非日常を想定した「山稽古」の内弟子の訓練。その想定は、非日常に変化した場合の「日々戦場」にある。(平成22年1月18日、北九州自然道・皿倉山において)


●内弟子の日常

 内弟子に要求されるものは「日々戦場」である。
 この日々戦場をもって、修行期間の二年間を濃厚に、かつ有効な、密度の高い高等訓練をする。しかし、高等訓練と聴けば、さぞ猛練習で、朝から晩までハード・スケジュールで恐ろしい稽古をするのではなかろうか?と、恐怖を抱く諸氏も多いことだろう。

 しかし、尚道館陵武学舍では、無理な筋トレをしたり、ハードな反復運動をしたり、スピードとパワーの養成だけを目指し、肉体力重視のトレーニングをしているのではない。基本はあくまで、武人たる思考の持ち主を養成する為の運営が中心で、まず、此処で行われるのは《前期》と《後期》の2年間を通じての「人間教育」である。
 そこで、その2年間のカリキュラムの大要を紹介してみたい。

内 弟 子 修 行 2 年 間 の カ リ キ ュ ラ ム の 全 貌
年 次
区 分
経過月
教 伝 内 容
自前の必需品
昇級・昇段
第1年次
(前期)
第1区分
なれる
(3ヵ月)
1ヵ月目

儀法を行う為の基礎体力の養成、『内弟子四箇条」斉唱、陵武学舍寮歌、道場歌『五輪の魂』と『臥竜』、国旗掲揚、国歌斉唱、基本動作や起居振舞(たちい‐ふるまい)、歩き方、言葉遣い、寮内の整理整頓法、「ホウ・レン・ソウ(報告・連絡・相談)」の大事、入室・退室の礼儀、一般的な礼儀作法、茶道の基本心得、人を訪問する時の挨拶、緊急時の迅速動作、など。

・道衣上下一式(師範用と一般稽古用の各1着)
・作務衣(2着)
・木刀(稽古用)
・腕節棍
・白扇
・赤ふんどし
・地下足袋
・西郷派オリジナルTシャツ(2着)
第六級
(登録料の半額納付)
2ヵ月目
畑作業、剣術の素振り、見取り稽古、合気揚げ鍛錬など。 ・八角素振り木刀
第五級
( 〃 )
3ヵ月目
剣術並びに居合術や居掛之術。基本山稽古、野戦、水上戦など。 ・五尺杖(2本)
・居合練習刀
第四級
( 〃 )
第2区分
さわる
(4ヵ月)
4ヵ月目
武道具などに「さわる」ことが許される。袴の畳み方や着物の畳み方、基本手裏剣術。
 基本業
(剣術ならびに柔術、腕節棍の基本)や中級山稽古など。
・師範用合気袴
・手裏剣四本セット
・白武術足袋
第参級
( 〃 )
 合気袴の着用が許される。
5ヵ月目
基本馬術や滝行、呼吸法や静坐法。馬術では馬に触れ、滝行では水に触れて、マイナスイオンを感じる。 ・馬術用前差(短刀・脇差)
・馬術用袴
第弐級
( 〃 )
6ヵ月目
基本茶道並びに殿中作法。神棚の清掃や、献茶の作法と行動律。 ・馬術用陣笠
・馬術用胴
・馬術用篭手
第壱級
( 〃 )

昇級め目安は6ヵ月から、遅くとも9ヵ月。
7ヵ月目
整体術指導や、日常の作業として買い物や料理法など。
第3区分
まねる
(5ヵ月)
8ヵ月目
半年から1年次終了時……これまでの稽古を通じて、諸先輩の技術を「まねる」のである。
 剣術・柔術・抜刀術など。更には食用になる野草の食べ方や野戦食の智慧。
9ヵ月目
試刀術・陶物斬り・居合術など。 ・試斬用刀剣
10ヵ月目
居掛之術・腕節棍・杖術・棒術など。 ・半弓と半弓矢
初段補
( 〃 )

昇段め目安は10ヵ月から、遅くとも12ヵ月。
11ヵ月目
槍術・手裏剣術・飛礫(つぶて)術など。
12ヵ月目
弓術・馬術・その他の行法など。
第2年次
(後期)
第4区分
まなぶ
(4ヵ月)
13ヵ月目

技術的な専門分野(口伝による秘術など)も加味しながら、道場経営やそのマーケティングの調査、経済学の学習、株式の読み方など。

・紋付、袴、羽織を自前で揃える。

・美術品鑑定などの見識眼を養成する。
 また『古物商許可証』の資格取得の為の費用等は、自前で用意する。
(法務局の「後見人でないことの証明書」や本籍地のある都道府県の市役所戸籍係が証明・発行するの「身分証明書」発行、公安委員会の資格審査費用等)
初 段

昇段め目安は13ヵ月から、遅くとも16ヵ月。
14ヵ月目
道場経営のロケーション設定、経営学の学習など。
15ヵ月目
経理ならびに『貸借対照表』の読み方・組織作り・講話などの話術など。
16ヵ月目
企画力や指導力の養成・HPを通じた門人募集や制作など。
弐 段

昇段め目安は17ヵ月から、遅くとも20ヵ月。
第5区分
考える
(4ヵ月)
17ヵ月目
職業としての糧と武術家としての両立を目指す。
18ヵ月目
組織づくりと人脈づくり。人材の育成。
19ヵ月目
職業の設定。武術家としての身の立て方と、「枯れない資金」の創作法。
20ヵ月目
後援会組織や支持母体の確保に当たる。
参 段

昇段め目安は21ヵ月から、遅くとも23ヵ月。
第6区分
卒業する
(4ヵ月)
21ヵ月目
卒業を控えて3ヵ月目には『卒業に際しての課題』が課せられ、“2年間の修行の成果”が試される最終区分。
22ヵ月目
都道府県公安委員会許可の「古物商許可証」の取得。
23ヵ月目
「刀剣商」や「美術品商」としての生計の道も開く。人脈を上層階級に繋ぐ為でもある。風流を解し、美術鑑賞などの美意識も養う。
24ヵ月目
この卒業テーマに合格して、あえて卒業ということになる。
 晴れて卒業日には、『恩賜の御信刀』が授与される。
四 段
または
五 段

 「内弟子制度」の二年間のカリキュラムは、二年間を「24の経過月(24ヵ月)」に分け、この24を「前期過程」と「後期過程」の二つに分けている。
 そして尚道館では、一年未満の者を「1年次・前期生」、一年を越え二年目にある者を「2年次・後期生」と呼ぶようにしている。いわば後期生は前期生の先輩になるのである。

 この前期と後期を合わせて、全行程「二十四節」の行法が完成するのである。
 前期過程は一年次で「12の習得事項」をマスターする各セクションがあり、これを順に熟(こな)して、次の後期過程である二年次の12の各セクションに進級する。合計24ヵ月である。つまり合計6区分からなっている。
 各セクションは各々に修行する重要事項が定められていて、その都度合格しなければ、次へ進む事が出来きない。そして、この24ヵ月に別れている、総てを終了すれば、「卒業」と云うことになる。



●一般日常諸事

 内弟子は日々を「激戦地の戦場」と心得、自分の命を守る為に、懸命に努力しなければならない。
 尚道館・陵武学舍では、常に『あなたの命は、いかほどですか?』と問い続けている。つまり、内弟子は「自分の命」の値段が、いかほどかを学ぶのである。
 現代は命が粗末にされる時代である。自分の命の値段が分からないから、他人の命の値段も分からない。他人の命どころか、人間そのものの命の大事さが分からない。それで、感情に任せて、人を殺したり、傷付けたりする。

 その一方で、「人間の命は地球の命より重たい」などという、馬鹿なヒューマニストがいる。こうしたスローガンこそ、“まやかし”である。その証拠に、地球上の至る所には戦争があり、戦闘状態でなくても、戦争の火種は燻(くすぶ)っている。そして、人が意図も簡単に殺される。それも“虫けら同様”に簡単に、である。何と云う不条理で、理理不尽なことであろうか。

 そもそも、こうした元凶には、人が、自分以外の他人の生命の大事さを知らず、また、自分の命の大事さすらも知らず、日々、自分自身までもを粗末に扱っているからである。
 例えば、サラリーマンは「息抜き」などと称して、自分の思い通りにならない世の中を嘆き、あるいは会社での人間関係を嘆き、上役の悪口をいい、部下の“のろま”を叱責する。その挙げ句に、出た「挙動」とは、酒に入り浸りになることだ。

 そして、このこと事態を、自らが、自らの無意識によって、「自己破壊」していることの危険性に気付かないことだ。
 居酒屋などにしけこんで、愚痴を吐き、“くだ”を巻き、酒に入り浸りになり、あるいは酒に溺(おぼ)れるということなども、一つの自己破壊であり、やがて転落して行く自分を暗示するようなものである。

 また人間関係においても、意見の行き違いや自己主張の強引さの結果、友人や同僚を敵に廻すこともある。こうして成功のチャンスを取り逃がし、自ら「浮かぶ瀬もある」のに、それを見失ってしまうのである。
 こうして、人間は知らず知らずのうちに、ストレスを溜め込み、それが起因して、事故や大ケガをしたり、あるいはそれが病因となって、成人病などに罹病(りびょう)するなども、一種の自己破壊である。この罹病の最たるものが、ガン発症であったり、高血圧症などである。

 つまり人間には、当事者が無意識のうちに、苦悩を求め、迷いを次々に誘発し、成功を目論みながらも、心のうちでは「失敗するのでは……?」という自己の懸念(けねん)があるわけだ。この自己懸念により、多くの人間は、そこから益々深みにはまって行くことになり、抜き差しならない状態に追い込まれて行くのである。
 地位や名誉にこだわり、家族に縛られ、ついには自分自身をコントロールできなくなって、“自己破壊”と云う、自滅の道を驀進(ばくしん)するのである。

 そうした「雁字搦(かんじ‐がら)めの柵(しうがらみ)」から、人は抜け出す必要があろう。これを「解脱(げだつ)」という。
 昨今の世の中では、解脱できない現代人は多い。現代の世に、自分を粗末にしている人間は多い。自分を粗末にし、そのくせに、自分にはやたら甘く、他人に厳しい。それが現代人の特徴である。したがって、自分を大事にすることと、自分を甘えさせることを同じように考えている者は少なくない。

 しかし、自分を大事にすることを、自分を甘えさせることは同じことではない。全く、別の性格のものだ。
 自分を大事にするとは、自分に「厳しくある」と云うことであり、自分に厳しいからこそ、生命の大事さが分かるのである。根本は、自分の生命の大事さと、他人の生命の大事さが「イコール」と云うことだ。だからこそ、自らは、自身で厳しくならねばならず、自分を粗末にしてはならないのである。

 その為に、まず何を修得しなければならないか、そのき本敵な事柄を具体的に示そう。

きびきびとした動作をする。これは武人の基本行動律である。日々戦場と云うことが理解できれば、のろまな動作では、命を失うことは容易に理解できよう。
 したがって、きびきびとした途切れることのない、「流れるような動作」で修練を積む必要があるのだ。
報告は簡単明瞭に要点だけを告げる。また「ホウ・レン・ソウ」を忘れるな。つまり報告、連絡、相談である。また、問題事は自分一人で悩まず、まず相談することである。
何でも手際よく、無駄無く、ムラ無く、物は大事にする。また、節電、節水、その他、「節約する」ということに心掛ける。
 喩
(たと)えとして、アラブ・ゲリラは「たったコップ一杯の水で、一週間戦える闘志を持っている」のである。この凄まじい生命力は、物を粗末にして生きている人間には分かるまい。
入室する時は一礼して「入ります」と声を掛け、退室する時はまた一礼して「失礼いたしました」と声を掛ける。常に礼儀を重んじるのである。
 また、師が外出される前には玄関まで見送りに出て「行ってらっしゃいませ」といい、帰館された時は「お帰りなさいませ」というのが、内弟子の礼儀である。
 世の中は「礼儀」と云うも「物差」で計れば、多くのことが解決し、何事も間違いないのだ。
日々の反省としての「自分の点検」の徹底。その日に起こったことや、注意されたことを、事細かに日誌につける。そして至らぬ点は、その日のうちに即刻反省する。こうした反省事項を明日に持ち越さない。
武人は、「日々戦場」を念頭において、日常が、いつ非日常に変化するかを考慮しておかなければならない。そしてこの急変に対し、それに対応できる「準備」を普段から怠ってはならない。
食事の大事を知る。食は「命を繋ぐ大事なもの」と心得るべし。
 また、食事の際に出される「たくわん2切れ」の意味を知る。食事が終わった時、自分のご飯茶碗や皿などは、この“たくわん2切れ”で汚れを洗い取り、残飯やその他の汚れは、決して流し台から、外に排水へと流さないことを気をつける。
以上を総合して、清潔・質素・機能的であり、その根底に「武士道の美学」が漂っていることが好ましい。
 かつて剣聖と謳(うた)われた山岡鉄舟(やまおか‐てっしゅう)先生は、普段は木綿服で通した人と伝えられているが、何も正絹の紋付・袴・羽織を身に付け、それを自慢げに着てみせる必要はないのだ。問題は、粗末な木綿服であっても、常に洗濯が行き届き、清潔であることが、正絹の衣服を身に付けていることよりも大事なのである。
 武人のモットーは「質実剛健」の気風が大事なのであるから、「身だしなみ」に心を配るべきである。

 何と云っても、内弟子の基本は、師匠に「お膝元に置いてもらって修行する」ことを許されているのだから、単に寝食を共にしていると云うだけではなく、日常の一切をクリアーして行くことが内弟子の修行である。
 そこには、「技を教えてもらう」という表面的なことばかりでなく、その精神面をも継承して行くことが大事であり、それは自分の師の為に「飯を捧げ奉る」と云う気持ちで、料理を作り、また「仕える」あるいは「支持する」という気持ちをもって、一切の家事・洗濯や、風呂を立て更に入浴の際の介助、朝の洗面の介助、就寝の挨拶などの一切が出来て、内弟子は、内弟子の修行をしていると云えるのである。

 そして修行の基本は、武人である前に人間であり、武人であろうとも、まず人間でなければならない。人間でなければ、不自然なのだ。
 技の強弱の有無、使い手かそうでないか、手が早いか遅いか、こうした事を問う前に、まず一人の人間でなければならない。

 したがって、そこには「人格」があり、「品格」がある。猛々しく、傍若無人で、更には傲慢(ごうまん)であってはならない。常に頭を低くして、謙虚な態度が必要である。
 そして、一度これまでの日常の生活環境が、非日常と変化した場合、この事態に慌(あわ)てることもなく、また騒ぐこともなく、毅然(きぜん)として、堂々とした態度を維持しなければならない。それは、その人が「人間である」という、武術家の自己表現であるからだ。

 また身体面としての心得は、次の通りである。

年間を通じて、「薄着で過ごす」である。また、肌着は健康法として、「ふんどし」を着用し、特に「木綿の生活」に“なじむ”ことである。履物は、“雪駄”と“下駄”のみ。そして年間を通じ、「素足で過ごす生活」を徹底する。
 普段着は木綿の作務衣を着用し、それに羽織りまたはそれらの類似の物を着る。山稽古や夏場は西郷派オリジナルTシャツを着用。
 外出時は作務衣に白足袋を着用し、履物は雪駄か下駄。
食事は朝は玄米ジュースまたはドクダミ茶、玄米茶などの健康茶を飲み、排便を促す為に固形の朝食は摂らない。これは身体的には、腰骨を緩めない為で、同時に早朝稽古に耐える為でもある。休憩を挟んでの玄米スープの朝食。
 なお、尚道館・陵武学舎では腰骨を痛め、かつ人体生理上の作用である「異化作用」と「同化作用」を妨げない為に、朝食は摂らない。
 そして食事は昼と夕の、「一日2食」である。ご飯は玄米を中心にした主食は「玄米雑穀ご飯」であり、副食は野菜・小魚介類・貝類・海草類・納豆等の発酵食品を主として食する。
起床は、夏場は午前五時半、冬場は午前六時で、洗面等を済ませた後に、「内弟子四箇条」の斉唱から始まり、その後、軽い掛け足で町内を一周する。基本動作・礼法としての起居振る舞い・朝礼(国旗掲揚)そして、直ぐに早朝稽古に懸かる。稽古は午前11時までで、その後、昼食の準備に懸かる。
 午後は、昼食・山稽古・滝行・水上稽古・礼儀作法・畑作業・買い物や食事の作り方指導・終礼など。その間、室内の清掃や炊事洗濯、買い物などに出掛け、日常生活に大事な、「食することの意味」を研究する。
 入浴・夕食・静坐法ならびに呼吸法・一日の反省など。
【註】一般部の稽古があるときは、それに参加)
 午後11時:消灯
【註】消灯以降、呼吸法や夜座をする者は自由)

 現代人は冷暖房完備のエアコン生活の恩恵に預かっている為、普段から体質が極めて悪い状態になっている。体格ばかりがよくなった現代人は、その中身は、過酷な環境やインフルエンザ等の感染病に非常に弱い。精神的にも脆(もろ)い。
 これは便利で快適で豊かな物質的な生活環境に慣れ過ぎてしまった為である。これでは異変が生じた際に、対応できないだろう。変化について行けないだろう。精神的にも大きなダメージを受けるだろう。普段から、非常時に対して準備をしておくことも大事である。

 したがって、人体の維持は、体力が物を言うのではない。「体質」が物を言うのである。難事の際に物を言うのは、体力ではなく、体質の善し悪しである。
 つまり、「病気に罹り難い体質づく」であり、また「病気に罹っても直ぐに治る体質」を養成しなければならない。



●内弟子の非日常

 内弟子は毎日を「日々戦場」と捉(とら)え、これまでの日常がいつ“非日常”に豹変しても、それに対応できる生活空間と環境を確保する。非日常とは、日常ではない、普通とは違う状態を指す。
 人間は、日々安穏(あんのん)の中で、同じような生活リズムで暮らしているのではない。そこには必ず変化が起こる。その変化に応じて、自らも変化しなければならない。
 この「変化する」ということこそ、古人が声を大にして言いたかった「日々戦場」の教訓であり、その教訓を学ぶことが、生き残る為の奥義につながるのである。

非日常で経験する山岳戦は、低地とは異なる「三次元戦」である。二次元的な左右前後だけではない、上下の高低を含む、ここは「三次元立体空間」の、特に上下っをする野戦場なのである。

 人間の棲(す)む生活環境やその空間が、突如、変化を来すことがある。こうした突然の変化を異変と言う。非常の事件や事態をこう呼ぶ。
 一般的に言って、人間はこうした非日常を、日常の中に隠して生きている。しかし、日常と非日常が表裏一体の関係にあり、それが“一枚岩”であることに気付かない。同じ空間に存在し、同じ次元にあり、同じ環境と一体になっていることに気付かない。多くに人々は、明日もまた今日と同じだろうと言う希望的観測に縋(すが)っている。

 しかし、今日と同じ明日はやってこないのだ。そこには、既に変化の前兆を宿している。したがって、今日と明日の違いを、楽天的観測のもとに、“同一”と看做(みな)してはならないのだ。同じような毎日であっても、そこには微妙な変化が起こっているのである。これか『カオスの論理』から云っても明白となろう。

 この世の中は、自分では感知できない複合的な「無意識の力」が働いている。その根底に潜在的な力がある。この無意識の力こそ、突き詰めれば、大自然が、ある日突然に狂う、破壊的な力になり得たり、更には経済活動や政治面での異変を告げるような、「風雲急を告げる」という緊急事態が発生する。
 その時に、これまで機能と同じ「今日」を生きた人間は、異変を前にして、どう云う行動を示すか。破壊的な力を、どう対処するか。
 此処に生き残れるか、そうでないかの明暗が分かれる。

帆柱山の皇后杉。

山行きの道の途中で。
雪山の傾斜地。

天候が変わり易い冬山の季節。
山岳戦は、樹海の中の戦いとなる。

 世の中には、目に見えない、色々な力が働いている。その中で、現代人が殆ど感じていないのが、「自己破壊力の凄まじさ」だ。

 自己破壊力には、既に述べたように、例えば不愉快なことや不合理なことが起これば、酒に溺れて自分のみを持ち崩す、これまで友人だった者を敵に廻す、成功やチャンスの絶好の機会を取り逃がす、不快な気分が禍してそれが事故や怪我に繋(つな)がる、思いもしない病気に罹る。そしてその病気がストレスから起こった、ガン発症や、その他の成人病に繋がっていて、将来の生存の希望が危ぶまれるなどである。

 こうした自己破壊が起こっている場合、その当事者は殆ど気付かない。無意識のまま、自己破壊力を呼び込んでしまう。その結果、初期は「苦悩」と云う悶(もだ)えるような苦しみを味わうが、それが徐々に進行し、第二期状態、第三期状態、第四期状態と、進行するにつれ、それは完全なる敗北を思わせ、やがては大病に罹って死にたいとか、自分自身を無茶苦茶にしたいというような、心因的な「破壊願望」が顕(あら)われ、それに押し潰されながら、身を持ち崩して行く。

 非日常時になると、こうした願望に誘惑され、それに向って行く人間が多い。
 また日常が、「非日常に変化する」ということは、そういう異常事態を指すのである。果たして、この異常事態に、何人の者が生き残れるか。
 これを常に、自信に問い掛けるのが、「日々戦場」の行動原理であり、その行動原理には、一般の日常空間が、一変すれば、それが即「常時戦場」になり、日常と非日常が地続きであることを物語っているのである。

 陵武学舍では、この「非日常」を、普段から野戦においている。つまり、家屋が崩壊し、もし戦わねばならなくなった時、その戦場は「市街戦」であり、また「山岳戦」であると想定しているのである。わが流が「山稽古」をやるのは、その為である。
 そして、それは「滅びの美学」を礼賛するのでなく、あくまでも、生き残る為の、自らの命の値段の査定の為に、「日々戦場」を心掛けて修練するのである。