日本は国全体が四方を海に囲まれ、世界でも稀なる自然に守られた国土を有しています。海が堀の役目をしているのです。この日本を取り巻く海という要塞は、一種の本丸を護る「堀」であり、日本を今日まで幾多の危機から守り、外敵の侵入を阻止してきました。
一方、ユーラシア大陸やヨーロッパ大陸では陸続きの為、幾度となく悲惨な戦争が繰り返され、多くの人の血が流され人命が失われました。
各々の大陸の歴史には、人間が人間を殺戮した悲しい出来事が記されています。にも関わらず、それらが頻繁に繰り返され、王朝や国家が次から次へと滅んでは登場しました。その登場の裏には、人間の欲望が見え隠れしていました。
有史以来人間の欲望は、概ねが権力欲や支配欲であり、富と領土の独占でした。
覇者はそこに全神経を注ぎ、それを原動力として一筋に執念を燃やしました。一旦独占しても、支配者が自分の欲望領域で満足できなくなれば、武力を駆使して、近隣の国家や民族を征服しようとします。それが「戦争」です。
戦争は領土と富を強奪する、最も手っ取り早い手段であり、今日に至っても、それは殆ど変わっていません。
戦争の歴史は、支配者の欲望の歴史であり、古代から現代に至るまで、支配者の欲望が、歴史を次々に塗り替えてきました。滅んでは、また生まれる、その中に栄枯盛衰の理がありました。
これを考えると、日本が島国であった事は、近隣の侵略者を、簡単に寄せつけなかったという事に一役買っていたのです。
しかしその反面、島国根性を根付かせ、大陸の戦略家等に比べて、一回り小さな戦略家しか生まれなかった事も、また事実でした。
日本武術が如何に優れていたとしても、一流一派を振りかざして、ヨーロッパや中国の大戦略家には太刀打ち出来ず、これらも所詮は「井の中の蛙」でした。日本人の概ねが「お人好し」であるという事も、これに由来するようです。だがこの「井の中の蛙」は、欧米や中国のそれに比べて残忍ではなく、豊かな慈しみの心も培ってきました。恐らく、これらの慈しみは、森林や海等の美しい自然によって培われたものなのでしょう。
さて、地球儀を見て解るように、日本民族は存続する上で、最も恵まれた位置にあり、太古から現代に至るまで、自然の要塞に守られてきました。そして日本列島の自然風土は、今日まで日本民族を守り育んだわけです。
逆に、ユーラシア大陸やヨーロッパ大陸を見て分かるように、外敵が齎す混血は、非常なものがありました。日本列島の自然風土は、それからも日本民族を守ったのです。
歴史的には、五世紀頃に大和朝廷が日本を統一しますが、その統一以降、日本民族はその血を外国人と濁すような大きな危機は、太平洋戦争後の一時期を除いて一度もありませんでした。(古くは弥生人が、原日本人である縄文人を滅ぼして、混血をつくっているが……)
前時代に比べれば、山林や海の乱開発や汚染は確かに進んでいますが、それでも日本国土は南北に長く、良き緑に覆われています。砂漠化しにくい位置にも属しているのが日本列島の特徴です。
この砂漠化されにくい理由は、ヒマラヤ山脈が日本列島の乾燥を防いでいるとも謂われています。その為、美しい景観が、日本の津々浦々の、何処に行っても見られます。
一方、ユーラシア大陸やヨーロッパ大陸は、地球儀を見て解る事ですが、その大半が砂漠です。
だから日本人であるという事は、それだけで恵まれた環境下あるという事になります。ところが今日の日本を振り返った時、至る所に欧米の横文字が氾濫し、アメリカナイズする事を好む風潮があります。
そして日本の古来からの風習や文化は、これらに押されて陰を潜めてしまいました。
しかし日本人が日本の文化を否定し、日本の自然の恩恵を忘れてしまうと、日本民族は崩壊に向かわなければならなくなります。その崩壊の兆候を如実に現わしているものが、今日の日本人の食文化に現われています。
「身土不二」から発した土産信仰は、既に「海幸彦(火照命/ほでりのみこと)・山幸彦(火遠理命/ほおりのみこと)」の神話伝説でお馴染みです。
海から取れる海の幸、山から採れる山の幸は、非常に種類が多く、魚にしても、山の幸にしても四季折々に変化を齎し、いつも食卓に旬の味を楽しませてくれたものでした。これが日本人の血となり骨となって、太古より連綿と続いた、食文化を終戦直後まで支えてきたのです。
ところが今日の日本人の食生活はどうでしょうか。
日本人の生活スタイルは欧米化されてしまい、食卓の上には、星条旗入の食品が処狭しと並んではありませんか。
欧米のものを有難がる今日の風潮は、まだ日本人が一人歩き出来ない、自主独立への意識が欠けていて、そうした社会構造が、まだまだ幼児社会である事を彷彿とさせます。
さて、十六世紀の戦国時代に至って、日本の食文化は頂点に達します。
この時代の武士階級の食べ物は、主に近海で取れた背中の青い小魚、海草類(ワカメ・昆布・ヒジキ・岩海苔など)、貝類、それに合わせた玄米を中心とする穀物菜食の食餌法が常でした。
また、蛋白源の中心となった背中の青い魚は、マグロなどの赤身魚や、タイやヒラメなどの白身の高級魚に比べて、栄養価が数十倍以上も高く、カルシウムやマグネシウムを豊富に含んでいる代物でした。これらの小魚を、頭から尻尾まで骨ごと食べるという食生活があったのです。
その他にも天然塩をはじめとして、玄米や大豆、小豆やその他の穀物、地の中に育つた蓮根(れんこん)や牛蒡(ごぼう) 、長芋(ちなみに『いも』の字は、元々日本に存在した芋である長芋や里芋に「芋」の字を使い、外国から齎されたジャガイモを馬鈴薯と呼ぶように、これらには「薯」の字が当てられた)や、里芋などの根野菜も、豊富なエネルギー源を含んでいました。その豊富さが、戦場で戦う武士のエネルギー源となったのでした。
天文十八年ポルトガル人のイエズス会・宣教師フロイスの著した『日本史』によれば、「武士達は、戦乱の最中白兵戦で斬り合い、刀傷を負っても比較的に早く回復した」と、踊るような筆使いで、その驚嘆ぶりを、本国当ての通信文に記しています。
これは当時の日本人の武士階級が半農の意味合いを持った武士であったことが解ります。領主や重臣以外は、戦の合間、漁をしたり、畑を耕すといった晴耕雨読の生活をおくっていた為と思われます。ある意味で、身分や姿形に、武士・農民・漁師などの差は殆どなかったと考えられます。
つまり「武士」という階級は、この時代、まだ「士・農・工・商」を形作る以前のもので、「士」と「農」は同義語であり、一種の職業であったと考えられます。つまり武士とは「職業」であり、身分ではなかったのです。
職業的差別があったのは「工」「商」であり、腕に職を持つ刀鍛冶、鉄砲職人、甲冑職人、研や鞘師の職人や大工などや、その他の職人、あるいは貿易をして商に聡い商人達でした。ここには現場での戦争技術者である「士」と「農」という関係があり、一方それを企画し演出する「工」と「商」の関係があったのです。
したがって体質的にも、「工」と「商」の貧弱な体質に比べ、「士」と「農」には強い自然治癒力が備わっていたと思われます。その自然治癒力の源となったのは、これらの蛋白源もさる事ながら、粗衣・粗食に耐え切れる精神構造でした。
「工」と「商」は発達を究める貨幣経済の中で豊かさを需め、その挙句に財に物をいわせて、食への贅沢(例えばコメを精米して、口当たりの良いものにする。動蛋白を摂る)を満喫していきます。
一方「士」と「農」は質素と倹約を旨に、雑穀を中心とした粗衣・粗食を実践していきます。この両者間の大きな隔たりが、「体質」そのものを変えてしまうのです。
また『日本史』には、十六世紀における戦国期の武家の食事と、体力の関係が克明に記されています。
刀傷を受けた武士が驚くべき速さで回復していった事や、坂や山を甲冑を着けた儘、猛スピードで駆け降りたり駆け登ったりしたこと等が、驚きの眼で記されているのです。
戦場に出れば、徒歩侍(かちざむらい)でも、甲冑(かっちゅう)を装着したその重さは、腰に巻いた食糧等を含めて、約三十キロ以上となります。
騎馬侍(きばさむらい)であれば、その装備は更に重くなり、総重量は四十キロは下らないと思われます。その重さの甲冑を装着しながら、長槍・薙刀(なぎなた)・長巻(ながまき)・大太刀を振るうのですから、大変な体力と持久力と忍耐力を持っていた事になります。
彼等武士階級は、精神的にも不屈であり、堅固な意志を持っていたはずです。更に、それにも増して、坂や山を駆け降りたり駆け登ったりするのですから、これは最早神業に近く、膝や腰は頑強であり、何よりも足首や膝のバネの力は相当なものであったと考えられます。
これらは武士階級のみに留まらず、僧侶や山伏(やまぶし)等にも及んでいたと思われます。単にこれらは、肉体的トレーニングでつくられたものではなかったはずです。
それを裏打ちするのは、日本の海の幸、山の幸の食べ物の恩恵によるところが多く、更に日頃から粗衣・粗食であった事が、これらの条件を可能にし、そこには頑強な、現代人には無い霊的体質があったと考えられます。 |
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