■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)
●実戦とは戦場のことだ
実戦はケンカとは違う。
ケンカでは通常、当身(突き蹴りの徒手空拳)が七分に、投げ(柔道の背負い投げなどである、残念ながら合気道の投げ技は、ケンカに遣っているのを著者は見た事がない)が三分というが、こうした当身技や投げ技は、戦場では中々容易に遣えないものである。
戦場における実戦とは、攻める方と守る方が、一触即発の緊張を作り上げるもので、この、まさに起勢の状態の対処の仕方で、結果が大きく違ってくる。ここがケンカと違うのである。
戦場をケンカの場所と思ってはならない。また板張りや畳、リングや檻枠(おりわく)の、試合場と勘違いしてもならない。場所や時間の限定はないのである。
そして戦場にはルールも、穢さも、美しさもない。
また、言葉の遣り取りも、罵詈雑言(ばりぞうごん)も、歌合戦もない。ただあるのは、非情な命の遣り取りだけである。
人を付け狙い、葬るという事は、同時に自分も返り討ちに遭うかも知れないという事である。こうなれば当然、命を賭して、真剣にならざるを得ない。だから狙う方は必死になって、その稽古を怠らない。また、命を狙われていると感知した方も、以降、緊張した人生を歩む事になる。
心を鍛えた者は、毎日が死に対面して、生きること事態が鮮明なものになるし、そうでない者は日々を思い悩み、恐怖と不安に怯え、被害妄想に取り憑かれて、不条理な暴力に嘆き続けなければならなくなる。そして両者の違いは大きい。
したがって命を狙われ始めたその日から、のんべんらだりと、家族に囲まれた安穏な生活は送れないのである。その日から、家族と伴にする平和な、一家団欒など消し飛んでしまう。酒もタバコもやる閑(ひま)がなくなる。芸妓と戯れたり、風俗に通う事も憚かられる。緊張と、暴力を躱そうとする新鮮な別の自分が浮上し、死への決心を鮮明にさせる。
よくヤクザが、抗争相手から、高級クラブで殺されたり、妾のマンションで殺されたり、白昼、公衆の面前で無態に殺されるのは、彼等が既に、非日常を日常と取り違えてしまった為である。戦時を平時と思っているからである。彼等の一部には、ストーカーに執拗に付け狙われる若い女性の心理状態すら持ち合わせていない者がいる。非日常においても、まだ金が総てと思っている者がいる。
金に物を言わせ、監視カメラなどを配備し、防衛設備を整え、ドーベルマンを放し飼いにしても、ヒットマンに狙われれば、殺される時には殺される。美食の堕落に慣らされた日常の、安穏とした単調な生活に浸かる事は、緊張と備えを失う為、実に恐ろしいものがある。
一方、命を狙われていると知る者は、被害妄想を離れ、裏を返せば、人生に鮮やかな緊張が趨る。もはやこうなれば、平穏な日常は、苛酷な非日常と変化する。
そして非日常こそ、まさに戦場である事を確信する。こうした戦場観を持つ事こそ、皮肉であるが、以降の人生を、鮮明に、緊張あるものにする。
しかし一般の多くは、こうした緊張感を忘れ、平和惚けと、一応の満足感のある平穏な庶民生活に甘んじている。だからこうした平和惚け生活を、末永く享受する為に、戦争反対を主張し、平和主義を標榜する。暴力追放を標榜する。武器や、武器の研究を世の中から追放しようとする。
そしてこうした現実に慣れてしまえば、武士道を実践する事にも怠慢になる。武士道の文字すら忘れてしまう。
現代人は、こうした平穏の日常生活の永続と怠慢の上に胡座(あぐら)をかいている。そして多くの日本国民は、民主主義というものを本当に理解していない。
第一、税金で賄われている自衛隊が、どういう武器を所持し、どういう訓練をしているかも知らない。こうした知らない事を、美徳とする考え方が一般には定着し、反戦主義がマスコミやジャーナリズムでも支持されている。
これは民主主義が、基本的人権というエゴイズムを満足させる為に、一方において市民からなる国民軍を組織するという両者が一枚岩であるという、民主主義理論に矛盾している。
近代民主主義は市民軍隊を組織し、それを構成する事から始まっている。
これはフランス革命当時の国民軍を見れば一目瞭然である。自国の民主主義遂行の為、人民の基本的人権を守ろうとすれば、当然のごとく、外国軍隊に干渉されない独自の市民からなる国民軍が必要となる。自発的に、暴力と立ち向かう市民を中核とする義勇軍が必須条件となるのである。
ある意味で民主主義とは、市民社会の意志決定ならびにそれを実行する為に、国家機関が暴力をコントロールし、暴力の一箇所集中を独占したのが国民軍の構築基盤であり、法に基づいて、これを管理するのがシビリアン・コントロールである。この機能が失われている場合、これは民主主義社会とは言わない。ここに民主主義の相矛盾するルールがある。
武器を遠避け、暴力を否定する反戦主義者はこの命題の、民主主義基礎理論を全く理解していない。基本的人権と自己主張ばかりを豪語し、その一方に、暴力の存在する事を完全に忘れている。
戦争は矛盾に満ちている。そして欺瞞に満ちている。
平時と戦時では、法の解釈が違う。ここが法治国家の恐ろしいところである。誰もこの矛盾と欺瞞に気付かず、民主主義に入れ上げている。こうした法の矛盾と欺瞞が錯誤する時、暴力と平和が一枚岩であった事を忘れる。したがって平穏な日常を、非日常に変化しても、日常たらん事を切望する。
まさに日本人は虎の口に餌(えさ)を差し出す、呑気なウサギである。
拝金主義、金銭至上主義の悪しきエゴイズムと、誰もが謳歌する民主主義に便乗して、牛・豚・羊・鶏の動蛋白を貪り、高級魚やその他の美食に明け暮れ、酒に溺れ、タバコを吸い、異性間への色恋沙汰に眼の色を変え、あるいは妻や良人(おっと)以外の妾(めかけ)を侍(はべ)らせて、こうした刹那主義で、どうしてこれで未来が存在するのであろうか。
危機管理が叫ばれている現代、それに対し真剣に耳を傾ける人は、ごく限られた人だけだ。国家存亡の危機が迫っていると警鐘を乱打しても、多くは、対岸の火事くらいにしか受け取らない。
真剣に周囲を瞶(みつ)め、現在の社会の置かれた構造を瞶め、国際情勢を瞶めて見れば、決して楽観できない情況にあるが、遠い国の出来事のように受け取っている。
多くは自分さえよければ、それでよいという悪しき個人主義の、一区劃の刹那に生きている。眼に見える部分は問題にするが、眼に見えない部分は問題にしない。しかし重要なのは、眼に見える部分ではなく、眼に見えない、隠れた部分である。この部分にこそ、本当の恐怖が隠れている。
現代の社会構造は、虚構の中に人間社会の見えざる部分が隠されている。
しかしこうした虚構の指摘は、著名な有識者や文化人からは、全くと言っていいほど相手にされない。だからと言って、こうした虚構の現実はありえないと、安易に一蹴(いっしゅう)する証拠はどこにもない。
これを一蹴する事は亡国である。
人間は考え方が安易になり、単調になり、変化の伴わない一瞬に固執する刹那主義に趨った時、想像を絶する悲劇に襲われる。それは歴史が証明している。
本書は佐久間象山暗殺事件を上げているが、象山自身も、当時刹那主義の側面を抱いて生きていなかったか。
確かに幕末期、佐久間象山は一面において、西洋の科学技術を紹介した、先見の明があった大学者だったかも知れない。思想家として、また、教育者としては一流であったかも知れない。しかし彼の日常は、日常以外の何ものでもなかった。だから易々と暗殺されたとも言える。
激動する時代の現実を非日常と取らず、日常と取った事に暗殺された原因があった。ために、殺される隙を作ったというべきであろう。
●柔躙される現実
では象山は、何故暗殺されたのか。
問題は、再びここに回帰する。
単に対峙する組織集団の議論の行き違いや、思想の違いから消されたのか。
人間はこれだけで行動する場合もあるが、多くは依頼されて実行に移す場合が多い。
刺客・川上彦斉は単独行動で象山暗殺を図ったのか?あるいは誰の依頼か?
彼と同じ時代に、剣術にも馬術にも長けた、神道無念流の達人・斎藤弥九郎がいた。
斎藤は馬術においても、第一級といわれた当代一流の武術家である。そして斎藤も幕府に対して、象山と同じように、「武士は馬術も大事であるので、これを義務教育に入れるべし」と建言した一人である。軍馬組織の重要性を力説している。
こうした点に関して、斎藤と象山は一面において同じ思想で流れている。
ところが象山だけが斬られた。神道無念流の斎藤弥九郎は斬られなかった。
同じ馬術思想を持ち、一方は斬られ、一方は斬られなかった。
斎藤も馬術思想からは、列記とした兵学者である事が分かる。そして象山も、同じ兵学者でありながら、斎藤ほどの腕と度胸は持ち合わせなかった。また一度、屋敷を出ればそこが戦場であるという、戦場観も持っていなかった。
斎藤と決定的に違っていたところは、この点にある。
兵学者は一種の兵法家であり、実践家にしてその技術も優れていなければならない。象山にはこの部分の甘さがあった。だから殺された。事実はそうだ。
しかし兵学者は、兵学者として奇抜な策もあった筈だ。それが象山には生かされていない。
象山は取り巻きに傅かれ、日常生活では、ひと握りのエリートとして、己の学が権威になっていたのであろうが、非日常生活では役に立たない絵に描いた餅だった。
さて、問題は何故暗殺されたか、である。
川上一人の単独行動であったのか。あるいは熱狂的な尊王家ゆえに象山と対峙したのか。その謎は残る。
しかし人間が行動を起こす場合、思い込みで起こす事もあろうが、多くは報酬を貰って、何者かの差し金で動く場合が多い。川上もこれでなかったのか。
では、誰が依頼者か?となる。
よく似た事件に、知識階級の柔躙(じゅうりん)というのがある。
諸氏もご存じであろうが、かつてアメリカには「マンハッタン原爆計画」(Manhattan Project)というのがあった。
これは第二次大戦中のアメリカで、秘密裏に進められた原子爆弾製造計画の事である。この結果、1945年7月、アメリカの砂漠地帯で人類初の原爆実験が行われ、同年の8月には広島と長崎に原爆が投下された。この事は誰もがご存じであろう。
しかし誰が指導し、指揮したかは余り知られていない。
この計画に携わったのは、物理学者アインシュタインをチーフとするユダヤ系科学者の取り巻きだった。アインシュタインはユダヤ人である。しかし彼のユダヤ系は、アブラハム・ヤコブ・イサクの、この血統を受け継ぐユダヤ人ではない。アシュケナジー系ユダヤ人(正しくはカザール人)である。
紹介した前者のユダヤ人をスファラディ系ユダヤ人という。ユダヤ問題、宗教問題で詳しい方は、既にこの事はご存じであろう。
そしてイスラエルには二種類のユダヤ人がいる。したがってイスラエルの社会構造も二重構造であり、前者は二級市民として祖国イスラエルの為に作業労働者的な仕事が与えられ、国内に縛り付けられて奉仕する日々を余儀なくされている。
一方後者はイスラエルの高官の座に就き、あるいはアメリカや世界各地で活躍している知的エリート達である。
アメリカの「マンハッタン原爆計画」には、この知的エリート達の頭脳が投入された。
当時、原子爆弾の威力は正確には把握できていなかったが、アインシュタインほどの大科学者であれば、これを人類の頭上に投下して、どういう事態が起こるか当然予測できた結果はずである。
ところが彼は、この計画を阻止しようともしないし、こうした大量殺人兵器が、人類にとって間違った実験であるという事も指摘しなかった。
命ぜられる儘に造ったとしか言いようがない。
では、何故協力したか。
おそらく柔躙されていたのではあるまいか。
この事実はアメリカの恥部として隠されているが、知識階級が柔躙され、何者かの手先になって奉仕する事は、よくある話である。
戦後、アメリカとソ連の冷戦構造が原水爆開発に拍車をかけたが、こうした政府の重要機関で働いていたのは、旧ナチス・ドイツのV1号・V2号を造った軍事科学者達であった。彼等の頭脳は、一旦はドイツに柔躙されたものの、大戦後アメリカとソ連に柔躙された。
こうして考えてくると、大科学者アインシュタインは柔躙されていた可能性が高い。
しかし柔躙する方法は何種類かあって、その一つは最高級の贅沢な生活と絶世の美女が与えられ、そこで柔躙される。そして自分と美女の絡む姦な写真やビデオが撮影され、セックス・スキャンダルで骨抜きにされる。世界ではこのタイプが最も多い。
次に贅沢な生活が約束されながら、法外な報酬によって柔躙される。
そして次は法外な報酬だけで柔躙される。この場合、請負報酬と、イデオロギー的なものが絡んでの柔躙と、科学者としての栄誉(ノーベル賞などの)が目的で柔躙される場合があり、後者は大それた事をしているという自覚症状に欠ける。
科学者は如何に大学者でも、自分一人では何も出来ない。自分の学識を世界に訴えるには、巨額な資金がいる。したがって資金提供のスポンサーという契約で柔躙される事もある。
アインシュタインには、これまでの科学的発表の中で、イデオロギー的なものはないので、おそらく栄誉を約束されての柔躙であったのか?
さて、佐久間象山が何故刺客に襲われたか、という事件に迫ろう。
著者は、柔躙が目的ではなかったかと睨んでいる。
坂本龍馬は、アイルランドの武器商人トーマス・ブレーク・グラバー(フリーメーソン日本支社長)の介在で、フリーメーソンの深部を知り過ぎた為に殺されたとされている。中岡慎太郎は龍馬と一緒に居て、とばっちりを受けたのであろう。
では、象山の場合、何者かに柔躙されようとしたのではなかったか。
象山自身、自己のエリート意識は非常に高かった。自らを先覚者と自称した観も否めない。それは『省侃録』などにも見る事が出来る。
その一つとして、朱子学(宋学)における窮理(易経説卦伝「窮理尽性、以至於命」事理をきわめる学問の意)を重んじた事である。これは朱子学の方法において、程頤(ていいら)が重視し、格物を「物の理に窮め至る」とした事から、格物致知の方法の実質を担うものとされ、朱子学では窮理の学と称された。そして朱子学は、体制側の学問であり、支配者や権力者の学問でもある。
格物とは、「礼記」大学の、いわゆる八条目(格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下)の一つで、朱子学以来、御用学者にとっては非常に重視する事柄である。
そして朱子学では、「物(の理)に至る」と読み、事物に本来そなわる、理に窮め、至る事と解した。
一方、陽明学では、「物(事)をただす」と読み、「心の良知」(まごころ)を発揮する事によって、事柄のあり方をただす事と解した。
象山は両者を見比べながら、最初は朱子学に入れ上げ、次に佐藤一齋について陽明学を学んだ。しかし最終的には朱子学に帰着している。
象山の著書『省侃録』によれば、窮理は西洋科学の理解が先決であり、その摂取を受けて、外国文化を自らものものにすると称し、「君子、すなわち天下の士の本懐とする」とあり、「東洋の道徳、西洋の芸術、精粗(詳しいことと大まかなこと)遺さず、表裏兼該し、因つて以つて民物に沢(うるお)し、国恩に報ゆる」とある。
そしてこの思想は海防論が中心で、西洋式の火器の製造と大型軍艦の建造が中心課題に上げられ、国防を軍事力の強化のみに依存するのではなく、殖産興業を押し進め、開国進取の主張と、その発展寄与に尽くすというものであった。
こうした象山の考え方は、華夷(かい)内外の弁をもって攘夷論を展開させる水戸学や、幕末に吹き荒れた尊王攘夷論とは大いに異なり、開国策が急務と説いたのである。
しかし一方で、徳川幕藩体制を批判したり、身分制度を断ち切って四民平等という思想には消極的であり、公武合体による体制内改革論を振り回し、現状打破に至る域は出なかった。
では何故この域にとどまったか。
象山の開国策は、一説には攘夷派と佐幕派のいずれにも偏らない次元を超えた近代国家への国是とされるが、一方においては時の情勢に押される幕府のご都合主義に便乗したのではないかという疑念が残る。それは徳川家の栄誉を顧みない考え方がありながら、弱体化を見せる幕藩体制に批判を加える事もなく、公武合体に奔走した事である。この奔走は、何が原動力となっているのか。
1840年に勃発した阿片戦争は、中国が西洋の帝国主義に屈して、半植民地化の起点となる事で、日本の国家意識を持つ学者達を大いに震憾させた。以降、天下の安危を憂いて国家意識に目覚める志士が激増した。
そして象山は、吉田松陰が密航に失敗し、九年近くの蟄居を命ぜられたあと、海防論をひっさげて幕府要路に進言をする機会を得た。
これは象山の生涯にとって一大逆転劇で、その思想は幕府の中枢に据えられ、公武合体政策の基盤となっていく。
公武合体政策とは、幕末期、従来の幕府独裁政治体制を修正し、天皇と幕府とを一体化させる事で、幕藩体制を再編強化しようとした政治路線であり、これは尊皇攘夷運動と対立した。桜田門外の変後、この政策がもとで、幕府内では安藤信正ら、そして西南雄藩では長州藩や薩摩藩など様々な勢力が主張を展開した。
その展開論が「公議政体論」といわれるもので、幕末の政治構想論の一つであり、西南雄藩大名など有力者を集めた会議を開催し、それによって新たな政治を行おうとするもので、公武合体政策の中枢をなす幕府独裁論は、薩摩・長州・土佐・肥後熊本の倒幕論と対立した。その論者達は熊本藩士の横井小楠であり、土佐藩郷士の坂本竜馬であり、土佐藩士の後藤象二郎らであった。
こうした論者に対立したのが、また佐久間象山であった。
この図式から考えれば、命を狙われる事は必定であり、幕府と朝廷の両方を手玉に取る、エリート意識の旺盛さを拭う事はできない。幕府の再建索に便乗して、知識エリートが、何らかの形で柔躙された形跡があるようだ。
しかし鈍感であったのか、これを拒んだのか、恨みをかったのか、その真相は定かでない。
象山ほどの西洋通が「陰の政府」の存在を見逃すはずはない。
既に西洋の民主政治の存在にも気付き、それがどのような形で動かされるか知っていたはずである。民主政治には、必ず表面の権力者と、裏側でこれを操る陰の政府の意向が働く政治組織構造である。
また一国の表側の最高権力者は、ただ一人の高潔な意志で動かされるのではなく、陰の政府の意向が大きな比重を占めている。そして陰の政府の意向にそぐわない時、世代交代として暗殺が発生する。
それはアメリカ歴代大統領の暗殺事件を考えれば、陰の政府が実権を握り、操り人形の大統領を動かしている事は一目瞭然である。
しかし陰の政府については、枚挙に遑(いとま)が無いので、これは語らない。
さて暗殺とは、密かに人を狙って殺す事であるが、多くは、政治的あるいは思想的に対立している相手を殺す事であり、こうした場合、依頼者は膨大な利益を手にする事が出来るから殺すのである。あるいは柔躙しようとして、言う事をきかず、内情を知り過ぎた為に殺される場合もある。例えば、米国第三十五代大統領ジョン・F・ケネディのように。
象山の場合は柔躙説と思想対立説が考えられる。しかし幕府側に立って奔走していることを考えれば、柔躙説が濃厚だ。したがって攘夷派の志士からは目の敵(かたき)にされる。
だから薄々は命が狙われていると感じていたのであろう。
しかし象山も、ここまで気配を感じ取りながら、安易な日常生活を送った事は甚だ遺憾である。福沢諭吉の如き、敏感さと慎重さで非日常を捉えて貰いたかったものである。
福沢は龍馬が殺られたのを見て、決して明治政府の官職に就かなかった。野に伏した。これはまさに正解であった。以後、そして福沢が予見したように、次々と暗殺事件が起こる。
1864年(元治元年七月)には佐久間象山(信州松代藩士)が京都木屋町通りで暗殺され、三年後の1867年(慶応三年)には坂本龍馬(土佐藩郷士。海援隊)と中岡慎太郎(土佐藩出身。土佐勤王党。陸援隊)が京都の近江屋で斬殺される。象山を倒した刺客は攘夷派の川上彦斉(のちの高田源兵衛)であったが、龍馬を狙った刺客はいろいろな説が飛び交っているが、その実は不明である。ただ福沢の怯えようから、依頼者が居た事は明白である。
この時、福沢は「次は俺の番か……」と思ったはずである。そしてこの時から、福沢の防衛策がはじまった。
以降の暗殺は次の通りである。
1869年(明治二年一月)横井小楠(しょうなん/熊本藩士。越前福井藩に招かれて顧問となり、開国通商を説き、国事に奔走。明治維新後、参与。勝海舟が第一の師と仰ぐ人物)暗殺。
同年九月、大村益次郎(長州藩の軍事指導者。兵部大輔)暗殺。
1871年(明治四年一月)広沢真臣(長州藩出身。参与・民部大輔・参議を歴任)暗殺。
1874年(明治七年一月)岩倉具視(公家出身で右大臣。使節団を率いて米欧視察)暗殺未遂事件。
1877年(明治十年一月)西郷隆盛(薩摩藩士。陸軍大将・参議をつとめるが、征韓論政変で下野。帰郷して私学校を設立)暗殺予備事件。同月の三十日の西南の役勃発に繋がる。
1878年(明治十一年五月)大久保利通(薩摩藩士。初代内務卿)暗殺。
1882年(明治十五年四月)板垣退助(土佐藩士。大隈重信とともに組閣、内相)暗殺未遂事件。
1889年(明治二十二年二月)二月森有礼(薩摩藩士。文部大臣)暗殺。
同年十月、大隈重信(佐賀藩士。外務大臣・首相などを歴任)爆弾襲撃。右脚を失う。
1892年(明治二十五年十二月)渋沢栄一(財界の巨頭で第一国立銀行経営)暗殺未遂事件。
1894年(明治二十七年三月)金玉均(キム‐オクキュン/朝鮮開化派の指導者)上海で暗殺。1884年甲申政変を企てたが成らず、日本に亡命し、福沢諭吉の庇護を受けて、その邸宅に起臥するが、1894年のち閔氏政権の刺客により暗殺さる。拳銃弾の第一弾は左頬を掠め、第二弾は腹部に当たり、第三弾は頭部に当り、これが致命傷となる。福沢はこの事件を聞いて、強い衝撃を受ける。
1895年(明治二十八年二月)閔妃(朝鮮王妃。京幾道驥州の名門の出)暗殺。日清戦争の後の日本の大陰謀が隠れていたというが……。
1901年(明治三十四年六月)星亨(ほしとおる/逓信大臣・第二代衆議院議長・駐米公使・東京市会議長などを歴任)暗殺。犯人は心形刀流の剣客・伊庭想太郎であった。凶器は短刀。
福沢はその後、1901年まで生き存え、六十七歳の人生を全うしている。しかし六十七歳という年齢は些か早い気もする。
その後の暗殺事件としては、
1909年(明治四十二年十月)ハルピンで、元総理大臣で韓国統監・伊藤博文暗殺。犯人は朝鮮の独立運動家・安重根(あんじゅんくん)で、凶器はブローニング七連発、黒色錆止め、長さ:五寸四分、銃把:二寸五分であった。
1921年(大正十年十一月)内閣総理大臣・原敬暗殺。
1930年(昭和五年十一月)内閣総理大臣・浜口雄幸狙撃後死亡。
1932年(昭和七年二月)大蔵大臣井上準之助暗殺。
同年五月、内閣総理大臣・犬養毅暗殺、牧野伸顕内大臣狙撃。世に言う五・一五事件である。
1936年(昭和十一年二月)内大臣・斎藤実暗殺、大蔵大臣・高橋是清暗殺、陸軍教育総監・渡部錠太郎暗殺、侍従長・鈴木貫太郎重傷。首相・岡田啓介のみ無事。世に言う二・二六事件である。
1945年(昭和二十年十二月)日米開戦当時の前首相だった近衛文麿が原因不明の自殺を遂げる。
こうした暗殺者の殺人依頼計画の流れを見て行くと、いすれも彼等は欧米の手駒としてエージェントになり、時の政府に関与した結果、余りにも期待以上に機能し過ぎた為に殺されたと見られる。
しかし暗殺や襲撃を受けなかった、例えば木戸孝允(長州藩士で明治政府内の進歩派)、岩倉具視(幕末・明治前期の公家で、明治政府の中枢)、西園寺公望(鎌倉初期よりの北家閑院流藤原公実の血縁で第二次政友会総裁)、井上馨(長州藩士で、明治政府の中枢)、五代友厚(薩摩藩士で明治政府の外国事務局判事を歴任後、実業家)、寺島宗則(薩摩藩士で、明治政府の外務卿)らも決して安穏とは出来なかった事だろう。
その証拠に、武家嫌いの福沢諭吉が、武家の武術である居合術を猛稽古した事実である。そして一切の官職には就かなかった。官職に就いていたら、間違いなく居合では防ぎ切れない程の刺客が襲った事であろう。 |