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技法の根源となる「ただ一つのこと」
合気揚げ

合気揚げ
(あいきあげ)

●合気揚げとは何か

 わが流では、敵が塞いだ両手頸(りょう‐てくび)を揚げることを、「合気揚げ」という。
 一般には「合気揚げ」は、“合気上げ”という文字が使われて言うらしく、わが流で言う「合気揚げ」と文字も違うが、その真意とする意味も違っている。「揚げ」と「上げ」では、意味が違うからだ。

 さて、合気揚げにおいて、敵と吾(われ)との関係を考えた場合、これは非常に奇妙な形といえる。特に打撃系を愛好している人にとっては、寔(まこと)に不可解で、敵を攻撃するのに、何故両手頸を掴むのだろうか。こんな面倒なことを行うなら、一思いに、殴ったり蹴ったりする方が早いのではないか、と思う節もあるだろう。

 そこで両手頸を掴む、「両手封じ」の意味を説明しなければならない。
 この両手封じは、掴んだ敵が最初から押さえ業(わざ)で抑えられたり、投げられたりと、「取り」に対しての「受け」という形で行うものではない。演武形式の「演技武道」は、最初から受けと取りが固定され、約束されているので、この通りに演技を行い、投げ技や抑え業などの演技を行うのであるが、これはあくまで最初から演技を目的としたものである。

 では、何故演技をするのか。それは演武会という観客相手の、観客の意識の眼を問題にしているからである。
 古武道などと称されている愛好団体の多くは、この演技を行う演武形式の武道であり、最初から戦場での実際のものとは異なる次元で行われるものである。つまり、負けても死なないのである。あくまで形演武であり、例えば、このように敵が斬り込んで来たら、このように受けて躱(かわ)し、次にこのような手に出て、こうして制するという「約束」が最初から決められているので、実は、制せられる、負けになる「受け」も、負けても死なないのである。

 こうした思想で行っている演武形式の武道は、その戦闘思想も、最初から死なないということが前提となっている為、負けても死なず、「受け」としての負け役も、演技上、約束されているのである。しかし、約束で武儀を演ずることは、実際にも約束が行われている為、一般に見る「合気上げ」も、多くは約束に成り下がっている場合が少なくないようだ。

 こうした「約束」に成り下がっている理由は、まず「合気揚げ」の解釈を知らない為であろう。
 合気揚げの解釈は、打撃系の武術界後者の眼から検(み)ると、実に不可解なものである。それは相手を制する場合に、殴ったり蹴ったりしないで、相手の両手を封じるからである。これほど、不可解なものはないであろう。

 しかし、合気揚げの意味を深く追求すると、この両手封じは、「捨身懸命の両手封じ」といえるからである。両手を封じに行かなければならない側からすると、これは「二本指しの武士の両手」を封じるのであって、単に約束上、こうした両手封じを行うのではない。
 合気道などでは、この両手封じを「両手持ち」といっているが、正しくは両手封じであり、両手持ちでは最初から両手を握っていく方は、何某(なにがし)の技に掛けられるということが前提となっている。これでは約束の延長に過ぎないのである。したがって、合気上げも約束となろう。約束と実戦とは、異なることを知るべきである。

 この約束を前提とした武道では、「合気上げ」すらも約束となり、実際には約束の上で、馴(な)れ合いで合気上げをすることになる。「捨身懸命の意識」が働かない為である。死を嗜む道として、捨身懸命の意味を理解するべきであろう。

 さて、合気揚げは、二本指しの武士に刀を抜かせない為に行う行為、あるいは行者に印を切らせない為に両手を封じるという、「捨身懸命の両手封じ」が、実は合気揚げの際の両手を封じる行為である。この意味を理解しておかねば、合気揚げそのものの、解釈が死んでしまうからである。

 この意味さえしっかりしていれば、また合気揚げの意味も理解でき、これを行動に移すことも出来よう。したがって、最初から術者に揚げられる為に、両手封じを行うのではない。
 問題は、封じることであり、揚げさせないのが目的であるから、最初から技に掛かる為に両手を握るのではない。
 しかし今日では、この稽古は余り好まれず、ただ合気系の愛好者などは、派手に見える高級儀法ばかりに眼を奪われているようだ。

 これは「基本」や「基礎」を蔑(ないがし)ろにした、極めて由々(ゆゆ)しき事態である。もっと合気揚げを繰り返し、日々黙々と稽古していただきたいものである。

 わが流では、「合気は合気揚げに始まり、合気揚げに終わる」と謂(い)うが、この基本たる基本の合気揚げを無視して、その他の技ばかりが総てではない。基本こそ極意なのだ。日々積み上げる地道な技こそ、実は極意であり、その他の技は、この極意に付随した「おまけ」のようなものである。
 わが流では、合気揚げに「死を嗜む道」の大事が横たわっていると、教えるのである。

 

●西郷派大東流の「合気揚げ」に隠された秘訣

 敵が、術者に対して「両手を封じる行為」は、術者の抜刀を警戒してからのことである。
 術者の抜刀を許さぬ行為として、日本人が明治維新まで帯刀していた時代には、「両手を塞いで阻(はば)む」という行為が屡々(しばしば)用いられた。
 術者に抜刀させない為には、ひたすら術者の両手を封じ、抜刀を許さないようにしなければならない。

 一方、術者はこれと反対に、敵の両手封じを外(はず)し、わが意のままに振舞う「自由」を回復しなければならない。ここに両者の鬩(せめ)ぎ合いがあり、また「命の遣り取り」がる。
 術者と敵の関係は、両手を封じられた術者と、両手を封じ、これに抗(あらが)う、敵という関係である。しかし、敵は術者に抜刀をさせないのであるから、この「封じ手」は、「捨身懸命」の両手封じになる。

 命を張って、しっかりと封じていなければ、術者から抜刀されて斬られることになる。斬られるのが嫌なら、どうしても捨身懸命にならざるを得ない。
 また、術者は自由を得るために、敵の思うままに封じられて、これに甘んじるわけにはいかない。甘んじれば、自由を失うからである。こうした鬩ぎ合いと命の遣(や)り取りの中に、この「戦闘ステージ」には、一つの小さな小宇宙が出来上がる。

 この戦闘ステージこそ、「宇宙の場」である。自他が「宇宙の場」にあって、「同根の場」で、命の遣り取りをするのが、「合気揚げ戦闘理論」である。
 命の遣り取りをするのであるから、これは生半可な行為ではない。封じる方は封じる方で、捨身懸命にならざるを得ない。
 また、術者は術者で、このまま敵に自由を奪われてままの姿で、甘んじるわけにはいかない。何とか反撃し、自由の打開策を見つけ出さなければならない。そこで、はじめて術者の「術」が登場するのである。

 捨身懸命の、敵の両手封じを、一体どうすれば外すことが出来るのか。
 この素朴な疑問から発したのが、「合気揚げ」である。この「術」をもって、“合気”に吊り、“合気”で外し、“合気”で倒すことができる。その、単純な人間行為の中に「合気揚げの極意」が横たわっている。

 さて、合気揚げを論ずる場合に、気付くのは、他の大東流や合気道と異なり、西郷派の「合気揚げ」の文字は、一般的な「アイキアゲ」の「上げ」の文字を、「揚(あ)げ」と書く。したがって、「上げ」と「揚げ」が大いに異なる。
 「揚げ」は、天ぷらなどの揚げ物をする、この「揚げ」ではない。これは例えば、船等から荷物を吊り揚げ、陸地に揚陸(ようりく)する際の「揚げ」であり、この動作の中には、船の荷物を吊り上げ、移動させ、陸地に下ろすという作業が一貫されている。すして術者の立場は、船の中の「揺れ動く人」であり、揺れ動くからこそ、「船の中の人」は、「二枚腰」を蓄えていなければならない。

 「二枚腰」である以上、船の動き、特に左右の揺れのローリングには非常に強い腰である。船は進行状態にある場合は、まず波に乗るために、ピッチングという揺れが起るが、停泊するとこのゆれはローリングに変わる。このローリングに強くなければ、足許(あしもと)が不確かになり、「吊り揚げる」という動作が出来なくなる。
 あくまで「揚げる」のであるから、土台が定着し、しかもその揺れとは関係のない、上体の「坐(すわ)り」がしっかりしていなければ、「吊り上げ」「移動させる」ということが出来なくなる。そこで「二枚腰」が必要になるのである。

 一方、「上げ」には、単に、低いところから高いところへと移動させる、一次元的動作であり、三次元的動作をする「揚げ」とは大いに異なるところである。つまり、一次元的な動作の中には、「二枚腰」は存在せず、三次元的な動きの中のみに、「二枚腰」が確認できる。

 “合気”を修得するためには、日々の修行の中で少しずつ術理を解明していくしかないが、西郷派大東流の技法の中には、目的を合気の会得に特化した修練法も存在している。
 この「合気揚げ」こそがその代表格であり、「合気は合気揚げに始まり、合気揚げに終わる」とまで言われている。
 数多くの高級儀法を追いかけても、それ反復練習は、直接的にも間接的にも全く関係ないのである。ただ骨董品的な古伝の伝承を、そのまま「伝承」として、現代に復元しているのに過ぎないのである。しかし、古伝の伝承では、現代に応用させることが出来ない。

 古式伝承の保存会ならイザ知らず、現代という時代にマッチさせ、これに順応していくためには、骨董品ではどうしようもない。
 これは丁度、十六世紀の乱世の火縄銃で、最新鋭の自動小銃に対抗するようなもので、骨董品では全く対応できないのは、誰の眼から見ても明白であろう。

 かつての伝承は、その伝承を保存会的に保存するのでなく、この次元から逸脱(いつだつ)して、「伝統」なるものへと作り変えていかなければならない。
 したがって「伝承」と「伝統」は同義ではない。また、本来に一次元的発想から生まれた、低いところから高いところに吊り上げるという行動線は、伝統の儀法として、やはり吊り揚げて、移動させ、降ろすという動作が伴わなければ、三次元動作とはいえない。この三次元動作をするのが、「西郷派の合気揚げ」である。同時日、西郷派の動きには「二枚腰」が秘められているのである。

 「合気揚げ」を簡単に説明すれば、自分の両手を敵に掴(つか)ませ、独特の身体操作により、相手の体を吊り上げてしまう技術である。
 端(はた)から見ていると一見単純に、簡単に見えるが、これが中々どうして、中身は非常に深遠であり、この修練の中から多くの術理を学ぶことが出来る。しかし、この重要性に気付き、この中心課題に取り組んで、真摯(しんし)にこれを模索する合気系研究者は、あまり多く見られない。彼等は技の技法数の多さが問題であるからだ。この意味からも、「伝承」と「伝統」は大いに異なる。

 つまり、「伝承」とは、骨董品の寄せ集め名のである。骨董品を多く蒐集(しゅうしゅ)する事は、保存会的文化は残ろうが、しかし、骨董品の範疇(はんちゅう)を出るものではない。何故ならば、骨董品の火縄銃が、自動小銃に進化しないからだ。火縄銃は火縄銃のままで、その操作や装填は、最新式の自動小銃のものと違おう。これを一緒の土俵に上げて戦わせても、その優劣は最初から明白である。

 また、この合気揚げと類する儀法(ぎほう)に、「合気下げ」と呼ばれるものがある。この「合気下げ」は、西郷派独特のものである。しかし、これは合気揚げを体得した後に出来るようになる、一種の副産物のようなものである。

合気下げ

▲合気揚げの副産物としての「合気下げ」

 合気揚げとは逆に、掴ませた手首を操作して敵の体を下方に落とす技法でるが、これを完全に行った場合、敵の頸(これは)は激しく垂れ下がり、ムチ打ち症のような状態となってしまうこともある。敵が術者の手頸を通じて、自らの肘、肩、頸に力が伝達されているからである。

 どちらも“合気”を得ようとする修行者にとって、は重要な技法であり、初心者はもちろん、例え上級者といえども、疎(おろそ)かに出来ない鍛錬法である。

 術者と、術者の抜刀を阻(はば)む敵との関係には、この両者間に一種の戦闘ステージが登場する。この戦闘ステージこそ、「命の遣(や)り取り」をする、まさにそこは宇宙なのである。
 この宇宙の中で、術者と敵の、壮絶なる鬩(せめ)ぎ合いがあり、いつしか「命の遣り取り」は、敵と和する素朴な“合気”への疑問の解決の為の、糸口へと近づいているのである。

 

●「合気揚げ」を重要視して修練に励む理由

 合気揚げは、「崩し」の儀法を教える、一種の「手解(てほど)き」である。しかし、「崩し」は両手頸(りょう‐てくび)を捕られた時のみに、派生するものではない。ここが「崩し」の難解なところであり、複雑なところである。難解であり、複雑である為に、これを秘伝と称して今日に至った大東流は、つまところ、此処に帰着するといってよいであろう。

 ところが、此処への帰着は解っていたものの、これを基本的にどうするか、殆ど誰も知らなかった。知らないが故に、これを「秘密」と称した。
 この「秘密」の為に、大東流柔術のある指導者は、“合気”に繋(つな)がる方便として、「秘伝はまだまだある」と嘯(うそぶ)くように称してみたり、「大東流は明治時代まで、一切が秘密に伏され、一般に公開されることはなかった」という未公開説を上げ、この方便に酔って、武田惣角の武勇伝に便乗し、その七光りによって、何事も秘密と称してきたのである。

 しかし、こうした後世の仮託者が言うように、果たして、「まだまだ秘伝はあるのか」、これは大いに疑問である。大東流柔術は大いに愛好者によって研究され、その用い方と、鍛錬法が未(いま)だに未解決になっているように思える。
 そして、後世の仮託は、大東流の歴史的認識の中にも現れるようになった。それが、「清和天皇起源説」や、戦死体を解剖してその中から術理が研究されたとする「大東の館説」である。

 この伝説的流言によれば、「大東流は新羅三郎源義光が伝えたもの……云々」とする伝承経路である。しかし、これは虚言とも言うべき内容であり、正しく歴史を知っている者は、これが流派の流言によって、後世の仮託で捏造(ねつぞう)されたと直ぐに見抜くであろう。したがって、大東流は明治中期以降の武田惣角により、惣角流が創始され、後に大東流と名乗り、惣角以降の近代に人々によって新たに出現した、新興柔術であるということがわかる。

 その意味からして、大東流が、新羅三郎義光が作ったものと信ずる人の、歴史的認識を疑わざるを得ない。しかし、「新羅三郎源義光の流言伝説」を後世の時代になって、方便として用いなければならなかった理由も、実は、武田惣角の大東流あるいは惣角流合気術が、あまりにも難解で複雑であり、これに苦悶(くもん)した事から、「密教の修法と同じく複雑多岐にわたるもの」としたところに、実は大東流愛好者の行き詰まりがあったと言えよう。未だに、“合気”を得る為の具体的な鍛錬法が明確にされていないからである。

 それは、大東流愛好者の多くや、大東流から出た植芝流合気道が、実際に惣角翁の合気術を正しく伝授を受けた人が、日本では十指にも満たない数であったからだ。

 例えば、惣角翁の崩しは、何らかの形で、当時大流行した「柔道に崩し」に拠(よ)っている所が多きいい。つまり、今日の現代柔道ではなく、もっと近代の、「明治柔道の嘉納治五郎が論理の根拠としていた時代」の柔道である。

 この時代の「柔道の崩し」と、惣角翁の合気術は、何らかの形で共通点を持っていた節が強い。それは「崩し」という共通点においてである。柔道の「崩し」において、惣角翁は“合気”の崩しを発見した観が強い。この時に、特異な「合気揚げ」が構築されたと言っても過言ではない。そして、“合気”の根本は、「合気揚げ」にあるとし、これは両手取りの「手解(てほど)き」にあるとしている。

 ちなみに、「手解き」とは、握られた両手を抜き、敵の束縛(そくばく)や蹂躙(じゅうりん)から逃れることを指し、「抜き手」の一種であるが、これはかつては騎馬戦において、騎乗の騎馬武者が徒侍(かち‐ざむらい)から、馬乗下から手綱(たづな)を握る手頸(てくび)を捕られ、これを抜く為に用いられたものが「抜き手」である。

 したがって、「手解き」も、手を解くことから、「手解き」という。この、「手を解く際に顕れる、ほんの僅かな動きの空間に現れるもの」が、相手の弱点であり、この動きの中でその弱点を見つけ出し、一気に崩すのが“合気”なのである。

 さて、わが西郷派は合気揚げの真髄を、わが流独特の「躰動法(たいどう‐ほう)」に求めている。「躰動法」は、合気揚げの「揚げ」を行う動きの中で重要な要素であり、躰動法を知らなければ、「揚げ」の動きは出来ないのである。

 わが流の西郷派は、会津藩元国家老・西郷頼母の精神性を追求して、これを「西郷派」と称す。会津藩校日新館の教科武術は太子流兵法【註】この流派の歴史は古く、太子流の「太子」は聖徳太子の精神性を受け継いだもの)を母体とした剣術(溝口派一刀流が中心を為(な)す)、柔術、その他の武技や、それに併せた大和流古式泳法【註】小堀流とも言われるが……。後に西郷四郎は弓術にも通じ、大和流弓術なるものを創始。これは大和流古式泳法から来たものか?)であった。

 そして、その精神性とともに加味するものが、わが流独特の「躰動法」である。
 躰動法は合気揚げを容易にし、その容易にする動作の一つに、「うねり」がある。「うねり」は、振動を持ち、一種の「波動」を持つ。特異な波動であり、「縦波」である。この「縦波」が相手の握る手頸(てくび)や、躰(からだ)のその他の部位を抑えたり握ったりすると、そこに「うねり」を伝えて、波を起す。この波が起った時に、相手の体勢は崩され、宙吊り状態となる。これは重力に垂直に逆らう「横波」ではなく、「縦波」である。

 かつては、この「縦波」を遣う人は、植芝系の合気道の指導者の中にも何人かいた。しかし、近年、死に絶えた。こうした名人技が出来る人は、自分の師匠から学んだ人ではない。戦前の合気道出身者で、習ったものではなく、合気道の修練を通じ、それを自然に学び取った人たちである。
 彼等は、一様に襲い掛かる敵を「宙吊り状態」に出来た。ところが、彼等の死によって、伝承されることなく潰えた。

 相手を「宙吊り状態」に至らしめる為には、躰動法を学ばねばならない。これを熟知することによってのみ、相手を宙吊り状態にして、崩すことが出来る。合気揚げとは、“合気”を会得する最初の関門であり、宙吊り状態にされた相手は、崩されて、地面に墜落するのが厭(いや)であれば、いつまでも術者の制するままになって、いつまでも、ぶら下がっていなければならない。
 これに至らしめるプロセスの最初に、「合気揚げ」がある。ここにこそ、“合気”の秘訣がある。

“合気”は素振りによる縦の動き/その1。
 木刀の「縦の軌道」を通る際の振り上げは、「呼気」である。
“合気”は素振りによる縦の動き/その2。
 木刀の「縦の軌道」を通る際の振り絞りは、「吸気」である。

 そして、「合気揚げ」は、木刀の素振りによって、「うねり」を会得することが出来、わが流では、木刀の素振りを日夜行い、これを探求することによって、やがて自身に「うねり」という波動が起ると、その修練法を明確にしているのである。
 この木刀の素振りこそ、躰動法を修得する為の鍛錬であり、これを100回、200回、300回……1000回と、振り重ね、「うねり」が起るまで徹底的に素振り続けることなのである。

 上半身を裸にして、木刀素振りを行い、呼吸の吐納法を正確に遣っていくと、振り上げる時機(とき)と、振り絞る時機に、腹部に不思議な「うねり」が生ずる。
 100回程度では、「うねり」は確認できないが、1000回、2000回……10000回となると、数ヶ月ほど経ってから、腹部に特殊な「うねり」が顕れる。

 この素振りを行うときの時間帯としては、早朝から始めるのが最も好ましい。これは相撲の稽古と同じように考えればよい。
 普通、競技武道やスポーツ格闘技は、早朝あまり行わず、午後から行う場合が多い。それは今日の日本人の就業時間や学業時間に制限されている為である。多くの日本人の生活のサイクルは、朝は大方が6時頃目を覚まし、6時半から7時には通勤・通学の為に会社や学校に向かう。就業や学業は午前9時から始まるものとして、正午から一時間の休み時間をとって、更に午後1時から5時まで働くようになっている。
 一方、学業においても、ほぼこれと同じであり、終了時間は、午後4時くらいである。多くは、この終了後にトレーニングに励む。

 これが今日の日本人の稽古事に取り組む時間帯といえるだろう。要するに、午後からの稽古時間に集中し、また町道場においても、大方、子供の学業が終了してからの午後5時か6時から一、二時間の稽古をし、社会人就業者においては、午後7時から10時前後までが、稽古時間である。多くの稽古時間帯は圧倒的に午後に集中している。

 こうした稽古時間帯は、夜遅くの時間に集中する為、夕食もどうしても遅れがちであり、午後9時以降に食事を摂る人が多くなる。夜遅い食事を摂ると、食事を摂った直後からリラックス状態が訪れる為、腰骨の関節が弛み始める。特に仙腸関節の関節の弛みは大きくなる。

 人体の骨の開閉のメカニズムは、食事を摂り、腰骨が弛み、それが睡眠中に締まり始めるのであるが、この締まるまでの時間は約12時間かかる。
 例えば、夜9時に食事をしたとして、これが正常に締まるまでの時間は12時間であるから、完全に閉まり終えるには、午前9時までかかることになる。もし、午前6時に起床するとして、それから朝食を摂り、就業や学業に向かう為の準備時間は、まだ、腰骨が弛み放しということである。その弛んだ状態に、朝食を詰め込むのであるから、弛んだ腰関節は開き放しで、次に休む間もなく、昼食時間が遣ってきて、更に午後3時の感触時間が遣ってきて、最後は遅い夕食で、決定的な腰骨の開き放しの状態を作り出し、年から年中、腰骨は弛み放しの状態で、稽古を重ねていることになるのである。

 だが、プロの力士は夕食を午前4時か5時までに終了させて、早朝の稽古に励む。そして昼前には稽古を終了し、その後、食事となる。これはある意味で非常に理想的であるといえる。それは彼等が朝食を摂らないからだ。

 また、プロの力士に似たような食事時間帯を伝統的に守り通している人たちが居る。樵の山林業を生業(なりわい)にしたり、マタギなどの狩猟を生業にする人たちである。彼等は、腰骨を痛める愚を決して冒さない。朝はお茶などで済ませ、午前中に仕事を終えてから、ゆっくりと食事を楽しむのである。

 ここが現代人の生活リズムと全く違うところで、食事の時間帯も、日に三度以上というような、過食の状態にない。粗食少食である。これが彼等の「胆力」を支え、あるいは「腰力」を支えている。これはある意味で、武術修行者の「稽古法」「生活法」にも告示しているといえよう。

 かつて、武術修行者達は、こうした「稽古法」や「生活法」を厳守していた。とことが文明社会は、物質至上主義を作り出し、その結果、人間の生活サイクルも昔とはすっかり変わってしまった。日に三度三度の食事を摂るようになり、現代医学が信じられるようになり、現代栄養学が信じられるようになった。そして、現代人は、食の世界においては飽食の中に放り出された。その結果、病人ばかりで、どの病院も、また、どの柔整院も鍼灸院も腰痛患者で溢れかえっている。

 こうした状況下で、果たして「正しい、基本に則した合気揚げ」を修練するチャンスがあるか、否か、非常に疑問である。合気揚げ用の1500グラム以上の素振り用木刀は、一回振るのに約2秒懸かる。1分間では30回である。
 例えば10分間では300回であり、だんだん疲れてくるので仮に30分素振りをしたとして、単純計算として900回となるが、実際には振り慣れの頻度からも考えて、平均500〜700回といったところであろう。仮に10000回振ろうと思えば、約10時間弱の時間を要するだろう。

 現代人にとって、こうした時間をやりくりすることは不可能である。そこで、朝晩10分間ずつ600回を程を振る。こうした日々の精進がやがて、「うねり」を作り出す要因となる。そして、素振る時間も10分から20分、30分と徐々に長くしていくのである。「うねり」がいつ生じるか、そうしたことには頓着せず、黙々と振り続けるのである。半年、一年、二年と振っていく中で、その前兆のようなものが現れてくる。

 この素振りを行うとき、素振りのポイントは、呼吸の吐納に合わせて、振り上げる頂点に達した時に、息を吐き、肚を膨らませ、振り素ぶった時に息を吸い、腹をへこませるのである。これを逆丹田呼吸という。つまり、近代剣道のように、振り絞った時に、「エイっ!」などという声を発することが出来ない状態になり、気合は懸(か)からないのである。これは吸気をしているからだ。
 したがって、これを呼気と間違ってはならないのである。“合気”の気合がないのはこの為である。

 

●合気揚げがある程度、出来るようになったら

 基本の中にが極意が隠されている。しかし、これもただ、これにこだわれば、「こだわり」の中に閉じ込められてしまう。これは非常に危険なことである。
 昨今は「こだわり」という言葉が持て囃(はや)されているが、これは悪い流行でもあるし、悪い現象といえるだろう。何故ならば、それは頑迷に、我執(がしゅう)の中に閉じ込めるからだ。

 したがって、こだわりの職人が作ったものには、本物がないのも事実である。料理でも、工芸でも、こだわりの職人の作ったものは、一見、美しく見え、最高のものに見えるが、それは素人判断であり、内実はそれほど優れたものはない。何故なら、作者自身が自らの我執に囚われて、こだわる故に、「下手」を連発しているからだ。
 下手を打った者に、一切の尊敬も、一切の優美も感じ取れないはずである。

 人間は、迷いが起るからこだわるのである。「こだわる人間」は、自分の未熟さを晒(さら)け出している。
 したがって、合気揚げもある程度できるようになったら、合気揚げ自体に疑問を抱かなければならない。
 つまり、両手頸を封じて抑える方も、これを揚げようとする術者の方にとっても、である。

 合気揚げばかりにこだわっていては、思いもかけない不幸現象が降り注いでくる。この世は現象人間界であることを忘れてはならない。

 例えば、次のような場合である。
 一つは、両手頸の封じ手抑える側には、あまり揚げさせないばかりのことを考えて押さえ込もうとしていると、術者は「頭突き」か、「蹴り」を繰り出してくる。両手を封じたまま、膝蹴りか、前蹴りか、二段蹴りを食らえば、捨身懸命で抑えている「受け」は、内臓破裂で一溜まりもないだろう。揚げさせない相手に対し、当身を食らわせて、揚げるのも、また合気なのである。一撃で相手が答えなければ、二度三度、食らわせればよいのである。

 二つは、術者が合気揚げばかりにこだわっていると、「受け」自体が、手を離して反撃してくるかも知れない。握らせて、「離れない術」を会得した者ならば、未(ま)だしも、合気揚げの理論だけで、合気揚げを行っている術者は、簡単に反撃され易い。

 合気揚げの両手封じの関係は、術者としての「取り」も、それを受ける「受け」も、わが身の急所を相手に晒(さら)した、相克関係にあることを忘れてはならない。また、膝蹴りや、前蹴り、飛び蹴りばかりでなく、手裏剣、飛礫などの飛び道具や、鉄鎖や縄術のあることも忘れてはならないだろう。況(ま)して飛び道具があるのなら、刃物を持った二本指しの武士に対し、両手封じをすることはないだろう。手裏剣一本打ち込んだ方が早いからだ。瞬時に片付いてしまう。

 更に、小太刀術を会得した者の、螺旋(らせん)に斬り込んで来るこの動きは、剣道の二調子の打ち込みと違い、連続で攻めてくるので、これを念頭から忘れれば、致命的な命取りになるし、命は助かっても、後遺症は免れないだろう。したがって、小太刀術の研究も必要であろう。
 そして、秘密は秘密にしておく方が、秘密事は保たれるのである。

 

    合気揚げについての「合気揚げ戦闘思想」の詳細は こちら

    合気揚げが誕生するに至った「歴史背景篇」の詳細は こちら


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