■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)
●運用の妙
人生は、決して計画通りには運ばないものである。
必ず何処かで番狂わせが起こり、予測した型通りに物事が運ばないのが、この世の常である。
型(かた)を盲信する者は、必ず型を超越した者に敗れる。
敵は攻めて来ないだろう、という安易な考えを持った者は、偶発的に起こる事件に巻き込まれ易い。
危機管理、安全管理が叫ばれる今日、これを認識し、これに備えている者は意外と少ない。自分は常に例外だと思っている。悲劇はここにある。
昨今は不穏な世の中になった。何処かで殺人事件が、かつてのアメリカのように起こり始めている。一昔前に比べれば、どこかおかしい。そう感じながらも、多くの日本人は、この出処を追求せず、安易に見過ごす。日々を刹那的に遣り過ごし、その日暮らしを余儀なくされている。
防衛に対しては、何の備えもしていない。経済的にも、外敵防衛的にも、かつての安全神話が囁かれていた頃と同じような意識で、近未来を疑う事もせず、毎日安穏とした日常生活を送っている。
大ローンでマイカーを買い、マイホームを買う。こうした借金漬けの現実にも、何の疑いも抱かない。
日本国民の多くは、「貸借対照表」の見方も知らなければ、「損益計算書」の読み方も解らない。その結果、負債も、資産と思い込む愚かしい現象が起こっている。
巷では、ローン契約中の車を担保にして、金を貸す高利の貸金業者が大流行している。また裁判所に行けば、かつての誰かのマイホームが、不履行の不良債権として競売されている。
果たしてこうした負債者や債務者は、日本の安全神話を、どうしてこうまで信じてしまったのだろうか。
現世は流転する。刻々と時代は移り変わる。人の世は時代と共に変貌するものだ。
したがって安全神話も、そう長くは続かない。
そして今日の「不穏な暗示」は、生命に危害を加えるだけではなく、複雑な動きとなって、あらゆる方向からも押し寄せている。時代と共に複合化する。
「吾が身を護る」という事は、不法な暴力から身を護るだけではなく、その他の危険や、悪魔の囁きからも身を護る、文字通りの「霊肉一体の安全」を図るものでなければならない。そして吾々の周囲には、考えられないような、想像を絶する危険が取り巻いている。しかし誰もその実態は解らない。ただ不確実なものが存在する事は確かだ。
さて、防衛・防御から考えると、吾が身が生命の危機に直面した場合、直ちにそれを制し、そこから脱出する「術」を心得ておかなければならない。
この術を常日頃から稽古し、日夜修練を重ねて、マスターしておく事は非常に重要な意味を持つ。それを実践するのと、しないのとでは結果的に大きな差が生じてくる。
しかし多くは、こうした事に注意を払わない。
自分は特別であり、こうした「危険な局面」や「争い事」、また「暴力事件」や「交通事故」などの不幸現象は、遭遇しないと安易な考えを抱いている。
悲劇とは、こうした安易な考えの上に、悪しき相乗効果となって起こるものである。
これは今も昔も変わりない。その意味で、現代は幕末の混乱期と非常に酷似している。
種々の犯罪や、犯罪の低年齢化の激増は、時代の移り変わりと、人類が最終進化を促されている時機に起こるものである。江戸末期も、多分こういうふうだったのであろう。
激動の時代とは、宇宙(大宇宙)も、人間(小宇宙)も、一旦は狂い、全てを御破算にして、再び新しい立て直しが決行される、社会構造の移行現象だ。
近年の警察庁の発表によると、ストーカー被害は年々増え続け、その傾向は悪質化の一途を辿り、こうした急増する犯罪に対して、警察の防犯対策や、具体的に撃退する極め手は皆無であると警察白書は報告している。多発する事件に対応できないというのが実情のようである。
一方で警察の犯罪検挙率は年々低下し、多発する事件発生に対応が追い付かない状態だ。特にストーカー被害に対しては、その実態が不明であり、現行犯逮捕でない限り、警察の動きも消極的である。そしてこれが、今日の司法及び行政機構の現実なのだ。以後も、お手上げ状態で、ストーカーに対しては官憲の放置が続くだろう。
では、こうした不穏と暗雲が垂れ込めた、凶悪犯罪と一枚岩の構造を持つ現世に、人々は一体何を頼りに生きて行けがいいのだろうか。
まず見逃してはならない事は、日々の「備え」であろう。
備えは、単に外的な防犯システムだけに眼を向けるのではなく、根本的な内側に眼を投じなければならない。
問題は、自分自身の内側からの防衛・防御・防犯を考えなければならないのである。
型に流されない、型を超越した奇想天外的な、斬新さが求められ今日、つまり「運用の妙」がものを言うのだ。暗い固定観念に、こだわってはならないのである。
1980年12月8日、元ビートルズの有名スターであるジョン・レノンが殺された。この事件はジョン・レノンが自宅前で、熱狂的なファンから銃弾を浴びるというものだった。
犯人は自分の理想から次第に離れていくジョンに対し、これを許し難い裏切りととり、殺意を抱いたというものであった。
こうした有名スターに絡む事件がこれ以降、後を絶たず発生するようになった。そして96年1月には、アメリカの超スーパー・スターであるマドンナが、かねてから付きまとっていた、自称良人を名乗る男に、ハリウッドの邸宅に不法侵入を受け、男は逮捕されて懲役十年の刑を受けた。
命を狙われたり、危害が加えられる恐れがあるという、こうした事態は一種のストーカー行為であり、こうした事は今も昔も変わり無く行われている。
最近では、有名芸能人や人気スポーツ選手などが狙われて、暴力事件が発生するという危機意識が、一般市民にも広まり、ストーカーの存在が社会全体を震憾させる事態が起こり始めた。
●非日常を日常の感覚で過ごす現代人
人間が展開する「戦い」には、裏と表がある。表は正攻法を以て戦い、裏は奇手法を以て戦う。
奇手法とは、臨機応変に敵の意表を衝(つ)くような奇襲戦法である。
正攻法は体験によって理解する事が出来るが、奇手法は体験だけでは駄目で、これは到底体験や経験と言った範疇(はんちゅう)のものではない。
一般に、人生は戦いに準(なぞら)えられる。
戦いと言うのは、戦争だけではなく、政治にも経済にも、またスポーツや男女関係においても、ギャンブルでも、更には個人の生きざまにおいても、総(すべ)て戦いであり、この世の森羅万象には、兵法の原理が罷(まか)り通っている。しかしこうした「戦い」において、同一の展開は何一つないと言っても過言ではない。よって、単なる戦術書は、こうした戦いにおいては何一つ役立つものはない。
古人は、こうした戦いの展開において、それを見抜いただけではなく、兵法の極意を宇宙の玄理に叶っているか否かに見定め、「宇宙の営み」と捉えた。これを広義に解釈すれば、兵法を語りながら、一方に於いては、宇宙そのものを語ると言う、抽象的かつ哲学的な分野にまで及んでしまうという事実だ。
兵法の極意は、敵と対峙(たいじ)して戦う事ではない。戦わずして勝つ事を最高の極意とする。そして競争原理の働く現代社会において、現代人の多くは「水鳥」の真の姿を見逃している節がある。
現代人の多くは、水鳥が水面下で、絶えず水を掻(か)いている隠れた実態を見逃している。水上の姿のみにしか、目には映らない。見えない処で絶えず戦っている事を理解していない。兵法では、水面下の戦いを「陰戦」という。いわば「陰(かげ)の戦い」である。そしてこの陰戦こそ、「戦いなき戦い」であり、現代はこうした戦い方が、戦術と戦略の基本となり、それは人間心理の深層部に仕舞われている。
人間心理の深い洞察力こそ、智慧(ちえ)に基づく戦い方であり、西郷派大東流合気武術の最も得意とする心理戦法である。人間の心理は、古今東西不変である。したがって人間と人間、あるいは人間集団が競い合い、争い合う総ての局面は、人間心理の深い洞察力によってその智慧が解き明かされる。
『孫子』の謀攻篇には、「百戦百勝は善なる者に非(あら)ざらるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」とある。これはよく知られた有名な名言であり、一方においてこの名言こそ、この言葉の真意を解しない日本人が多い。
誰しも、「戦わずして勝つ」と言う。しかし戦わずして勝と言う事が、一体どう言うことなのか、それを理解できる人は稀(まれ)である。
現代は、情報化社会の真っ只中にあって、誰もが平和を満喫し、自分だけの倖(しあわせ)と繁栄を願って奔走を繰り返している。しかし一方において、目に見えない処では、危険が迫って来ている。
心理学の用語に「正常性バイアス」と言うのがある。
正常性バイアスと言うのは、「危険に対する感度を下げる」ことを言う。つまり通常人間が持っている誤った偏見であり、偏りである。この意識の中には、常に固定観念で覆(おお)われた先入観や偏向が巣喰っている。
人間は時代が下がる程、危険に対する意識や考え方が薄れ、世間風の常識論で、何事にも従ってしまうという先入観や固定観念がある。その為に、危険に対する意識が薄らいであるのである。こうした考えが支配的になると、非日常状態に居ながら、安穏とした日常の感覚で物事に対処し、ついには危険回避をしないまま、不幸現象に巻き込まれてしまうのである。
災難と言うのは、何処にでも転がっている。しかし現代は、こうした何処にでも転がっている災難に対し、自分は「特別である」と言う意識を抱いている。自分だけは災難の及ばぬ圏外にいて、災難とは無関係であると思い込んでいる人が少なくない。
その為に、危険に対して鈍感であり、危険現象は自分の届かぬ圏外で起っているような錯覚に囚われる。そして自分に限り、災難は別世界で起っている現象であり、「遠い国の花火大会」あるいは「対岸の火事」のような意識に陥れてしまうのである。
更に人が集団化し、複数だと、危機が迫っていても、自分だけが特別に騒ぎ立てたり、特異な行動をして、他人とは違う行動をしたくないと言う、訝(おか)しな仲間意識を持ち、世間風の常識に従うものである。現代と言う情報化の中で、こうした異常に対しての危険を感知する意識が鈍感になるのである。
人間の中には、危険や異常現象を、出来るだけ小さく感じようとする策動が働き、異常に対して、危険を感じないような心の迷いが生じる。この迷いが、いつの間にか、異常を異常と感じず、平常心で危険を回避しようとする心の働きが起る。
平常心とは、一見落ち着いた行動に見えるが、非日常意識の薄い凡夫に限り裏を返せば、不安がそうした心の迷いを生じさせるもので、このように危険に対して麻痺感が起れば、ついには危険を回避できなくなるのである。
そして、備えがない場合、日常が非日常に変化した場合、これに対応できず敗れるしかないのである。
『孫子』を誕生させた中国における春秋戦国時代は、諸侯間の争いが絶えず、喰うか喰われるかの戦争に明け暮れた時代であった。今日の資本主義社会の競争原理が働く、社会構造によく似ている。
春秋戦国時代が日本の十六世紀の乱世の兵法にも酷似し、戦争が日常で、平和が非日常と言われる異常な状態であった。一見現代と似ても似つかない感覚に囚われる。
今日は、平和が当然のように考えがちになる。因襲や伝統や固定観念などに拘束される。戦争こそ、異常事態のように思われる。しかしこれは表面上の事であり、その水面下では、戦国時代以上の陰戦が繰り広げられている。
この現代の心理戦こそ、陰戦の最たるものであり、裏側には勝ち抜く為の妙締(みょうてい)が隠されているのである。
●もう一つの固定観念
戦いは、一対一で、正々堂々と戦うものではない。「一人を大勢で袋叩きする」ことが、戦い方の根本原理である。
しかしこれを見逃す勝負師や喧嘩師は多い。
戦いは、劣者を、優勢な強者が複数を以て徹底的に袋叩きし、二度と立ち上がれないように再起不能にして、完膚なきまでに叩きのめす事である。そしてここには「大能く小を制す」の弱肉強食の理論が働いている。また、こうした思想を「正攻法」と言い、一見、正面から正々堂々と攻めるやり方のように錯覚するが、実はそうではない。ただ奇計や謀略を用いず、力によって弱者を袋叩きするだけである。
心情的に察すると、袋叩きであるから温情に欠け、人間心理を読み取るような、「小能く大を制す」と言う意識は此処にない。
「勝てば官軍」意識であり、小が大に付け入る隙(すき)はない。
また、圧倒的優位は正攻法を試みた場合、心に隙をつくると言う弱点を持つ。その弱点をついて奇計を巡らし、奇手を用いて奇襲戦法でこれに攻め入る事が出来る。此処にこそ、まさに「兵は詭道(きどう)なり」の妙締がある。詭道とは、人を欺(あざむ)くようなやり方であり、正しくない、異常性を以て付け入る手段である。
『孫子』によれば、「実を避けて虚を撃つ」戦例が挙げられ、正と奇、静と動を組み合わせて、「兵は詐(さ)を以て立ち」とあり、「兵は詭道なり」に対応する語で奇手の有効性を挙げている。生死と存亡をかけての戦争においては、常に敵を欺く事を以てこれを根本方針とし、利を求めて行動し、時には分散し、時には集合を繰り返しながら変化する事を説いている。
また戦いでは個人のスタンドプレーは、全体の命取りになる。『孫子』はこの事も厳しく指摘している。
「兵達の心が一つになれば、統制は自ずからとれるものであり、統制がとれれば勇気ある者は一人で先駆けて進む事は出来ず、また、勇気の無い者は一人だけで逃げ出す事が出来ない」とある。
そして奇手を用いる時は、「敵の鋭気を避け、惰帰(だき)を撃つべし」とある。
「是(こ)の故に朝気は鋭く、昼気は惰(おこた)り、暮気は帰す。故に善(よ)く平を用いる者は、その鋭気を避け、その惰帰を撃つべし。此(こ)れ心を治むる者なり」とあり、要約すれば、「朝方の気力は充(み)ち満ちて鋭く、昼は気力が弛(たる)み、夕暮れには気力が尽き果てる。したがって戦さ上手は、敵の気力の鋭い時はこれを避け、敵の気力が弛み、尽き果てている処を攻撃する」という事になる。
この戦法は遊撃戦であり、毛沢東(Mao Zedong/中国の政治家・思想家。1893〜1976年)の言う「敵が進撃して来れば我は退き、敵が止まれば我は撹乱(かくらん)し、敵が疲れれば我は攻撃し、敵が退けば我は進撃する」の戦略思想にそのまま通じるのである。そしてこの場合、最も重要な事は気力を削(そ)ぐのが目的であるから、敵に逃げ道を作っておくという事である。
「敵を包囲したら、必ず逃げ道を開けておき、窮地に陥った敵を追い詰めてはならない」とある。
これは、必至に抵抗されて、損害を受けるのを避ける為であろうが、現代においても、対人関係を処理する上で、人間を知ると言う意味合いから、今なお新鮮さを失っていない言葉と言えるだろう。
正攻法は多勢の無勢の、力ある者が起こすアクションである。しかし劣勢の場合は、こうした方法は全く通用しなくなる。したがって奇手が必要である。
日本人の好む戦い方は正攻法ではない。奇手・奇襲である。
多勢に無勢の大軍には歯が立たないとする固定観念がある一方、奇手・奇襲を好む国民性を持っている。
また、巨大な敵に対し、誰が観(み)ても勝てそうにもない敵に勝つ事こそ、日本人の戦争観で、その根底には神風が吹く事を願って止まない願望を持っている。日本人は古来よりこうした願望に託し、逆転優勝する事を最も喜ぶ国民性を有しているのである。
日本史を振り返ってみても、日本人が最も好む戦績としては、「義経の鵯(ひよどり)越え」であり、「正成の千早城」であり、「信長の桶狭間」であり、更には「忠臣蔵」や「日露戦争当時の日本海海戦」等にも見る事が出来、いずれも比較を絶する大敵に勝ったと言う実例から窺(うかが)う事が出来る。以上の戦勝の実例は、こんな勝利など、誰一人予想しなかった事である。そしてこれらの戦いは、誰が観ても、客観的には無謀な戦いであり、勝つ確率など殆ど無かったのである。
しかし日本人はこうした戦いにおいて、決して無謀な戦いとは言わず、むしろ名将に率いられて、逆転優勝する、名将の模範的な戦闘振りを絶賛する国民性を持っている。「小能(よ)く大を制す」に異常な執念を燃やし、最後は神風が吹いて、逆転優勝するのではないかと言う願望を抱いている。
だが、しかし願望だけではどうしようもない現実がある。
こうした決戦に等しい戦いでは、名将が天も地も、味方につけ、強力な運気を伴っていなければ勝つ事は出来ない。ツキに見放されていては、到底勝つ事が出来ないのである。戦いと言うものは、凄まじいものである。単に人間同士が戦うだけではない。一度戦いが始まれば、天も地も戦いを始め、その自然界の凄まじさの中に人間が置かれてしまう。そして此処で作用するのは、人間の持つ運気がものを言う。
したがって戦いに勝つには、単に人の頭の中で考えた戦略だけではどうしようもない。大自然が味方に付いた時機、戦いに変化が生じるのである。
こうした変化を最もよく顕わしたものが、「蒙古来襲」の時の台風ではなかったか。
これは正攻法で勝てなかった実例である。
当時の日本人は、大自然現象の一つである台風を味方につけたからこそ、逆転が起ったのではなかったか。これを人は「神風」と呼んだ。
神風は常に吹いていて、必ず耳許(みみもと)で囁くものである。しかし神風の囁きを聞ける人間は、ごく限られた人間であり、謙虚にこれに耳を傾ける特性を持っていなければならないのである。
つまり神風は外側から囁くものではなく、霊的には内側から囁くものであり、これに謙虚に耳を傾ける霊的神性が必要なのである。
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