尚道館社会人一般部






稽古日/入門費用
・毎週火曜/PM7:30〜9:00
・毎週土曜/PM7:30〜9:00
・毎週日曜/AM10:00〜11:30
(週三回で、フル参加または曜日選択可)
入会金
月 謝
15,000円
高校生/8,000円
大学生/9,000円
社会人/10,000円



●礼儀正しさと人間性の品格の向上を目指す

 西郷派大東流合気武術は、旧会津藩の総智を傾けて構築され、編纂されたた実戦護身武術です。会津藩ではこの武術を国家老・西郷頼母(初代会津藩主・保科正之の末裔で後の保科近悳)が、溝口派一刀流と並行して編纂し、これを総合武術として扱い、格調高い殿中作法である「御式内」(おしきうち)と合体して柔術の他に、剣術と表裏一体の特殊な武術体系を作り上げ、その中でも特に実戦に際して複数の敵と対峙(たいじ)し、戦っても負けない有効な技法を「御信用之手」と称しました。

 しかしこれ等の技法は「秘伝」と謂れ、一般大衆には知る事のできない全く秘密裡の伝承法(古神道や密教の形式に則った霊格相伝形式で、これを一子相伝という)をとり、また当時の会津藩では石高が五百石以上(五百石を現在の年間所得で換算すると、約3000万円以上の高額所得者に匹敵する)の上級武士にだけにしか習う事が許されませんでした。

 この伝統は明治に入っても続き、大正から昭和に掛けて、入門に際しては連帯保証人二名(この保証人は入門した人物を連帯保証するもので、万一入門した者が大東流の業を遣って暴力沙汰の刑事事件を起こした場合、連帯保証人が被害者への総ての刑事・民事の損害賠償責任を負う)のを必要とする厳しい入門規定の線が引かれていました。それだけ大東流の技法は凄まじい業で、超極秘な武術であったわけです。

 さて極秘の意味は、一般大衆に知られてはならないという意味であると同時に、またそれだけ人間の命を遣り取りする危険な技法(人体頭部の側面に存在する或る縫合に挟まれた骨は人指し指で軽く突いただけで縫合が外れ、数時間後に死に至たらしめる事ができ、頸椎の或る接合部は軽く横にずらすだけで脳壊疽(のうえそ)を起こし数分後脳の活動は停止し、24時間以内に死亡する危険な業(わざ)が含まれる)であったから、これを習う者の人間性が重視されたわけです。そして当然、これを実践する人物の人格と霊格(人間には血統という先祖の血の流れがあるように、霊統という霊脈の先祖霊の守護尊があり、古神道や密教ではこの霊脈を「霊統」という)が問題になり、霊格の低い「気違いに刃物」の愚を避ける理由からでした。

 つまり、ただ技が優れ、体力・体格に恵まれ、運動神経に恵まれて、手が速いだけという「心」の伴わない人間は、幾ら技術的素質に恵まれていても、本人の人格と人間性の格が低ければ入門は許されないものでした。



●幾らテクニックが優れていても、品性が低ければ人間として失格

 
 大東流では入門に際し、本人の人間性を最も最重要視します。高校一年程度の学力を有していない人も教養が無いため、大東流の理論的理解は不可能と判断します。
 そのために当尚道館では「入門審査」という厳格な規定を設け、不適当な人については入門をお断わりするという制度を実施してきました。
 そしてこの入門審査に当たっては、当尚道館では「道場入門案内書」を受け取ってから、1ヵ月以上を越えて入門審査を受検しない場合、以降の入門審査の資格は失われます。

 一般部の入門に至っては、まずホームページ上から尚道館入門に関する項目を参照の上、内容を正しく把握します。
 次に、来館あるいは郵便(郵便で取り寄せる場合は郵送料240円が必要)で「道場入門案内書」を取り寄せるか、来館して稽古日に見学を行い、見学後、入門審査日を予約します。入門審査の検定結果により、合否判定がその日のうちに館長より下されます。

 審査の合格者は、「入門願書」に記載の上、道場に提出しますが、提出期限は審査合格後10日以内に行わなければなりません。この期限を過ぎた場合は優柔不断な性格と判断され、以後入門のチャンスを失うことになります。つまり入門の合否判定は入門審査を合格しただけでは、第一次的な入口の門を通過しただけであり、第二次、第三次の審査が控えていることを忘れてはなりません。

 第二次的なものは、入門手続きを終えた状態であり、第三次的なものは入門が許されて道場に通い始め、門人見習いとして三ヵ月間の基礎習得期間を経て、この習得期間において学んだ「基本手解き」一切の儀法が正しくこなせるか否かの、第六級検定儀法の審査を受けて、それに合格すると、以後「正式門人」として、道場門下生として末席に、名前を連ねる資格を得る事が出来ます。

 当尚道館の入門審査は、入門を希望する人(中には入門をしたいと嘘をつき、案内書だけをせしめる輩や、「大東流オタク」という大東流の資料のみを蒐集する輩もいる)が『道場入門案内書』を受け取った時から、既に開始されていると心得て下さい。優柔不断は武術を修行する適性に欠けているので、こうした性格の持ち主は、わが西郷派大東流合気武術では不適当と看做すわけである。

 日本も、国内の治安はアメリカ並に急速に兇(わる)くなり、殺人事件や傷害事件が毎日テレビや新聞を賑あわせています。あなたの大切な命を護る為に、あなた自身のその決断は、どれ程の時間が必要でしょうか。生死の明暗を分けるのは、非日常事態の中で、早い決断力に迫られるわけです。

 以上の手順を踏みつつ、見事正式門人の域に達する事が出来、正式門人と認められた人のみが、直接曽川和翁宗家から、直伝の手解きを受けて、高度な儀法を教わっていくことになるわけです。
 この正式門人の資格は、単にステータスなばかりでなく、人間としての高い格式を現わすもので、今、各企業の、ヤル気を起こす人間社員教育の題材としても使われるようになりました。

 世界的な不景気が荒れ狂う中、こうした激動の時代を生き抜くには、優柔不断の人間が幾ら集まって、頭を付き合わせても、何一つ、解決する糸口は見つからず、したがって、こうした動向の激しい世界情勢の中で、とれだけの敏速な決断力をもって、その方向性を示せるかということが、その人の人間的な価値観に繋がってくるのです。

 かつて、日本官僚主義は記憶力の優れた人だけを採用するというペーパーテストの中で、求めてきました。暗記の強い人が秀才として崇められ、暗記的秀才型の人が主導権を握って、社会を動かしている時代がありました。
 ところが、今日では、こうした暗記的秀才型の人は、激動という、乱世の時代には全く役に立たないという現実が生まれ、マネージメントの現実下では、不要の粗大ゴミのようなものに成り下がってしまいました。
 教科書の何ページに何が書かれているかということを知っているよりも、教科書にない、応用力に迫られる現実社会の中で、どうすれば現実問題が解決できるのかという事が、より重要になり、臨機応変に対処する人材が求められるようになりました。



●優柔不断な人間は、最大のチャンスを見失う人間である

 激動の時代は、一種の乱世の世であり、戦時の世ということになります。これまでの官公庁などで、公僕に見られる親方日の丸では、平時にはそれなりの力は発揮するかもしれませんが、今日に見るような激動の時代では、何一つ役に立たず、末代まで生き抜くことは余り期待することができません。したがって今、求められる人間像は決断力に富んだ、近未来を見通せると言う人のみが、群れを率いて行けるという可能性があり、優柔不断で、迷いぱなしのリーダーに率いられた集団こそ、哀れなものはありません。

 こうした事実は、歴史を見れば明らかであり、先の大戦における戦前・戦中、並びに終戦直後の政治リーダーたちが、いかに今日の日本を駄目にしてしまったか、これを考えただけでも、容易に察しがつこうというものです。

 武術に要求されることは、「即決」であり、この判断力が鈍いと、忽(たちま)ち他から喰われて、無慙(むざん)な敗北者となってしまいます。こうした愚を避けるためにも、西郷派大東流合気武術を学ぶに当たり、その適性者は、何よりも決断力に富んだ人であり、こうした人だけが、選ばれて、わが尚道館に入門する事が出来るのです。



●「武の道」を極めるとは、己自身の心を極めること

 昨今は随分と、世の中が騒がしくなり、それに合わせて「良識派」と言われる人が随分と少なくなってしまいました。
 特に目立つのは、今日の青少年の態度の悪さ、礼儀に悪さであり、また実際に何らかの武術か武道か格闘技かをやっている人でも、態度が横柄になり、「この人は随分と立派な人だ」と言い切れるような人は、殆どお目にかかりません。

 多くの、武術や武道や格闘技を愛好する人の中に、態度や、礼儀の正しさが立派な人は、すっかり見なくなってしまいました。
 自分自身で礼儀が正しいと自負している人でも、それは自分の所属する組織内でのことであり、組織の外に出れば、実に傍若無人に振舞っていることが多いようです。こうした組織内で、「自分は礼儀が正しい」と自負していても、それは道場や団体の先生や先輩に限り、礼儀正しいのであって、一度外に出てしまうと、弱肉強食論を振り回して、その理論の中心は「強いか弱いか」であり、自分の信奉している競技武道や格闘技が、「史上最強」などを豪語して、大変目障りな態度で巷間(こうかん)を闊歩(こうかん)していることです。

 さて「礼儀が正しい」と言うことは、一体どう言うことなのでしょうか。
 一般に礼儀と言えば、「おじぎ」をしたりm「挨拶」をしたりを、礼儀と想像するでしょうが、礼儀とはこうした日常の社交辞令のようなものでなく、もっと深いところに、この原点が存在しているのです。

 礼儀は「礼法」に通じるもので、まず人間性の品性を高めて、人格を豊かにします。またトゲトゲしさがなくなり、人間的にひと周りも、ふた周りも大きくしてくれます。こうしたことが人との摩擦を排除し、人間関係を円満にして、争いのない人生を送ることができます。

 すなわち「礼儀」とは、人との不安定な接触を避け、「争わない玄理」を探究する最も有意義な道だったのです。この道は「武」に通ずる道で、「武」は分解して考えますと、「戈」を「止める」と書きます。すなわち戈を止める、そのことが「礼儀」に包含された重要な課題であり、「争わない玄理」をもとめることが「武の道」だったのです。

 昨今は弱肉強食論が吹き荒れて、格闘技界を大きく揺るがしています。その勝者が英雄となり、スポーツ選手や格闘技選手が芸能人並みにテレビコマーシャルに登場し、また芸能番組にも、タレント並みに顔を出し、お茶の間の人気者としてもてはやされています。
 さして彼等の多くは礼儀が正しかったり、態度が立派だと言う人は殆ど見ることができず、言動も傲慢であり、傍若無人を振り回している選手も少なくありません。

 しかし武術や武道の言う「武の道」は、こうした傍若無人の暴力の執行者を言うのではなく、礼儀と威厳を正し、毅然とした姿を万人に示すことの出来る人を自分と呼んでいるのです。

 尚道館では、礼儀を正し、自分の行いを謙虚に慎み、態度の立派な武人を養成する道場であり、単に武技の優劣ばかりでなく、まず「人間とはどうかるべきか」という人間教育をその眼目にしているのです。



●尚道館が門人に迎えたい人間像

 武は、礼に始まり礼に終わると言います。
 この言葉は明らかに、武術や武道と言うものが、「礼儀を正し」「武の道を求める」ということを明確にした言葉です。

 武の道とは、わが人生において「心を求める道」であり、謙虚に己を振り返る道でもあります。
 そうした意味から尚道館では、次のような人を門人として、慎んで迎えたいと考えております。したがって我が道場の門人になるためには、まず、入門審査に合格しなければなりません。

 審査の基準は次の通りです。

1. 優柔不断でない人。

2. 人間的に礼儀正しく、あるいは将来、そうしたことが期待でき、真剣に物事を教わろうと、前向きに努力する人。

3. 不平や不満を語らず、未来の夢を語る人。

4. 経済的に困窮してない人。

 以上の四点についてその審議が行われ、これに合格できた方のみ、門人としてお迎え申し上げます。その際の審査に当たり、体力や才能や素質で差別は一切いたしません。また身体障害者であられても、人物本位で審査いたしますので、身障者の人でも、力の弱い虚弱体質の方でも、その審査においては一切差別いたしません。

 詳しくは入門に関する手順を参照下さい。