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 昭和二十年八月の、恐ろしいほど異常に暑かったあの夏の日、そこには確かに本土決戦を計画して、陸海軍の決戦主張派の高級軍人達が、何等かの動きを企てて策動していた。日本の一番長い日とも喩(たと)えられる。戦争遂行か、あるいはポツダム宣言受諾かで、軍首脳部は真っ二つに割れ、大きく揺らいでいた。
 しかし敗戦の色が濃いくなると、決戦決勝の意識が一層強くなり、陸海軍の戦争遂行の強硬派は、男達に代わって、あらゆる部門に女性を皆働する状況を作り、今まで非戦闘員だった女性達を即席兵士に仕立て上げ、本土決戦を想定して、炎天下の太陽の下、彼女らに過酷な訓練を課せていた。

 長い間、軍事史家の認識不足によって、旧陸海軍の中には、女性兵士は存在しないと信じられていた。ところが、これまで非戦闘員だった17歳から25歳までの女性が兵士として、本土決戦要員として駆り出された、もう一つの戦争の裏側の歴史がある。
 昭和二十年六月以降、女性達に密かに軍服を着せ、隠密裡に武装させる手段が取られた。これは本土決戦を、ミニチュアモデルとして戦った沖縄戦の結果からであった。当時、アメリカ軍は、日本人の婦女子に対しても、非戦闘員と認めず、ゲリラとして判断し、無差別に虐殺したからである。

軍需工場の女子挺身隊。
 国際法によれば、軍服を着用しない兵士はゲリラと総て看做(みな)され、竹槍や弓矢等を持って捕らえられれば、ゲリラとして処刑されても文句が言えなかった。その為に、本土決戦に備え、女性達に軍服を配給したり、不足分は、所属した各女学校の制服で間に合わせ、武装訓練を行なったのである。

 そして彼女達は「特志」と呼ばれる、組織化された女性兵士達であった。
 「特志」とは、特別志願兵士の略で、特定の目的の為に、組織抵抗を遂行する女性戦士を意味した。

 昭和の初期から太平洋戦争突入までの期間、日本は、重苦しく、暗い時代に入っていた。全てが空回りし、ひと握りの特権階級の思惑とは裏腹に、庶民は辛苦を強要された。
 これは女性も同様であり、ひと握りの特権階級や、高級軍人や華族達の子女の生命を護る為に、庶民の命が犧牲にされた。戦中戦後を通じて、庶民層の娘たちは、「特別志願女子学徒兵」として臨時招集され、特権階級の犧牲になり、激戦地で空しく散って行った。

 昭和二十年八月十五日、太平洋戦争は終わり、日本はこの戦争に、多くの犠牲者を出して敗れた。しかし戦争に駆り出された女性達は、この日が戦争の終わりではなかった。
 この日の午後から翌日に亘り、内務省通達で、今まで木銃訓練や竹槍訓練をしていた女子学生達は、今度は進駐軍(国際連合軍)の上陸に備えて、この日より、進駐軍相手の即席従軍慰安婦に仕立て上げられ、進駐軍慰安女子挺身隊が組織された。

靖国神社を参拝する陸軍女子通信隊。
 内務省通達によれば、進駐軍慰安女子挺身隊の組織理由は、「皇族や華族の子女並びに特権階級の子女である財閥令孃、及び軍首脳の令孃が、進駐軍兵士に強姦や乱暴等をされない為に、その身替わりとして、進駐軍慰安女子挺身隊がその任に就く」と言うものであった。
 アメリカを迎え撃つ為に、今まで女子挺身隊として勤労奉仕をしていた女子学生達が、今度はアメリカ占領軍相手の慰安婦として、上流階級の子女に代わり、その身替わり強制されたのである。
 また、旧式武器で武装し、組織された女子挺身部隊は、その組織抵抗を止め、半ば強制的に慰安婦として、我が身を犧牲にしていったのである。何と、狂った論理ではあるまいか。
 しかし、当時のこうした悲劇の犧牲になり、大陸の戦場で、あるいは内地の慰安婦として、散って行った女子学徒兵の名簿を厚生労働相は今でも一切公開していない。

 戦争軍服画家・竜造寺丹羽は、若い身空で命を散らせた当時の特志女学生たちの鎮魂歌として、彼は絵を描き続ける。

 竜造寺氏は謂(い)う。
 「私の絵は鎮魂歌である。鎮魂歌であるからこそ、哀悼を忘れてはならず、その想いは今から約半世紀以上前に遡(さかのぼ)る娘たちの姿だ。当時の娘たちは現代女性には珍しい、純情な恥じらいがあり、そして含羞(はにか)むような初々しい乙女らしさがあった。あるいは、あの時代、ポッと頬を染めるようなそんな女達が多くいた。そうした表皮の裡側(うちがわ)にある深層部を、軍服とともに描き出して見たいと考えたのが、そもそもの発端であった。そして、あれからもう数十年を経たが……」と、こう回想する。

 今でこそ使われなくなったが、「大和撫子」というナデシコ科(同属のセキチクをカラナデシコと呼ぶのに対して言う)の異称を持つ秋の七草がある。また、この植物は、日本女性の美称を喩えたものでもあった。
 『万葉集』第八巻には、「吾(わ)がやどに蒔(ま)きし撫子……」という和歌のくだりがある。愛撫する子に喩えられる。そして戦争は、最前線にまで大和撫子を駆り出した。

 戦時とは非常事態を指し、非日常的な現実が、突如、我が身を襲うことである。それなのに竜造寺氏は、半世紀前の娘たちにそれを回帰するようだ。それは明かに一種の哀愁であろう。
 そしてこの哀愁が、いつまで見続けても飽きさせない絵にしているのではあるまいか。
 それはまさに、女の中にしか見ることの出来ない、不思議な軍服の絵の世界である。


【イラストについてのお断り】
 本イラストは、昭和初期から太平洋戦争終戦までの時代背景をベースにして、画家の想像を含めて独自に描かれたものです。
 したがって、当時使用した軍用品や武器、携帯用品などを忠実かつ正確に再現したものではありません。
 また、軍服や制服その他戦時下のファッションなどにも画家の想像が含まれています。


篤志女子学生特別陸戦隊の自決。
 東条英機の『戦陣訓』の「生きて虜囚
(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けることなかれ」の言葉は、今まで非戦闘員であった婦女子の臨時兵士へも重く伸(の)し掛かっていた。そして最後は、銃剣で互いに刺し違え、死んで行った。

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昭和二十年六月から八月までに組織された本土決戦要員の、特志女子部隊員。肩から腰に吊っているのは、南部十四年式と云われる初期型の官給品の、重量920gもある重たい下士官用の拳銃であった。

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高等女学校の女子学生で組織された海軍特別通信隊。階級は三等水兵である。大戦末期、臨時学徒兵に配給された小銃は、陸軍歩兵用の38式歩兵小銃であるが、製作年代が明治三十八年と言う骨董品であった。

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戦争に駆り出された篤志女子学生とその妹。大戦末期、当時は、五歳以上の子供達にも過酷な軍事教練が強要された。

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頭上の僚機。
 低空飛行で頭上を飛ぶ、海軍機「紫電改」を見上げる女学生。

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本土決戦女子部隊要員の篤志女学生。当時は、軍需物資不足から、下駄履きの武装もあった。

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戦士に仕立て上げられ、九三式重機関銃をサイドカーに搭載した女子竜騎兵。特に、南方方面の補助部隊要員としwて軍事教練を受け、照準眼鏡(狙撃用スコープ)のついた重機関銃を800ccバイクに搭載し、サイドカーに乗車する兵員は膝撃ち姿勢で射撃を展開する。敵前方まで急接近で接触し、敵の集団に機銃掃射するが、既に時代は野戦に於ては、ゲリラ戦であり、こうした接近での機銃掃射は殆ど意味がなく、多くが逆に攻撃を受けて、空しく散って行った。

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