオランダに建造させた軍艦・咸臨丸(原名ヤパン号)に乗って、1860年(万延元年)遣米使節新見正興(幕府外国奉行)の随行者の一人として、勝海舟(咸臨丸艦長)とともにアメリカに渡り、そこでフリーメーソンの洗礼を受けた福沢も、龍馬が暗殺されて以来、安穏としては居られなかった。
 そこで福沢は、必死に居合術を稽古し、龍馬の二の舞にならぬよう、居合の鍛練に励んだと言う。そして最後には、その腕前が達人の域であったと言う。

 こうして考えると、日頃から命を狙われながら大不覚をとった佐久間象山と、福沢諭吉の危機管理意識は、雲泥の差があったと言えるのではあるまいか。


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