道場憲章 4



第三条 組織に対する道場生としての責任と義務

1.組織の道統としての宗家の存在
 武術の組織は単に、テニスやバトミントンや卓球などの、スポーツ好きの愛好者のグループとは異なる。
 武術を修行する求道の士は、人間として踏むべき「道」を尊び、また、その組織は「道」を掲げる事によって、志(こころざし)が結成される世界の一員である。

 したがってこうした組織の運営は、最初から、営利として経済効果を狙ったり、利益を追求する世界の商行為とは別のものである。
 武術修行の原点は、どこまでも求道ぐどう/道を求め、真理を求めること)であり、人間の道を探究することにある。ここには道の伝統と筋目、道義や倫理が存在し、これが失われた場合は、「道」から逸脱する事なり、求道とは言いがたいものになってしまうのは明白である。

 そうなれば最早、道を求める武術は、強弱を論ずる競技武道に成り下がる。
 わが西郷派大東流合気武術は、宗家を道統の頂点にいただき、その儀法(技法)と精神支柱を、武士道と、その思想を反映させて、数々の大東流の儀法を後世に伝承せんとする団体である。したがって組織の門人は、修行段階に応じて、それぞれの義務と責任を追うことになっている。

 また、わが組織は道統としての宗家の霊的神性と、修行成就の祈念に始まり、その伝統に則り、これまで筋目を正して来た。
 更に、こうした伝統に則り、頂点には宗家がおり、その下に四天王、更にその下には八天狗の大先輩らがおられ、各門人の持ち味を生かしつつ、道統を保持する責務を持っている。

 しかしこの運営に至っては、民主化などという「不易流行」に流されず、時代に踊らされる事無く、あくまで「道」を追求する事を原点において、門人は、人間として同格の立場をもって、修行に邁進する事を第一義としている。

 武術組織の運営は、国家の運営や、学校の同窓会や、その他の営利団体の運営とは異なり、民主化運営というものとは無関係である。したがって、こうした組織を民主化(多数決の決議)し、こうした理念に基づいて、これを運営する事は間違いである。
 武術組織が民主化し、その運営を代表者が集まって決議する事は、一見、正しい事のように錯覚しやすい。しかし、こうした方法で武術の組織が運営された場合、宗家の無視や流儀の否定、更には、その組織の伝統である思想や精神性の否定にまでつながり、ひいては「道の否定」になるのは明白である。

宗家の證(あかし)の御神体(御霊)。この御神体は、宗家正統系統者の證であり、宗家のみが所有する。そしてこれは、西郷派大東流合気武術の最高権威であり、なん人と雖(いえど)も、これを覆(くつが)えす事が出来ない。

 わが西郷派大東流合気武術は、初代宗家・山下芳衛(ほうえい)先生にはじまり、その流れの源流を受け継いだのが、現・曽川和翁宗家である。
 こうして打ち立てた伝統には、求道の士が学ぶべき「道」が存在するのである。その存在において、後世の修行者がその価値を認め、この志(こころざし)と大旆たいはい/旗印とする大きい旗)の許(もと)に結集し、道場としての組織をなしたのが、西郷派大東流合気武術なのである。

 この道の伝統は、多数決で決議するものではなく、またそうした俗事の次元に頼るべき、低次元のものでもない。
 ここには正しい権威主義が、道に貫かれ、道標となっていなければならないのである。つまり古来より育まれた日本人の伝統的印伝形式をもって、道統たる資格を一子相伝似て受け継いだ唯一人の者を、「宗家」と称するのである。

 この権威主義とは、人間に内在する古人の智慧(ちえ)を受け継ぎ、こうした智慧の特異性において、何人も認めざるを得ない、尊厳を意味するものであって、世俗の組織や、国家体制における、特権階級のそれではない。

 権威主義とは、日本武術の伝統を重んずる厳格な態度であり、封建制の名残を引き摺るものではない事を、門人は認識しなければならない。
 この認識に欠けると、自惚れが起こり、道から外れてしまうので、繰り返し初心を思い起こし、常に、道の原点に立ち戻る点検を怠ってはならない。


2.宗家の定義
 流儀の保(も)つ、内容の総てを伝える事を「相伝」という。
 また、それを授(さず)けられる者は、古来より「一子相伝(いっしそうでん)」という唯授一人(ゆうじゅひとり)として、単数相伝の形をとり、相伝を授け、その中で更に頂点の唯一人を「宗家」といった。

 西郷派大東流合気武術は、こうした古来よりの伝統に則り、「一子相伝」の最高実力者に宗家が襲名された。
 そして宗家を頂点として、その配下に四天王(してんのう)ならびに八天狗(はちてんぐ)を配した。

 また宗家は、わが西郷派大東流合気武術の最高実力者であるとともに、正統伝承系統者でもあり、一切の儀法伝承(ぎほうでんしょう)は宗家の名を以て行われる。
 更にわが流は、宗家以外の「完全相伝(かんぜんそうでん)」を禁じ、門人並びに会員の配下に於ては「不完全相伝(ふかんぜんそうでん)」であり、配下は宗家以外の名を以て、勝手に儀法を相伝する事、ならびに免許の発行権する權利は一切持たない。


3.組織の道場生としての責任と義務
 道場生会員は宗家の教えに則し、それを理解して、修行法に全うする責任を追う。
 また組織運営の為に、その維持費として、月々、指導者への感謝の意味で、毎月定額の月謝を納めるものとする。
 なお、月謝については、ぞれぞれの地区本部や支部によって、運営の状態が異なるので、各道場に事情により、その額が一様でない。

 組織は総本部が、各地区本部、各支部を総括し、以下に属する総ての道場生は、その属した所属道場に、毎月定額の月謝を納める義務を負う。

 また、わが組織は政治的に、政治家をその組織の名誉総裁や名誉顧問招き入れて、会員や道場生が、その走狗として動く団体ではない。
 更には宗教に関与して、特定の宗教を門人に押し付ける団体でもなく、あるいは会員間で勧誘して、諸々の商法に手を染めることもなく、目的は、あくまで道の探究である。

 武術を中心課題に据えて、それに真剣に取り組み、道を志す者が、宗家の教えに共感して、それを後世に伝承するというのが究極の目的である。
 更には、西郷派大東流の文化的遺産の保存と、その精神を構成に継続させる事を目的とする。


4.他武道、他武術、他流他派への批判と中傷の禁
 他武道・他派の批判と、その中傷誹謗は堅く慎まなければならない。
 古来より、他流派間、他武道・他武術間で、種々の紛争の火種になったのは、こうした批判から起こる中傷誹謗(ちゅうしょう‐ひぼう)が中心であり、こうしたものへの批判・攻撃は、ひいては人格を低く見られる事になり、堅く慎まなければならない。

 批判よりも、まず「自分はどうなのか」という事を常々自問自答して、修行に邁進する事を第一儀とする。
 自問自答の中に、「己を知る」原点があるからだ。


5.月謝支払の義務と謝儀の心得
 道場活動を展開する集団は、一般の道場の場合も、「人の道」を掲げているので、この活動は営利目的ではなく、また商い行為でもないという事は一目瞭然であろう。

 その運営を維持する為には、それなりの経済基盤が必要であるが、わが組織は、これを政財界の有志の懐(ふところ)に求めない。

 武術は元々、自立独立・自主独歩の気概きがい/困難にくじけない強い意気や気骨)を尊ぶ求道者の道である。
 だから財政面の援助を一部の金持に求めたり、政財界に求めるべきでない。自力で活動を展開するというのが、これまでの多くの反省に基づいた結論から導き出した、真の「奉仕の精神」と考えている。

 武術家とは何か。
 それはまぎれもなく、奉仕者である。
 したがってこうした者が、金持の懐を充(あ)てにしたり、政財界人に援助を求めるべきでないと考える。
 もし、政治家の為の売名行為の手下として走狗した場合、言行不一致のそしりを受ける事になる。事実、世間には、こうした武道団体が多いようである。

 しかし、わが西郷派大東流合気武術は、自立独立・自主独歩を尊ぶ求道者の武士道集団であるので、他者の負担になって、他人に借りを作る事は、あってはならないと考える。自立独立・自主独歩こそ、武術家に求められる「自分の事は、自分でする」真の正しき姿である。
 他人に借りを作らないという心構えも、武術家としては、大切な心得の一つである。
 人の世話をする事はあっても、なるべく他人の世話にならないように心がける事が大切である。

 そうした武術家の特異な思想をもって、活動を展開するのであるから、その運営維持の源泉は、道場生会員が毎月支払う月謝に委ねられる。
 また、月謝の納入については、幾ら納入すれば済むのか、あるいは月謝を払うと、どういう特典が与えられるのか、という対価的な事を考えないで、自分は道場に対して、どういう協力・援助・負担などをすべきか、という事を真剣に考えるようでありたい。
 それが人格というべき、独立した一人前の「おとな」の態度であり、商い行為としてこれを捉えれば、人格・霊格ともに低い、幼児社会の有相無相と、種が一緒になってしまうのである。


【会費の安いスポーツ団体の裏の実態】
 会費の安いスポーツ団体を健全とする一般市民の考え方は、往々にして間違っている。団体によっては、会費や月謝の類を要求しなかったり、講道館柔道のように、年間会費が、たったの3000円(1ヵ月では250円)というスポーツ武道団体もある。

 しかしそいうい安い年間会費で、あれだけの大道場と大組織を動かし、維持運営しているのであるから、何処かで、誰かが不足の分を負担しているのであり、こうしたものに寄りかかった形で、団体を存続させているのであるから、当然裏側には何かの巧妙なカラクリがあるはずである。また、そうしたもので動かされているということは誰にでも容易に想像がつこう。
 果たして、こうした安い会費が健全であるか否か、甚だ疑問である。

 こうした安い会費しか請求しない団体は、裏側に巧妙なカラクリがあり、個人の求道への探究は無視され、組織ばかりが大事にされて、武道修行者としては、決して好ましい姿ではないのは明白である。
 そのカラクリの一つが、オリンピックなどにも総じて言える、国内外のマスコミ機関の放映権の問題だ。
 この利権には、様々な人間の欲望が絡み付いている。そして、求道の道が、人間の欲望と結び付いた場合、決して修行者としては好ましい結果が出ないのは、これまでの人間の歴史を見ても明らかである。

 こうした裏を察すれば、喩えば柔道を教育として、学校制度のものの中に持ち込み、「知育」のそれに対峙して、「体育」と自称した、柔道の創始者・嘉納治五郎の意図を見抜く事が出来る。
 嘉納が昭和十一年、東京で行われる予定であった東京オリンピック開催のために、世界各国を奔走したことは有名な話である。既に、国際化の波に乗り、柔道を押し上げようとして走狗していたのは明白である。

 国際主義、あるいは国際化の名は、日本人に取って美辞麗句であり、その言葉に誰もが酔い痴れやすい。しかし裏には、大変な利権が絡み付いていた。嘉納は武道家と言うより、政治に働きかける利権の徒であった。そして、利権争奪のために奔走した知謀の徒であった。しかしその実、武術修行者の求道とは掛け離れた側面があったことは、案外見逃されている。こうした背後を研究すれば、柔道が単に、青少年の健全スポーツとして、機能していない事は明白である。

 柔剣道を学校教育の中に持ち込み、これを中学・高校の生徒に強要するという現実は、これらの団体(柔道連盟や剣道連盟)が、日教組と五十歩百歩の団体であるという事が、容易に察しがつこう。
 今日の学校教育の中に、「体育」と言う課目があり、その中に、主として西洋スポーツ体育とは別に、柔道や剣道のみが独占されて教えられているが、逆に、では何故、空手では行けないのか、合気道では行けないのか、こうした理由を考えた場合、柔道や剣道だけが、こうも名指しで指定され、これが教育として実践されているのか、何とも不思議な限りであり、裏に当然の如くカラクリを感じるのである。

 また、こうした競技武道組織は、政治的な圧力があるので、安い会費で運営されていると言う特徴をもっている。


【月謝を払うという行為の大事】
 月謝という理念の上で重要なのは、月謝は一種の「謝礼」であるので、これは列記とした「謝儀」である。また「月謝を払う」という行為は、「身分確認の為」の厳粛げんしゅく/おごそかで、心が引きしまるさま)な行為である。
 毎月、威儀を正し、謝意を表わすのであるから、己の置かれた立場を忘れずに居るという行為でもある。したがって月謝という実態は、商い行為の対価ではない。

 しかし昨今の道場は、学習塾やその他の稽古事と同じように、月謝袋などが用意され、道場に子供を通わせる父母や当人が、受領印などを要求する習慣があるが、これは本来、習う側の作法としては間違いである。
謝儀の心得。月謝とは謝儀を意味するもので、鎧の化粧板の下の紅白二色の革または綾による飾りの瑞引(水引)を掛けて師に納めるものであった。

 かつて、古人は「熨斗袋」のしぶくろ/熨斗と水引をつけ、金銭を差し出す時に用いる手製の紙袋)に紅白の瑞引みずひき/水引)を掛け、衣服を改めて、師匠の前に出(い)でて、両手で差し出すのが作法であった。
 しかし今日は、こうしたかつての作法が忘れ去られ、こうした作法は廃れてしまった。

 さて月謝であるが、毎月規則正しく、決まった日に納めるというのが正しい姿である。しかし一方で、道場生でありながら月謝を納めない人がいる。こうした人は、武術を商い行為と看做(みなす)すところがあり、二ヵ月も三ヵ月も不払いのまま、無届けで過ごす人もいるようである。

 しかしこうした人は、自らが人格の低い事を雄弁に物語った人であり、非礼なのは勿論の事であるが、心の中には、感謝の念が存在せず、世の中の礼儀と常識を知らない、恥ずべき人も少なくない。
 武術修行は、こうしたところにも人格が現われるので、修行者自らが、自分の在(あ)り方を正すべきである。

 またこうした人が、道場内で増え始めると、道場主は門人に技法を教えるどころか、運営維持のため、金策に走り回らなければならなくなり、二重の迷惑を掛ける事になるので、特に注意したい。
 こうした迷惑を平然として掛け、非礼な人に限って「道」だの「心」だのを言っているのであるから、全く呆れるばかりである。

 少なくとも、武術を習っていると言う誇りを持ち、自分の身分を確認した上で、こういう類にならないように、自分自身を戒め、思い上がらないことが肝腎である。また武術の世界での、謝礼というものは、商業取引における「対価」でないので、この部分を混同しないようにしておかなければならない。

 かつて曽川和翁宗家が、少年時代、初代の山下芳衛宗家に師事して修行していた頃、月謝のお金を裸で渡したところ、先師せんし/山下芳衛宗家先生に畏敬の念を込めてそう呼称した)は烈火の如く激怒し、大変に叱られたと言う話がある。それ以降、月謝は封筒に入れて、直接師匠に手渡すのではなく、一旦、道場の神棚に揚げて、感謝の意を表わすという大事を悟ったという。
 また当時、入門したばかりのある人が、月謝を渡し、領収書を求めたところ、これに山下宗家が大変に激怒され、その人は、人格未熟として、即、稽古差し止めになったそうである。月謝は、商い行為のそれと違うからだ。

 月謝(謝儀の性格を持つもの)とはそうしたものであり、この点が、スポーツクラブなどの、月々の掻き集める会費とは、大きく異なっているのである。


6.年賀・中元・歳暮について
 教えを授(う)け、どう言う形で、指導者に「あいさつ」するかは、人各々であり、団体組織の大小にもよるが、一般的に言って、師匠の側近者や身近にいる人ほど、これを省略すべきでない。
 まして、宗家と一親等関係を持つ、准指導員以上の資格者は、これを尚更、省略すべきでない。

 年中通じて、何らかの、有形無形の指導を授け、道標として示唆が与えられているのであるから、年賀の年頭の挨拶は、決して省略すべきでない。
 中には「自分は年賀状を出す事は、今まで生まれて一度もした事がない」とか、返礼をしない事が「自分の自由なライフ・スタイルだから」と言って、宗家から年賀状を貰いながらも、これを省略した者がいたが、こうした人はあまり「礼」についての理解が足りないようだ。

 はっきり言って、こうした人は武術の厳しさ、武術家としての心得や、感謝の気持ちの意味が全く分かっていない人である。
 そして厳重注意した事は、子弟関係は商店で言う、顧客関係でないということだ。

 それは道場という特殊な運営機構が、商い行為の、それを指していないからである。
 学校などの義務教育の場ならいざしらず、いやしくも道を標榜する武術家が、道を柱にして、師と門人の関係を、単に友達付き合いの、気軽な間柄と考えるのは大きな間違いである。

 道場には、また先輩や同輩が居り、また下には後輩が居る。こうした関係で結ばれている道場は、常に礼儀が存在していなければならない。
 そして中元や歳暮も、人を指導し、その指導者として、その道場や支部を運営している宗家の側近者であれば、その最高責任者として道統を示し、道を示唆する宗家に対しては、当然、こうした物品を贈って、自分の心の現われとして、形を表現する事は、非常に大切な修行の一つである。

 それは贈り物の高い安いの問題ではなく、あくまでも子弟関係の現われであるから、その心を表わすことが大事である。
 このよき例として、年に三回ほど、宗家の許に御機嫌伺の品を届ける、現在カナダ在住の富士山道場(Fuji Yama DOJO Canada)の道場長で、師範のゲルモ・デル・クラト(Guillermo Murphy Del Cueto)師範がいる。

 彼は自分で絵を描いたり、手作りのカナダの民芸品を自分で作成し、また門人でも高弟たちの寄せ書きを、一枚の色紙にして送って来る人で、それは決して高価ではないが、何とも心暖まる品である。そしてその贈り物には必ず、手紙がついていて、
 Dear
 Sogawa Kazuoki Sesei:
 Please,accep this small gifi,with our respect and gratitude.
 Mayevery day lsring you New Blessing!
 Sincerely:
 Guillermo Murphy Del Cueto
 Fuji Yama DOJO Canada
 と、宗家の尊敬と畏敬の言葉が添えられている。

 こうした事は、今日では日本人でも忘れてしまって気付かなくなっている。自分の直ぐ近くに大事な宝が転がっているのに、それに気付かず、修行において、最も大切な心を失い、礼儀を失っている武道や武術の愛好者が多いが、これは何とも残念な限りである。
 しかし、こうした日本人に比べて、外国人は、日本武術を心から真剣に捉え、真摯に学ぼうとする姿が窺える。そして、こうした姿を今一度、日本人として、武士道を実践する人達も、初心に返って、再度自分自身の再度点検に当ててもらいたいものである。


7.選挙の票に群がる政治家という寄生虫の排除
 どこの武道団体やスポーツ団体も、素振り一つ出来ず、また、サッカーボールの一蹴(ひとけり)も出来ない政治家を、名誉総裁あるいは名誉顧問に据え、こうした政治家を通じで、企業に働きかけ、金を無心するという仕組みを作っている集団が少なくない。
 こうした組織構造は、極めて日教組的な集団とよく似ている。日教組は教育に巣喰った、寄生虫の集団である。

 日本の教育を悪化させ、平等教育の名の下(もと)に、日本を平和の美名で混乱させたのは文部省(現在の科学文部省の前身)と日教組であった。
 本来、日教組は教職員という「先生」の組合組織であったが、その集団の中枢は、政治家集団に他ならない。

 政治家が教育者のような顔をして、政治家と教師の二股をかけ、政治的思想Ideologie/トラシーらを空論家として、非難したナポレオンの侮蔑的用法をうけて、マルクスが用いた語)によって教育現場を動かし、それによって、自分自身は組合幹部や地方議員、あわよくば衆・参議院員という出世街道の道を狙って奔走している。つまり教師が、政治家予備軍として奔走しているのが、この組織の実態である。
 そして彼等の掲げるスローガンは、平和教育と平等教育であった。

 しかしこの二つの教育目標が、実は自分達の階級闘争に仕向けられた欺瞞ぎまん/人目をあざむき、だますこと)であったことを、日本の戦後民主主義教育の中に、見い出すことができる。
 また、これまでの文部省も、国民教育という名の下に、権限目的だけを保持し、強化するという役人集団に墜落し、戦後日本の教育を混乱させて、今日に至っている。

 本来は文部科学省や、日教組は、あくまで批判者たるべき位置に留まっていなければならなかったのであるが、政治力を借り、政治家になった人々によって、日本の教育を滅茶滅茶にしてしまったという観が否めない。

 政治家で「私は、孔孟の道の実践者である」という人が居たら、その人は間違いなく偽善者本心からでなく、みせかけにする善事をする者)である。また経営者も然りである。
 春秋戦国時代の聖人と謳(うた)われる、孔子ですら偽善者であった。論語を深く研究すれば、これが容易に理解できよう。現実社会は「孔孟の論理」ではなく、「韓非子(かんぴし)の論理」で動かされていることは明白である。しかし孔孟は、現実社会の歪を正す特効薬であることも、また事実である。両者が正しく機能して、両輪の輪となすのである。

 わが西郷派大東流合気武術はこうした歴史的背景と、政治家や財界人を、流派や道場の名誉総裁や名誉顧問に招くという愚を避け、「武術家は、かくあるべきだ」という気概で、道場を運営し、宗家の教えに従い、その普及を目指している。求めるものは「道」であり、政治家の階級闘争ではない。


8.道場外に求める寄付金行為の禁止
 昨今の武道が、甚だしく品位を落とし、文人や有識者から一等も、二等も蔑まれて見られている実態の裏には、道場外の商店や企業に対し、寄付金をねだって廻る愚行が挙げられる。
 いっぱしの武道家を標榜(ひょうぼう)しながらも、中味は「無心の徒」であることが、こうした蔑みを生む。

 しかしこうした蔑みに気付かず、大会を開くにしても、演武会を開くにしても、必ずと言っていいほど、こうした寄付金をねだって廻り、これを資金力として大会を運営する、あるいは演武会を運営するという団体が少なくない。

 道場活動は道場外の寄付金に頼らず、自前で、内輪だけの資金力で賄(まかな)うのが正しい姿であって、こうした団体が、青少年育成を口にして、「道だの、心だの」を標榜している事は、言行不一致を如実に表わすものである。
 また、そうした事を口にする資格もない。

 大会や演武会の運営に当たっても、会場の運営費、選手の遠征費、役員の謝礼や飲食費、パンフレットの印刷費や賞品授与などにかかる総ての費用は、あくまで自前で調達すべきで、他人の財力を充(あ)てにするという無心行為は、武術家・武道家として、最も浅ましき、卑しき態度であると言わねばならない。

 道場の制度的な積立資金や、自発的な寄附の申出があった場合は別であるが、これを道場外の資金に頼り、こうした資金力で大会や演武会を運営しようというのは筋違いであり、本来ならばその関係者が、自分の財の大半を抛(なげう)ってでも、大会を運営するという心意気が必要であり、これを道場外の資金に求めるものではない。

 荷が重いというのなら、規模を縮小して、組織の実力に見合った運営をする事が大事である。
 道場関係者の心得として、他人の力を充てにする事なく、自主独立の精神で、他力本願を排除し、自力で邁進してもらいたいものである。

 以上の教訓は、かつて尚道館も、こうした誤った方向(パンフレットの広告費を集めるなど)に一時進んだ事があり、近年になって、やはり、武術家としては、町の有志や政財界人に求めるべきではなかったと気付いたからである。