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大東流の基本となる日本刀の操法

■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)

●福沢諭吉と大阪事件

 福沢諭吉は慶応義塾の創始者で、また民主主義の神様のように思われているが、これはあくまで福沢の側面を表わしているに過ぎない。

 明治十五年七月、京城(現在のソウルで、李朝時代の王都漢城)でクーデターが発生した。これは朝鮮閣僚暗殺計画未遂事件で、日本では「大阪事件」とも呼ばれた。
 この事件の犠牲者は、朝鮮日本公使館員四名が暴徒に虐殺され、また京城や仁川(インチョン/ソウルの西30キロメートルの港湾都市。朝鮮戦争中の1950年9月15日、アメリカ軍の上陸作戦が行われた場所で有名)でも日本人十数名が殺された。そして事件の首謀者は金玉均で、李朝末期の政治家であった。

 金は朝鮮開化派の指導者で、朴泳孝(朝鮮李朝末期の貴族・政治家。25代国王哲宗の娘婿)らとともに日本の援助を得て、改革と清国からの独立を意図し、1884年甲申政変を企てたが成らず、日本に亡命した経緯を持っていた。こうした彼等を庇護し、援助したのがたのが福沢諭吉であった。
 福沢には他国の進歩主義者を愛し、血生臭い暗殺事件と、独立運動を支援するという表面の貌とは似つかぬ別の一面を持っていた。
 金玉均や朴泳孝らは、一旦は朝鮮事大党の幹部を大量虐殺し、政権を握ったが、暗殺計画未遂事件以降、たちまち清国の軍隊に追われて、クーデター失敗を認め、日本に亡命してきたのである。こうした彼等を庇護し、自宅で起臥の世話をしたのが福沢であった。

 金一行は「クーデター計画は日本政府との密約の上に出来上がっているのだから、失敗しても日本に亡命すれば、日本政府は好意的に暖かく迎えてくれるであろう」と高を括っていた。
 ところが実際に日本に亡命すると、日本政府の扱いは非常に冷酷なもので、外務卿であった井上馨(維新後、政府の中心人物でフリーメーソン)は、金らが何度訪問してきても門前払いを食わせた。そして度々来る彼等を、井上は門を閉ざして近づけない有様であった。金らはこれに対して酷く憤激した。
 そして金は井上に対し、「このままでは、日本政府の背信の顛末を書き記し、天下に公表する」と開き直ったのである。

 この時、民間人として金らを庇護したのが福沢を始めとした、朝鮮独立運動の志士達であった。彼等志士達の中には、自由党員も改進党員も含まれていて、板垣退助や片岡健吉らもその例外ではなかった。
 特に当時の自由党員は剣術を稽古し、討論を闘わせ、学習を行うという変わり種の武当派集団で、自由民権の指導者達は、続々と文武両道の道場を作り、剣術と戦闘訓練に明け暮れ、硬派的な壮士の育成に熱中していた時代である。
 河原や野原で帯刀抜刀し、戦闘訓練をして壮士の士気を高める事に全力を努めていた。

 こうした中、福沢は、金らに対し、最も深い同情を寄せ、彼等の相談に乗った。
 土佐藩士で大政奉還運動を起し、明治維新後、参議となったが、征韓論政変で下野した後藤象二郎に、彼等を引き合わせたのも、福沢であった。
 また京城クーデターの際、時の剣客と謳われた居合術の達人・松尾三代太郎(みよたろう)と、原田一(はじめ)を渡韓させ、金らの味方として警護に該らせたのも福沢であった。そして我が弟子である牛馬卓三、高橋正信らも京城に送り込み、朝鮮政界の動向を静観した。

 こうした経緯から、福沢はただならぬ同情と支援を、金らに尽くしていたのである。そして福沢に接触を始めたのが、自由党の指導者・小林樟雄(くすお)、大井憲太郎(代言人で、星亨とともに、明治十五年代言人組合の副会長に当選)らであった。
 自由党の彼等は、金らと親交を結び、朝鮮に押し渡ってクーデターを敢行し、朝鮮を清国から独立させる為にはフランスの力を借りなければならないと考えていた。そのスローガンは、朝鮮を保護し独立を維持するというものであった。その上で、朝鮮を利用してロシアと清国を戦わせ、漁夫の利を狙う謀略案まで計画していた。これを「大阪事件」という。

 これは福沢の考え方に一致していた。
 しかしその深層部はこれだけに止まらず、究極の目的は、朝鮮の民主的改革を押し進め、この民主改革を以て日本自体の国家の改造の糸口にする狙いがあったという。
 しかし金玉均が、明治二十七年三月、上海で閔氏政権の刺客により上海で暗殺された事で、福沢の思惑は挫折する。
 こうした福沢の考えていたビジョンに随(したが)うと、福沢は一般に考えられているような、学者肌のヤワな人間でない事が分かる。

 

●明治暗殺史の奇妙な事件

 明治三十四年六月二十一日午後三時頃、東京市役所の市参事会議室である事件が起きた。
 逓信大臣や東京市会議長などを歴任した星亨(ほしとおる)は市参事会例会を終え、市長や助役参事会員やその他の職員達と雑談に耽っていた。

 そこへ、大島紬の単衣の仙台袴に、黒絽の紋付羽織を着た、齢の頃は五十前後の身の丈六尺ばかりの紳士が現われた。その紳士は役所の巡視(じゅんし/役所の警備担当者)を呼び止め、
 「本日星さんは出勤しておりますか?」と訊ねた。
 「はい、おりますが……」と答えた。
 「では、面会したいのですが……」と紳士は申し出た。
 紳士は名刺を差し出し、その名刺には「四谷区学視委員・伊庭想太郎」と書かれていた。

 巡視はこの紳士の身装りを見て、別に怪しいふうにも思えず、一先ず紳士を応接室に案内して待たせ、二階の会議室に要件を伝えに言った。
 ところが二階の会議室は「面会謝絶」の札が出ており、この事を紳士に伝えた。
 紳士は「そうですか、仕方がありませんね」と立ち上がり、帰る振りをして、巡視が去るのを待ち、今度は自分で二階の会議室に上がって行った。
 紳士の懐には短刀が忍ばせてあった。
 この紳士は伊庭想太郎であった。心形刀流の剣客・伊庭想太郎である。

 伊庭は会議室に入り、星を確認して、面会を装うような恰好で、何気なく彼に近づいた。星はその時、東京市長・松田と話しに耽っていた。
 伊庭はその様子を見て、星の背後に周り、短刀を抜いた。星が伊庭に対して怪しむ隙も与えなかった素早さであった。
 伊庭は「奸賊!」と叫び、星の右腹を刺し、次に右脇の下に短刀を突き立てたのである。心臓を狙うつもりでいた。
 この時、辺りは騒然となり、星は刺されると同時に椅子から立ち上がり、右手を挙げて何かを言うような恰好でよろよろとし、そこへ伊庭は一突きを加え、星は二三歩歩いてパタリと倒れた。

 それを見た伊庭は、今までの冷静な貌とは打って変わって、右手の短刀を振り上げ、「天下の為に、奸賊を殺す」と絶叫した。そしてその短刀は、既に鮮血に染まっていた。
 伊庭は再び星の右脇を刺し、既に声もない星を引き摺って、更に刺すと飛び散る血飛沫でその形相は阿修羅(あしゅら)のようになっていた。
 こうした中、室内は騒然となり逃げ惑う参事は、伊庭に向かって石などを投げ、伊庭はそれ以上、何もせず、自ら大人しく捕われの身になった。

 伊庭は門外に出ると、「天下の為に、奸賊を殺した!」と絶叫し、続いて持参した三尺ばかりの「斬奸状」を読み上げた。
 その斬奸状には、これまでの星の政界に対する金権腐敗の有様や、東京市の行政に対する星の汚職疑惑などが書かれ、その罪状を延々と綴っていた。
 この突然の事件は警視庁の知るところとなり、直ちに川渕検事正や黒見予審判事、羽倉警視医らが駆けつけ星を診断したが、既に事切れていた。

 この事件は実に奇妙な事件であった。
 伊庭家と言えば、幕末の江戸三大道場に数えられ、幕府に仕えた剣術師範役で、五百石の、剣術師範の家柄としては名門である。
 想太郎の父は幕末を飾る有名な剣客で、伊庭軍兵衛と言った。想太郎はその二男である。長男・八郎治(俗に八郎/「伊庭の小天狗」と称され、幕府軍の遊撃隊を率いて箱根などで転戦し、激闘に片腕を失いながらも官軍を散じ、勇名を馳せたが函館で明治二年に戦死。享年27)は戊辰戦争で、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚に随い、箱館五稜郭で官軍に抗して戦い、ここで肩と腹に銃創を受け戦死してしまっている。したがって実質上・想太郎が伊庭家の当主であった。

 剣術の名門に相応しく、想太郎自身、剣術の達人であったが、明治維新以降は、武術で身を立てる事は出来ないと悟り、英語学ならびに漢学を修学し、小笠原長生を引き取り、養育して、家塾・文友館を四谷に開設し、地域教育に尽くしていた。この文友館はかなり知れ亙った私塾で、地元では有志の子弟らが通っていた。
 想太郎自身、一時は東京農学校の校長をしたり、日本貯蓄銀行の頭取をするなどのかなりの名士だった。
 こうした名士だった想太郎が、その地位も名誉も金繰捨てて、失意の時でもないのに、何故、突如暗殺者に豹変して、星を殺害したか、多くの謎が残るところである。

 当時の伊庭想太郎の精神状態からして、突然狂うような材料は何一つ無かった。むしろ伊庭の行動は、最初から自爆テロを思わせるような、奇妙な行動としか、考えようが無いのである。
 そして伊庭が狙った目的とは、更にはその動機が何であったのか、全く理解に苦しむばかりである。
 また、星が何故、伊庭に命を奪われたのか、それも謎の部分が多い。

 島根県生まれの歴史学者・服部之総(しそう/島根県生れの歴史学者で東大卒。マルクス主義の立場から明治維新史の研究を推進し、著書に『明治維新史』『親鸞ノート』『黒船前後』など。1901〜1956)は、その著書『明治の政治家たち』の中で言う。
 「星亨の伝記を読んで、感銘させられる第一の事実は、彼が、明治の指導者的政治家中ただ一人の、生粋の都市プロレタリアート出身だったことである」
 服部は講座派の一員として、マルクス主義の立場から、明治維新史の研究を推進した歴史学者である。

 亨は、江戸築地小田原町の佃屋の左官屋徳兵衛の子として生まれた。亨が生まれた頃(嘉永元年頃)の時代背景は、不景気の真っ只中で、徳兵衛は商売に行き詰まっていた。そして徳兵衛は生まれたばかりの子供と妻・マツを捨てて逃亡をしてしまう。
 マツは浦賀の漁師の娘で、亨の上に二人の女子をもうけていた。そして生活苦から母子心中を図るが、死ねずに二人の女子をよそへやり、息子だけを連れて医者の星泰順の後添えとなる。泰順は漢方医で、医者だけでは食っていけず、大道易者などをして生計を立てていた。

 亨は幼少より頭脳明晰であったという。そして十三歳の頃、横浜の蘭法医の渡辺禎庵の玄関番として住み込み、かたわら英語を学んで頭角を顕わし始める。
 元治元年、苦学の末、亨は幕府洋学校開成所に入学し、慶応二年、幕府海軍操練所の英語教師になった。
 また同じ頃、江戸紀州藩邸の御用出入り教師として英語を教えた。

 慶応三年の二十歳の頃、和歌山兵学寮の英語教師として和歌山に赴く。そして明治二年、陸奥宗光(和歌山藩士伊達宗広(千広)の子。後に脱藩して海援隊で活躍)が紀州藩改革のため帰国すると、亨は忽ち陸奥にその才能を見い出され、陸奥の幕僚として名を連ね、和歌山県士族に編入された後、十人扶持を賜わった。そして以降、順風満帆の出世街道を掛け登っていく。
 大蔵省七等出仕が、そのはじめだった。陸奥が明治新政府に不満を抱いて辞表を叩き付けると、亨も翻訳問題で英国領事と喧嘩して馘になるが、それと相互して大蔵省官吏として取り立てられ、「条約改正準備大蔵省関係事項取調」という名目でロンドン洋学院ミドル・メンプルに留学した。

 ここで留学して英語を鍛えられた後、帰国して「代言人」(弁護士の旧称)として開業する。そして明治十五年、代言人組合の副会長として星亨と、大井憲太郎(自由党)が当選する。
 この時、星は巨万の富を蓄え、大代言人として自由党に加わり、その巨万の財を政治につぎ込みながら、藩閥政治打倒に向けて眼覚ましい活躍をするのである。
 国会開設とともに代議士に打って出て、明治二十五年第二回総選挙で栃木県から打って出て見事当選。次に第二代衆議院議長となり、伊藤内閣ではその実権を握って、陰の副総理として内閣を牛耳った。そして星の目指したものは「力による政治」であった。

 星は金銭至上主義の効力を十分に理解した人物であった。そして星には胆力もあり、奇略もあり、権某術数も長けていた。戦闘的な力による政治を押し進め、政敵を次々と葬り去ったのである。この事がやがて敵視される事になる。
 この時の星は、政敵もジャーナリズムも庶民も、悉々く敵に廻し、非難ごうごうたる渦中にあった。第四次伊藤内閣の逓信大臣の頃には、汚職の疑惑がもたれていた。
 そして疑惑を被って星が辞職すると、当時の毎日新聞は「正義は勝てり、星降参せり」と大見出しを付けて号外を出し、星はごうごうたる非難を受けていたのである。
 また星の辞職は、収賄や汚職の起訴猶予と交換条件に、その検挙を免れたというのが、真相だったのである。

 しかしこうした中にあっても、星の変わり身の早さは巧みで、東京市会議長の座に就くのである。憲政党の旧自由党系を率いて政友会の結成に参加し、憲法政治の弱点を旨く利用して、陰で取り引きを行う行為を平気でやっていたのである。
 星にとって、政治は「力」であり、その力学関係が裏で巧妙に働いている事を知っていたのである。陰の副総理とは、こうした見えざる部分の力関係を指していたのである。
 また東京市政に携わるようになってからも、収賄や汚職の濃厚な人物として噂され始めていた。そして星派の市会議員や参事会員は、続々と収賄容疑で検挙され、星が伊庭に刺されたのは、そうしたことが表面化し始めた頃だった。

 政治は、表面側よりも、裏に暗躍する力関係がものを言う。賄賂政治や、学者の柔躙はここに由来する。
 星の経歴を振り返れば、彼は度々洋行に赴いている。英国では、日本人として初めて英国法廷弁護士資格を取得した稀な一人だった。そして帰国後、代言人として巨万の富と名声を得ていく。
 明治十五年自由党に入党し、時の藩閥政治の真っ只中、自由民権運動を展開するが、弾圧を受けて二度投獄されている。しかし大日本国憲法発布で大赦となり、出獄後一年半に亙り外遊し、日本の軍備の貧弱に気付き、富国強兵を痛感して帰国。また日清戦争後、自由党と進歩党が合併して憲政党(明治三十一年)となると、これを与党とする第一次大隈内閣(別名、隈板内閣とも)が成立し、アメリカに派遣されるが、無断帰国して内閣と憲政党を破壊した。そして憲政党旧自由党派を率き連れて第二次山県内閣と提携したのである。

 星の奔走は巧みであった。明治三十三年、憲政党を解党して、かつての仇敵であった伊藤博文を担ぎ出して、立憲政友会を組織してその総裁に押し上げた。そして裏では、金銭調達と撒布を繰り返していた。それだけに金権腐敗の譏を受け、配下の汚職事件が次々と発覚した。星はアメリカ流の政治構造をそのまま時の明治政府に応用したのであった。そのテーマは富国強兵であり、政党内閣の実現であった。こうした星の政治的指導力は、日露戦争で戦い得る日本(外国から軍資金を調達する金融システム)を作り上げたが、一方で地方に利益を誘導する為に、これと引き換えにして、党の基本方針に有権者の白紙委任状を取りつける方式を定着させ、以降政権担当の政党ではこれが今日でも基本戦略となり続けている。まさにアメリカ流であり、金権腐敗に流れる政治基盤を構築したといえるであろう。
 民主政治(政党政治)の根本はここにあり、星こそ民主主義の、箍(たが)が外れてしまい、国民が愚民であればあるほど、悪の多数決となり、民主主義は「悪魔の道具」になりうる事を一番能く知っていた人物といえよう。

 そして、その後も安穏としていられない連中はいた。
 例えば、新渡戸稲造(南部藩士の子で、国際平和を主張し、国際連盟事務局次長・太平洋問題調査会理事長を経てカナダに渡航)、広田弘毅(福岡市生れで、東大卒。玄洋社の一員。岡田両内閣の外相ならびに近衛内閣外相。第二次大戦後、A級戦犯として絞首刑)、近衛文麿(日中全面戦争期の首相。41年第三次組閣をしたが、東条陸相の対米主戦論に敗れて辞職。敗戦後、A級戦犯として拘引の直前に自殺)、米内光政(海軍大将で、1940年首相、半年で辞職。東条内閣の倒閣、太平洋戦争の終結に努力)らである。
 まさに以上の彼等は柔躙された、時代の立役者達ではなかったか。

 福沢諭吉の選択は、坂本龍馬暗殺以降、以上の理由から大きな意味を持つ。官職に就かなかった事もそうだが、居合術の猛稽古は体力養成もあいまって、攻防の意味でこの価値は大きい。また川上彦斉の居合の猛威に眼を付けた事も、これは武術で言う「運用の妙」そのものだった。
 「極意は日々の鍛練にあり」と言う。
 日々の鍛練こそが、「運用の妙」なのだ。象山はこれを知らなかったが、福沢はこれを居合術から学んだ。やはりこの差は、どう考えても大きなものであった。


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