道場憲章 12



第十一条 退会願について

1.退会するという行為
 わが流の会員は、退会する場合、必ず「退会願」を文章を以て、自分の所属する道場に提出しなければならない。「退会願」を提出して道場を辞める事を「依願退会」という。この場合、口答や電話での退会は認められない。

 また、三ヵ月以上月謝や謝儀の心づけを放置して稽古に参加しなくなった場合、これも退会者と看做(みな)され、これを「無届退会」という。
 この無届退会者は「絶縁」であり、非常に不名誉な場合に発生するもので、自ら人格に低さを物語った人間の証明である。つまり「無届退会イコール絶縁」と同等である。
 そして両者は、退会と同時にこれまでの有資格や、段位ならびに級位の一切は失う事になる。

 「退会」とは、依願退会、無届退会、破門、絶縁の四つを含む。
 また依願退会は、「破門」と同等に扱われる。つまり「依願退会イコール破門」と同等である。

 更に、依願退会以外の破門は、不名誉な事、あるいは犯罪などで刑事罰に触れた場合に執行される厳しいもので、人間として不義を行った場合に申し渡される。
 また、絶縁は破門以上に厳しいもので、犯罪や造反などの関与した場合に下される最も不名誉なもので、武人失格者として永久追放が申し渡される。求道者としては完全に失格である。

 同じ、退会と謂(い)っても、破門や絶縁は、依願退会に比べて、非常に不名誉な場合に発生し、礼儀を欠くだけではなく、人間として非道を行った場合、この処罰の対象となる。

 曾(かつ)て、わが流に籍を置き、段位を取得したり、師範号の資格を取得して、のち他の大東流や、会派に鞍替えした者は、その全員が無届退会者であり、現在「○○総支部長」「大東流○○会・宗師」「○○道宗家」などの肩書きで、マイナーな武道雑誌(特に『秘伝』や『合気ニュース』であり、“大東流”や“合気”の名称で登場して、○○道宗家・○○流宗家・大東流合気武道九州総支部長などの肩書きを名乗っている者は、かつて我が流に所属し、告げ口、誹謗中傷、裏切り、寝返りによって破門や絶縁になった造反者達である。また、武技的レベルも低い)に臆面(おくめん)もなく登場して、いっぱしの武道理論を展開している者を見るが、こうした者が現在の弟子達に傅(かしず)かれ、先生面(せんせいづら)している反面、非常に名誉欲が強く、その言動と人格は反比例するものであり、彼等が如何に、人間的に、あるいは人格ならびに霊格が低いか、容易に想像がつこう。
 そして、曾ての、自分の師匠を武道雑誌で誹謗・中傷をしているから、全く恐れ入る限りである。「後足で泥(あるいは砂)を掛ける」行為は慎むべきである。

 さて、退会する場合に、「退会願」とするのか、「退会届」とするのかは、その筋道から言って、やはり「退会願」が妥当であろう。つまり「届け」ではなく「願い」なのだ。
 その理由は、入会にあっては「入会届」とすることはあり得ず、あくまでも「入会願」であるのだから、退会についても「願い」でなければならない。また「願い」とするのが、今まで世話になった師匠や先輩に対しての礼儀であろう。

 なお、道場においては、「退会」などという言葉を用いす、「休会願」を作法とする考え方があるが、入会の時の殊勝な態度からずれば、「退会」という露骨な表現は、穏当(おんとう)を欠くものといえよう。そこで、退会を「休会願」とする形で「今しばらくの暇(いとま)」と表現して、やがて時を経て帰ってくるような暗示を抱かせる書き方がある。

 これは周囲の空気に波風を立てず、一種の心遣いであるが、やはり表現が抽象的であり、他の「休会願」と混同しやすいので、今日では明確に「退会願」とするのが、正確な礼儀の作法からは、適(かな)った意思表示といえよう。
 したがって、わが流では、会員が道場を去る場合は「退会願」という形で、書面をもって提出する事になっている。


2.階級騙詐による破門あるいは絶縁
 自分の階級を偽り、階級騙詐を働いた場合、即刻破門あるいは絶縁を申し付けるものなり。自己宣伝あるいは自己誇張から起るこうした行為は、「武を語る資格」なしと看做される行為であり、礼儀知らずも甚だしい限りであり、また、人間としても非常に恥ずかしい行為である。したがってわが流では厳罰に処す事になっている。


3.役職騙詐による破門あるいは絶縁
 自分の役職や肩書きを偽り、自己誇張があった場合は、即刻破門あるいは絶縁を申し付けるものなり。役職騙詐は、階級騙詐と同様、武術家としては非常に恥ずかしい行為であり、こうした恥を働いた場合は、わが流では厳罰に処す事になっている。


4.退会願の提出と書式
 退会は自由であるも、道場門人は次のことが義務づけられる。

退会する場合は「退会願」を、書面をもって提出すること。

「退会願」は下記の書式をもって、受理を正式に願うこと。
 なお、この場合、指導者に口頭で伝えたり、電話での一報は認められない。

退会理由は「此度、一身上の都合により、貴道場を退会させて頂きます」と、できるだけ簡素に書き、批判がましい事は一切書かないのが礼儀を知る人間の常識である。

届け出が受理された場合、会費の自動引落は「届け出郵便局」に行って、直ちに「自動引落停止届」をすみやかに提出すること。
 「自動引落停止届」の提出を放置した場合、郵便貯金に残高があると、翌月分も引き落とされ、退会以降も会費を払い続けることになる。
 なお、このような場合、当道場は責任をもちかねるし、また一旦引き落とされた会費については、如何なる理由があろうとも返金をしないので「自己責任」において充分に注意したものである。

 「
立つ鳥跡を濁さず」の諺通り、礼節謙譲を厳守して、くれぐれも「無断退会」なきようお願いしたい。立ち去る時は、跡を見苦しくないようによく始末すべきは、人間の踏むべき道であり、また、退き際は潔くありたいものである。
 退会の理由は何であれ、一度「武の道」を志した者は、最後まで礼儀正しく振る舞うべきである。

 
また「休会願」が受理された場合、これまで道場で得た一切の資格(級位・段位・指導員や師範などの有資格免許)は喪失する。
 
なお退会後は、自分の経歴(履歴や資格欄の記入を含めて)に級位・段位・有資格などを付け加える事は出来ず、これを行えば、経歴詐称となるので注意を要す。

 
下記の「道場退会願」は初心者から壱級までの一般門人の場合と、初段補以上の有段者の場合の退会届書である。
 級位取得者は道場退会届書の中に「念書」の項目を設け、印紙を貼り、割り印を押した、下記の様式をもって提出する。

 また、有段者の場合は「道場退会願」の他に、印紙を貼り割り印を押した「念書」
(日本法令の書式に従う)を掲出するものとする。各道場支部長は有段者の道場生が退会した場合、「道場退会願」を受理した後、退会者の「念書」を総本部尚道館に提出しなければならない。


一般道場生の退会願の書式

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初段補以上の有段者の退会願の書式

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 また、指導員以上の資格を取得し、支部を創設した支部長が退会する場合は、有段者の退会届書と同じ書式に従って届出をし、退会した後の後継者については、しかるべき適任と思われる者を選出し、その者を支部長にたてる事の「許可願」を、速やかに総本部まで届出をしなければならない。

 支部長が退会する場合の多くは、自分の弟子や道場生を率き連れての「造反」という最も不名誉な行為である場合が多く、この場合、最も悪辣かつ卑劣な行為であることは言うまでもなく、営業妨害罪(月謝や謝儀といえども、毎年税務署に「確定申告」をし、所得に応じて所得税が発生する為)や名誉毀損罪(親告罪の一種で、公訴を提起するに当り、被害者などの告訴・告発・請求のあることを必要とする犯罪で、これに相当する犯罪に強姦罪・器物損壊罪の類がある)などの妨害や毀損による犯罪行為が絡んだり、訴訟における裁判沙汰や、過去五年間に遡(さかのぼ)った支部長自身の確定申告洩れや、脱税や金銭横領が発生するので、殊(こと)に支部長職にある者は、その後の事も充分に考えて、「立つ鳥跡を濁さず」の清廉潔白な精神で、以上に記するような「絶縁」に至る、不名誉だけは是非とも避けたいものである。


5.沸騰した煮え滾る湯でも熱源をとれば、もとの常温水に戻る
 武術修行の修行者の真価の問われるところは、どれだけ長い時間、その修行者が、自らの志す武術や武道に没頭したかと言うことに掛かっている。したがって、命を遣(や)り取りする武術においては、特に、その修行姿勢が問われるところとなる。

 「熱し易く、冷め易い」では駄目で、好きやすの飽きやすでは、自分の無能を披露した事になる。

 喩(たと)えば、沸騰した煮え滾(たぎ)る熱湯でも、一度、その下の熱源である火から遠ざければ、また、もとの常温水になってしまうことは誰でも御存じであろう。

 かつての煮え滾る沸騰した熱湯でも、熱源がなければ、旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻るのである。
 武術修行もこれと同じである。
 一度道場から離れれば、如何に腕の冴えを見せていた伎倆(ぎりょう)の持ち主であっても、その心意気は、ありし日のそれと異なるのは当然であろう。

 したがって、西郷派大東流合気武術・総本部尚道館ならびに、その傘下で運営される地区本部や支部道場での修行者は、一度、わが道場より去れば、その資格の有効性は総て失われてしまうのである。
 没頭する者だけが、修行者たりうる者であり、これが日常生活に、形を変えて応用できるところに、その修行者たる本当の価値があるのである。

 上記に示された「退会願」は、有段者や有級者や有資格者である場合、その資格の一切は、有効でなくなる理由とは、以上に述べた「沸騰した煮え滾(たぎ)る熱湯でも、一度その下の熱源である火から遠ざけてしまえば、また、もとの常温水になってしまうこと」を著わしたもので、わが流の有段・有級の記録台帳には、その氏名が保管されるものの、資格と有効性は無効になるのである。

 柔道や剣道、その他の武道では、表面は日本武術の形態をとりながら、その背後は西洋スポーツのトレーニング法を取り入れる現代スポーツ武道であり、一度取得した段位や級位は永久に通用する形になっているようだが、わが流はこうした考え方で「武術修行」を奨励しないのである。したがって道場を一度去れば、もうそこから既に、熱湯は冷める初期状態が始まり、一ヶ月も経てば、すっかり旧の木阿弥に戻ることは明白である。

 昔取った杵柄(きねづか)などと、甘い気持ちで武術修行はやるものではない。したがってわが流は、退会と同時に、その資格と有効性は即失われるという「宣告」をしているのである。


6.後足で泥を掛ける勿れ
 古人は武術修行の中で、人間としてやってよい事と、悪い事を区別する能力があり、その禁を絶対に犯さなかった。
 しかし、武術界や武道界が、素人集団も含めて、下剋上の様相を呈している今日、こうした事は無視され、かつての師匠に、後足で泥を掛ける輩(やから)が増えている。

 修行事で、諸事情から退会するという事が起こるのは、致し方ない事である。
 しかしこうして辞めていく時、問題なのは、師への批判と中傷をあらわにして、かつての師の悪口三昧(ざんまい)を言って、それを他武道・他武術あるいは他流派に移籍した以降も、ますます感情的に吹聴し、ある事ない事を言い触(ふ)らすことである。これは武術家として、非常に恥ずかしい行為である。

 退会するという行為は、道場や指導者への疑問や批判から、他の道場に移籍したり、そのまま情熱がなくなって、道場を辞めるという行動に出るのであるが、特に他道場に移籍した場合、かつて所属した団体についての、批判がましい言動は慎まなければならない。
 これは古来からの武術家の世界では「鉄則」であり、こうした鉄則を破ったものは、移籍にても、そこで人間としては高い評価は受けなかった。

 こうした退会して行く者の中に、特に不心得と思われる者は、かつての師範や自らの師匠であった恩人に対し、悪しきざまにこれを公言し、また、かつての仲間や先輩たちを尻目に、他派や別流派で、稽古を平然と始める者がいる。

 また、こうした者の中で、上位にある場合、後輩たちを率き連れて、他派に移籍したり、自分自らが、最高師範や会長や総支部長を名乗り、自分がこの世界で第一人者のような顔をして、テレビに出演したり、マイナーな武道雑誌にこれを公表したり、かつての師匠や先輩たちを、足蹴りにする高慢な輩がいる。

 極めて目障りな態度であり、こうした事を造反ぞうはん/体制・権威にたてつき、反逆すること)というが、これは人間として、もっとも恥ずかしい行為であり、いわゆるこれが「後足で泥を掛ける」という振舞である。

 古来より、武術の世界で種々の紛争が生じるのは、こうした事が火種(ひだね)となり、これによって他派をなじったり、誹謗・中傷という、人間の最も醜い部分が表面化しているのである。


7.批判精神はよしとするも、悪口・誹謗・中傷は慎まなければならない
 人間にとって、「批判する」という事は極めて大切な行為である。人類の進歩は、この批判能力の有無に掛かり、こうした具申によって進歩・発展して来たことは、歴史上明白な事実として残る。

 したがって「批判する」という事は、大いに結構である。また、こうした事により、人間は進歩し、前進する。
 批判なきところに、進歩や発展はないのである。

 ただ問題になるのは、自分だけで一方的に批判して、では「自分の考えはどうなのか」と問われた場合、批判する以上は、それに替わる代案をもっていなければならない。

 ところが、批判精神旺盛で、では「自分の意見は?」となると、からっきし駄目で、何も考えていない輩(やから)が多い。とにかく何でも反対なのである。そう言う者に限り、批判精神だけは旺盛で、誹謗中傷が絶えないと言うのは、実に困りものである。

 本来ならば、それ自体を反省しなければならないのだが、思慮深さに欠ける為、他に代わる代案なしの批判が行われる場合が少なくない。その批判した事柄に対し、それに替わる「自分流の代案」を、批判する以上は、明確に提示しなければならないのである。

 こうした「自分流の代案」を提示せず、かつての社会党や革新勢力のように、何でも一方的に、反対を唱えたり、組織の足を引っぱったりするだけの批判では、お粗末な限りであり、他の賛同者を得ることが出来ができないのである。
 こうした代案も示せず、単に人を批判したり、まして、わが師を批判する事などは以ての外である。批判する以上は代案を提示し、それが現状より、どれだけ優れているか、こうした比較と、意見を具体的に示してもらいたいものである。


8.入会時の「初心の心」の再点検
 修行事を始めるに際し、自分の指導者を真剣に探し、また指導者も、その人を弟子にとり、教えるべきか、否かは、厳重に見極めなければならない。人間である以上、一癖も二癖も持っているいると言うのが常であり、その癖を見抜く指導者の人物鑑定眼が必要であることは言うまでもない。

 その為に、わが流は、入会時、入会審査を行ったり、審査は行わないまでも、その人物に直接指導者自らが面談し、これまでに培った見識眼で、その合否の判定を下している。
 しかしそれでも、人間的に問題を抱える者は跡を絶たない。

 したがって、入会する以上は、最後までやり抜く心構えが必要であり、こうした考え方に甘さがあれば、志半(こころざしなかば)ばに挫折して、余儀なく退会をしなければならなくなる。
 そして充分に理解しなければならないのは、批判をして辞めていく場合、批判と悪口(中傷・誹謗)は、本来、別のものであるという事を覚えておかなければならない。

 また、一方的にこうした事を、弁明させずに決定して、離反するという行為は、人間として、それだけ格が低い事を雄弁に物語ったことになる。
 更に、こうした事の、高・低を隔てるものは、その人の知性と感情であり、それが何処に依存しているかで、その人の、人格と人間性が決定される。

 また、こうした事を平然と行い、「後足で泥を掛ける」振舞に出た者は、以後、誰からもまともに相手にされなくなるだろう。
 こうした愚は、是非とも人間として、慎みたいものである。まず、「武は礼によって始まり、礼によって終わる」という事を念頭に置き、どこまでも礼儀正しくありたいものである。

 西郷派大東流合気武術総本部・尚道館のモットーは、次の通りである。

    去ル者ハ追ワズ、来ル者ハ厳格ニ人選ス。

 武術修行は、自らの信念と信条に従って、「本心」のまま、「行動する」という行動律に代表される。心にもない事を口にしたり、本心とは不本意な事をすることこそ、まさに「恥じ」であり、嬉しい時には嬉しい顔をし、悲しい時には淋しい顔をするのが「本心の命ずるまま」ということであり、これを偽るべきではない。
 そして「本心の命ずるまま」に行動させるものは、初心の心に描いた「志」であり、志は障害に亘って描き続け、それを燃焼するべき媒体であると考える。

 西郷派大東流合気武術では、志を掲げ、大旆(たいはい)を掲げて、これを自己の行動律に移す者を、真の修行者として高く評価するのである。