■ 合気二刀剣戦闘理論 ■
(あいきにとうけんせんとうりろん)
●内側からの霊的防衛構造を装備しよう
人間の内側に持って生まれた「内在的」な力が潜む。この内在的な力に支えられて、日々の行動が促されている。
さて、人が行動を起こす場合、一般的には頭脳がそれを指令して、行動をする意志決定権があるように思われているが、この考え方は正しくない。
唯物論的、一元論的な人生を意志する論理の支持者は、外的および五官感覚的存在のみに関連する思考は頭脳が指令すると思い込んでいる。ために、頭脳の進化過程において、言語中枢は自ずと、進化に併(あわ)せて、形成されたと考えている。
しかし頭脳は思考しない。
人間は話す事を学ぶ事によって、言語中枢が形成されたのである。言語中枢は言語の結果である。単に頭脳の活動は思考の結果に他ならないのである。頭脳は思考を通じて形成されたのである。
その証拠に、人間が等しく持ち合わせる頭脳において、思考力の優れた者は、何も考えない白痴者より極めて重い事が認められている。また植物状態に陥った寝た切り老人の脳は、赤ん坊の脳より小さくなって、拳大くらいでしかなくなる。このように思考しなくなった脳は、退化の一途を辿るのである。
したがって脳は、思考を通じて形成されたという事が解るであろう。脳は単に人体における神経系の一部なのだ。
また、これによってアクションを起こすのは、脳で創り出された思考ではなく、人間の持つ魂が、そのような行動に趨(はし)らせるという事が言えるであろう。そして人間が行動を起こす原動力は、常に危険を伴い、勝敗は表裏一体の関係で人間の持つ運気をコントロールしているのである。
また、これを総じて『孫子』は言う。
「指揮官には五つの危険があり、その一つは必死で戦う者は殺され、その二つは生き存(ながら)えようとする者は捕虜にされ、その三つは短期で怒りっぽい者は侮(あなど)られ、その四つは廉潔(れんけつ/清廉潔白)の士は辱(はずかし)められ、その五つは民を愛する者は煩わされる」とある。この五つの指揮官の過失は、「戦い」に齎(もたら)される「災い」であると言い切っているのである。
したがって戦いの原則は、敵が来襲しない事を恃(たの)みにするのではなく、敵に備えた「守り」を恃みにするのでなければならない。また、敵が攻めて来ない事を恃みとせず、こちらが攻撃されない態勢を恃みにしなければならないのである。
さて、三国時代(中国で、後漢滅亡後、魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)した時代。220年魏の建国に始まり、280年晋の統一まで)、後漢の丞相(じょうしょう)となった曹操(そうそう)は、襄陽(じょうよう)に居城を置く荊州(けいしゅう)の長官であった劉表(りゅうひょう)を攻撃した。この時、劉表は病死して、その子・劉宗が長官になったが、彼は戦わずして曹操の軍門に下った。
劉表から樊城(はんじょう)駐屯を命ぜられていた劉備玄徳(りゅうびげんとく)は、曹操軍が南下して来ると、更に江陵(こうりょう)まで南下しようと試みたが、荊州の人民が劉備軍に家財道具を持って同行し、当陽(とうよう)まで来ると、この南下軍は十万人以上の大集団になり、劉備軍は一日僅か七キロ程しか進めなくなった。
劉備の部下に一人が、「人民と同行していたら曹操軍に追い付かれて、戦いになれば防ぎようがありません」と、劉備を諌(いさ)めた。ところが劉備は「大事を成し遂げる為には、まず、人を元にしなくてはならない。自分を慕って来た者を、いまさら捨てる事は出来ない」と、部下の諌めを退けた。
この時、曹操は自分で選抜した騎兵五千を率いて劉備軍を追った。当陽の長坂(ちょうはん)に急行軍で迫る曹操軍に対し、張飛(ちょうひ)が此処で釘付けにし、これを蹴散らしている間に劉備軍が脱出を図るが、この場から逃げおせたのは、劉備他わずかに数十騎だけであった。
曹操は『魏武注孫子』の「愛民は煩(わず)わすべきなり」の注釈で一項を設け「民を愛する者が相手の場合は、人民が逃げて行く所を攻撃すればよい。人民を愛する者は、昼夜兼行で、人民を救済にやって来る為、疲れが生じている。疲れているところを攻めれば、必ず勝つ事が出来る」と記述している。
人間の働く心理は、これを深く洞察すると、必ず利害両面が行動原理の基本となり、これをよく考えた上で行動しなければならない。人間はとかく利益のみを考えて、まず行動しがちであるが、その利益の為にも、人間と言う者をよく研究し、よく洞察しなければならない。
敵は、敵の中にあって敵と言うのではない。本当の敵とは、味方の中にあって、害する者を敵と言うのである。そして『孫子』の論に従えば、敵情を読むには、次の事を注意深く観察すればよい。
一、敵の兵が杖や槍や刀等に縋(すが)って立っているのは、飢えているからである。
二、水汲みに出て、水を汲みに来た者が真っ先に飲むのは、全軍に水が不足しているからである。
三、有利な条件に有りながらも、その軍が進軍しないのは疲労しているからである。
四、陣中に鳥が集まっているのは、既にその軍は撤退した事を示しているからである。
五、夜間に大声で叫びあうのは、その軍が怖(お)じ気付いているからである。
六、陣営の中が騒然としているのは、指揮官が威厳を失っているからである。
七、旗指物が揺れ動いているのは、その軍が混乱しているからである。
八、指揮官が部下に怒鳴り散らすのは、その軍の兵が倦怠・倦厭(けんえん)しているからである。
九、指揮官が兵に心を合わせたり、兵をねんごろに労ったりするのは、兵への信頼を失っているからである。
十、はじめ兵を酷使して、後になって兵を畏(おそ)れるのは、指揮官が兵の扱い方を知らないからである。
ここに見られる細やかな人間観察は、人心掌握の原則である。しかし戦争において、兵員が多い事は、必ずしもこれが有利に働くとは限らない。熟慮に欠ける指揮官が、無闇(むやみ)に進撃を命令し、やたらと敵を侮る事があれば、こうした軍は必ず崩壊するのである。
これは集団による戦法ばかりでなく、個人においても同じ事が言えるのである。
●善く戦う者は怒らず
西暦222年、劉備は呉によって斬られた関羽(かんう)の弔(とむら)い合戦を決行した。この時、劉備軍は荊州に兵を出兵させ、呉の陸遜(りくそん)の火攻めの計略に大敗し、敗軍をまとめて白帝城(はくていじょう)に入ったが、この地を永安(えいあん)と改め、翌年、劉備はこの地で病没した。
劉備の荊州出兵については様々な理由があったが、最も大きな理由は関羽への弔い合戦であり、関羽を殺した呉への怒りがあった事は言う間でもない。しかし、怒りで戦った事により大敗する。
つまり『孫子』の言う、「君主は怒りを以て師を興すべからず」の禁を敗ったからだ。
この結果、諸葛亮孔明の描いた「天下三分の計」は実質上崩壊する。
『孫子』は言う。「君主は怒りから軍を出動させてはならない。将軍は憤りから敵と戦ってはならない。利に合致すれば行動を起こし、利に合致しなければ是を止める。怒りは、やがて喜びに転じ、憤(いきどお)りもやがては悦(よろこ)びに変える事が出来る。しかし一度滅亡した国は再起できず、戦死した人間は生き返る事もない」と。
したがって賢明な君主は、戦い慎重を極め、良将は憤りだけで戦ってはならず、この事を自壊すべきである。そして『老子』の六十八章にも、「善(よ)く戦う者は怒らず」とある。
人間は冷静さや、それを基盤とした洞察力を失えば、戦いには敗れるのである。そして冷静な洞察力は、正しい観察眼を誘導するものであるが、冷静さが失われれば、観察眼は正しく作動しないのである。
●敵を単純化する戦術
戦いにおける観察眼が如何に大事であるか、この事を如実に証明したのが荒木又右衛門であった。
荒木又右衛門は、伊賀上野の鍵屋の辻で三十六人斬り(実際には二人を斬っただけ)を果たした仇討ちで有名である。
江戸前期の剣客・荒木又右衛門(1599〜1638)は慶長四年、伊賀国(三重県の西部の賀州、伊州)阿拝郡服部郷荒木村で、藤堂家の二男として生れた。名を保和と言い、慶長十五年(1610)服部平兵衛の養子になったが、養家を去って、名字を荒木と改めた。また又右衛門は、父から中条流、叔父から神道流を学び、後に柳生十兵衛三厳に柳生流剣法を学んだと伝えられる。
後に又右衛門は、大和郡山藩主・松平下総守忠明に仕え、剣術師範として二百五十石に取り立てられた。
また備前岡山藩主・池田忠雄の家臣・渡辺源太夫の姉を妻に迎えていたので、源太夫(一説には父)が河合又五郎に殺された時、源太夫の兄数馬(妻の弟)が仇討ちをするのに、彼を助けて助太刀をした。
そして1634年(寛永十一年)妻の弟・渡辺数馬を助けて、源太夫の仇(かたき)河合又五郎を、伊賀上野の鍵屋の辻で打ち、その本懐を遂げる。この時、又右衛門は河合側の助太刀(すけだち)二人を斬ったと言いわれる。寛永十一年一月五日の事であった。
この仇討ち事件は、当時を一世風靡して話題となり、芝居にもなった。又右衛門の名は天下に轟(とどろ)いたのである。鍵屋の辻の「三十六人斬り」は芝居の舞台で創作されたもので、史実とは無関係である。
しかしこれを機に有名を馳せ、後に又右衛門は、鳥取藩主・池田光仲に望まれて鳥取藩に引き取られることになる。又右衛門が鳥取藩に移る時、その時の行列は騎馬侍を先頭に、弓衆、鉄砲衆、徒侍衆などを含めて、総勢二十余名であったと言う。
しかしこの年の八月、又右衛門は原因不明の病気(毒殺とも言う)で急死した。享年四十一歳であった。
さて又右衛門の鍵屋の辻での、「三十六人斬り」を想像して見よう。
助太刀の又右衛門はこの仇討ちにおいて、取り囲まれた敵を前後左右に、縦横無尽に動き廻(まわ)ってバッタバッタと斬り倒したのではない。又右衛門はいずれも一人だけを相手として、一人ずつ片付けていくという、「敵を単純化する」戦法を取っている。
勝負において、一度に二人以上を相手にせず、常に敵を一人として単純化の戦法を取っているのだ。これは戦術の合理性でもある。
つまり「多敵之位」において、単純化し、一人を全体に見立てて、あるいは全体の中の一人に眼をつけて、そこを攻撃し、突破口を開く事は、実は敵の包囲網からの脱出の際、活路を開くことにも通ずるのである。
つまり「各個撃破」が大事なのである。
各個撃破とは優勢な敵に対して、局所的な戦略的勝利を求めず、戦術的勝利を求めるというものである。これは全般的な態勢が劣勢でも、局所で勝てば良いと言う戦略的な思考を覆し、戦略的に勝ったとしても、戦術的に勝てなければ、どうしようもないという事を如実に物語った諌言である。
荒木又右衛門の戦い方は、まさに戦略的な勝ちを求めず、戦術的な勝ちを求めたところに、各個撃破の真髄がある。つまり、複数に分かれた敵の勢力が、全体的には優勢であっても、自分の力が、敵の各個人との力を上回っていれば、敵の一つに対して、我の方が優勢であると言う戦術思想である。
この時に肝心な事は、一番最後に、我より優勢な敵にぶつかり、これを敗るという事である。
この思想の根底には、単純化して一列に並べ、弱い順に戦って行き、これは当然撃滅できる事である。
次に我と同等に敵にぶつかり、これを撃滅する。ここまでの過程として、我は敵を単純化し、弱い順に勝ち進んでいるので、勝ち進んだと言う戦勝は、「気をよくする」という現象を起こす。
そして最後に優勢な敵とぶつかるのである。この時、敵の心理は、我の戦いぶりに、敵は恐れを為(な)しているので、既に戦意は半減され、またこれに準じて、その威力も失うものなのである。
こうした現象は理屈では考えられないものであるが、戦いの場における人間の心理は、常に臆病になるので、現実では考えられない不思議な現象が起るのである。
これは合気における多数捕りが、まさにこうした人間の心理を巧みに読み取った戦術であり、この戦術こそが合気の奥儀なのである。
素人考えで、最初に強力な敵を倒せば、それで勝負は決着すると言う軽薄な考え方があるが、これは間違いである。一番強い敵を撃破しても、それは全体の一部を撃破しただけであって、これだけでは全体を心理的に崩壊に追い込む事は出来ない。強敵を倒したところで、その意味は全体の一部を苦戦しながら倒したと言う事に過ぎず、全体の戦意や威力は一部を失っただけでは喪失しないのである。
こうしたものを喪失させて行く為には、まず一番弱い部分を攻め、心理的に戦意を失わせる事にある。そして順に弱い部分から倒して行けば、最後は強敵であっても、我の方は戦勝で気を良くしており、また敵は我に恐れを為(な)しているので、心理的な効果は絶大で、戦意と威力は半減され、ついには敗走するのである。
以下、続く・・・
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