西郷派大東流の儀法 7





●合気槍術と宝蔵院流

 大東流技法の中には「多敵之位」に備えるために合気槍術がある。この合気槍術の中には槍術の土台を為す、合気杖(長さは約五尺で、正確には153cm)、また合気杖の基本を形作る柳生杖、更には六尺棒や籠槍は含まれる。

 さて実戦の戦場において、戦いの展開はいきなり白兵戦の斬り合いから始まるものではない。対峙した双方は、まず飛道具である弓矢や鉄砲た大砲の弾丸を応酬することから始まり、次に騎馬突撃や三間の長さを誇る雑兵槍
(竹竿の先に槍の穂先をつけた物)の槍部隊の突撃となる。白兵戦に入って槍で対峙したり、太刀を合わせるのは、この突撃以後のことである。したがって白兵戦は最終手段として展開される。

 戦いは古今東西、その終結が白兵戦で幕を閉じるようになっている。近代戦においても、最後の勝敗を決定するのは白兵戦であり、双方の精神力の差の優劣で決着する。戦いの基本は昔も今も迅速な機動力であり、卓越した行動能力があってこそ優位に立てるのであって、敏速に対応できなければ意味が無いのである。
 一度戦闘が始まると、その展開は目紛しく変化して行く。その変化について行けなければ、一瞬のツキは逆に勝利の女神から見放され、敗走を招く結果になりかねないのである。実に勝利の女神は浮気ぽい性格の持ち主なのである。

 こういう戦闘展開の中で、先ず最初に頭角を現わすのは槍を巧みに熟す剛の者
(騎馬侍は騎乗槍術、徒侍は野戦槍術)の出現である。槍の優れている点はその武器自体が持つ制空圏の広さである。この制空圏は、よく空手家達が口にする言葉であるが、徒手空拳の振り回す範囲と、槍を持っての制空圏とでは雲泥の差があるのである。この制空圏を有する剣技にも合気二刀剣があり、ある意味でその制空圏の広さはほぼ槍と同じであろう。
 ただ異なることは、二刀剣が両手を用いて左右に同じ長さの各々の太刀を以て闘うのに対し、槍は両手で一本の槍を操作する特徴がある。そして槍はその制空圏の広さから、槍捌きによっては敵に対し驚異的な動きを展開させることである。

 槍の発達は様々な時機と場所に応じて、野外では長槍が用いられ、室内では手槍や籠槍が用いられることとなる。また槍は時代とともにその操法が研究され、ただ遠くから敵を突き刺すばかりでなく、「払う」「搦
(から)める」「躱す」「捌く」という巧妙な槍手繰りの技術が加わり、敵の剣の動きを無効にしてしまうまでの合気槍にまで変化を遂げることになる。戦国時代を出発点とした槍術の発展は以降、多くの槍の名人を排出して行くことになる。そして槍の源流で最も有名なのが宝蔵院流槍術である。
 宝蔵院流槍術の起りは、その開祖が宝蔵院覚禅房法印胤栄
(1521〜1607)である。



●宝蔵院流

 日本屈指の槍術の名門宝蔵院流は開祖・胤栄を筆頭に以降現代まで伝統を有する流派である。胤栄の武術修行の歴史を紐解くと彼は上泉秀綱の門人であった。そして八十七歳の長寿を全うし、槍と剣の達人であった。

 宝蔵院は奈良興福寺の塔頭
(脇寺=付属寺院)で、寺領三十三石余を禄とし、興福寺域外に離れて存在していた。興福寺は元来朱印二万五千石、坊数四十余の巨刹であり、春日明神の社務を担当する清僧を抱えていた。

十文字槍
 胤栄はこの清僧の一人で宝蔵院院主、祖父は中御門薩摩胤定、父は但馬胤永で、胤栄は俗名を伊賀伊賀守といった。
 剣及び槍術を柳生宗厳と共に上泉伊勢守秀綱に学び、永禄八年八月、印可状を取得した。

 その印可状によれば、
 年来諸流御鍛練候と雖も、新陰の流、春以来種々御執心候間、一流一通、位、心持一つも残さず相伝申候。此旨偽るに於ては八幡大菩薩、摩利支尊天も御照覧候へ。此儀空言是れ無く候。向後に於て惣べて之を望む旁々御座候はば誓詞を以て九箇所迄御指南尤候。殺人刀、活人剣の事は真実の仁に寄る可く候。天狗抄極意、向上の儀は一流の外に候間、能々忠孝に依り御相伝成さるべき者也。仍って印可の状件の如し。猶々向後弥御鍛練肝要候。
 永禄八己丑八月吉日
                 上州住上泉伊勢守
                  藤原秀綱 
(花押)
  宝蔵院様参

 胤栄は宝蔵院流槍術の開祖とされているが、戦国時代から安土桃山時代を経て、江戸初期の武芸者の多くは、槍、刀、長巻、薙刀、柔術等を総合的に修練していたので剣の術の他に、これ等の武技も心得ていた。つまりこの時代までは、剣術は同時に総合武術の様相を呈していたのである。

 胤栄の槍術は飯篠長威斎家直→小倉播磨守→大栗春軒→胤栄の伝系に属すると見られている。一説には高観流の直槍を修行者から学び、後に功夫を加えて半月鎌槍、あるいは熊槍としたとあり、この事は『本朝武芸小伝』では、大膳大夫盛忠であろうと述べているが、定かでない。

 また『宝蔵院流紅之書』には虎乱太刀合が述べられ、太刀に対する三つの勢法が示されている。
  胤栄の師匠は上州住上泉伊勢守秀綱であることから、更に時代を遡り秀綱の新陰流を紐解いて見ることにしよう。



●新陰流

 上泉伊勢守秀綱(後の武蔵守信綱=1508〜1577)が新陰流の開祖である。はじめは伊勢守を名乗り正伝新陰流を流名にし、後に武蔵守信綱に改め、新陰流を流名にした。

 秀綱は永正五年上州桂萱郷上泉(現前橋市上泉)に生まれた。父は武蔵守秀継(憲綱、あるいは義秀を名乗った)で、遠祖は俵藤太秀郷と伝えられている。『関八州古戦録』には金刺秀綱とあり、あるいは信濃国造金刺舎人の末裔とも謂われているが、果たしてどうであろうか。

 『正伝新陰流』には秀綱の誕生が永正五年とされ、その没後については、上泉の東雲山東寿院西林寺の過去帳に天正五年正月十六日を記載されている。

 さて、秀綱は七十七歳の生涯を終えているが、その生涯の殆どは戦乱の時代であった。室町末期の動乱期であり、国内は乱れに乱れていた。関東や甲信越地方にかけては相模の北条氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏が互いに野望を繰り広げ、攻防を繰り返していた。またその麾下の群小の豪族達は巨大勢力を背後に背負い、その走狗となって、奔走せねばならなかった。

 この当時、上泉一族も決して例外ではなく、秀綱の父秀継は管領上杉憲政の麾下にあり、天文十二年(1551)正月、北条氏康は管領上杉憲政を越後に敗走させ、天文二十四年正月には大胡城を攻略した。
 当時、既に四十八歳の秀綱は、亡き父に代って大胡城の城主であったが、開城降伏し、北条氏に隷属した。越後に敗走した憲政は、長尾影虎に上杉姓を名乗らせ、名も謙信と改めさせて管領職を継がせ、永禄二年五月影虎は上洛して正式に関東管領に補せられた。

 この頃、影虎に秘かに通じていた秀綱は、影虎の上州進出を容易にする為に予め北条軍を駆逐し、その協力した。影虎軍の活躍は目覚ましかった。大胡城を難無く奪回し、知勇兼備で知られた箕輪城主・長野信濃守業正を上州諸城の管理下に置いた。

 秀綱は長野の麾下として度々武功があり、長野十六人槍に数えられるようになった。殊に業正と安中城主・安中左近との戦いでは、左近に一番槍をつけ、上野国一本槍の感状を業正から賜わった。永禄四年業正が病没すると、嫡子右京進業盛(十七歳)が城主となると、武田晴信(信玄)は永禄六年正月一万の兵を率いて箕輪城を攻略した。
 秀綱は桐生城主大炊助直綱を頼って再び箕輪に戻ったが、城代内藤修理のもとに武田氏に所属したという。この時、秀綱は箕輪落城後信濃守の家臣二百騎と共に武田軍に馳せ参じたという。

 秀綱の兵法は天性のものが備わっており、新陰流兵法は『甲陽軍鑑』からも窺えるように、武田信玄からその非凡さが惜しまれている。永禄六年のこの年、秀綱は武将としての生き方を終え、兵法求道者としての道を歩む。時に秀綱五十六歳であった。

 秀綱が陰流兵法を学んだのはいつの頃か、その謎は多い。一説には愛洲移香斎久忠ともされるが、移香斎の嫡子小七郎元香斎ともされる。移香斎が八十七歳で死んだ天文七年には、秀綱は三十一歳であり、元香斎は二十歳であった。

 さて、秀綱が上泉を離れ、兵法家として再出発したのは永禄六年であり、秀綱はこの時五十六歳になっていた。これに対して元香斎は四十五歳であり、もし秀綱が二十歳で移香斎から兵法を学べば、移香斎は七十六歳であるから充分にその可能性はあるし、また兵法には年齢制限が無いから、秀綱が四十五歳までに十一歳年下たの師匠・元香斎に学んだとしてもその不思議はない筈である。武術は往々にして年長者から学ぶだけではなく、年少者から学ぶ事もあるのだ。武術の世界には年功序列は存在しないのである。

 秀綱の陰流習得法については、三つの説がある。
 第一の説には柳生厳長の説が挙げられ、秀綱は青年時代鎌倉に出て念阿弥滋恩を流祖とする念流を学び、更に下総香取へ行って飯篠長威斎の流伝である新当流を会得し、塚原卜伝を剣を交え、その後常州
(常陸国)鹿島に出向き、陰流の開祖・愛洲移香斎についてその手解きを受け、その後秀綱は重きに置かれ、多くの門弟の中でも殊に大事にされたと謂われる。その享録二年に柳生石舟斎が生まれる年、秀綱は二十二歳の春を迎え、伊勢守と称した。それは大胡城の若大将の頃でもあった。
 『正伝新陰流』には「秀綱の師・愛洲移香斎久忠は高齢の七十八歳で、陰流の極意を総て秀綱に授け、この陰流の大成を伊勢守秀綱に託したという」と記されている。

 また第二の説は『武芸流派大事典』(綿谷雪・山田忠史著)に見られるもので、「新陰流の伝書では愛洲移香斎→愛洲小七郎→上泉秀綱→上泉常陸介秀胤(上泉流軍法)→上泉権右衛門義胤(無楽流上泉派居合・神陰流剣術)→上泉主水正憲元(秀綱からの直系として)…と順に記載され、この説明に従えば、愛洲移香斎が九州日向で死亡し、その年が天文七年であるから、その嫡子小七郎元香斎が常陸国太田城主佐竹氏に仕えたのが永禄七年の四十六歳の年であるから、秀綱にとってその間は戦乱に明け暮れ、敗走と流浪の困窮時代であった。この間に小七郎元香斎について技術の習得する事は不可能である。恐らく永禄七年に新陰流は編纂され、完成されたと見るべきであろう。

 以降、秀綱は名を信綱に改め、上州に帰る。しかし信綱の天正五年(1577)までの七年間の消息は不明である。この天正の年は、天正元年に武田信玄が没し、足利幕府が滅亡している。宿敵・信玄を失った上杉謙信はその遥か遠くの能登に進撃していた。謙信が「露は軍営に満ちて秋気清し」と詠んだのはこの時であった。
 新陰流の伝系は愛洲移香斎久忠
(陰流)にはじまり、上泉武蔵守信綱(新陰流)に至ってその嫡子上泉常陸守介秀胤に続くが、その信綱が伝えたとする兵法が嫡子秀胤に伝わったとすれば、信綱が上州に出る永禄六年、あるいはそれ以前に秀胤に伝授しておかねばならない。何故ならば秀胤は翌年の正月二十三日、三十五歳の若さで戦傷死しているからである。

 一説によれば、秀胤は元亀二年、父信綱から上泉流軍学礼法の相伝を受けたとされるが、この年は秀胤が死後七年目に当たり、相伝は不可能である。秀胤の上泉流軍学の伝系の後継者としては、大戸部民部少輔、滋野直光、岡本半助宣就らがいる。

 また愛洲移香斎久忠の陰流の伝系としては、新陰流の上泉武蔵守信綱の門下に上泉主人正憲元、疋田豊五郎景兼、神後伊豆守宗治、柳生石舟斎宗厳、宝蔵院覚禅房法印胤栄、丸目蔵人佐長恵、奥山休賀斎公重、鈴木伊賀守意伯らが傑出した。
 更に秀綱の新陰流の原点を求めると、愛洲陰流が浮上して来る。



●愛洲陰流

 室町時代中期から後期にかけて、陰流を伝えた人物に愛洲移香斎久忠(1452〜1538)がいた。移香斎久忠は享徳元年の生まれで、紀州熊野の氏の一族、愛洲氏の末裔であった。

 南北朝時代に護良親王の令旨を受けて五ヶ所城、一ノ瀬城、花岡城等により、宗良親王を奉じて、北畠氏と共に伊勢の守護職として南朝の為に働いた愛洲太郎判官の、移香斎久忠はその子孫にあたる。

 移香斎は水軍に投じて日向(現在の宮崎県日向市)に移り、愛洲太郎左衛門久忠、斎号を移香斎と称した。移香斎は長寿を全うし天文七年、八十七歳で他界した。

 日本兵法の開祖は、今日のように医療技術が発達していないのにも関わらず、その殆どが長寿であり、その為に流祖やその人脈と関わりを持つ人物(面識が有る無しに関わらず)が、凡夫とは比べ物にならない程多く関わっていた。

 ちなみにその年齢と、その関係を比べて見ると、移香斎が生まれた時、飯篠伊賀守家直は六十六歳であったし、家直が一〇二歳で死んだ時は移香斎は三十七歳であった。その翌年には塚原卜伝が生まれ、移香斎が死んだ時上泉信綱は三十一歳、柳生石舟斎は十歳、卜伝が死んだ年柳生宗矩が生まれた。移香斎が愛洲陰流を流名とし、剣術の流派が既に流名を名乗っていた当時、移香斎が一体誰から兵法を学んだか明らかでないが、しかし関東では家直の天真正伝神道流が盛行し、三河国(現愛知県)高橋庄では中条兵庫頭長秀が中条流を普及させていた。

 また十五世紀はじめには、念流の開祖・念和尚(慈恩、相馬四郎義元)の門人で京六人と謂われる人達が京都や奈良で兵法を流布していた。元来京都や奈良を中心とした近畿地方では政権争いを巡って、戦乱が絶えない所であったから、この地域では刀剣等の匠(名工)が雪崩込むと同時に、兵法家達も必要不可欠な存在となって、決して例外ではなかった。

 『武備志』を紐解くと、陰流らしきものは殆ど見当たらないが、『武備志』は明代に書かれた芽元儀の著書で、明王朝の衰乱を憂いたもので、武備の大切さが説かれ、各部門ごとに数十の項目に分かれている。その中でも有名なものが、「兵訣評」「戦略考」「陣練制」「軍資乗」「占度戦」の五部門で、歴代の事実や、日本の流派等も挙げられ、時代順に論説を編纂している。

 その中の「八十六」に、「芽子曰く、武経総要、載せる所の力凡そ八種にして、小異は猶列せず。其の習法は皆伝わらず。今習う所は惟れ兵力、長刀なり。腰刀は団牌(円形の盾)に非ずんば用いず。故に牌中に載す(牌は盾、盾の所にのせる)。長刀は倭奴(日本人)の習う所、世総宗の時(1522〜1567)進んで東南を犯す。故に始めて之を得たり。戚(中国河北省)の少保(中国の官名)、辛酉(永禄四年=1561=「かのととり」の意味)に陣上に於て、其の習法を得たり。又従って之を演じ並びに後に載す。此法未だ伝わらざる時、用うる所の刀制略同じ。但し短くして重し。廃す可き也」と記載され、「影流之目録」が猿の図(双方の猿が刀を握って対する図)と共に「猿飛」「虎龍」「青岸」「陰見」「猿廻」「山影」「月影」「浮舟」「松風」「浦波」「覧行」「花車」「長短」などの手法が記載されている。しかし不明文字が多く、難解な書物である。
 そして移香斎の陰流は上泉伊勢守秀綱により、新陰流として発展する。



●日本兵法の起源

 日本兵法の中興の祖とされるのは、天真正伝神道流の開祖・飯篠伊賀守家直(1387〜1488)であると謂われている。
 その伝説からすれば、家直は一〇二歳まで生きた長寿を全うした武人であり、天海僧正
(徳川家康の知恵袋で天台の密教僧)の一〇八歳に続く長寿であった。武術者としても最高寿の記録を持つ。

 『本朝武芸小伝』には、家直は「下総国(千葉県)香取郡飯篠村の人也」とあり、幼弱より刀槍の術を好み、その精為る事、妙にして優れ、更に鹿島香取神宮に祈願して、その将を天下に顕わさんとしたとあり、この自らの流儀を天真正伝神道流としたとある。

  また鹿島・香取神宮は神道流の発祥の地で、武神を祭っている事でも知られる。古来より、このように武芸者は一貫してこの両神宮を詣でている。
 鹿島神宮は茨城県の南、北浦の東岸に位置し、祭神は軍神武甕槌神で、経津主命と天児屋根命が配祀され、創建は神武天皇の御宇と伝えられている。武人に於ては尊嵩が厚く、軍陣に出で立つ者は、この神宮を拝して出立つしたと謂われる。
 また香取神宮は千葉県の千葉県の北、利根川の南岸に位置し、祭神は伊波比主命で軍神としての信仰が厚い。

 初代家直の門下では塚原土佐守安幹、松本備前守政信、門井守悦入道が傑出しており、この後も多くの武術家を出した。

 塚原土佐守安幹からは二代の同新左衛門安重、三代の同卜伝高幹と伝承され、特に卜伝高幹は卜伝流または新当流を名乗り、勇名を轟かせた。
 また松本備前守政信からは有馬大和守幹信が出て有馬流を打ち立て、二代の大炊満盛は徳川家康に仕えて、家康に有馬流を伝授した。

 家直の二代同若狭守盛近からは三代の山倉播磨守、三代の大栗春見、そして四代には宝蔵院流槍術の開祖・宝蔵院覚禅房法印胤栄が出たことになる。
 家直の三代同若狭守盛信からは十時与三衛門尉長宗が出て、天真正自顕流をうち立て、長宗の伝系からは東郷肥前守重位が出て示現流をうち立てた。

 家直の四代同山城守盛綱の門からは穴沢浄見秀俊が出て、新当流長太刀の開祖となった。その流系からは柳生松右衛門家信、阿多捧庵、金春七郎氏勝(金春流能の家元)が傑出した。また阿多捧庵は尾張柳生流の開祖・柳生兵庫助利厳の槍と薙刀の師であった。
 言わば家直の天真正伝神道流は、日本兵法の草分け的な存在であった。その伝承を受け継ぐ一つが胤栄の宝蔵院流槍術であった。



●大東流合気杖と柳生杖

 柳生杖は、柳生十兵衛三厳が無刀捕りを研究する為に草案したもので、これは「十兵衛杖」とも呼ばれる。大和柳生流にはこの杖術(五尺杖)が伝えられている。

 さて、杖術
(四尺杖)といえば、神道無想流杖術が有名であり、「杖術」を表技とした、剣術の中から生まれた特異な流派である。この流儀の創始者は無想権之助勝吉(1596〜1615)であり、宮本武蔵に出会って試合するまで、多くの試合をして一度も敗れた事がなかったという。

 権之助は元々武士ではなく、剣を神道流の桜井大隅守吉勝に学んだ。慶長の頃、宮本武蔵と試合する機会に恵まれたが、武蔵の得意技である十字留に掛かって、打ち込んだ太刀が外せなくなり、押す事も退く事も叶わず、無慙に敗れた。

 以降これが起点となって発奮し、二刀流を敗る事に専念して工夫を凝らし、宝満山竈門神社に祈願して参籠すること三十七日目の満願の夜に不思議な夢を見た。その夢は、童子が現われて「丸木をもって水月を知れ」と御神託を授かり開眼したという。以降、権之助は姓を無想と名乗り、剣、槍、薙刀の操法を総合した棒術を工夫し、杖術を編み出して、真道無想流を創始したと謂われる。

 この流派は数代を経て、福岡藩黒田家に伝わり、足軽や下士の武芸として定着し、今日に至っている。
 同流は伝承途上に於て流名が変更され、真道無想流、新当無想流、神道無想流となって、棒と杖を特異とする流派となり、今日では神道無想流杖道を名称としている。また、この流派の杖の長さは四尺杖である。

 さて、再び柳生杖に話しを戻す。これに用いられる杖の長さは五尺杖であり、厳密には153cmである。これは密教の「桃木
(桃の木で出来た杖)」と同じ長さであり、月の下での邪気や穢れを払うものとされている。詳しい内容については『大東流秘伝大鑑』(八幡書店)を参照されたし。

 元々杖術は太刀が変化したものであり、剣技とともに工夫が加えられてきた。殊に、その「間合取り」に於ては、「水月の間」という特異な「一足一刀の間」を構築し、互いの剣の尖先が何処まで接近すれば触れ合うか、その研究に真剣に取り組んだのが、杖に於ける「間合を読む」技術であった。この技術は棒術に至って完成を見る。



●大東流棒術

 間合には「三・六・九」という教えがある。三は対峙した双方の間が三尺で、これを生死の間と称し、この間合空間によって勝負が決せられる。また六は六尺の間を意味し、この位の間合空間に「一足一刀の間」が存在し、太刀の届く最間距離とされている。

 この最間距離は、示現流等を見れば、その「一足一刀の間」がどのようなメカニズムから存在するか一目瞭然である。更に九は九尺の間であり、それを「本間」と称した。これは太刀の届かない距離で、これは棒の届く範囲とされた。棒術に於ては、この九尺の間合が攻防の基本となる。

 棒術に於ける本来の目的は、「棒対棒」の格闘ではなく、「棒対太刀」の勝負を目的に業が編み出されたものである。木の棒によって、真剣を制するには、太刀の届かない九尺の間合に於てのみ、これが可能であった。

 従って太刀の敵を制するには、敏速な「冴え」が必要であり、更に手数を少なくして、一撃で敵の急所を「突く」あるいは「打ち据え」なければならなかった。棒の間合から考えれば、遥か遠くにいる太刀に於ける剣技は、往々にして稚拙ではあるが、その材質である鋼と木の棒とでは、それなりの特異な技術が要求されるのである。



●六尺棒から草案された手槍の業

 大東流では五尺杖の先端に「袋槍」を被せてこれを槍とし、室内の於ける太刀や小太刀の攻防の技術がある。
 この槍捌きは、宝蔵院流の大車を中心とした自分の躰に捲く付くような槍法で、独特の遣い方をする。また、敵の刀と応戦した時、敵の刀の鐔元に、槍の穂先の根本部分でこれを巻取り振り払う。

 室内戦に至った場合、長い槍は不向きであり、また四尺杖のような短いものでは用を成さない。六尺の長さを保には五尺杖の上に一尺の槍の穂先を被せ、これで応戦する事が適当とされる。また上士や大名や重役の乗る籠には籠槍がその室内に備え付けられていて、緊急時の際、この槍を以て応戦する。(口伝に「手槍合気杖之書記」あり)

 籠槍の長さは一様でないが、約四〜四尺五寸(120〜135cm前後)の槍が籠の内部に備え付けられている。これは敵の襲撃等の非常時の際に用いられ、野外用の刺し道具として遣われるものである。
 遣い方は通常の槍と同じように撃刺する方法を用いる他に、敵の刀や槍と応戦した場合、単に刺すだけに止まらず、纔な動きで敵の刀や矛先を絡め取り、同時に動きを封じてしまう術である。