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| トップページ >> 技法体系 >> 二刀剣 >> 合気二刀剣戦闘理論(十) >> | ||||||||||||||||||||||||||||||
斬殺事件の起こったのは、元治元年(1864)七月十一日の白昼で、場所は京都三条木屋町通りだった。 日本人の本来の国民気質は、反戦・平和主義者であるから、右側通行が常識となっている。交通標語にも「車は左、人は右」とあるように、人間の歩行は右側通行であり、また車に乗車した場合も、日本では車は左側通行のため、運転者は車座席の右側に乗り、車自体が右ハンドルである。 本来ならば、左腰に指した大小二刀は抜打可能なため、日本では古くから右側通行をして、対人者とは刀の抜きにくい、擦れ違いをする事が常識だった。 かつてアメリカ車には、どの車にもドアの内側にポケットが付いていた。このポケットには用心のため、よく拳銃を忍ばせていたものである。通行中に危険が起こったり、正体の分からぬ何者かに不法の停車を命じられた場合、左手でハンドルを握りつつ、右手をハンドルの下からクロスさせて、左ドアのポケットに忍ばせてある拳銃を取り出せるのである。 これをアメリカ開拓以来の西部進出の乗馬に置き換えれば、騎乗して右側通行しつつ、左手で手綱を持ち、右手で拳銃を抜く事が可能になり、この時の右手は相手から見て死角となる。したがって擦れ違い態に拳銃を抜き、撃ち放っても、容易に気付かれないのである。特に欧米人の好戦的かつ挑戦的な態度は、こうした日常生活の考え方にも現われているのだ。 これを考えると、川上はまさに右手を自由に遣え、抜刀できる左側通行をしていた事になる。いつでも抜打で斬り据えられる象山の、左側の一番近い位置に居た事になる。これはまさに、右側通行の右手の死角に匹敵する「陰」を通過するのと同じ、したたかさである。 象山は衆目の一致するところ、「西洋通」でとおっていた。その象山が、欧米のこうした国民性を見抜いていなかった事は、彼自身が如何に観察眼が疎いか、この事からも察する事が出来よう。学者であったが、論語読みの論語知らずの観が強い。 西洋流の兵学に精通した象山が、武術未熟の為、反撃もせず、混乱に陥って易々と討たれた事は寔(まこと)に遺憾である。 世の中の暗殺事件の殆どは、殺される側にも問題があり、決して加害者ばかりの責任であるとは言えないのである。被害者の多くは、加害者に隙を見せ、その隙だらけの甘さを突かれて襲われている。 また、自分だけは特別で、不慮の事故には遭遇しないであろう、と考えてしまうところに、不幸現象の一面が隠されている。したがって自分だけは特別と考えるのは、絶対に慎まなければならないのである。激動し、急変する時代、いつ何が起こっても不思議ではないのである。そして警戒を忘れた時に悲劇が起こる。 福沢諭吉は『学問のすゝめ』の冒頭で、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく……云々」と言っているが、その学者である福沢にして、居合の達人であった。 人間は平等などではない。生まれながらに天地の開きがあり、諸々の因縁の差を持って生まれてくる。平等でないのは家柄や容姿だけではない。その思考も、能力も、素質も、才能も、生活態度も、言行も、想像力も、危機意識も、一通りに平等ではないのだ。 こうして考えると、象山自身、普段から命を狙われていたのであるから、事件の発生前において、危機意識を持っていなければならず、もし象山が福沢ほど敏感に、警戒心を巡らし、居合の心得でもあれば、命を落とさずに済んだであろう。 更に大不覚ともいうべき失態は、常々象山は洋鞍を自慢して、馬丁に馬を曳かせて騎乗した事で、洋鞍は各方面から非難の的になっているにもかかわらず、これを無視したところに斬られた原因があるようだ。 象山を斬った、川上の所持した斬奸状には「この者元来西洋学を唱ひ、交易開港の説を主張し、枢機の方へ立ち入り、御国是れを誤り候罪……(中略)……恐れ多くも九重御動座彦根城へ移し奉(たてまつ)り候義を企て、昨今頻(わた)りにその機会を窺ひ候。大逆無道天地に容るべからざる国賊……云々」と記されていた。 ●承山はなぜ斬られたか この事件の攘夷派の犯行動機は、元治元年六月、朝廷から象山お召しの内命が伝えられた事に始まる。そして公武合体派の宮廷クーデターで敗れた攘夷派の長州藩が勢力挽回を企てた際、これを憂慮した象山が急遽大津(滋賀県)に急行して、皇居護衛の為に、その上洛中、松代藩主・真田幸貫(松平定信の第二子で、当時幕府の海防掛)に会い、一時期、孝明天皇を彦根城へ動座を図った事が原因だった。 この策として、象山は同元治元年三月、幕府の徴命に接して上洛し、陸海御備向掛手付御雇に任じられた事を機に、入洛中の将軍・徳川家茂をはじめ、一橋慶喜らの幕府要路に、公武合体策の時務の強化を進言し、上書を示す一方、宮廷側の山階宮晃親王と中川宮朝彦親王に攘夷の不可と開国の避け難い事を答申して、公武の間で遷幸策を企て、かつ、世嗣問題に奔走したのであった。 しかし幕末の激動期、象山は学者的経歴が示すように、必ずしも文武の実践家ではなく、時勢を洞察し、その対策と動向を対処すべき考え方を説く一種の為政者であり、思想家であり、教育者的な人物であった。そして尊王攘夷は掲げつつも、公武合体論の域は出ないものであった。 象山の著書『省侃録』(せいけんろく)によれば、「人の知るに及ばざる所にして我独りこれを知り、人の能くするに及ばざる所にして我独りこれを能くす。これまた天の寵を荷ふなり」と論じ、これがは彼が幕府に寄り掛った、ひと握りのエリートである事を自負している。 結局象山は、ナポレオンやピョートル大帝を崇拝したように、治国済民の方策である経綸(けいりん)の国家論の実現を期待したのであって、底辺の民衆(下級武士や百姓町人)が幕藩体制の基盤を突き崩し、それが討幕エネルギーに連動した事を知らなかったのである。一種の、時代を見誤った観が免れず、先見の明としての「見通し」が利かなかったと言えるのではあるまいか。 これは今日の政府要人やエリート官僚によく見掛けられる人間像であり、国是の先駆的理想案は掲げるが、その内実が机上の空論である場合が少なくないという、建前論と同じである。そしてこうしたタイプは、先駆的理想を掲げつつも、一方において理屈をこね廻し、実践家でないというのが特徴である。 吉田松陰(当時は寅次郎)が佐久間象山から洋学を学び、常に海外事情を意に用い、陽明学の「知行合一」を以てその行動原理に置き換えたのに対峙して、承山は佐藤一齋(幕府昌平黌の教授方)から、一齋が陰で唱える陽明学を排して、官学である朱子学に入れ込んだのとは、実に対照的であった。
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