西郷派大東流合気武術の修行観と武士道観
 肉食獣である虎やライオンが獰猛なのは、常に動物を常食としているからです。
 また牛馬や象などの体躯の大きい動物でありながら、その性格が温和で温順であるのは、彼等が動物の肉を食べず、草食やまたは穀食を常食としているからであり、何を食べるかによって、またその性格も変わり、肉体構造までも変えてしまいます。
 これは人間においても同じことが言えます。

 肉食を好む人間は、その性格が動物的で獰猛であり、好戦的で争うこと、喧嘩することを好みます。ストリートファイターを自称して、闘争心が旺盛であり、暴力的な行動を平気で行います。心情的には、無慈悲で、世人が倒れようが死のうがお構え無しで、ただ自分のみの都合を考え、エゴイズムを剥き出しにします。食や色のほか、天理や人道も意に返さず、高慢であり、横柄な態度を取って憚らず、宇宙の玄理に至っては弁知せないような、闘争や抗争の日々に明け暮れます。

 これはこれまでの白人欧米社会の、強者こそ正義感という「白人の理論」を見ても、容易に窺えます。
 彼等にとって、民主主義の根底にあるものは、強者がリーダーとなって、大勢の群れを率いるという理論で、正義イコール強者という図式があります。今、世界はこの理論で動かされていると言っても過言ではありません。弱肉強食が、この理論の根底にあります。

 しかしこうした弱肉強食論を以て、この考え方に支配された人間が日に日に殖えれば殖えるほど、人間社会は一方において、不平や不満を抱くものが多くなり、闘争や抗争が激しくなります。
 今、スポーツ武道界には、試合に勝った者、強者として君臨する者を英雄と崇める風潮があります。ために、筋肉トレーニングに励み、反復練習を繰り返し、現代栄養学風の滋養をつけて、筋肉とスピードを養い、勝てばいい、叩けばいい、打ち据えればいい、投げればいいと言った、格闘の中に身を投じます。
 しかしこうした格闘術の修行も、食生活を「穀物菜食」に求めず、動物性食品を中心に摂り、こうした食体系の中で何がしかの修行を試みることは、本来転倒も甚だしい限りです。

 それは食肉を続け、血を穢し、霊的波調を粗くしている間は、魂の曇りは拭えず、また、メグリの清算すらする事が出来ません。
 殺した動物を身体の中に摂り込み、わが肉体の内臓を以て動物達の墓場としている愚行は、つまり、肉体信奉者達は「メグリを食べて、葬っている」と言うことになるからです。こうしたメグリは、悪い巡りあわせであり、これが肉を作り、血を作っているという現実があります。
 メグリが自分の身体にある限り、そこには再び必然的に次の悪いメグリを呼び込むことになります。
 死ぬまで闘争や抗争に明け暮れなければならない「争い」は、総てこのメグリの産物であると言えましょう。

 肉食をすれば、同時に異常性欲から色の乱れが生じて、男女は乱れ合います。これは今日、プロスポーツ選手やスポーツ武道の英雄達が、セックス・スキャンダルで世間の話題をさらっているのを見れば、肉体信奉者達がメグリによって、男女の乱れを生産していると言っても過言ではありません。

 よく人が集まるスポーツ武道団体や格闘技団体は、その主宰者や創始者が神格化されて神のように崇められています。明確な集金システムが確立され、またサポート機関として、興行師がついたり、高額な放映収入やコマーシャル収入が約束されて、コミック雑誌やマスコミを通じて、信奉者の裾野を広げることに余念がありません。

 表面では、「青少年育成」を謳い、社会教育の一環として善を装っていますが、裏を見れば、「武の道」とは程遠く、暴力団と繋がっていたり、政界の著名な議員先生方のお出ましを願い、彼等を名誉職に祭り上げて、選挙票と強い結び付きを持った、暴力政治結社的な団体も少なくありません。
 また、国際ユダヤ金融資本の傘下の出先機関と結び付いて、あきらかにここから活動資金が流れていると思われる、幾つかの団体も存在します。
 こうして商行為的な抗争や利権争いが、スポーツ武道界には水面下で繰り広げられています。

 地球上の災いや、地域紛争も、その出所はこうしたメグリによる元凶が、表面化したに過ぎません。
 一部のスポーツ武道団体や格闘技団体の主宰者や創始者の中には、色や欲にほだされ、肉を喰らい、美酒を呷り、煙草をふかし、妾をつくり、傲慢と喧嘩師をモットーとした人がいます。しかし、こうした状態下で、どうして日本の未来を担う、健全な青少年育成が行われるのでしょうか。

 さて、西郷派大東流合気武術の修行の目的は、こうした愚を避けて、一方においては、メグリの清算を目指しての修行です。穀物菜食主義を目指し、霊的波調を向上させて、霊格を高めることを目的にします。
 また、わが流派の掲げる武士道観は、偏に「奉仕」であり、他と技を競い、争うことではありません。闘争や抗争を地上からなくし、争うのではなく、他と和して、これを大いなる「和」に育て上げ、この「大和」の精神で、人民に奉仕するというのが、わが流派の主眼であり、大和は、その言霊が「やまと」に回帰します。

 この「やまと」こそ、日本民族が古来より求めてやまなかった、「唯霊主義」の根底をなすもので、大和は「大倭」(やまと)に還り着きます。
 そしてこの美しい「やまと」と言う澄んだ言霊の響は、魂を磨く条件として、食を正し、血液を浄化してこそ、この響は井然(せいぜん)として正しさを増し、この条件下においてのみ、人格が形成され、霊格が向上すると、わが流派では教えているのです。

 さて、西郷派大東流合気武術は、これからの日本と日本人に対し、現在、欧米企画の国際主義一辺倒に押し流される、この国の将来を憂い、真剣に、今、自分では何が出来るかと言うふうに考えている人に対して、少しでも手助けをしたいと考えております。
 日本には古来より、世界に示す、提示すべき「道」があります。この「道」こそが、人類が誤ってはならない、「食養の道」と考えます。

 人倫が荒廃し、乱れ、狂ってしまった日本には、もはや哲学や思想はないと言われますが、「やまと」という言霊において、世界を「一家」となす思想が古くからあり、この言霊の齎す意味において、万人を救済しうる「惟神(かんながら)の精神」が、まだ日本人には存在すると考えます。
 そして国際貢献が求められる今日こそ、日本は世界に向けて、古人が培った「食養の道」を堂々と主張し、飢餓に苦しむ国や人々を救済しなければならないと考えます。

 「衣食足りて礼節を知る」とは、故事に由来する言葉です。同時にこれは、食が不足したり、飢餓状態であったり、あるいは食を乱していては、礼節が存在しないことを意味する言葉です。礼節が存在しなければ、人民間で争うが起こります。世界の不幸現象は、これに起因しているのではないでしょうか。
 自由競争や自由貿易の理論が、結果的には不公平をつくり出し、「持てる者」と「持たざる者」の格差をつくって、人間世界を破滅に追い込んでいることは明白な事実です。

 また、弱肉強食の理論で、強い者が弱い者を虐げている現状も、実は、自由競争や自由貿易の理論に起因します。こうした理論は、もともとは日本にはなく、明治維新以降、欧米によって齎されたものでした。
 砲艦外交によって、ペリー(Matthew Calbraith Perry/アメリカの海軍軍人。嘉永年間の1853年7月、日本を開港させるため東インド艦隊を率いて浦賀に来航)の日米和親条約や、ハリス(Townsend Harris/アメリカの貿易商上がりの外交官。1856年、最初の駐日総領事、のち公使)の日米修好通商条約によって、以降、日本人は西洋式処世術に身を挺することになります。

 そして自由競争や自由貿易の理論の大義名分を以て、日本は欧米列強を見習い、富国強兵、植民地主義、帝国主義、軍国主義、太平洋戦争、広島・長崎の原爆投下、戦後民主主義、平和主義、平等主義、個人主義、そして自由主義市場経済という理論に辿り着き、自由の名において、奔走しました。
 ところが、今日のように自由競争や自由貿易の理論が生み出した、「持てる者」と「持たざる者」の格差をつくり出した現実を考えると、これは紛れもない「自由と平等」の名を弄(もてあそ)んだだけの虚構理論であるということが解ります。

 世界の経済構造のもう一つのシステムは、実体経済に対峙(たいじ)した金融経済であり、この金融経済構造は、抜本的な歯止めが掛からないまま驀進するという危険性を持っています。
 そして、今のところ、これを止めることは何人にも不可能となりました。
 このまま傍観すれば、間違いなく奈落の底へ向けての驀進であり、確実に人類は自ら破滅の淵に向かって追いやる結果が生まれてきます。
 偏に、こうした結果を招きつつある元凶は、これまでの欧米の弱肉強食と、肉食主義に由来すると言っても過言ではありません。
 今更ながらに、食の誤りのあったことに、改めて気付かされます。だからこそ、今、食改革が迫られるのです。

 人間は、神の姿を借りて、その姿が形作られたと言われます。神の姿を借りたのであれば、その本質は、神の一部ということにもなります。その一部の神の姿こそ、人間に宿る霊魂であり、魂の霊的な格が高ければ、その波調は「密」になり、格が低ければその波調は「粗」になります。

 この世界が、粗密の波動の中で生かされているという現実を見つめれば、両者は相対の原理よりなりたち、粗密の、いずれかの極まりで、神と伴に在ったり、あるいは神と平行線を描いて、擦れ違うという現実を犯していることになります。
 神との擦れ違いの中で、幾ら自由を豪語して見ても、その自由は絵に描いた餅であり、また、幾ら平和を願ったところで、戦争や紛争は世界から姿を消すことはありません。
 勢力争いや権力抗争はこうした、人間と神の擦れ違いから起こるものです。
 そしてこうした擦れ違いを起こす最大の原因は、人間の肉食文化の誤りに最大の元凶があると考えます。

 第一次世界大戦で、戦争の惨めさを経験したイサドラ・ダンカンは『わが生涯』という自伝書の中で、バーナード・ショウの言葉を挙げ、「われわれが動物を虐殺し、肉食をしているうちは、戦争は絶えることはなかろう」と言う件(くだり)に付け加えて、「誰がこの戦争という恐ろしいものを好むだろうか。たぶん肉食家が過去において動物を殺してきた故に、小鳥や動物、優しいおどおどとした鹿や狐を狩るような必要を感じてしまったのであろう。血のついたエプロンをかけた虐殺者は、血生臭い事件や殺人を煽動する。……(中略)仔牛(こうし)の喉を切るのと、われわれの若い同胞の喉を切るのと、そこにいかような差異があろうか」と、こう主張しています。

 今日、有害物質として騒がれている、環境ホルモンやダイオキシンの問題に加えて、食から一つの文化が崩壊に至るという「飲食」の重要性も十分に考える必要があります。
 またこうした事が、殖えすぎた人間の、淘汰現象の起因になることは間違いないと思われます。既に、出生率の減少という現状で、淘汰現象が母体の胎動で起こっています。
 昨今の日本人女性の不妊症や、若い世代の少子化という社会現象は、既に淘汰のはしりと考える事が出来、食べ物がそうさせていると思われます。

 このセクションの最後にあたり、私達、大東流霊的食養道研究グループは、国際平和を願うと伴に、健全な人格養成と、霊格養成を目指し、国際社会における人類への貢献を、「食養道」を通じて、それに寄与したいと、心より願う次第です。
戻る次へ