■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)
●試合と実戦は違う
試合形式で、通常概念で慣らされた者は、奇手から為る奇想天外な奇策を考え出す事が苦手である。
スポーツ・ルールと、審判員の顔色と、試合場の内枠ラインとに慣らされた試合展開は、こうした規制内での約束事に終始しする結果を生む。そして、ついには試合の常識という範囲で落ち着く事になる。したがって日々の練習も、その内枠で運用するだけの事になり、埒外の奇手や新手は最後まで出ず終いになる。
世に「天覧試合」なるものがある。天皇が叡覧(えいらん/天子が御覧になる意)になる試合をこう呼ぶ。
また江戸期、将軍や大名などの高貴な身分の者の前で行なう武術試合を「御前試合」と言った。
江戸時代に著された『明良洪範』の第六巻には、徳川家光が品川御殿(将軍の別荘)において、剣術の御前試合を行わせた事を記述している。
それによれば将軍家光は、将軍家指南役・柳生但馬守宗矩(むねのり)を連れて行き、そこで剣術の試合を行わせたとある。この日、家光は上機嫌であった。
と言うのも、「将軍家の御馬方(おうまかた)である、諏訪善九郎(すわぜんくろう)なる者に、宗矩の教えを受けた門弟の御側(おそば)の者と、試合させて見てはどうか」という事になったのである。
これを伝え聞いた善九郎は「拙者(せっしゃ)は馬方で御座れば、馬上の試合ならばいざしらず、剣術の試合となりますれば、お門違いで御座います」と断わるのである。
しかし家光は、「馬上の試合でも構わぬ」となったのである。
善九郎は、「ならば致し方も御座らぬ」となり、宗矩ご自慢の、腕利きの御側衆二名と試合する事になった。この二名が騎乗し、次に善九郎が騎乗する。
愈々(いよいよ)試合が展開された。しかし善九郎の馬術は相当なもので、この二人は、彼の身体に指一本、剣尖(きっさき)一つ触れる事ができず、ただ振り回されるだけだった。
逆に善九郎は、打ち当てる箇所を前もって告げてから、二人を相手にするのである。あらかじめ指定した箇所に、善九郎次々に狙った。それが物の見事に打ち当てるのであるから、その度に周囲から響動(どよ)めきが湧く。そして善九郎は将軍家御馬方の面目を保った。
乗馬は騎乗すると、一種の下半身が儘ならぬ「躄」(いざり)状態となる。上半身だけは自由であるが、下半身はどうにもならない。後は巧みな馬の操作と、手綱捌きだけとなる。騎馬戦においては、馬術に優れた方が、断然有利である。
善九郎は馬術に優れていた。いかに腕利きであっても、馬に乗れば善九郎の敵ではなかった。
そこで家光は、今度は宗矩に善九郎の相手になるように命じた。
周囲は、「幾ら柳生様とて……」と声を潜めて囁いた。
宗矩は観察眼の鋭い剣術家である。善九郎の手綱捌きは恐ろしきほど冴えわたっていると見た。そしてこれを打ち破るには、尋常な手段では到底勝ち目が無いと悟った。
宗矩の胸中には、彼の「虚を突く」以外方法はないと考えていた。宗矩は、家光の命令を受けて、騎乗する。
この後、宗矩はどうしたか。
自分の馭した馬を、善九郎の三間ほどに手前に近寄らせ、「静」に転じたかと思うと、今度は馬を急発進させて、「動」に転じた。この「動」に、善九郎は何事かと戸惑う。
善九郎の戸惑いを余所目に、宗矩は彼を狙うのではなく、彼の馭す馬の鼻面(はなづら)を打ち据えたのである。馬は忽ち狂い出し、制御が利かなくなった。その隙に善九郎を打ち据えたのである。
まさに試合と実戦の違いはここにある。
試合に、試合以上の手は存在しない。したがって試合上手は、試合の枠内で次々に既成の手を考える。しかし実戦ともなると、おのが名誉と存亡を賭すので、自ずと奇手や新手の思考が趨る。
これを見た家光は、大いに感心し、「名人の所作、時機に臨んでの働き、尤も神妙の限りなり」と称賛したのである。
『明良洪範』の著者も家光同様、感心して踊るような文字で、「但馬守、馬術は善九郎に及ばざるを察しての業也、臨機応変とはこれ等の事也」と、自らの感銘を綴っている。
戦国の世が終り、徳川三代ともなると、祖父母の時代の軍事(いくさごと)は忘れ去られ、あらかじめ定められた型通りの所業に落ち着くものである。型は、常識の範囲で考えられ、常識から出る事を許さない。したがって、こうした不便と、不自由と、制約に束縛される。
世の中の世襲はこうした範疇(はんちゅう)に人間を押し止め、それから出て、型破りに動き回る事を抑制する。
これによって臨機応変の「理」(ことわり)が利かなくなる。
宗矩との試合において、善九郎自身も代々の御馬方なれば、既に若くして馬を打つ事は、父より一子相伝で教えを授(う)けて、知ってはいたろうが、それは知識として知っていただけの事であり、実戦においては応用できず、自身の毎日の馬術稽古の中では、これが生きていなかったのである。
●実戦と喧華は違う
俗に「喧嘩上手」という輩(やから)がいる。自らをストリート・ファイターと自称する者がいる。確かにケンカ慣れしている者は、殴り合いには強い。
しかしこう言う手合いは、命を賭けて、命の遣り取りをするまでの、域に達していない。多くは素手で闘う事を好み、殴り合いが中心で、武器・刃物が出ても、ナイフであったり、軟弱な小刀であったり、チェーンであったり、また、それに似たり寄ったりの、直接人間を即死させるような武器を遣う事は余りない。
ケンカとは、「喧華」あるいは「諠譁」の文字が用いられ、いずれの字も、「口」や「言」に関する意味合いのものが用いられ、それからすると、「やかましいこと」「騒がしいこと」「争うこと」「諍(いさか)いすること」等と位置付けられる。
こうした、好んで喧嘩をする者を「喧嘩師」と言う。
しかし「口」や「言」に関すると聞けば、どこか新渡戸稲造が褒めちぎった歌合戦の、「上の句」と「下の句」を彷彿(ほうふつ)とさせるではないか。
ただケンカの場合は、互いが汚く罵(ののし)り合うので、歌合戦の和歌のように知的で美しくはないが、それでも、罵倒の「上の句」の問いに応えて、罵声の「下の句」を即興で作る構造は、双方同じものであり、こうした「口」や「言」はケンカ売りの常套手段である。そしてケンカの場合、罵声の応酬で収まらないから、次には手が出るという展開となる。
一方、歌合戦は、まさに知的な「ケンカ売り」というもので、ただケンカと異なるのは、先に何らかの格闘があり、その結果において、「口」や「言」が出るのが、ケンカの場合と逆になっている。この点が、ケンカと歌合戦の大きく違うところだ。
好戦的な人間といえども、いきなり、見も知らぬ相手に拳を叩き込んだり、蹴りを入れたり、ナイフで刺すという者はいない。もしこうした手で最初から出るのは、精神異常者である。一般に言われる乱暴者とは違う。
したがってケンカは、最初は罵声、もしくは眼付けなどの睨(にら)み合いが生じて、火花が散り、アドレナリンが分泌されて、それから行動に出るものである。この儀式を無視して、いきなり刺すのは精神異常者だ。
罵声や眼付けは、これを続行している間に、感情的な興奮が盛り上がり、最後は口角(こうかく)沫(あわ)飛ばす怒鳴り声で、口の中まで、アドレナリンが弾けるような錯覚に陥る。激しい言動の遣り取りが絶頂に達した頃、手足や小武器が出てくるのである。
ところが実戦は、こうしたものとは最初から異なる。
それは最初から「殺すこと」「暗殺すること」を、目標に掲げているからだ。
有無も言わせぬ、素晴しいスピードがその目的の全てである。それは単に手段にとどまらない。方法論ではないのだ。最終目標は「確実に殺す」ことである。
暗殺者、刺客というものはこうした、有無も言わせぬ恐ろしいスピードを持っている。
「上の句」も「下の句」も、一切無く、ただ無言のまま近づき、無言のまま目的を果たして去っていく。
しかし彼等は好戦的でない。目的意識がはっきりしていて、その目的達成の為に、仕掛けるというに過ぎない。だから彼等にとって、こうした目的達成の手段は、好戦ゲームでない。
自分の腕をひけらかす事もなく、また自慢する事もない。夜陰に乗ずる事を旨とする。そして武道会場で、素人を威圧する為に、試割競技用に作られた瓦の試割をする事もなく、日頃は暴言や大盤振る舞いする事もなく、目立たぬような、慎み深い生活を装っている。爆弾魔や、自爆テロのアウトローは、日頃はこうした平凡な生活をしている。
しかし、こうした彼等も、一度時機を得ると、昂然と立ち上がり、有無も言わさぬスピードでターゲットを狙い、刺殺し、斬り捨て、この世から葬り去る。
ここに命の遣り取りをする実戦主義者の無言の猛威がある。
また、こうした実戦を知る暗殺者、刺客というものは、決して自らの貌(かお)を上げて、相手の貌や眼は絶対に見ようとしない。
ここが好戦的な喧嘩師とは全く違っている。
実戦において、命を遣り取りする場合、絶対に相手の貌や眼を見ないというのが必須条件だ。見れば、感情に囚われ、一瞬の躊躇が趨るからだ。
喧嘩師の場合はこれと逆で、貌を見、眼を見、足許(あしもと)から頭の天辺(てっぺん)まで、なめるように、じっくりと観察してから、些細な欠陥箇所を見付け出し、罵詈雑言(ばりぞうごん)の難癖が始まる。
ところが実戦を知る者は、こうした事がない。近寄り、擦れ違った時機には、相手は殺されている。
まさに居合の「居掛け」(いかけ/大東流剣術の特異な抜打)を彷彿(ほうふつ)とさせる。
1867年(慶応三年)十一月、京都・近江屋(おおみや)の奥の座敷の二階で、海援隊隊長・坂本龍馬と、陸援隊隊長・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が何者かに暗殺された。刺客は凄腕であったと言う。今日に至っても、資格の名ははっきりとしない。ある意味で、「刺客」とはこうした、釈然としない陰の、凄腕の人物を言うのであろう。
この事件を知った福沢諭吉は、「次は俺の番か……」と呟くのであった。
今思うに、「一年前には佐久間象山も殺られた。そして今度は坂本龍馬が……。刺客は居合か……。世の中、暗殺だらけだ。何か、奇手はないものか……」と思案する。
考え抜いた挙句、刺客の居合は居合で対抗するしかない、と福沢は思う。
福沢の選んだものは拳銃の練習ではなく、奇(く)しくも、武家の武術だった居合術であった。
では欧米かぶれの福沢が、何故、西洋に起源を持つ拳銃(revolver/回転式連発拳銃)を選ばず、侍嫌い、武家嫌いの彼が、居合を選んだのだったのだろうか。
一般に暗殺者は、ビルの谷間の高層階屋上の遠くから、狙撃銃に狙撃眼鏡(scope/精密射撃用の望遠鏡)をつけてそのファインダーを覗き、絶好の時機を狙ってハイパワー弾を撃ち込むと思われている。しかし実際には、外国アクション映画のような、こうした狙撃暗殺事件は、日本ではめったに起こらない。これは今も昔も変わりない。
また今日では、一般市民の拳銃の所持が皆無であり、18歳から所持できる猟銃や、14歳から競技用として所持できるエアー・ライフルにおいても警察の規制は厳しく、犯罪に使えば、直ぐに足が付く。したがって殺しのプロは、こうしたものには頼らない。もっと合法的な武器を選ぶ。そして今も昔も変わりない。つまり日本刀だ。
日本の場合では、幕末から明治に至るまで、その殆どが仕込杖(杖の表面は桜の皮などで巧妙に擬装し、見た目には普通の杖と見分けが付かず、反りの少ない細身の直刀などが仕込まれた杖。近年まで攻撃用や護身用として所持された)に仕込まれた日本刀によって暗殺が行われている。日本刀で斬りつけるか、短刀や脇指で刺す方法である。これを防御し、反撃するには、やはり日本刀であり、それも居合の抜き打ちでなければならない。福沢は、このように考えたに違いない。
この思考が、福沢を居合術に向かわせたと思われる。
そして福沢も、佐久間象山が無慙(むざん)に攘夷派の浪士から暗殺された事は知っていた筈である。
有無も言わせぬ抜き打ち。
これは拳銃の銃口をターゲットに向けて狙撃するより、実に早い。
拳銃は脚を開いて、腰溜(こしだめ)を造り、両手で構えなければならない。こうした構えでの移動には、動きがぎこちなくなる。更に拳銃弾は狙い定めて、「点」の状態で的に当てなければならない。また腰溜をせず、片手撃ちではリアクション(reaction/反動)がある為、命中率が落ちる。
ところが居合抜き打ちは、身構える必要がなく、通行中であっても、坐っていても、即座に鞘から抜くと同時に、刀身を頭上から叩き付ける事が出来る。袈裟斬りで薙(な)ぎ斬る事が出来る。自分の左の敵に対しては、抜刀と共に、左側を突けばよい。
そしてその軌道は、拳銃弾のように一次元の「点」ではなく、二次元以上の「線」、もしくは三次元的な「螺旋軌道」となる。こうした運動線を考えた場合、技術は要するが、刀操法を修得した方が攻防の効果も大きい。
拳銃やライフルでは殺気や気配では撃てない。眼で確認し、目標を計算しなければ、撃っても無駄弾(むだだま)になる。
無駄弾については一人の人間を戦争で殺すのに、日露戦争当時は70発程度であったものが、ベトナム戦争頃になると70万発以上と跳ね上がって、その殺傷確率も一万倍となっている事から、銃弾が如何に消耗戦で大量消費され、中々当たらない事が容易に解ろう。
一撃必殺。それは空手の専売特許ではない。居合の「抜き打ち」か「居掛け」においてのみ、言える事である。
ちなみに、空手の一突きで、まだ人を殺したという話を著者は聞かない。
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