■ 春の講習・洗心錬成会 ■
(はるのこうしゅう・せんしんれんせいかい)
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主催・協力
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主催:西郷派大東流全国有段者会
協力:総本部尚道館
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道場所在地
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〒802−0985
北九州市小倉南区志井6丁目11−13
・北九州市モノレール企救丘駅より徒歩5分
・JR志井公園駅より徒歩7分
総本部・尚道館にて
*周辺地図、交通機関に関する詳細はこちらです
*韓国からお越しの方はこちらです
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協力依頼
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指導:曽川和翁 西郷派大東流における身分と流統性
(宗家・米国イオンド大学教授、哲学博士)
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募集対象者
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老若男女問わず。過去に武道経験や運動経験のない方でも参加出来ます。
春の講習・洗心錬成会は、福智山登山ならびに山稽古や、馬術といった西郷派大東流ならではの特異な行法・修法を行います。
西郷派の道場に所属していない、一般の方も参加できます。
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稽古日
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【平成20年】
5月3日(祝・土)正午集合〜4日(日)〜5日(祝・月)正午解散
・全日程:2泊3日
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指導内容
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本講習会は、西郷派馬術ならびに、福智山登山を通じて山稽古を中心として、「西郷派大東流の術」の指導にあたります。昨今流行の、過重な負荷がかかる無理な筋トレ運動等や、力の競い合いなどの肉体の酷使から離れ、行法や修法を中心とした指導を行います。
また、2泊3日の講習会を通じて、人間の行動原理の中枢を成す、陽明学の「知行合一」を学ぶことをテーマにしています。
「知行合一」の思想は、「知ることは行うことである」という陽明学の思想に基づき、単に知識としての武術思想ではなく、実際に体躯を通じ、自らが感得することで、戦闘思想を学ぶのです。その一つが普段の道場稽古とは異なる「山稽古」といわれるものです。
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▲福智山山頂より遠望する。
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本来武術というものは、大自然の中に存在するものです。西郷派の戦闘思想の中には、単に道場内での屋内稽古に止まらず、実際に大自然に出て、大自然から学ぶことを旨としています。この意味において、福智山登山と山稽古を実践します。
現代人は多忙な生活に忙殺されています。また、この多忙がストレスを生みます。現代病の多くは、このストレスによるものが大半です。ストレスの病因となるものは、下界に住む現代人が「浅い呼吸」をしているからだと考えられます。浅い、胸式呼吸で、気ぜわしい毎日を起ると、どうしてもストレスが蓄積されます。これが現代病と大きく絡んでいます。その典型が、「ガン発症」ではないでしょう
生活習慣病の元凶には、身体の細胞を錆付かせる「活性酸素」が絡んでいます。人は生まれながらに、こうした有害物質を制御し、除去できる抗酸化物質を持っているのですが、近年の生活環境の悪化や食生活の欧米化や食品添加物などにより、体内に大量の活性酸素を発生させ、抗酸化物質の生産が追いつかない状態にあります。そして、活性酸素の元凶に一つがストレスです。
情報化社会や、過激な競争原理の働く資本主義経済下では、多忙と、重度の疲労が積み重なり、現代人はこれらから逃れることが不可能になりました。
そこで自己責任が課せられる現代、自然治癒力と免疫力をアップさせるために、本来人間の持っている力を最大限に活用して、生かす考え方と行動が必要になります。
ストレスを根本から解消する意味でも、福智山登山と山稽古を通じて、肚(はら)の底から「腹式呼吸」をし、古い、下界の濁った邪気(じゃき)を吐き出し、現代の柵(しがらみ)から解脱(げだつ)し、大自然と一体になった、自己の発見を、本講習会を通じて、試みてはいかがでしょうか。
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参加費用
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35,000円(宿泊や乗馬料金などの合宿の一切を含む)
参加者にはもれなく西郷派大東流オリジナルTシャツをプレゼントします。
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見学
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不可 |
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申込方法
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*平成20年度春の講習の受付は終了いたしました。
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特典
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daitouryu.netネット会員の方は
参加費用が10%offになります。
※ 但し、この特典の対象となるのは、「1年会員」の方に限ります。
◎本特典で春の講習・洗心錬成会に参加される方は、次の手続きをお願いします。
1.daitouryu.netネット会員の手続きを完了して下さい。
2.総ての手続きが完了いたしますと、折り返し、パスワードとIDをお知らせします。
3.ネット会員であることの証明が必要となりますので、本特典で参加される方は、下記の要領に従って下さい。
◎ご意見・ご感想欄に
1.daitouryu.netネット会員割引
2.パスワード
3.ID
の3つをご記入して、「平成20年 春の講習・洗心錬成会申込書」(フォーム)を送信して下さい。
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へのアクセスはこちら
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連絡先
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総本部・尚道館
受付時間/午前9時〜午後9時まで
(それ以外の時間帯はご遠慮下さい)
電話093−962−7710(代)
FAX093−961−8224/24時間可
お問い合わせメール |
| 本講習会の主旨と目的 |
本講習会は西郷派大東流合気武術の儀法を修得する主旨と目的を持っています。つまり、わが流の教えである、「西郷派の術理」を実践することにあります。
※わが流の教えを指導するのですから、他流派から参加される方や、他武道から参加される方は自流・自武道では黒帯や色帯であっても、礼儀を重んずる意味で、必ず白帯でご参加下さい。 |
| 所持品 |
道衣(空手衣などの薄いものではなく、掴んでも破れない、また膝行・膝退・膝側や坐法を行っても膝当てがしてある柔道衣上下か、刺し子道衣がよい。合気道衣も可。汗をかくので着替えを含めて二着あれば理想)、その他の下着などの着替え、洗面具、道衣やいる衣類を洗う為の洗濯洗剤、地下足袋(乗馬をするので13枚コハゼが最適)、雪駄(白緒)、軍足(指がそれぞれ五本に分かれたもの)、軍手、雨具、水筒、タオル、バスタオル、リュックサック、トレッキング・ストックなど山稽古に必要なもの。その他、自分で必要と思うものを持参して下さい。
山行きに関する所持品の詳細はこちら
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| ▲馬を馭(ぎょ)すことで、“合気”とは何かを知る。
馬術の実践と体重800キログラム以上に及ぶ、馬を馭すことで、多数捕りの「抑えの業」を知る。馬を馭し、馬術を知らない者に、多数捕りの境地に辿り着くことは出来ない。多数捕りを学ぶには、「かいなを返す術」を知らねばならない。この術を知らずして、多数捕りは行えない。西郷派が馬術を奨励し、「かいなを返す術」を説くのは、此処にある。 |
西郷派武術は、江戸幕末期、幕府の「公武合体政策」に対し、公家や幕府要人の警護として、会津藩家老・西郷頼母によって、五百石以上の上級武士並びに奥女中の為に指導された「特異な武術」である。
しかし、この合気の本質を知る人は少ない。したがって、本来の合気と異なった考え方で指導されたり、催眠術の一種に考えられたり、霊現象的な術理と考えられたり、ただの物理的な崩しの理論で考えられているというのが合気武道界の実情である。
しかし合気を体得するには、単に肉体の酷使だけでは完成しない。「術」を学ばねばならないからだ。そこには心身を通じた「行」というものが必要である。
一方、「行」は屋内にいて学び取れるものではない。屋内だけでの「行」は完成されない。
大自然から「行」を通じて、会得するものは多い。
例えば、余分な力を使わずに、瞬時に相手を行動不能にする急所への「当身術」、敵を一瞬にして崩してしまう「崩しの術」、あるいは攻撃を封じて固め捕ってしまう「固めの術」などは、「行」の集積により完成するものである。そしてその原動力は、「足腰」である。強健な足腰を養わずして、“合気”の術理は完成しない。
「行」といえば、一般的に云って精神主義を連想する。また、精神主義は非科学的であることを思わせ、超人的な能力が要求されるものを勘違いされる。しかし、「行」は自然観に立った、極めて自然科学的なものである。自然を科学するためには、自然科学の論理だけでは如何ともし難い。大自然に触れずして、その奥に隠されたものを知ることは出来ない。
何故ならば、「行」は自然環境を通じて、多種多様な形として変化を遂げたものであるからだ。
おおよそ「戦闘」といわれるものは、咬(か)む、殴(なぐ)る、撃(う)つ、打つ、叩く、投げる、倒す、伏す、絞める、固め捕る、縛る、刺す、組み付く、蹴る、躱(かわ)す、逃げる、追撃する、計る、騙す、仕掛ける、駆け引きをする、陥れる、迷わす、撹乱させる、懼(おそ)れさせる、威圧する、睨(にら)み据える、晦(くら)ます、油断させる、隠れる、手なづける、寝返る、裏切る、不意を撃つ、罠(わな)にかける、欺瞞(ぎまん)などの「謀(はなりごと)」をもって敵を倒すものである。
こうしたものは本来、日常生活の中に存在していて、普段は表面化しないが、一度、非日常と変化すれば、これらが忽(たちま)ち浮上して、戦闘理論として使われるようになる。
わが西郷派は、こうした理論を「合気戦闘理論」と名づけ、この根本は、屋内にあるのではなく、屋外にあると定義つけている。
それが「山稽古」であったり、戦闘の根本となり得た布陣による「馬術」などであった。
もともと「山稽古」は、土着のシャーマニズムに結びつき、産土(うぶすな)信仰ともなり、修験道などの山岳信仰において、難行苦行の末、超人的な能力を得ようとした修行に結びついた。また、その修行が、同時に自然界の動物をコントロールする儀法(ぎほう)にも結びついていった。
これは一方で、動物威嚇(いかく)であり、あるいは手なづけ、また「馭す技術」にも繋(つな)がった。
戦国期、馬は「戦馬(いくさうま)」だった。戦いに勝つために、馬と人間は一体になろうとした。人間の友として、「人馬一体」の境地を得ようとした。その代表的なものが、「日本馬術」といわれるものである。そして日本では、こうした多種多様のものを含めて「兵法(ひょうほう)」と呼ばれるようになった。《武芸十八般》は、こうした集積により起ったものである。
兵法の中心課題は、わが身を如何に護るかであった。それが「護身の術」である。
「護身」とは、不法な暴力から身を護るだけではなく、その他の危険に対しても「生命の安全」をはかることを意味する。そして、私たちの身の周りには、いろいろな危険が取り巻いている。世の中も、一昔前に比べれば不穏となり、あらゆる場所で暴力が渦巻き、それがに日常茶飯事のように繰り返されている。
もし、自分が生命の危険に直面した時機(とき)、直ちにそれを制止、そこから脱出する「術」を身に付けていなければならない。この「術」をマスターしておくのとそうでないのとでは、結果的に言って、雲泥(うんでい)の差が出るのは明らかである。
暴力を奮う相手に対して、無抵抗であっては益々相手をつけあがらせるばかりだ。
私たちは戦後教育の中で、戦争を放棄させられ、平和主義を押し付けられ、ガンディーの説く無抵抗主義を強制させられた。無抵抗主義を美徳にまで誘導したのである。
その結果、日本人の意識はどう変わったのであろうか。
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▲福智山頂上での「正安定」を知るため、素振りを徹底して剣術の術理を学ぶ。
この絶壁の上は一歩間違えば、下は谷底だが、こうした大自然の中で真剣勝負の心構えを修得するのである。人間の心は、どんなに強いと自負する人でも、常に「揺らぐ」ものである。
しかし、「一歩間違えば……」という危険に身を置いてこそ、「自分とは何か」が見えてくる。人間は自分で「強い」と自負していても、常に何かに怯(おび)えているものである。その「怯えの根本」には常に「死」というものが横たわり、それが自らの心を脅かせているのかも知れない。
こうした「死」が心を占領していては、死生観は解決することが出来ないだろう。
武術の命の遣(や)り取りは、「ぎりぎりの処まで自分自身を追い込む」ことである。これにより死生観は超越できるのである。屋内の安全圏のみにいては死生観を超越することが出来ない。 |
例えば路地裏や、街外れで強盗に遭遇した時機、「金を出せ」と脅されて、激しく抵抗する人と、全くの無抵抗で強盗の言い成りになって金を出す人とでは、結果がどうなるか、考えるまでもなく大きな隔たりがあることは明らかであろう。
強盗に遭遇して、無抵抗な人間に強盗か感激して、何も奪わずに引き揚げるだろうか。
そんな話は一度も聞いた事がないはずである。
やはり、ナイフを突きつけられて「金を出せ」と脅されながらも、激しく抵抗するからこそ、強盗自身に一筋縄ではいかないという気持ちを抱かせるのではあるまいか。こうした場合、確かに強盗に傷つけられる危険性はあるが、激しく抵抗するから、強盗に犯行を断念させ、逆に何も奪われずに済んだという実例の方が遥かに多いのである。
強盗の威圧に屈することはないのである。見え透いた脅しに屈したり、どこまでも譲歩する気持ちを美徳として考えるようでは益々相手につけあがらせる結果を招くばかりである。こうした現象は、戦後の日本の外国との、「丸腰外交」にも見られる。
そしてこうした錯覚は、相手をつけあがらせるばかりでなく、とことん強請(ゆす)られて、警察に被害届を出す事も出来ず、骨の髄までしゃぶられてしまう弱気な被害者へと成り下がるのである。「丸腰政治」を見れば一目瞭然ではないか。また、戦後教育の平和主義は、こうした無抵抗主義が折り込まれていなかったか。
昨今の犯罪の凶悪化は、こうした日本人の「いくじのさな」に生じているように思う。だれもが「いくじのなさ」の足許(あしもと)を見られ、反抗できないと、甘く見られているのである。
それにも係(かかわ)らず、多くの日本人は、自分は特別であり、こうした「危険な局面」に遭遇しない、と安易に考えている。
悲劇とは、こうした安易な考えから起こるものである。
昨今、警察庁からの発表によると、例えば、ストーカー被害は年々増え続け、日増しに悪化する傾向にあることが述べられている。急増するこうした犯罪に対して、警察の防止対策や、具体的な極め手は皆無であるというのが今日の司法、行政機関の現実である。
不慮の出来事に遭遇した場合、これを不運と思うか、自分自身に課せられた試煉(しれん)と思うか、その人の主観による。
不運と思えば、不運は生涯どこまでも付き纏(まと)うであろうが、試煉と思えば、それはその人の人生を豊かにする。しかし、これは「戦える術」を備えての話である。
やはり不慮の事故を想定して、護身の「切り札」を持ち、どんな非日常が訪れたとしても、普段から準備しておく心構えが必要ではあるまいか。
こうした心構えを得るには、安穏とした日常の中からは生まれない。一度、自らの生命を危険の中に追い詰め、そこから見事生還できるような境地に至ってこそ、非日常に対処できるのである。その意味で、「山稽古」は絶好の「九死に一生を得る」好材料であると信ずる。
本講習会のテーマは、福智山登山と山稽古を通じての屋内稽古を目的とし、大自然の中から安心立命の境地を得ようとするものである。その手懸りが、大自然の中にあるのである。
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