入門について 2



●入門審査後の判定

 審査後の判定結果は「入門審査合格者」ならびに「不合格者」に別れます。
 入門審査合格者は、その後「入門審査合格の手続き」を行わねばなりません。この手続きは、審査合格後10日以内に入門手続きをとらねばなりません。10日を過ぎますと「入門願い」を辞退したと受け止められ、以降再度入門審査を受けて尚道館に入門する道は永久に断たれます。

【入門審査合格後および面接後の手続き】

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 人生において「チャンス」というものは何度も訪れるものではなく、人生の法則からすれば、一項目に対して「一回」と定められています。一度取り逃がしたチャンスは、再び巡ってくる事はありません。

 また「武術」というものは、自分自らの「命に関わる問題」に如実に関わっています。一瞬の迷いや恐れが、永久的な致命傷になり、あるいは自らの、命そのものを失いかねる事になるかも知れません。優柔不断(=頑迷並びに迷い多き人)は、決断力に欠けた人間的な不適合者であり、こういう人達は往々にして「悲劇」という禍根を携えています。幾ら人間が好人物で、人間的に幾らかの魅力に富んでいても、迷い多き人は瞬時の判断と決断を要する「武術の世界」では不適合者なのです。
 そして10日の猶予期間がありながら、10日以内に決断を下せないという人は、その人間的性格が「優柔不断」であり、頑迷さは必ず以後、大事故や大怪我に遭遇します。

 人間の優柔不断は一種の持って生まれた「潔さ」に対峙するものであり、優柔不断はある程度の訓練によって回避する可能性がありますが、ごく限られた努力家のみが改善・達成できる程度のものであり、大方の九割以上の人は、これを生涯改善する事ができません。その星廻りに生まれついているからです。



●優柔不断お断りの原則

 総本部・尚道館を主宰する西郷派大東流合気武術宗家・曽川和翁先生は、八門遁甲における相術(八門遁甲の中には「五術」の命・卜・相・医・山)があり、五術の一つである「相術」の人相学並びに骨相学の立体観相法によって半世紀以上、様々な人達を見てきました。
 そして多く人は頑迷な為、中々自分の殻から抜け出す事が出来ず、死生観を解決できないまま死んで行くという現実に触れてきました。

 「雀百まで踊り忘れず」という諺があります。この諺は、雀は跳躍する小鳥であり、年をとるまで踊り跳ねる事を忘れないという意味です。これを人間に喩えるならば、幼い時から身についてしまった安易な思い込みや固定観念は、習慣化されてしまい、中々改めにくいものです。若いうちならともかく、年齢を重ねると、中々無垢には戻らないものです。

 先入観にしても、一旦虚構で作り上げられた固定的な観念や見解は、余程の素直な人でないと、これを改めることは出来ません。優柔不断はそうした「頑迷」と、それに輪を掛ける「固定観念」が作り上げてしまった、人間の長い間の習慣なのです。こうした習慣化した固定観念を後生大事に持っている人は、武術の適性に不適合です。
 そして人相と体型を研究して辿り着いた結論は、優柔不断という性格はその人の生涯において、簡単に改善されるものではなく、その性格を抱いたまま「生涯を迷いと不安に翻弄されて、生きて行く人間の階層だ」(一般的には可もなく不可もなく、善良で無力で、権力や暴力に屈する小市民を指す)と言う事が判明したのです。

 また優柔不断は、実に禍根であり、歴史を振り返れば、様々な事件が優柔不断の指導者によって繰り広げられた悲劇であるという事が分かります。
 国家の宰相も、企業や組織の経営者も、優柔不断は命取りになり、斜陽に傾く国家や企業や組織は、概ねがこうした優柔不断な指導者によって引きずり回され、墓穴を掘る禍根を所有しているといえるでしょう。

 尚道館では、優柔不断を武術の適性に欠けると位置付け、こうした性格の持ち主の入門をお断りしているわけです。



●入門が許されての「入門願い」の出し方

 入門審査に合格し、入門が許された場合、入門希望者は「西郷派大東流合気武術入門願書」という願い書を書面で提出しなければなりません。同時に、この時に入門金と第一月分の月謝(謝儀)を払い込みます。

 西郷派大東流の門人として入門が許されるという事は、非常に名誉なことです。入門が許されたという事は、人物並びに人格が高く評価されたという事に他なりません。
 こうした評価は、解りやすく言えば「見所がある」あるいは「将来性がある」という事になります。

 入門を許されない人の方が圧倒的に多いのですから、許されたという事は、秘伝の術である「合気」を学ぶ為の入口に立たされたという事になります。
 個人教伝で入門する場合も同じです。入門審査があり、運動的な能力よりも、人物や性格に問題があれば、入門が許されません。