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槍術を含み独特の体捌きを錬成する


西郷派大東流馬術の軽騎武装束。(写真は、わが流の馬術助教の山口泰弘四段)


■ 西郷派大東流馬術
(さいごうはだいとうりゅうばじゅつ)

●《武芸十八般》としての馬術

 合気は、《武芸十八般》を総括した武技である。そして、武芸なるものは、偉大なる日本の伝統の武士道精神の中に生き続け、中世以来伝えられてきた古流の伝統は、現代にも生きている。

 日本における武技の始まりは、多くは軍陣の軍法から齎(もたら)されたものであった。合戦における軍法と、戦いにおける勝利の要(かなめ)は、騎馬武者の用いる実戦行動が、則(すなわ)ち馬術であった。
 馬術こそ、機動力の主体であり、その攻め入る凄まじさは、まさに「燎原(りょうげん)火の如く掠(ます)め取る疾(はや)き火の如き」であった。
 軍法によれば、甲斐武田騎馬軍団は、この「疾風(はやて)」を敵陣攻略の戦法に用い、その疾きこと、「風の如し」であったといわれる。

 その為には、馬を知り、馬を馭(ぎょ)し、「人馬一体」となる儀法(ぎほう)が必要であった。
 簡単に云えば、馬を乗り馴らす「術」であるが、馬術は馬一回、乗るごとに、「一鞍(ひとくら)」といい、三十回乗るのを「三十鞍」といい、これを「一ト
(ひと)区切り」として、一ト区切りごとに、新たな上達があるとされて来た。回数を重ねれば、その乗馬時間に応じて、馬に対する理解度が高まり、それに準じて、高度な儀法を徐々に会得するのである。

 馬術に長(た)けた騎馬侍(きばざむらい)は戦国期、実に、馬を馭すのが上手であった。それは馬への「抑(おさ)え」が出来、轡(くつわ)を捉えて、「腕(かいな)を返す」ことが出来たからだ。
 この「腕を返す秘訣」に、実は合気の奥儀が眠っている。馬を抑える技術こそ、「多数捕りの儀法」そのものであり、ここに、畳の上の修練とは異なる、次元の違う合気の奥儀がある。そして、かつての上級武士の高級儀法は、馬術の中に包含されているといっても過言ではない。
 これが室内だけで、武技を競う格闘技とは、一味も二味も異なるところである。

 道場という、室内だけで武技の優劣を競う室内武芸は、その中だけの格闘でしかありえない。また、道場という戦闘ステージと、戦場とは、ここが大いに異なる。道場での稽古上手が、戦場では必ず強いとは限らない。また、生き残れる保証もない。稽古上手でも、戦場では不覚を取ることがある。流れ弾や、流れ矢に当たることもある。自然は刻々と変化するからだ。そして、こうした場合、武運が拙(つたな)くては生き残ることが出来ない。

 戦場では、強いか弱いかは問題にならない。勝つか負けるかも問題にならない。しいて言うならば、負けないことであろう。勝つことではない。負けない境地を確立することが、則(すなわ)ち、生き残ることなのである。死なずに生き残ることは、勝つことより、ランクが上になるのである。

 さて、《武芸十八般》の中で、動物という生き物を使うのは「馬術」だけである。
 したがって、馬は単なる道具でない。動く物であり、生きとし生けるものとして、人間と同じ性(さが)を持ち、感情を同じくする生き物である。個性もあり、馬特有の性格も持っている。こうした馬と、人間の心が一体になったとき、その信頼関係において「人馬一体」という、素晴らしい極意が開花するのである。人間の心と、馬の心が「一つ」になったとき、馬を馭す人間は、馬と一心同体になる。

 逆に、馬との信頼関係が崩れたら、馬は反抗するばかりでなく、馭す事が困難になり、馬に振り回され、馬の力は、人間が何人かかっても叶わない力を持っている。そうなると、馬術どころではなくなり、馬から敵愾心(てきがいしん)を抱かれt、無残に敗北することになる。戦場において、馬が自在に使えないことは、武門の恥であった。
 馬術は、生き物を相手にする武術であり、広い自然の中で、「人馬一体」となって、はじめてその威力を発揮する。

 また、馬術に限り、長年積み上げた研鑽(けんさん)の実力は、円熟を極める。
 多くの武術や武道は、年齢と共に、体力が減退して、それだけ反射神経が鈍くなる。また、若い頃の実力が低下していくのであるが、わが流の馬術は、経験年齢と共に、円熟していくのが常であり、年齢によるハンディーは殆ど感じさせない。この点は、「合気の儀法」に、非常によく似ており、一旦、馬を馭す事を体得すれば、年をとっても末永く、実力を発揮することが出来、この点が、他の武術や、武道と大きく異なる点である。

写真は山下芳衛先生の満洲時代の写真。陸軍特殊軍属として、北満方面の調査に赴いた頃の乗馬時のもの。
軽騎武装束での騎乗。軽武装の武装は、柔術が目的であり、馬上柔術による最後の止めは「鎧通し」である。

 騎馬戦法で、その進化を盛り上げたのは、馬上柔術においてである。
 柔術の「抜き手」の技術は、本来、馬上武術から始まったものである。この儀法は、かつては「馬戦」の中で起こり、騎兵の集団戦に合せて、狭義においては、「一騎打ち」による騎士の格闘においても用いられた。

 「馬戦」は、本来は騎兵集団の合戦を意味し、「駈(か)け合せ」の術理は、個々の騎士の格闘を主眼とした。古くは、武術を「武芸」と称し、武士が嗜(たし)まねばならない「芸」の一つが馬術であったが、今日で言う「武芸」とは少し意味が異なっている。これは単なる「芸」に通じるものではなく、「武芸」の中に、武士道の究極とするところが包含されていたからである。故に、かつては馬術を「馬上武芸」とも称した。

 畳の上で強弱を競い格闘する柔術や、今日の格闘技である柔道は、人間対人間の、「一対一」の格闘である。しかし、それは平面状の、スポーツ競技の「枠内(わくない)」で闘う格闘スポーツであり、時間内に勝敗を決するというスポーツ・ルールが存在する。

 だが、こうしたルールをもってしても、実戦では全く通用しなくなる。戦場という戦闘ステージは、まず、「平面」とは限らないからだ。
 次にルールもなく、ルールによる制限時間もなく、また「場所」を全く選ばない。戦いが始まれば、即その場が、戦闘ステージになり、この「場」が、命を賭(と)して雌雄(しゆう)を決する土壇場(どたんば)となるからである。土壇場こそ、生死を賭けた「正念場」であり、命の遣(や)り取りの死生観を超越したところに、異次元の高さがある。この点において、制約もなければ、制限もなく、ルールも、スポーツマンシップも、何もない。

 生きるか死ぬかの、ただ、それだけの現実が、 戦場には残される。そして、その究極はサバイバルである。
 だからこそ、古来より「百年兵を練る」と言われてきた。 これは日々精進するが、この精進の結果を戦争行為に求めず、また、兵を練ることによって、他国から攻め込まれない、「活人剣」の立場を説いたものであった。武を練ることを怠れば、敵から付け入られ、襲われやすい。「活人剣」は人を活かす剣であるから、活かすためには、日頃の修練を怠ってはならない。

 「活人剣」を説いたのは、新陰流の達人・柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)であった。柳生宗矩は沢庵(たくあん)より、これまでの殺伐(さつばつ)とした「殺人剣」を捨て、剣禅一如(けんぜんいちにょ)を教わることで、人を活かす「活人剣」へと導いた人物である。
 柳生宗矩は、沢庵のこうした教えにより、「剣」「禅」が一如であることを学んだ。しかし、沢庵は剣の達人ではなかった。一介の禅者であり、しかしそれでいて、剣に備わった奥儀は心得ていた。また、「夢」を探求した禅僧としても知られている。

 禅者として、「夢」を追い続けた沢庵は、後に、柳生宗矩に、剣禅一如を説き続けてからも、「夢」の実体が、現世の「あるがまま」に通じていることを、宗矩に教えたのである。「あるがまま」に任せることで、「他力一乗」を学んだといわれる。

 さて、ここで言う「夢」とは、現代で想像する未来展望や、理想などを語る夢ではなく、また、願望などでもなく、今、自分が「あるがまま」にいるという、「こだわらない世界」を夢としたのである。ここには、夢であるが故に、生も、死もなかった。したがって、剣禅一如は、その域に達することで、死生観を超越することを教えたのである。

 つまり、死生観を超越するとは、「生もなく」また「死もなく」ただ、飄々(ひょうひょう)として、「今」ここに、自分が「居る」という世界を説いたのである。これこそが、剣禅一如によって導かれた、「活人剣」の姿だった。それを一言で要約すると、「こだわらない」ことであった。

 わが流も、「生もなく」また「死もなく」ただ、飄々として、ただ「今」ここにいる、という事実だけを見つめ、人馬一体となる境地を指導している。
 多くの動物もそうであるが、馬は、性格が非常に穏やかな動物である。その穏やかな故に、人間の感情や心情も読むのは非常に速い。動物の中でも、非常に五感が発達しており、特に、聴覚の発達は、人間の能力をはるかに凌ぎ、それだけに、音には敏感な動物である。

 敏感な動物は、物事に対する理解力が速く(一部にはこれ否定する人もいるが)、かつ、予見的な感覚も卓(すぐ)ぐれている。同時に、記憶力もよく、一度学習したことは最後まで覚えている動物である。ここに、人間と同じ性(さが)を持っている所以(ゆえん)がある。
 この性を理解することは、また「人馬一体」にも通じるのである。人間は馬の心を、理解したとき、馬も人間の心を理解するのである。これが「人馬一体」の秘訣である。

西郷派大東流馬術の軽騎武装束。鎧通し、ならびに黒漆胴で武装。
軽騎武装束での速歩(はやあし)走行。馬は非常に利口で、騎士の心を読む。

 馬術の目的は、操馬法にその主眼が置かれるが、馬を上手に(ぎょ)すことは、戦闘において、一番大事な、わが手足のように馬を用いるのと同時に、騎馬戦において、勝利を齎(もたら)すことを目的とした。騎馬戦の勝敗は、馬術の腕で優劣が決定される。

 それは例えば、馬を自由自在の乗りこなし、それによって絶えず、敵の後ろに廻って、敵を突き止めることが出来るからだ。
 敵の後ろを取ることは、常に、わが方が優位となり、これによって勝利を収めることが出来るからである。逆に、敵から追尾されれば、不覚を取る。したがって、この追尾を振り切るには、独特の操馬法である「輪乗り」の秘伝を行い、逆に、敵の後ろに廻り込むのである。輪乗りは、日本騎馬戦法の独特の動きであり、特に、軽騎武装の騎士は、この乗り方を修得しなければならなかった。

 わが流で言う「輪乗り」は、梅の花びらを描くような、右旋・左旋を交互に繰り返し、小回りの効く乗り方である。これは非常に高度な技術を要する。馬の習性を知るだけではなく、特異な馭し方の秘伝が甲斐・武田騎馬軍団には伝えられていた。
 そして、日本で生まれた騎馬戦の特徴は、 わが馬を、敵の馬の胴中へ打ち当てて、敵の人馬を打ち倒すことが本義とされてきたのである。日本馬術では、これを「当馬(あてうま)」という。

 さて、馬を馭すには大きく分けて、「三つの歩行」を修得しなければならない。
 馬は、四本の脚で歩行する動物である。したがって、馬の歩行には主として、「常歩(なみあし)」、「速歩(はやあし)」、「駈歩(かけあし)」の三種類があ

 常歩は、馬がゆっくりとした歩きの時機(とき)の歩調で、一肢ずつ左後肢、左前肢、右後肢、右前肢の順に歩行する歩き方で、馬が規則正しい歩きで進むのが、この歩調であり、スピードは遅いものの、一番疲労が少なく、普通はおおよそ、一分間に110メートルほど進むのがこれである。

 次に、常歩に慣れると速歩があり、これは二肢が一組となって、一緒に動く歩行である。そしてこの二肢一組は交互に繰り返され、普通は一分間に220メートルくらい進む。これは人間に置き変えれば、軽いジョギング程度の走りといえよう。

 更に、駈歩があり、四肢が宙に浮く瞬間が作り出される走行である。この場合、一分間に340メートルほど進むのが標準的であり、しかし、馬の疲労は大きくなって、長く乗ることは出来ない。
 かつて騎馬軍団に組織された騎士は、一人で約三頭の馬を有し、三頭を順に乗り換え、馬の疲労を少なくした。つまり、騎士一人で、三頭の馬を随(したが)え、戦場に赴いたことになる。それに家来衆や馬方がつくので、騎士一人で約10〜15人の大所帯の配下を連れて戦場を移動した。こうした騎士を「騎馬侍」といった。
 因みに、馬を駈歩で走らせることは、人間に例えれば、全力疾走に当たるもので、これを「襲歩(しゅうほ)」ともいう。奇襲戦法では、この襲歩は勝敗を大きく左右する。

 わが流の馬術は、こうした馬術訓練を行いながら、「人馬一体」を体得し、自由に乗りこなせる状態に至って、馬上柔術の稽古に入る出のである。
 この稽古を行う際には、わが流独特のこれまでの馬術ノウハウを、発揮して、疾風(はやて)の如き馬上格闘に転ずるのであるが、その場合の基本は、あくまでも「やわらかく馬に乗る」ということであり、やわらかく馬に乗るためには、わが流がこれまでに研究・開発した、「軽騎武装束」を着用し、身軽な動きをもって、馬を自在に馭(ぎょ)していくのである。
 また、その馭し方には、「輪乗り」や「柵(さく)越え」(障害飛越)があり、馬を小回りに回転させたり、垣根を飛び越える高級儀法である。いずれも「人馬一体」の体得により可能となる。

江戸末期の西洋馬術が日本に入るまで使われていた「和鞍」。

各諸藩には、馬廻奉行や馬廻り役がおり、こうした武士が「馬方」として活躍した。
騎馬武者が乗馬したときには、腰差ではなく、佩刀(はいとう)式の太刀が用いられた。

 騎乗するとは、上半身だけが自分の思い通りになる、一種の「いざり状態」となる。騎乗したとき、辛うじて上肢だけが自由であり、下肢は極めて不自由となる。馬術の腕が悪ければ、自在に動くことが出来ない。これを上肢と同じように、自由に動けるように「人馬一体」の状態を作り出すのが馬術の奥儀である。
 武芸でも、あるいはその他の稽古事において、一流といわれる人は、その人特有の「柔軟性」に富んだ肢体を有し、身のこなしや、物の使い方、動物の使い方などは流れるように美しい。

 これは躰(からだ)の硬い人と対照的であり、特に、柔軟性の優れた利点は、即応力と、反応の速さの瞬発力と、それが、見事に流れるような調和を保っているということである。こうした流麗な流れを持った美しさは、どんな局面に至っても、途切れることがなく、バランスよく動けるものである。

 特に、馬術においては、柔軟性が必要となり、小さな力で、大きな効果が出るようになっている。また、この応用編が「合気の極意」であり、過剰な動きを制したところに、流れの美しさを持っているのである。柔軟性は「流れの美しさ」の中に包含されているのである。
 したがって、武張った動きは見苦しく、こうした動きをする者を、かつては「ごとごとし」と揶揄(やゆ)し、粗忽者(そこつもの)の、流れの止まった、途切れのある動きを厳しく指摘したのである。

細川澄元の馬上図像

 馬という生き物は、人間が考える以上に敏感で、然(しか)も、人の心を読む能力を持っている。
 特に、その人が、柔軟性に富んだ人物なのか、恐々(こわごわ)と挑み、臆病で、心に動揺を持っている小心者かなど、こうした人間の感情を巧みに読み、その御者(ぎょしゃ)の心情で行動する動物である。
 したがって、例えば、馬の口に不必要な衝撃を与えたり、強引な我儘(わがまま)だけが先走りする人は、騎乗の体勢を崩してしまい、自在に誘導することが出来ない。背後から追撃され、討ち取られてしまう騎士は、結局このレベルでしかなかった。

 人間が馬の背に乗るという行為は、想像以上にバランスを失うもので、精神的にもリラックスさがなければ、柔軟性は生まれず、人馬一体の状態は導けないものである。したがって、主に関節や筋肉の柔軟性は必要であり、騎乗する騎士は精神の柔軟さと共に、その動きも「流れるような、やわらかさ」で馬を馭すということを心がけねばならない。


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