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大東流の基本となる日本刀の操法

■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)

●倶利伽羅峠の火牛の計

 富山県と石川県の県境にある北陸道に、倶利伽羅峠(くりからとうげ)という場所がある。
 この峠は標高277メートルで、その山中には倶利迦羅不動明王の小さな祠がある。
 倶利迦羅とは倶利迦羅竜王の略で、一般には不動明王の変化(へんげ)身で、竜王の一種とされている。

 この峠で、1183年(寿永二年)に火牛の謀(はかりごと)が計画されたのである。この首謀者は、源義仲(木曽次郎義仲)で、これを「火牛の計」と言った。義仲はこれによって、平維盛(これもり)を敗り、礪波(となみ)山に敗走させる。
 この時、夜襲を受けた維盛は同山から敗走し、屋島の戦の後、出家して、のちに那智で入水したとも病死したとも言う。
 また義仲は、平家を西海に走らせて京都に入り、1184年(寿永三年)征夷大将軍に任ぜられた。

 では義仲の計画した「火牛の計」とは、一体如何なるものだったか。
 義仲は、倶利迦羅不動明王の火焔に覆われた霊力の示唆を得て、「火焔の策」を告げられたとある。そしてその策を実行し、牛の角に松明(たいまつ)を括りつけ、山の上から追い落としたのである。平家の馬を、牛の松明の焔で、驚かし威嚇したのである。
 この事件は「田単火牛」(でんたんかぎゅう)の故事に由来する策を進言したとも言うが、霊的な感知を以って、倶利迦羅不動明王のお告げとも言う説がある。霊的感覚の優れた人物であれば、こうした感知や「ひらめき」は可能であろう。

 義仲は常々、山というものは不思議な威力があり、また、不思議な恐ろしさがある事を知っていた。「山」という場所が、合戦において、どういう影響を与えるか、木曽谷で生まれ育った義仲はこれを知り抜いていたのである。
 そして自然というものが、どういう霊的な息遣いをしているか、感得していたのである。義仲の策は見事に功を奏した。

 平氏は折り重なるようにして地獄谷に転落したとあり、今でもその急斜面な山肌は何事もなかったように、静まりかえっている。どの岩肌が落ちる平氏の血を吸ったのか、あるいは何処で息絶えたのか、その谷は何も言わない。今はその限りない静寂に包まれて、かえって歴史の酷烈さを想像させる。

 ちなみに「田単火牛」とは、中国の春秋戦国時代の斉の将軍・田単(でんたん)が、牛の角に剣を束ね、尾に葦(あし)を結び付けて点火し、夜に乗じて敵軍に放した、古代中国の斉の名将の奇策であり、これを「火牛の計」と言った。
 田単は、前284年、燕(戦国七雄の一つ)の楽毅(がっき/中国の春秋戦国時代の武将で、魏の人。燕の昭王の将軍となり、斉を破り昌国君に封ぜらる)が斉の七十余城を降し、キヨと即墨のみが残った時、単は即墨の人に推されて将となり、「反間(はんかん)の計」(敵同士の仲を裂く、計略を巡らす事で、離間(りかん)とも言い、一般には「反間苦肉の策」とも)を以て、楽毅を斥け、「火牛の計」を以て、斉の七十余城を回復し、安平君に封ぜられた。
 義仲は当然こうした中国古典の軍学を学び知っていて、それが倶利迦羅不動明王の霊的波調と重なったとも言う。

 またソロモン王の物語には、これと似た話しがあり、楯の反射を遣って敵の軍馬を驚かせ、敗走させた事は有名である。楯を磨き上げ、強い太陽の楯への反射光を利用して、馬を驚かせたのである。動物は光や火に驚くのである。
 また敵方の馬を驚かせる為に、馬の頭に龍の面を被らせたり、馬に他の動物の角を付けた馬面を装着したとある。
 こうした事を考えれば、大軍に押されて頭を抱えて嘆くのではなく、奇策を練る余地は他にも、まだまだある事がわかる。

 

●淡河弾正の奇策

 『四国軍記』には、豊臣秀吉の四国征伐の事が述べられている。

 1585年(天正十三年)豊臣秀吉は、四国統一を目論んで、土佐の大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を攻めた。
 長宗我部氏は土佐の安土桃山時代の大名で、国親(くにちか)の子で初名を弥三郎(やさぶろう)と称し、一条家を追放して土佐一国を支配、のち四国全体を統一した名門である。
 秀吉は四国を統一するにあたり、弟・秀長に五百騎を授けその尖兵としてとして四国に差し向けたのである。そしてまず、手始めに淡河弾正(あわかわだんじょう)を攻めさせたのである。

 ところが淡河弾正は中々の知謀(ちぼう)の将で、秀長軍が向かってくると、直ちに農家から牝馬(ひんば)を集めさせ、その数が数十頭になったところで、敵陣に向けてその馬を放ったのである。
 秀長軍は、人間の乗っていない裸馬が押し寄せるのを何事かと、呆然(ぼうぜん)と見守った。

 ところがである。
 秀長軍の軍馬は牡馬(おすうま)である。この当時、去勢(動物の、殊に雄性の性巣を除去)の技術はない。第一軍馬は気の荒い牡馬でなければ役に立たぬ。そうした騎馬軍の実情を淡河は知り抜いていたのである。
 牡馬は牝馬に対して、その性的感覚が人間より強い。牝馬を見た牡馬は、猛り狂い、牝馬の取り合いが始まったのである。これによって秀長軍の陣形は大いに乱れ、騎馬侍達はこれを鎮(しず)めようとするが、中々鎮まらない。何しろ五百騎である。

 この時代の五百騎とは、五百頭の馬が居て、それに乗る騎馬武者が五百人居るということではない。馬を乗り潰したり、激しい戦闘では短時間に乗り換えて、乗った馬は休ませるので、五百騎の騎馬軍団を仕立てるには、一人の騎士が通常三頭以上の馬を従えている。
 したがって、その馬の総数は約三倍以上に膨れ上り、約千五百頭の馬と、騎士の世話をする馬丁や下士(家来)が、一人の騎士に対して約十人掛りで付き従っていると見なければならない。

 淡河の策は見事に当たり、秀長軍が混乱しているそこに乗じて、淡河配下の精鋭部隊が錐(きり)を揉(も)むように突き進み、この突撃で秀長軍は大敗北をし、総崩れとなった。
 この老獪(ろうかい)な智慧者には、おそらく秀吉自身が向かったとしても、散々な目に合わされて敗走したであろう。
 戦争における戦闘とは、こうした「智計」(ちけい)を言うのであって、単に正面からぶつかりあって、正攻法に出るばかりが能ではない。「奇策」が必要なのだ。

 戦いは一国の興亡を賭けて行うものであり、その国の領民は首領の采配(さいはい)に命を託し、また自らも戦士として命を賭して、その遣り取りをするものである。
 指揮官は霊妙な図り事の中心である、「神算鬼謀(しんさんきぼう)の戦い」が出来なくては、多くの部下を犬死にさせる事になる。
 慎重な計画と、繰り返しの修正と補足事項を付け加え、神妙な心構えが必要なのである。そして最後はシュミレーションとしての、霊妙なイメージ・トレーニングの繰り返しが必要になるのである。

 太平洋戦争に突入した緒戦、日本軍の活躍は実に華々しいように映った。最初の電撃戦には国民一億が総出で、万歳を叫び、連日連夜の堤灯行列で踊狂った。ところが昭和の軍隊官僚の座(ざ)した帝国陸海軍は、負けが込み始めると、積極的な作戦を展開する事が出来なくなり、消極的で、後手後手の連続だった。
 知謀の作戦は最後まで出ず終いであり、悉々(ことごと)く常道凡計で消極的に戦ったのであるから、如何に神国日本であろうとも、神風など吹く由(よし)もなかった。

 否、神風は吹いていた
 ただ霊的にも、武士道の実践者として霊妙な霊格を持たない、戦争指導者達にはその神の囁(ささや)きが、自分の耳には聞こえなかっただけなのである。
 太平洋戦争において、どれだけの知謀の将がいて、名参謀がいて、彼等が活躍したと言う話しは、とうとう最後まで聞く事が出来なかった。みな愚将、よくて凡将であった。
 当時の多くの非戦闘員であった、老人や子供や婦女子の死は可傷(いたま)しい限りであり、悲しんでも悲しみ足りない観が否めない。
 そして非常に卑怯な事は、大本営陸海軍部を牛耳っていた戦争指導者達が、日本の敗戦に対して、何一つ責任をとっていないという事である。

 日本の敗戦責任は誰にあるか。
 もちろん昭和天皇ではない。大本営陸海軍部を牛耳っていた戦争指導者ならびに、作戦を計画し、それを悉々く失敗させた、陸軍参謀本部と海軍軍司令部にある。
 また太平洋戦争の一番大きな敗戦責任はむしろ陸軍より、海軍のその責任があり、その大責任を抱えたのは連合艦隊司令部と、彼等の野放しにした海軍軍令部に多くの責任が追求されなくてなくてはならない。
 しかし海軍が無謀な作戦を展開させつつも、敗戦時には一人も戦犯が指名されず、逆に日米開戦には悲観的な陸軍の方が多くの戦犯(A級戦犯のみならずB・C級戦犯まで出た)を出し、この違いは一体どこからくるものであろうか。

 大戦末期、陸軍省作戦室の机上の空論で決行されたインパール作戦の失敗は、無能な愚将・牟田口廉也(むたぐちれんや)陸軍中将の責任であるが、このインパール作戦(インドの東端、ミャンマーとの国境近くにある地域で、第二次大戦末期に日本軍が進攻しようとして敗退した)の責任であるが、その失敗も、海軍のミッドウェー作戦(1942年その沖で日米海空戦が行われた。当時の連合艦隊司令長官は山本五十六大将)の大失敗に比べれば、ほんのお湿り程度の小規模のものに過ぎず、日本の国家史上、「白村江(はくそんこう)の戦」(古代朝鮮語で村の意でハクスキノエとも/朝鮮南西部を流れる錦江河口の古名で、今の群山付近あたる。663年、白村江で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に行われた海戦)の戦いの大敗北に匹敵するもので、この時、連合艦隊の主力空母の殆どを失った。

 しかしインパール作戦の失敗率が、海軍に比べて小さいからといって、これを美化する気持ちはない。この作戦は退却する将兵の骨で、その退路は埋まったといわれる程の凄まじいもので、日本軍の敗走した跡は「白骨街道」と言われた。
 この作戦も、最後まで奇策は出ず終いの哀れなものだった。

 

●「必勝の算」の無い戦いは逃げよ

 個々の過去の戦争においてもそうであるが、練兵不充分な場合と、知謀によって計画された作戦に、必勝の見込みがない場合は、まず、戦いは極力避けなければならない
 必勝の算のない戦いは、往々にして最後は「国敗れて山河在(あ)り、城(しろ)春にして草木深し……」という愚かしい情緒主義に追い込むからである。
 まさに太平洋戦争は、これでなかったか。

 無能な軍人ほど傲慢に息巻き、机上の空論で策を立て、戦場の非情を知らず、勲章を欲しがり、実力と能力のない軍人ほど、夜郎自大化したではないか。
 そして負けても、自分の失錯を棚に上げ、その責任を部下に押し付け、下級将校や下士官には特攻出動を命じ、決死隊を編成して万歳突撃を促したり、とにかく戦争を知らない高級軍人が戦争を指導したのであるから、負けるのは当然である。
 戦後生まれの、1970年代世代以降を「戦争を知らない子供達」と言うそうだが、何も、こうした戦後生まれだけが戦争を知らなかった分けではない。戦前にも、戦中にも、佐官(少佐・中佐・大佐)や将官(少将・中将・大将)の階級を付けた「戦争を知らない高級軍人達」は沢山いたのである。

 陸軍士官学校、海軍兵学校、陸軍大学校、海軍大学校、それに航空士官学校(大戦末期、陸軍航空隊の中に開校)と、この時代を懐かしむ、戦争指揮官の生き残りの政財界人は、今でも健在だ。
 しかし彼等は、その、かつての軍官学校を、これまでの並の学校より、一等も、二等も、高く過大評価して憚らなかった。素晴しいの一点張りであった。
 彼等の良き青春の情熱は、そこに帰属した、その一点に絞られるようだ。

 戦後、自衛隊に流れた将校達も「貴官は陸士の第何期卒業か?」あるいは「海兵の第何期卒業か?」と訊ねるのが、共通した彼等の口癖であるそうだ。そしてその情緒主義から醸し出す武勇伝は、多くの逸話を捏造(ねつぞう)し、次世代に多くの誤りを齎したことは事実である。
 彼等の回想する「戦記物」の多くは、こうした捏造の結果が齎した産物である。
 そしてこうした捏造書籍は、今でも誤り箇所の修正が加えられる事なく、防衛庁の戦史室に、もっともらしく並べられ、当時の正史を伝える、貴重な参考書となっているのである。

 軍官学校卒業の彼等は青少年期、左脳だけで考える暗記問題を、順に解くのは非常にうまかったと言われる。左脳思考型の人間を、有名私立の初級学校や陸軍幼年学校では「優等生」と称し、以降も軍首脳部に席した連中である。
 ただ、暗記問題に強く、記憶力が優れ、算術や書き取りにも秀で、ペーパーテストで難解な暗記問題だけを順に解き、答えのある問いに対しては非常に強かった。

 しかし彼等も、戦争のような、一様に同じ解答が出ない、答えのない問題に対しては、全くお手上げの状態であったと言う。軍人に必要な非日常的な戦争観が欠けていたからであろう。
 こうした答えのない問題に、解答を下せない彼等が、暗記力と古い江戸時代の悪しき武士道の余韻を引き摺って、慎みを忘れ、軽々しく戦争指導したのであるから、敗北するのは当然である。

 こうした日本の将官達に比べて、当時のアメリカ軍部はどうだったか。
 海軍ではチェスター・W・ニミッツ提督がおり、彼は少将から先任を飛び超えて、一気に大将に進級し、太平洋艦隊を率いて大勝利を齎した。また大戦車軍団の指揮官として勇名を馳せた、パットン大将もウエストポイントでは落ちこぼれ寸前だったが、戦時に強い彼の特異な奇策は、多いにドイツ軍を悩まし、連合軍に大勝利を齎した。
 彼等こそ、戦争の何たるかを知り、また戦時の武人の何たるかを知っていた。

 しかし日本軍に彼等のような発想を持つ、特異な軍人は、最後までとうとう出てこなかった。
 愚将の山本五十六(博打には強かったが、戦争音痴の典型的な提督)をはじめ、陸海軍には知将より愚将の数が勝っていた。智慧のない将軍が、勲章目当てに戦争を仕掛け、そして敗戦するという由々しき事態を招いたのである。
 またこうした智慧のない愚将達が、「武士道の何たるか」も、「戦争の何たるか」も理解できないまま、一度も挽回する事なく、敗戦に追い込まれたのである。智慧のない人間ほど、安易に敵の挑発に乗って戦いたがり、そして敗北するのである。

 生命の遣り取りというのは、一生のうちで、そう何度もあるものではない。その為には、用意周到に奇略(きりゃく)を練り、奇襲手や必勝の算を捻り出し、無解答の白紙から、丹念に書き上げる神妙な覚悟が大事である。あらかじめ示された答えのあるような、解答用紙の解答を書くのとは訳が違うのである。
 奇想天外な策を用い、型通りの常識に囚(とら)われず、如何に見方の損害を少なくし、敵の大きな損害を与えるか、それを真剣に煎じ詰めて考えれば、奇手・新手は続々と浮かぶ筈である。そして最終的には、敵に悟られず、秘して示さずの心構えが必要である。

 武士道実践者が、有事に際し、いざ決戦となった場合、これまで考え抜いた奇手・新手が示せないというのでは余りもに情けない。
 武術家とか、武士道実践者とかは、そうした、咄嗟の場合に対応出来、即答出来てこそ、人から一目も二目も置かれるのである。
 安易にだらだらと、日常の当り前の練習を繰り返していては、勝つ見込みはないのである。非日常の、切羽詰まった実戦を常に想定して、智慧を巡らさなければならないのである。日常の当り前の並の練習で、勝とうと幻想を抱くのは、智慧のない夢想家や空想家がする事である。

 ちなみに、かつての軍官学校の出身者に匹敵するのが、国家上級試験をパスしたキャリア官僚達である。日本でも官僚エリートを集めている最優秀者の組織体は、東大法学部卒を頂点にした有名学閥からなる財務省(かつての大蔵省)や日本銀行である。
 しかしこうした組織体の中にも、常に一定比率で、贈収賄や不祥事を引き起こし、指弾されるキャリアのクズは居るし、要するに人間の持つ道義と、知的レベルは無関係である事を証明している。
 かつてはこうした官僚エリートが、軍隊エリートとなって、太平洋戦争を指導していたのである。負けるのも当然だった。


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