■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)
●腰を据えることの大事
度胸の胆の据え方に「腰を据えることの大事」というのがある。
腰が据ればまた、肚も据る。しかし腰が据れば、後手であっても構わないというものでもない。
これらは場合によって異なるもので、敵の「先」を切って乗り出す場合もある。だがこうした時に注意を要する事は、敵と正面から四つに組むという事をしないのが戦いの常識である。
騎乗の戦いでも、あるいは徒歩戦においても、その秘訣は足腰に力を充実させて漲らせ、「居合腰」になる事が大事である。特に左側通行で、前からの通行者をやり過ごす場合、この居合腰を造りつつ警戒する事が大事である。こうした居合腰になれば、当然その進み方は能(能楽/のうがく/能と狂言との総称)の動作に酷似した「摺り足」となる。
つまり擦れ違い態に、いつでも抜刀出来、居掛け(斬り伏せによる一之太刀の抜き打ち。西郷派大東流では霊的反射神経という)の出来る状態で、鞘の中に刀身を収めている構えが必要である。
即ちこれは、騎士同士の馬上組打であっても、あるいは徒士同士の地上においても、その秘訣は「尻割」であり、つまり「股割」の事である。
この股割の十分に出来ない武士を「桃割れ尻」あるいは「桃尻」と、侮蔑を罩(こ)めて揶揄された。
つまり馬に乗る事が下手で、鞍に尻が座りにくい事を顕わし、恰度、桃の実の座りが悪いのに例えたもので、これを防ぐ為には、馬の腹を両脚でしっかりと挟み、馬の上下に合わせて、馬の背中で打たれない事を言うのである。
騎士の尻が馬の背中で打たれないようにする為には、馬の背中が上がる時は吾が尻を浮かし、馬の背中が下がる時はそれに合わせて、尻も下げるという乗り方である。これは徒侍である、徒士といえども、日頃からよく修練したものである。
何故ならば、馬に乗る身分にない徒侍であっても、身分の高い騎馬武者を討ち取る場合は、騎士の馭(ぎょ)す馬の背後から走り寄って、馬の尻に飛び乗り、鎧通しを抜いて素早く馘を掻かなければならないからである。
この為に陸上戦主体の徒侍や足軽であっても、股割は稽古したものであった。
馬の腹を挟む力が強くなれば、当然股もよく割れるのである。しかし尻の股が割れない、稽古を怠る武士がいる。こうした武士を「桃尻」と言ったのである。
この事は『平家物語』に記されており、後の高倉天皇(平安末期の天皇で、後白河天皇の第七皇子。名は憲仁(のりひと)親王。在位中は平清盛が執政し、のち安徳天皇に譲位)が股割が出来ずに馬から落ちた話を上げ、「高倉宮以仁王は、合戦の最中、六度も馬から落ち、世人はこの宮が『桃尻』である」と揶揄したと、綴っている。この天皇も、肚も腰も据らなかった「すめらみこと」なのか?
この股割は一朝一夕には出来るものではない。長年の鍛練が股割を可能にするのである。股割は、相撲の「尻が割れる」という状態と同じで、股割がよく出来ない力士は重心が高くなって腰高になり、押すにも、受けるにも仕切られてしまい、その結果、土俵際での押しや粘りが弱く、ついには打捨りを食って苦杯をなめるのと同じである。
武術の極意は、「日々の鍛練」なのである。日夜の鍛練を怠って、「秘伝」のおいしい処だけを都合よくマスター出来るものではない。
馬上格闘でも、地上戦でも、あるいは舟などを使った水上戦でも、上下する波動の中で、重心を失ってしまい、重力を味方に出来なければ、幾ら小手先が器用でも、敵を討ち取る事は出来ず、逆に、自らが敵に思うようにあしらわれ、ついには討ち取られてしまうのである。
「光陰矢の如し」と言う。月日は思ったより足早に過ぎゆくものだ。
また「老いては、学なり難し」とも言う。月日の移り変わりは以外と早いものなのだ。
●歳月人を待たず
陶淵明(とうえんめい)の詩に『対酒』(たいしゅ)というのがある。
人生に根蔕(こんてい)無く <人生根蔕無>
瓢(ひょう)として陌上(ひゃくじょう)の塵(ちり)の如し <瓢陌上塵如>
歓(かん)を得(え)なば当(まさ)に楽(たのしみ)を作(な)す <得歓当作楽>
斗酒(としゅ)もて比隣(ひりん)を聚(あつ)めん <斗酒聚比隣>
盛年(せいねん)は重ねて来らず <盛年不重来>
一日再晨(あした)なり難し <一日難再晨>
時に及んでは当(まさ)に勉励すべし <及時当勉励>
歳月人を待たず <歳月不待人>
これは陶淵明(六朝時代の東晋の詩人で、名を潜または淵明、字を元亮という)の詩『対酒』である。
この詩の大意は、「人の命の果敢なさは、道に舞い上がる埃(ほこり)のようなものである。機会があれば楽しみ、一緒に酒を飲もうではないか。今日一日のことは今日一日限りであり、再び明日同じものが巡ってこないのだ。
したがってこの時にあっては、楽しむべき時に楽しみ、勉強すべき時に勉強をしなければならない。歳月というものは、決して人間が老いていくのを待ってくれないものだ」という、人生の飄々とした現実を述べている。
この詩の中で「時に及んでは当に勉励すべし」とある一節は、現代訳では「少年老い易く、学なり難し」の論語の一節を捩って、「若い時に一生懸命勉強をせよ」というように解釈されているようであるが、本当は「楽しむべき時に楽しみ、勉強すべき時に勉強をする」という意味である。刻一刻と流転する宇宙現象を知り抜いた、陶淵明ならではの人生訓である。
陶淵明は江州潯陽(こうしゅうじんよう)郡柴桑(さいそう)県の下級貴族の出であり、若い時から学問と武術を学び、稀に見る文武両道の人物であった。そして彼の志と理想が高く、文武に秀でて博学で、非常に文章が旨かった。
一時は官吏(かんり)の道を歩むが、不遇な官途(官吏の地位)に見切りをつけ、四十一歳のとき彭沢(ほうたく)県令を最後に、故郷の田園に隠棲(いんせい)した。平易な語で田園の生活や隠者の心境を歌って一派を開き、大衆にもそれが受け入れられた。
曾祖父は大司馬(だいしば)であったが、両親は歳老いていて家は貧しく、江州の祭酒(さいしゅ/古く中国で、宴会の時に席上の尊者が先ず酒を捧げて地の神を祭ったこと。また、その尊者の称で、中国では国子監の長官あるいは国子祭酒と言われた)として、一旦は官吏の道を歩が、それに見切りを付け、「帰去来辞」(きょらいのじ/故郷の田園に帰った折の心境を述べたもので、六朝第一の名文と称せられる)を賦して隠遁(いんとん)生活をはじめるのである。
自ら田畑を耕しながら、貧しいうちにも細々と生計(くらし)を立て、一人孤高を持(じ)し、後に平易な語調で田園の長閑(のどか)な牧歌調の生活を詩に詠み、隠者の心境を見事に詩い上げて一派を開き、白楽天(はくらくてん)は許(もと)より、王維(おうい)や孟浩然(もうこねん)らの後世の天才詩人達にも大きな影響を与えた。
しかし隠遁生活をするうちに、齢(よわい)と共に、体力が次第に衰え、きつい農作業から度々過労で倒れ、痩せ衰えて、何日も寝たきりの日々が続いたと言う。
陶淵明の才能を惜しむ人達が、彼の所にやってきては、官吏の道に再び戻るように勧めたが、彼はこれを頑(かたく)なに断わり続けた。
その中の一人であった江州刺史(唐では州の施政官あるいは長官)・檀道済(だんどうさい)は、最も彼の才能を惜しみ、「賢人は世に処するに、天下に道無ければ隠れるが、道あれば、出て仕えるというのが古来より、知識階級に与えられた使命ではないでしょうか。
それなのに今あなたは、聖天子の治世に生まれながら、清貧に甘んじ、どうしてそのように自分で自分を苦しめるようなことをするのですか」と詰め寄ると、彼はすかさず切り返し、「私如きが賢者であろう筈がない。私のような者が、賢者を志したとて、到底叶う筈がありません。どうかお引き取りください」と云って頑なに拒み、この申出を辞退した。
それでも檀道済は食い下がって、度々陶淵明を訪ねて説得をし続け、大粟や肉類の食品を贈ったが、彼は手を振ってそれらを突き返した。ここに陶淵明の強烈な個性と、誇り高き、貴族や上級武士に匹敵する生き態があるのである。
それは生き態というより、むそろ死生観を超越した崇高(すうこう)な「死の哲学」に則った潔(いさぎよ)さ、あるいは悟人としての「死に態」でなかったか。そして浅薄な物質文明に毒されないという反骨精神があった。
ここに『葉隠』を口述した山本常朝と同じ様な、人間の生・老・病・死の四期を踏んで、やがて最後には、帰るべき所に帰るという、人生の縮図と一致する。
陶淵明の説くところは、権力や見栄の俗事の、見せかけ的な偽りの生き方ではなく、人間は如何にあるべきかという、清貧の人生を駆け抜ける「戦い態」ではなかったろうか。
山本常朝は『葉隠』の中で、繰り返し「現世の構造は夢だ」と力説している。
「人生まことに短きことなり。好きなことをして暮らすがよろしかろう……」と、滔々(たんたん)と常朝は言う。
つまり、現世自体を夢と見たのである。
人の世、つまり現世をカラクリであると言い切り、人間を一つの巧妙に作られたカラクリ人形であるとしているのだ。
山本常朝の根底には《死の哲学》が流れており、人生の無常観を見てとり、それはニヒリズムで、世襲の現世が構築されていると見下した観があった。
●「こだわり」を捨てる
したがってこの短い人生において、自分にとって最も重要な事を習得するのは当然の理と言えよう。
「苦楽・浄穢不二」(くらくじょうえふじ)の思想から言うと、嫌な事、苦しい事、汚い事などを処理する「行」を、後回しにするのは決して褒(ほ)められた事ではない。両者はもともと同根なのだ。
したがって極意は、日々の身近な鍛練の中にあるのだ。その反復と、型を学ぶ事になる。
しかしこの型というのは、便宜上のものであり、「型になづめば、型なきにしかず」という言葉通り、型に填(は)まっては用をなさず、型を盲信する事は極めて危険であるという事を忠告しているのである。
型にこだわるものは、型に取り憑かれて、型を脱した者には必ず敗れると警告しているのである。
型は、型を知らない者については、確かに利点を持っている。型を知る者は、型より以下の者に強いの例えである。しかし型以上のものを習得した者については、型は全く役に立たず、むしろ邪魔になる方が多い。
では、型以上のものとは何か。
それは、刻々と変化する現世に身を置きながら、流動・流転する「運用の妙」である。
「運用の妙」の大事は孫子(そんし)の兵法にも登場する。
では運用の妙とは何か。
それは師匠より教えられた型を自由自在に積み替え、再構築し、現実と時代に即した新たなものに造り変え、それを変応自在に活用させる事である。
この活用は、従来の型の活用に止まらず、更に新手の型を超越した次元に至る事である。
戦争・戦闘というものは敵と対峙して「命の遣り取り」をするものである。
極限まで緊張し、これまで体得した最高の叡智が発揮できなければ、勝利の栄冠を授かる事はない。従来の型に、頑迷にこだわってはならないのだ。
日頃、師匠から教わった技の型を忘れて、自分流に再構築したところに、創意工夫があり、この想像が相手を敗る極め手となる。そしてこうした叡智を学び取り、飛躍的な、然も奇想天外な空想が、次から次へと溢れる者を、人は「天才」と呼ぶのだ。
剣術においては、伊藤一刀斎(いっとうさい)がこれまでの剣術の型をこわして、「一刀流」を確立し、宮本武蔵が更にこうした一刀流固執から抜け出し、「二刀流」を編み出して「二刀必勝」の極意を天下に示した。
こうした新手は、まさに破天荒(はてんこう)の奇想天外性があり、創意工夫の賜(たまもの)であった。
伯耆流居合術の達人・川上彦斉は、「人斬り彦斉」とまで言われた人物である。
戦えば必ず相手を瞬時に斬り捨てている。川上には当時の武士が思いもよらぬ「奇襲の一手」を体得していた。これが唯一つの川上の隠し芸であり、大抵の武士がその身を躱せないような電光石火のスピードで抜き打ちし、多くをこの一太刀で討ち取っている。
したがって、川上の居合抜に「一之太刀」は存在しても、他流剣術のように攻防の「二之太刀」「三之太刀」はなかった。
川上は、「二之太刀」「三之太刀」が存在する剣術流派は、結局、初太刀に総てを賭ける気魄(きはく)がなく、その一之太刀は、ボクシングで言うジャブのような小競り合いであると考えていた。小手先の「ちょっかい」あるいは「猫のじゃれ合い」と見たのである。実際に、「二之太刀」「三之太刀」の存在する剣術流派でも、日本剣道形でも実戦兵法には程遠く、戦場では殆ど役に立たないものである。
だから一撃で殺傷する秘術奇策が必要なのである。
川上の創意工夫は、実はここにあった。
彼は、居合に型が存在しながら、これを反復して稽古するこの型は、便宜上、型の形態をなしているのであって、実は「方便」だと気付いたのである。
一之太刀で、相手を一刀の下(もと)に致命傷を負わせて、二之太刀で確実に止めを刺す。これが川上の創意工夫であった。居合術を熟練した者は、この一之太刀で相手を葬る事こそ、理想の奇襲手と考える筈である。
この考えは、鹿児島示現流(じげんりゅう)にも同じ思想が流れている。
おのが剣の初太刀に全てを賭けて、おのが剣を疑わず、信じ切り、一刀の下に斬り据えるのである。その時、敵が吾が剣を受けても、あるいは吾に斬りかかって襲ったとしても、それでも構わず、唯々一心に信じ切って斬り据えるのである。
そして万一斬られても、それに悔いを残さず、玉砕覚悟で斬り据え、斬られる時機(とき)の刹那の、おのが悲鳴が「猿叫」(えんきょう)である。
この境地に至って、はじめて思いきった事が出来るのである。
奇襲手というのは、何も居合の抜き打ちに限らない。あらゆる武術がそうである。
こういう奇襲手を「装甲渡水(そうこうとすい)之秘術」と言う。
こうした秘術を従来の型の上に、自らで編み出し、世人が行き詰まっても自分は行き詰まらないというのが、創意工夫であり、もともとこうした工夫をするのが武術の目的であり、これが眼目になければ、その武術はやがて敗れる事になるのである。
元来、戦闘における兵法というのは「行き詰まらない」ことが第一であった。行き詰まらないのが「真の兵法」なのだ。
恐れればその知恵は行き詰まる。また、迷えばその知恵は我執を招く。同じ事に、いつまでもこだわり、堂々巡りして、我慢を重ねても、結局、創意工夫がないから、従来の我執から逃れる事が出来なり、最後は結局行き詰まるものである。ここに「こだわる者」の思い入れの頑迷がある。
世に、型を反復する武術・武道は多い。しかし多くは、型の固執と反復に終始してしまっている。そしてそれ以上のものは見い出せない。こうした現実は、既に暗礁に乗り上げ、行き詰まったものであると見る事が出来る。
ちなみに、「智慧」と、「知恵」の違いは、前者が絶対真理から悟った叡智であるのに対し、後者は日常生活から物事の原理を悟り、適切に処理する能力を言うのであって、両者は大いに異なる。
そして前者は、叡智によって、超感覚的な世界までの真理を悟り、日常だけではなく、戦争などの、非日常世界の事までもを包含する巨大な「神の智慧」と解する事が出来る。
さて、これまでの一切の偏見を捨て、先入観や暗い固定観念を捨てて、ただ、妙計と妙術を探究し、工夫三昧(くふうざんまい)に身を投じる事が武術の奥儀であり、それが秘伝である。
秘伝とはこうしたものを、幾重にも掛け合わせた相乗積なのである。 |