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| トップページ >> はじめに >> 「武道」でなく「武術」の語を用いるわけ(二) >> | ||||||||||||||||||||
日本人は、常にその歴史の起源から、何事も情緒に動くという民族であり、感傷的になり易く、この事は欧米人に侮られ易い一面を持っている。そして日本人の情緒感は、明治維新以降、外国人に旨く利用され、それによって歴史が作り換えられて来た。 昨今のゴルフブームもそれであるし、また以前にも「ブルース・リーの映画」が巷間(こうかん)で爆発的に大ヒットした時、猫も杓子も、老いも若きも、空手道場や少林寺拳法の道院に詰め掛けた。何処の空手道場も、道院もこの時は、道場創立以来の空前の盛況となった。 過去を振り返れば、ゴルフもボーリングも、総て大衆化し過ぎて駄目になり、本当の愛好者の手から離れて行った観がある。古武道や古武術と謂われたものも然りである。 秀吉が天上人に登り詰め、太閤となって大坂城に君臨した時、大茶会を催し、それが評判となって、武士から乞食まで、一万人もの群衆が詰めかけたという。こうなると茶道を真に愛好する者は茶道から離れ、それらの愛好者を再び呼び戻す為には、家元制度を発足させる以外手はなくなってくる。 江戸期の剣術でも同じ事で、殊に幕末近くになると、百姓や町人が道場通いをはじめ、これが流行して大ブームになった。挙句の果てに、百姓や町人が二本指で武士を気取り、俄侍が誕生した。豪農や豪商の中には、武家の家督を金で買う者すら現われた。俄に、こうなると、柳生流をはじめとする古来より伝承された由緒ある流派は、これらの町道場と対抗する為に、門弟を厳しく制限し、有能な人物のみにしか入門許可を許さなくなった。 今風に謂えば、メンバーズ会員制度であり、差別化した訳である。向こうは大衆向きの同好会クラブだが、こちらは真の愛好者の為の会員制クラブであり、それだけに課される責任も資格も、そして修行の程度も厳格で、更に技術も高度であるという事をはっきり宣言したのである。本来古流武術の良さは、此処にあるといってもよい。 我が西郷派大東流の門弟制度もこれと等しい立場を取っている。選ばれた者が、あるいは厳格な審査に合格し、入門を許された者だけが修行する制度を取っている。 今日は俄侍(にかわざむらい)が横行し、猫も杓子もそれなりのスポーツ経験、武道経験を持った者が少なくない。しかし概ねは、一般的に大衆化された競技武道に手を染め、その事で総てを理解したように錯覚し、いっぱしの武道家を自称する者が少なくないようだ。その為に大きな誤りを冒している者も少なくない。 その素人と、五十歩百歩の感覚で武術理論を述べ、豪語を奮う傍若無人な輩は今日も跡を断たない。彼等の持ち出す新説は、話を益々情報過多に陥れ、古武術界に混迷を蒔散らしている。昨今の古武術ブームの裏には、このような現実がある事を忘れてはならない。 と、同時に日本人の情緒的な先入観や固定観念は、一種独特の暗さ、殊に暗愚は流行を作り上げ、これに振り回されているという現実が少なくないのだ。 ●戈を止める本当の意味武術と言えば、何処となく野蛮を感じ、これを「人殺しの術」と称せば眉をしかめ、悍しい泥臭い戦の為の兵法といった表現をする近代武道家達を一概に否定しない。 だが、「人殺しの術」が何故歴史に登場したか、その人を殺す為のメカニズムはどのように構築されたか、またこの殺す事を前提に置いた死生観は何故、密教や古神道と結びついて、やがてそれが倫理観に発展していったか、これらの論を、そういう近代武道家と称する人達から一度も聞いた事がない。 歴史は繰り返すという。歴史は繰り返す事実があるからこそ、これを引き継ぐ次世代は古人の武術研究を愚弄してはならない。 今日、誤った武道論が展開されている。 これは大相撲の世界を見れば一目瞭然であろう。大相撲は観客なしには成立しない。これはどちらかというと芸能の世界のものである。論じられるのは、強弱であり、弱い力士は次々に淘汰され、弱くて客に人気のない力士は、この世界では終始陽の目は見られない。人格は問題にされず、強いか、弱いかだけが問題になる。 したがってこうした興行に左右される武技は、喩え、武道や武術を模倣していても、中味はタレントのそれであり、決して「戈を止める」というものではない。いわば娯楽の一種である。 勉学するべき時機に勉学を怠り、無教養の儘、ハードな肉体的な反復トレーニングに明け暮れ、自らの肉体を酷使して「人間を知らない」「世の中を知らない」「歴史を知らない」そして教養が無いという近代スポーツ選手像の危惧は、半世紀程前の日本軍閥がやらかした、あの軍人特有の愚行や人間的な片輪に、何処か類似しているのではなかろうか。 先の大戦の戦中・戦後を通じて、日本国民の上に降り懸かった悲劇は、実に「軍人の無教養」にあった。 武術や武道観を、ただの肉体感覚で語るのではなく、理性や知性を以て「戈を止める」体験を語り継ぐ事は、教訓を学ぶという点で、歴史や伝統、文化や倫理に反映する筈であり、その反映を次世代の者は鏡としながら良質な部分の研究を怠ってはならないと考える。つまり貴族的な、上級武士的な立場に立って、真の奉仕精神を発揮し、高い教養の上に立脚しなければならないという事である。これが内外に亘る常識を備える事であり、武士道の持つ潔さを、広い視野と豊かな教養で体得して行かなければならないのである。 おおよそ武術、あるいは兵法と謂われるものは「人殺しの術」である。 武術に於ける兵法の謂う「兵」とは「凶器」であり、だからこそこれを用いる事は高度な倫理的な判断が必要とされ、出来る事ならば、常に武術は「戈を止める」為にしか用いるべきでないと考えるのである。
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