精神障害と霊障
病質に繋がる暗い固定観念
 我々の心は、常に古い記憶と誤った固定観念に汚染されていて、一定の形と、一定のリズムを以て、それが時間と共に古くなっている現実がある。
 一定の形とリズムがある場合、その体験や経験は、瞬時に心に反映して、その心証が映像として、大脳の記憶巣(下側頭回)に特定の電圧を与え、「記憶」という印象付けの働きを齎す。これは生物体に過去の影響が残ることを顕わし、心理学に於ては、過去の経験の内容を保持し、それを後で思い出すことを指し、あるいは将来の行動に、必要な情報をその時点まで保持することも含む現象を記憶と言う。そしてこれは、記銘された経験内容が、量的あるいは質的に変化しつつも、維持される過程をいい、この記憶の第二段階を記憶保持と言う。

 我々は幾重にも積み重ねられた過去の記憶を頼りながら、新しい物事に立ち向かう。古い記憶を引っ張り出し、それに照合させて反応し、更に整理して、結局は古い記憶の一部分として、再記憶して、「納得する」ということで結末を見る。しかしこれは、古い記憶の上に認識を重ねるのであるから、新しい事象や物象の持つ、新鮮な価値を理解しないばかりか、その存在まで無視して、一蹴(いっしゅう)する愚行を冒していることになる。

 この為、古い記憶を訂正する機会が失われ、誤りは修正されることなく、再記憶されることになる。限られた容量の記憶巣に、長い時間を掛けて定着し、焼き付けられてしまった強い印象の固定観念は、特定の考え方と、その様式だけがいつも最優先され、人間はこうした状態に陥ると、これを捨て去って新しい概念を作り替えることが、中々容易に行えない。そして古い概念思考は、記憶のフィルターとなって、いつまでも取り払うことが出来ず、心の深層心理に沈澱して、特有の固定観念を育(はぐく)んでしまう。これが「病質」と言われるものである。

 これは、ある種の精神病に、ごく近い気質を指し、分裂病質や躁鬱病質等が、この「病質」の要素に含まれる。
 心に受け取った、日々の印象は、大脳の記憶巣に蓄積され続け、その記憶を基盤に、人間は日常生活を営む。当然そこには、個人特有の先入観が作用し、それが固定観念を作り上げる。
 そしてこの固定観念こそが、実は「わたし」を構築している存在なのである。

 「わたし」は、既に特有の固定観念を作り上げているから、「特定の想念」が形作られ、これが言葉として表現されるのである。即ち、「ロゴス」(logos/人々の話す「ことば」の意で、言語や理性などを指す)と言う概念がこれであり、意味・論理・説明・理由・理論・思想等を理法として支配する。

 時の流れに沿って、時間と空間を経験し、人生を歩み続けるのであるから、今までに見聞した事柄は心証として積み重ねられ、「わたし」という「固定観念」を構築する。したがって他人の考え方や、他の学説を仮説の位置に位置付けて、これをすんなりと受け入れる為には、「わたし」という固定観念は、非常に邪魔な存在になってしまう。「頑迷」という、「わたし」の正体は、実にここに由来する。

 そしてこの「わたし」というものは、「わたしの物」という所有感覚を派生させる為、人生の経験を重ねるに隨(したが)って、所有感覚が次第に強くなっていき、ついには迷いの迷宮に紛れ込んで、ここから抜けだせなくなる現実がある。これは年齢を重ねるに従って強くなり、「頑迷」という殻で塗固められていく。そして塗り固める殻の層が厚くなればなるほど、頑迷は、より深まって行く。これが迷いとなり、苦しみとなり、悩みとなるのである。

 人間は、生まれてから自我の意識が生まれるのは、おおよそ生後数カ月から始まると言われている。自我は哲学的には、認識・感情・意志・行為の主体を外界や他人と区別して言う語であり、時間の経過や種々の変化を通じての自己同一性を意識しするものである。これは心身にまで及ぶ。そして心の概念は、意識や行動の主体を指すものとなり、パーソナリティーあるいは人格の側面を形成して行く。

 自我と共に心を構成する三つの要素は、自我から分化発達し、社会的価値を取り入れ、あるべき行動基準によって自我を監視し、欲動に対して検閲的態度をとるものを作り上げる。これを超自我(superego/精神分析の用語)という。
 幼児の場合は、無心に近い状態にあるから、「自他の区別」がはっきりしないので、所有感覚も稀薄であるが、年齢を重ねて成長するにつれ、自我の意識は明確となり、同時に固定観念を次第に濃厚にさせて行く。

 例えば、昨日絶賛した風景は、今日同じものを見ても、そこには昨日感動し、絶賛した風景は、既にそこにはない。絶賛した風景は、記憶された固定観念として記憶巣に残るだけで、もう、瑞々(みずみず)しい感動や絶賛は存在せず、「わたしの物」という所有感覚に於てのみ、残されるに過ぎない、記憶の一部と成り下がる。

 「わたし」と「わたしの物」を基盤とした固定観念は、長い年月を掛けて積み上げられた、誤った記憶の集合体と考えれば、「他人」及び「他人の物」と対峙(たいじ)する相対関係が生まれるのは必至であり、「自分」と「他人」は全く異なる存在となり、「わたし」という存在は無数の他人から分離され、隔離された「特異な空間」に閉じ込められてしまうのである。この閉塞された「特異な空間」が、精神障害を齎す病巣の病質だったのである。
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