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内弟子制度 24
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| 社会には特定の行動律がある。これをわが流では礼儀と言う。 礼儀と言うのは人間の裡側(うちがわ)を測る尺度の物差である。しかし、人は自分を過信し、慎みや謙譲さを忘れた時に、この尺度に狂いが生じ、不幸が突然襲って来るものである。したがって用心の上にも用心を重ねる、普段からの隙(すき)のない心構えが必要である。 一カ条、宗家の前、先輩の前では絶対に腕を組むな。また脚も組むな。このポーズは横柄に映る。 常に両手は、五本の指を揃えて膝の上だ。誤解を受ける多くの者は、これまでの自身の持つ安易な先入観と、暗い固定観念から起るものだ。自己を再点検し、物事を正しく再認識する必要がある。 二カ条、宗家や先輩が足を崩さないのに、自分は足が痺れたからとか、痛いからと言って足を崩したり、胡座(あぐら)をかくな。痛さに堪え、長時間、静坐ができる事こそ、修行に打ち込む姿だ。「痺れた」「痛い」は、自分の未熟を顕(あら)わすバロメーターだ。 三カ条、相槌(あいつち)は考え方に共鳴した時だけであって、それにも関わらず、安易な返事をしたり、返事を求められて「はい」以外の返事をするな。 また返事をする場合「はいはい」と、二度繰り返すな。自分の軽率さと、軽薄さを顕わす態度は、とるべきでない。同時に「頭の程度」も知れる。 返事は常に「はい」の一言であることを心得よ。「災いは、口より出(い)ずる」ことを忘れるな。 四カ条、宗家や先輩の躰(からだ)を気安く触ったり、肩を叩いたり、背中を叩くな。 「ヨオー!」などと先輩の肩を叩く事は、周囲の反感を買われるばかりでなく、自分自身の品位を落としている事にも気付かねばならない。また極めて非礼である。常に自分が人から観察されている事を忘れるな。 六カ条、被(かぶ)り物と云われる帽子や手拭い、タオルなどを道場内や室内で被るな。特に、館長室や全員で食事をする居間等に於いて、被り物は厳禁である。 被り物は、室外での作業中のみに許されるもので、これを室内で被るのは無礼となる。 七カ条、陵武学舎では一ヵ月に一度、内弟子寮での親睦会があるが、この席で酒を喰らい、その勢いを借りて、説教じみた議論を唱える事はタブーとなっている。 酒を飲まない時の、普段はおとなしい者が、酒が入ると急に豹変する人間がいる。そして、こういう手の人間程、説教じみた事を云ったり、愚痴を零(こぼ)す者がいる。見苦しい限りである。 酒を呑むには、呑む前の「酒品」という礼儀を心得て呑むべきである。酩酊(めいてい)に浸り、決して自分が酒から呑まれるべからず。酔って理屈がましい事を云うのは、劣等感の現れであり、底の見える浅い人間である証拠である。 酒席はホンネで語り合うのに重宝がられるが、しかし酒の力を借りないとホンネが語れないような者は、腰抜けである。また、目上が吐く、安易な「無礼講」という言葉を信用するな。 八カ条、武術修行中の身でありながら、酩酊するまで酒を飲むのは醜態である。 また一般の席でも、招待客より先に出来上がってしまうような者は、軽く見られる。酒席は、公(おおやけ)の席である事を忘れるな。他人の目が厳しく光っている事を忘れるな。 酒は、用い方によっては、人生を謳歌(おうか)する良き友になるが、人間が社会的な生き物である以上、そこには必ず他人が介入する。他人の介入は意図をもっての介入であり、時として、言葉尻を捉えて揚げ足を取るので、こうした事も忘れるな。多くの、酒による失敗は、ここが原点となっている。 また深酒すれば、他人に迷惑を掛け、自分の身を害し、酒品(酒を飲む時の気品)を下げる事が分かっていながら、これを制御できない者は意志薄弱である。また、人格的な欠陥があると思われても、致し方無い事である。酒品を崩さず、酒には充分に注意したいものである。 九カ条、自分が借りて遣(つか)った物は、必ず許(もと)に返せ。 そして返す際は、許に復元するか、許の状態にして返すべし。 喩えば、自転車やバイクを借りて故障やパンクさせておきながら、そのまま返すのは礼儀知らずであり、バイクや車を借りながらガソリンを浪費しておいて、そのまま返すのは非礼である。 「許(もと)の状態に戻す」「許に復元する」と言うのが礼儀であり、「けじめ」と「筋目」を糺(ただ)す事こそ、人間最大の美徳である。そしてこうした「借りる」ものは、常日頃から整備し、磨きをかけるのが、借りた者の礼儀であり、礼儀を忘れるべからず。 十カ条、借りた物品は責任を持つ事。 自分の不注意で破損させた物品は、責任をもって修理するか、直らなければ同等の物品を弁償せよ。 喩えば、道場の傘を借りて、雨の中を差して行き、それを出先等で盗難にあって、その儘(まま)にする者がいる。道場の自転車を借りて、駅に止めていたところ、これが盗難にあい、盗まれても、その儘にする者がいる。バイクを借りて接触事故を起こし、いい加減な物件自己で済ませ、車体に傷つけても、その儘にする者がいる。 また道場内に備えているビデオデッキやDVDデッキを、自分の不注意で破損させ、その儘にする者がいる。電動工具や道具を借り、壊してもその儘にする者がいる。畳や床に飲み物を零しても、その儘にする者がいる。茣蓙(ござ)や絨毯(じゅうたん)に、汚れを付けても弁償する事なく、その儘にする者がいる。部屋の中に、自分の酷い体臭を漂わせていても、それに恥じる事なく、平然として悪臭を放ちぱなしで、その儘にする者がいる。そして「自分ではない」と言い張る。 ここまで来ると、礼儀知らずもいいところだが、こうした事は、その者の人間性が疑われるので、必ず許に復元するか、芳香剤などの手当てをして、あるいは弁償するべきである。 何事も、非礼と誤解されないように、こうした、自分の不注意が招いた事は、最後まで自分の責任において果たすべきである。責任のとれない者は、「人間のクズ」の烙印が押されるであろう。恥辱に対して敏感な意識を持つべきである。 十一カ条、目上に対して、褒(ほ)め言葉を遣ったり、お追従(ついしょう)をするな。 目下から褒(ほ)められて喜ぶような上士は、人間のしての底が知れているし、目下は媚(こ)びを売り、へつらわなければ機嫌取りが出来ないと考えるのなら、双方はその程度の人間であり、その程度の人生を送る。 特に、「その程度」の代表は、「お歳の割には、お若いですね」と云われて喜んだり、「お歳の割には、お元気ですね」と云われてその気になる類(たぐい)であり、また、こうした言葉を口にする類も、不躾者である。「その程度」の人間になるな。 また、これがどうして「不躾」にあたるか、分からないようでも困り者だ。 更に、目上に対し「ごくろうさま」とか、「お疲れさんでした」等と云うのも非礼であり、これはあくまで目下にかける言葉である。 もし年配者に「ごくろうさま」とか、「お疲れさんでした」等とかけて、これを喜ぶようであれば、その年配者はそれ迄の人であり、本来ならば怪訝(けげん)な目をする筈である。 「ごくろうさま」「お疲れさんでした」という言葉は、云うまでもなく「労(ねぎら)いの言葉」であるが、これは目上が目下にかける言葉である。それを無視して、目下から目上に、労いの言葉を掛けるのは逆位であり、子供が大人に向かって掛けるとの同様、「小賢しく映る」のである。 見え透いたお世辞は、誤解されて侮蔑を招くだけである。言葉をもっと勉強すべきである。 特に最近は遣っているのは、自分が電話を掛けた先の相手に、目上であろうが目下であろうが、関係なしに「お疲れ様です」という社交辞令のような挨拶を交わして、用件に入る若者や中高年が多くなったが、これは正しい日本語を知らない「その程度」の人間である。言葉使いも慎重を帰さなければならないが、「その程度」と思われる、恥辱に対しても、充分に反省しなければならない。 十二カ条、じろじろと見る非礼はするな。また、上眼遣いはするな。 相手を興味ありげに見る事は、非常な非礼である。また、見られた方は、非常に不愉快を感じるものである。しかし、これは他人から指摘されるまでは、中々気付かないものである。 喩えば、飲み屋等に入り、それまで中に居た客が、一斉に自分の方をじろりと見る事がある。これは決して良いものではない。しかし礼儀知らずの溜まり場では、こうした事が日常茶飯事だ。 だからと言って、当たり前の事だと思うのではなく、見られた側の気持ちを察するべきである。 「見られたって、どってことないではにか」という者が居たら、その人間は鈍感であり、観察眼に欠ける人間だ。 また、その人間こそ、「どってことない」人間である。 ヤクザ等が「顔を見た」「ガンをつけた」等と云って絡んで来るのも、絡まれる側に落ち度があるのである。ヤクザ者だから突っかかったり、いちゃもんを付けて来ると考えるのは、お門違いであり、礼儀を知らない自分の方に大きな問題があると云わねばならない。 更に、「上眼遣い」なども、見られた方は非常に不愉快な眼である。知性の欠けた眼とは、こうした眼のことを言うのである。 「眼は口ほどのモノを言う」という諺があるが、まさにその通りだ。 心の窓は眼であるが、眼の遣い方で、その人の人格が現われる。また、気配、配慮、思い遣り、洞察力なども眼の動きや遣い方に現われる。 我が流で云う、「礼儀」とは、人間観察の事であり、これを正常に働かし、相手の気持ちになって考えれば、眼の動かし方や遣い方は容易に分かるものである。 十三カ条、目上の人間の進路を塞(ふさ)がぬ事。 階段や、通路において、目上が通りかかった時、これを安易に塞いでしまう者がいる。また、目上が階段を昇っているのに、目下は路(みち)を空ける事もなく、平気で下る者がいる。 更に、目上と目を合わせながら、目礼一つしない者がいる。 では、こうした場面に遭遇したら、どのようにしたら良いか。 まず、相手の眼が合えば必ず目礼する事だ。そして直ぐに視線を外す事である。これこそが護身術なのである。次に、心もち腰を折り、相手に路を空け、壁の傍(そば)に身を寄せて、相手の通り過ぎるのをやり過ごせば良い。 また、我が西郷派大東流合気武術では、こうした際に、もし通路で目上に出合った場合、「五尺飛び退(の)いて間合をつくれ」と教える。そして「必ず目礼せよ」と教える。 ニアミスもそうであるが、人と接触しそうになった場合や、目上にぶつかりそうになった場合は、咄嗟(とっさ)に身を退(ひ)く事だ。そして何よりも間合を作り、速やかに攻撃圏外に出るという事である。絶対に相手の制空圏に入ってはならないのである。不覚や隙をつくると、いつ、何が飛び出して来るか分からないからである。 武術を志す者であれば、これくらいの素早さは養ってもらいたいものである。 十四カ条、稽古中の者、仕事中の者に挨拶を送ったり、声をかけるな。 万一、声を掛けた場合は、その返答を求めず、その場から用件だけを述べて速やか立ち去れ。一心に稽古に打ち込んでいる最中や、一心に仕事をしている最中に声をかけるのは非礼であり、どうしても用件を述べなければならない時は、要件のみを伝えて、返答を求めず、その場から直ちに立ち去らなければならない。これを「黙認の礼」と云う。 十五カ条、他人に向けて、人さし指を指すな。 指を指す事で、見知らぬ他人から誤解される事がある。また顎(あご)でしゃくって、「あいつだ」と他人を指すな。遠くから凝視されれば、敵意のある行動に映る。争いの原点も、こうした所に起因する。 十六カ条、相手の経験や見識に敬意を払え。 無理に背伸びして、相手と肩を並べるような同格意識を持つな。常に、相手に一歩先譲り、一等下に我が身を置いてこそ、その身の安泰は図れる。同格・対等であっても、決して張り合うな。張り合う人間は、劣等感が強いからだ。 相手から一目上に置かれるよりは、一等も、二等も低く置かれることを気にも掛けず、淡々とする中に、将来の大物の気風が養われる。相手に譲ることだ。 十七カ条、同情を求めるような話をするな。同情は軽蔑を招くし、低く見られる。 よく、「親が病気で……」とか、「交通事故に遭遇したので……」という切出し方で、「それでも頑張っている」とか、「それでも来たやったのだ」という恩着せがましい言い方をする者がいるが、こうした、恩を着せ、同情を求めるような言い方は、自分を軽く見せる元凶となる。 喩え、そうであっても、こうした事は黙っておいた方がよい。どうせ後で知れる事であり、無言の方が高い評価を受ける。そしてこの時、はじめて本当の同情を得る。 身内の病気や不運を表面に出し、同情を得ようとするのは卑怯者のする事である。 十八カ条、言葉を軽々しく遣い、文字遊びのように弄(もてあそ)ぶな。 言葉を軽んずる事は、品格を下げる事である。また、義理人情や、信義と云った言葉も、軽々しく遣うな。品位を自ら下げている人間に、義理人情家は居ず、信義家も居ない。こうした言葉を平気で遣う人間は、所詮(しょせん)その程度の人間である。 言葉は重く用いられてこそ、不言実行の行動律があるのだ。 十九カ条、入室の心得を徹底すべし。障子や襖(ふすま)の外では、必ず坐って声を掛け、応答を得て入り、退る場合は一礼すべし。特に目上の者に対しては、これを重要視せよ。 二十カ条、モノの上は跨(また)がず、蒲団の上や、畳の縁(へり)は踏むな。 また、刀剣や木刀、その他の武具を跨ぐのは言語道断・心行処滅。 二十一カ条、古参と云えども、思い上がって隙(すき)を作るな。 目下の前では警戒を怠らず、横柄な態度をとるな。後で寝首を掻かれ、怨まれれば、倍の仕打ちを受ける。普段から率先して襟(えり)を糺(ただ)せ。古参は特に、後進の手本になる立場にある事を知れ。立場意識を明確にさせる事こそ、古参と云われる者の使命である。 二十二カ条、へりくだったつもりでも、非礼がある事を忘れるな。 自分を低きに置き、卑下(ひげ)する事は、同時に卑下傲慢(ごうまん)になる事がある。安易な卑下は、一種の慢心と心得よ。「へりくだる」ことも、一歩間違えば、驕(おご)る事になるのだ。 度が過ぎた謙遜は、慇懃(いんぎん)無礼であり、遜(へりくだ)りも、過ぎれば、相手の恨みを買う。 二十三カ条、服装や容儀は質素、清潔、機能美を重んぜよ。 時と場所に応じて頭を遣い、また、直立姿勢、坐り方、椅子の遣い方など、きびきびとした爽やかな動きを徹底せよ。そして、「清潔である」ということは、悪臭も漂わせないと言うことだ。表面ばかりを身奇麗にしても、中から悪臭を漂わせていては、不作法の限りであり、軽薄の至りである。 二十四カ条、跫音(あしおと)を立てて歩くな。 重心を「湧泉」(ゆうせん)の位置より先に置き、踵(かかと)をついて歩くな。引き摺って歩くな。歩行は、速過ぎず、遅過ぎず、足頸(あしくび)や膝を柔らかくして歩け。躰の重心軸を崩すな。跫音は敵に自分の居場所を教えるばかりでなく、そこに向かって飛び道具が飛び出して来ることを忘れるな。気配を悟られぬ修練をせよ。 二十五カ条、食事は、自分の育った環境や育ち方が克明に現れるものである。 品位や人格も此処には顕われる。充分に警戒すべし。好き嫌いで食べるな。迷い箸、ねぶり箸などの卑しい箸遣いをするな。料理の味を見ない内に、醤油やソース等の掛け物を勝手に付け足すな。無態(ぶざま)にガツガツ喰うな。箸は正しく遣え。正しい箸の遣い方は、指の握りは箸の末端部分を握り、食べ物を掴む箸先の部分は、先端から5mm以内にとどめよ。こうした掴みは、指を強める訓練にもなる。 食事中、不愉快な話題をするな。食べ物を咀嚼(そしゃく)する際は、ぺちゃぺちゃ音をたてるな。口は閉じて噛め。口で息をせず、鼻で息をせよ。 食事後は、目上より先に席を離れるな。どうしても離れなければならない事情がある時は、許可を得て行え。また、自分が食事を終了しているにも関わらず、いつまでも席に座って、テレビを見続けったり、新聞や雑誌などを読み続けるな。 二十六カ条、恥辱(ちじょく)に対しての感覚を磨け。憚(はばか)る事を知れ。卑怯未練は行うな。失敗を誤魔化すな。最初から弁明して、隠蔽(いんぺい)工作を行うな。失敗は恐れてはならぬが、同じ失敗を三度するな。無抵抗な人間に無意味な攻撃は行うな。他人の醜態を笑ったり、真剣に学んでいる時に崩した姿勢で高処(たかみ)の見物をするな。 恥辱意識の低い者は、自分の底を見られてしまう。「何だ、あいつはその程度の人間か……」と思われる恥辱(ちじょく)に対し、特に敏感である意識を高めよ。 二十七カ条、「世話になった」「恩を受けた」と、口先だけで唱えるのは「人間のクズ」である。 真当(ほんとう)の武人たらんとすれば、この世話になった口先以外で恩返しせよ。「恩」は返す事が出来てこそ、「恩を受けた」ことは成就するのだ。 口先だけで唱えるならば、その人間の人格と品格はそれ止まりである。恥辱に対する意識と共に、世話になったり、恩を受けた事の、口先以外の恩返しをせよ。恩返しは、その後の自らの行動が最良の恩返しとなる。 ニ十八カ条、発音や言葉使いは明瞭(めいりょう)に行え。報告は簡潔を旨とせよ。無駄な形容詞や前置きは省略して、単刀直入に述べよ。社交辞令的な、紛らわしい言葉を前置きに置くな。 二十九カ条、見送りや出迎えは内弟子の義務である。 また宗家や目上が帰館した時は、玄関に出迎えるのが基本である。恭(うやうや)しく振る舞う事を旨とせよ。自分の信じるものを、自分で汚すような事はするな。 三十カ条、客を迎える場合の迎接については、その30分前に準備を終(お)え、通常の場合は玄関で出迎えるが、相手方がはじめて訪問する場合は、最寄り駅まで出迎えに行くのが礼儀である。 また客を案内する場合は、客の左後ろに退(さが)り、右左の方向は右手を差し出し、方向を指示する。この時、足の歩調は客に合わせよ。 荷物を持っている場合は、「お持ち致します」と断って持ってやり、丁重さを宗とする。 更に、自分では丁重で行っているつもりでも、自己満足に陥る事なく、相手本位で物事を考え、客観的な迎接態度をとれ。人格や品格の評価は、こうしたところでも、既に下されている。 三十一箇条、人に何事かを依頼する場合、その相手に依頼せねばならぬ事情がある事を即座に察せよ。 人が、自分に何事かを頼む場合、頼む側が無知であっても、そこに誠意が感じられるようである場合は、その依頼事を引き受けよ。 喩え、切出し方が下手で、タドタドしい稚拙(ちせつ)な喋り方であっても、頼む立場の人間としての自覚があり、誠意があるならば、それは赦(ゆる)されるべきであろう。 しかし、言葉爽やかに、小賢しい頼み方で、自覚に欠け、狡(ずる)賢い印象を受けたならば、この頼み事はキッパリと断るべきである。こうした者の依頼を受けると、「自分の都合で頼んでおきながら」という後悔をする事になる。 この時に判断基準は、依頼者に自覚と誠意と、礼儀が有るか無いかの、有無である。また、精神的内容と、外に顕われて来る型との関係を注意深く観察する必要がある。人間は、万人が共通でない事を知れ。 三十二カ条、自分の非に気付いたら直ちに謝罪せよ。 人間は、人間なるが故に過ちを犯す事が多い。特に若い内は、過ちを犯す事が多い。しかしそれは、その者の鈍感さから来るものではない。多くは先入観から起ったり、誤った固定観念から起ったりの、習慣性から来るものである。 人間の弱点の一つである自己中心的な発想の習慣は、齢と共に薄らいで行くが、これに合わせて礼法を体得すべきである。これが体得できれば、「詫び上手」にもなるのだ。 トラブルは出来るだけ避けなければならないが、人の世はトラブルがつきものであり、その時の準備を怠るな。人間の「格」は、詫び方で決まる。 三十三カ条、自分勝手に物事を運ぶな。 失敗の多くは、「報告」「連絡」「相談」を行わず、自分の裁量で切り回してしまう事である。最早そうなると、人間の上下関係は不和状態になり、上士は自分の意向を聞き流されたと誤解したり、無視されたと思うであろう。 その後の人間関係を修復するには、かなりのエネルギーが必要である事は、想像に難くない。そうならない為には、「報告」「連絡」「相談」を厳守し、これを「ホウ・レン・ソウ」と解しておくと無難であろう。 三十四カ条、目上に宛てる書簡については、充分に文字の点検を行うべし。 特に誤字を用いて、目上の名前を書いたり、自分でもこれに気付かないと言うのは情けない限りである。自分の教養も丸出しになる。 特に昨今は、コンピュータのワープロ機能が発達した為、誤字の儘、目上の名前を保存して、これをそのままプリントアウトして、書簡等を送りつける者がいる。名前に用いる漢字が誤字である場合、相当な非礼に当るので、書簡における漢字は、再点検の再点検が必要である。 三十五カ条、「文は人なり」の格言を忘れるな。 その人にあっても、その人物が如何なる人か、よく分からなかったが、その人の文章を目にして、はじめてその人柄が理解出来たという事はよくあることである。話して分からなかった相手の人柄が、文章になって、よく理解できるという事は、よく覚えておくべきである。 言葉と言うものは、「光透波」(ことば)の意味からも、これは宇宙の波動から起るもので、その波動は「正直でありたい」という事が基本となる。言葉は音色のよるものばかりではなく、文字による伝達方法がある事も知れ。 そして「正直な光透波」は、必ず重量感を伴うものである。 三十六カ条、電話の掛け方には、充分に注意を払うべし。 電話という道具は、相手に電話を掛けた時、相手をわざわざ「電話口まで呼びつける」道具であるという事を忘れてはならない。 呼ばれれば、出ない訳にはいかない電話という道具は、その特性ゆえに、軽率に用い、節度を失った形で遣えば、これこそ非礼の最たるものになる。これを充分に承知するべきで、「呼び出し方一つ」においても、そこには利用する者の品格が現れるものである。そして「相手を、わざわざ呼びつけた」という事を弁(わきま)えておかねばならない。 以上のような「弁え」こそ、礼儀であり、礼儀を心得ておけば、決して「オレオレ詐欺」など、容易に引っ掛かるものではない。これに引っ掛かる者は、自分自身にも礼儀がないからだ。 礼儀に則した手順で考えるなら、仮に親子であっても、夫婦であっても、まず、名前を名乗るべきであり、こうした教育が家庭でなされてない家では、「オレオレ詐欺」など、「振り込め詐欺」に引っ掛かり、老後の貯えを一挙に奪われてしまうのである。 詐欺を働く者ばかりの責任ではなく、礼儀に照らし合わせれば、自分自身も「オレだ」とか「アタシ」と云った物言いで、相手を確認できずに電話を遣っていた事が裏目に出たと言えよう。 礼儀は、ニアミスなどの物理的な危険から身を護るだけではなく、経済的にも大事な生活の糧(かて)を、危険から護ってくれるのである。 三十七カ条、ツキに見放されたら、直ぐさま退却せよ。 負け将棋を、「もう一番、もう一番」と繰り返すのは、その人間に「堪(こら)え性」がないからだ。ゆめゆめ、最後の大逆転がある等と、絶対に期待しない事である。 「期待」は、希望的観測であり、そして断じて希望などではない。 期待は将来その事が実現すればいいと、当てにして待ち授(う)ける事であり、期待につきものなのは、「裏切られる」「騙された」「当て外れ」などの失望であり、この事をよく理解して居なければならない。 三十八カ条、美辞麗句(びじれいく)に踊らされるな。 人はタテマエからなる美辞麗句に誘導され、ついには踊らされて、現実の厳しさを思い知らされるものである。 人間は少年時代から、タテマエ論に踊らされ続けて来た。 親からは「よく勉強しろ」と云われ、学校の先生からは「世の中は厳しいから一生懸命努力せよ」と云われ、そして社会に出ると、先輩からは「誠心誠意を以て事に当たれ」と云われ、上司や経営者からは「真心を以て客に接せよ」と云われ続けて来た。 ところが、これを云った張本人はどうか。果たして厳守しているのか。以上の言葉の多くは道徳論から発している。 しかしよく吟味すると、どれもこれも、実行不可能な許し難いものばかりであり、これらの言葉を発した本人すら、不言実行が不可能なものばかりである。この根底には儒教にあるような、聖賢君子の説教が鎮座していて、人は、このように自分では不言実行が難しいタテマエばかりを、年端のいかない目下の者に押し付けると言う事が明白となる。 そして更に洞察すると、どれもこれもが欺瞞(ぎまん)に満ちている。 日本人の多くは戦後民主主義教育の中で、日教組の言葉に踊らされ、人間の本質を見失った表面的な美辞麗句に踊らされ、その中で「エゴイズム」と「平等」と「平和」という言葉を押し付けられて来た。どれこもれも実戦面において、手練手管に欠た、修羅(しゅら)の世界で生きるには、あまりにも説得力がない「評語」に踊らされぱなしであつた。 現実に目を向け、これをじっくりと観察し、洞察する力を養わなければならない。 三十九カ条、希望的観測ではなく、「今」という現実に目を向けよ。 人間で一番大事なのは、「自分自身の志向」を明確に規定する事である。 会社人間ならば、自分は将来社長を志向するのか、それとも重役や部長止まりなのか、あるいは平社員を通してマイホーム主義者となるのか、定年後は夫婦で古寺巡礼にでも出られれば、それでよしとするのか、こうした思いを定めるべきである。 喩えば、自信を持って社長を目指す人ならば、「韓非子流」の道をとるべきである。儒教的なタテマエ論に踊らされるような、甘い考えでは、現実の実戦に勝利する事は出来ない。 また、精々努力して部課長止まりだと、昇進を諦め、「清貧」に甘んじて、悠々自適(ゆうゆうじてき)の老後を望むのなら、ないまぜ世界で、適当に生きたら宜しかろう。 しかしこうした場合にでも、部下を可愛がり、目下に目を掛けたとしても、彼等に迎合していい気持ちになっていると、やはり足許(あしもと)は掬(すく)われるのである。そして、やがては彼等の軽蔑の対象になり、思い知らされ、傷心と僻(ひがみ)で、老後を送らなければならなくなる。 「そのうち、何とかなるだろう」的な、甘えが大き過ぎれば、決断の下せない人間に転落してしまう。今日の多くの日本人は、こうした「甘さ」の中で生きて来た。 その証拠に、上は大臣から、下はホームレスに至るまで、自分の目指す道と、自分の意思に対して「責任をとる」という事を怠って来た。その他多勢の「中」にランクされる人間は、いつの時代も、自分を弁明工作し、責任転嫁をして、自分に火の粉が降り掛かる事を回避し、保身と安泰を図って来た。 そして、その根底に流れている元凶は「礼儀知らず」だった。 やがてこの「礼儀知らず」は、「恥知らず」となり、恥辱に対する感覚を希薄にし、恥の上塗りをしても、痛痒(つうよう)を感じない鈍感な人間が多く出現したのである。 四十カ条、恥を知る人間は少なし。礼儀を知る人間は少なし。だからこそ「礼儀」は大事である。 恥辱に対する感覚と、責任をとる感覚が鈍麻になると、人間はいつの頃からか「あわよくば」という考えを抱くようになる。 クズ程こうした考えは濃厚であり、喩えば、自分がある女性に魅せられて好きになったとしよう。この時に最初に思い付くのは「あわよくば……ものにできる」の、軽薄な思考である。 「あわよくば」の思考は、その思惟(しい)に対して、断固として責任をとると言う態度でないので、甘えが表面化して来る。肉欲目当ての不倫も、自由恋愛も、総べてここから始まる。 現代はこうした、「甘え人間」が増え始めている。しかし、今後はこれも通用しない世界の為来(しきた)りとなって行くであろう。 恥辱に対する感覚を敏感にさせ、「恥を知る」という感覚を磨かなければ、やがて身動きが出来ない窮地に追い込まれるのは必定であろう。 四十一カ条、我が流の掲げる禁忌事項は、「一度読んだだけで、分かった」と言うものではない。繰り返し読み直し、拳々服膺(けんけんふくよう)する必要がある。 本ページに書かれた事柄は、内弟子志望者に対し向けられてものであるが、何もこれを目指さなくても、ここには多くの人生訓が満載されている。少なくとも志を掲げ、将来大きく羽ばたこうとする者は、繰り返し読む必要がある。 さて、志とは「絵に描いた餅」ではない。また、漠然とした希望的観測でもないし、夢見る乙女のような、淡い期待のようなものでもない。現実をしっかりと見据え、「今」を把握しなければならない。「今」という現実に、過去は存在しないし、未来も存在しない。「今」と言う現実に目を向け、志を抱くのであれば、志というこの実体が如何なるものか洞察しなければならない。 志は、権力に対する意欲と表裏一体である事を知らなければならない。それは、権力を得なければ、志は達成されないからだ。 日本人の中には、先の大戦の敗戦から、権力は厭(いや)だと云う進歩的文化人のような考え方をする人が居るが、その人は「権力が厭だ」というのではなく、それを振るうのが「怕(こわ)い」と恐れているに過ぎない人である。 つまり権力とは、「責任を担う」という事であり、責任を担うのが嫌いと云うのは、それは許し難い欺瞞者(ぎまんしゃ)と云うべきだろう。また、極めて未熟と云う稚拙(ちせつ)ぶりで、小娘倫理に支配されていると云うべきであろう。 志を掲げるのなら、小児エゴの美辞麗句から抜け出し、情緒主義的な思考を総て取り払わなければならない。人が良くて、弁説爽やかで、奇麗事だけを吐く、「ヤワ」な八方美人や、優柔不断な思考は、総べて撤去しなければならない。またこうした人間の言は、嘘が多い。裏があると心得よ。 志は成熟した大人の倫理で考えてこそ、成就されるものと心得るべきである。そして、その計る尺度も、やはり「礼儀」の有無にかかっている。 四十二カ条、志を掲げるならば、もっと『韓非子』を勉強せよ。 『韓非子』の「内儲説篇上」には、こうある。 「賞誉が不充分で、ハッキリしないと、臣下は働かないが、賞誉が充分で、確かだと、臣下は命賭けで働く」と。 要するに「義」とは、裏を返せば「利」という事になるのである。博徒が好んで遣う「義理人情」もここから派生したのだ。 人間関係に、人間が介在する以上、そのこのは利害関係が働くのは当然の事である。そして現実を見れば、「礼儀」という尺度で、それに照らし合わせて行かないと、不安定な利害関係が発生するのだ。だからこそ「礼儀を糺す」とは、警告の意味をも含んでいるのである。 四十五カ条、『韓非子』の法治理論は、儒家の道徳説に対峙(たいじ)し、極めて現実主義である。 韓非は弱肉強食の戦国時代に生まれ、そこで育ち、人間の通性を鋭い目で観察した。そしてそこから得られた答えは、人間は利慾によって動くもので、賞を喜び、罪を憎むというものだった。 したがって道徳には規制力がなく、賞罰だけに人間を動かす力があると言う結論を導き出した。 この結果から、韓非は、法は人間の利欲を巧みに利用する事によってのみ、その目的が達成されると考えたのであった。 今日でも、世の中の現実はこの理論で動いており、決して道徳家のお説教で動いているのではないと知るべきである。ゆめゆめ道徳家の道徳論で、世の中が動いていると云うような、情緒主義に陥る事無く、「今」と言う現実をしっかりと見据えてもらいたいものである。これが理解できれば、人はそれぞれに自分の立場と言うものを自覚する事ができ、そこには自ずから、自分のとるべき態度と言うものが明確になってくる。 その場合、その際の言動や、態度の規矩(きく)、あるいは羅針盤の役目を担うのが「礼儀」から派生する「筋目意識」と言うものである。筋目意識を明確にさせる事によってのみ、現世と云う現実は、乗り切る事が出来るのである。 四十六カ条、筋目意識とは、「筋合い」の論理である。 人は、「君に指図される筋合いはない」とか「こちらから出向く筋合いはない」などと云って、「筋合い論」を強調する。 この「筋合い」の中にこそ、人間と人間の関わり方が潜んでいる。 「関わり方」とは、裏を返せば「礼」が深く関わっている現象であり、地上に人間が存在する限り、人間の生活に付き纏(まと)って来る現象である。したがってここからは、各種様々なトラブルが発生し、「見識」と云う意識を問われる事になる。見識の疎(うと)い者は、蔑まれ、高い者は「礼儀を知る者」として高い評価を受ける。どの社会環境も、どの階級も、何処の世界でも、この「筋合い」の論理が働いている事を忘れるな。 四十七カ条、謝礼・謝儀の意味を把握せよ。 本来道場は月謝で運営されるものである。月謝とは、月々に門人から支払われる謝礼であり、謝儀である。これは商行為における対価の対象ではない。一般の習い事でも同じであるが、月謝は商い取引の対価ではないのである。 したがって謝礼は謝礼であって、給与のそれとは異なるのである。つまり「手当て」や「給与」とは異なる性質の報酬であり、道場経営者は、商店の商店主とは異なるのである。そこに働くのは師弟関係の感謝の意味合いを含んだ、謝儀の意識があり、師弟関係は商店と顧客の関係を云うのではない。修行の世界のそれを指している事を忘れるな。 謝礼と対価の違いを正確に把握せよ。 また、高い金額の謝礼を悪いとし、少ない謝礼の金額を良いとする考え方に捕われるな。謝礼の金額を高いと考えるのは自分か金に汚く、ケチであるからであり、本来は謝礼に安いも高いもない。 四十八カ条、師匠が門人を表する事はあっても、門人が師匠を表する事はあり得ない。 武術修行の基本は、その師弟関係によって行われる。したがって師弟関係は対等な相互関係ではない。同格でもないし同等でもない。まして平等などでもない。ここには厳しい上下関係を持つ。 この世界では、師から門人に対して褒賞として某かの者が与えられると云う事は伝統的なことであるが、逆に門人から師に対し、物が与えられると云う事はあり得ない。 物が贈られる事はあっても、それは「献上の品」であり、弟子が師に対し、「与える」ということではない。 金銭でも同じ事である。金銭を与える事を「金一封」などで表現するが、師から弟子に対して「金一封」はあり得ても、その逆はあり得ない。もし、こうした事があり得れば、それは言語道断の非礼である。「献金」とは異なる性質を持つからだ。 仮に、「献上の品」に現金が用いられるような事があっても、それは「金一封」と云う性質のものではなく、「お車代」とか「お食事代」あるいは「御神酒代」とか「御玉串代」というのが本当であって、報償金に当る語を用いた「金一封」は非礼である事を知らねばならない。 四十九カ条、師弟関係のけじめが崩れれば、その道は滅ぶ。 今日「けじめ意識」は、急速に崩壊の一途を辿っている。 「けじめ意識」とは、「序列意識」に他ならず、師匠と弟子の関係や、先輩と後輩の関係が崩壊すれば、そこには最早、「礼」の感覚は失われ、「謝礼と対価」の違いも分からなくなり、師と弟子が「対等に物を言い合う」ようになり、この世界特有の「厳しさ」と「格調」が失われる事になる。 特に、道場主を「○○さん付け」で、呼称し合う道場などはこれに入り、既に「けじめ意識」は崩壊していると言えよう。中には、「○○さん付け」を民主的と歓迎する向きもあるが、修行の世界に平等も民主的な面も無関係である。あるのは「厳しさ」と「格調」だけである。これに民主主義的要素を持ち込むのは間違いである。 これでは民間の生活者レベルのそれであり、世の中を対価で考える、資本主義の「ギブ・アンド・テーク」の世界に成り下がるのである。修行の世界の「厳しさ」と「格調」を、修行者は持ちたいものである。 五十カ条、門人間で金銭の貸し借りはするな。 金銭の貸し借りは、人格を低くからしめる行為であり、貸した者は借りた者に返済を迫り、借りた者は貸した者に頭の上がらぬ状態を作る。借金はそもそも、自らの人格を低くからしめ、品格を損なう行為である。 以上、小文に纏(まと)め、最低限度の「謙虚さ」と「礼儀」を挙げてみたが、ここに挙げた小文に接して、はじめて知ったと云う人が居るかも知れないが、これは作法としての道理を考えれば、案外心得るべきものであると気付く筈である。 さて、本ページで掲げた「礼儀とは何か」という事に迫れば、まず「裸の現実」を直視し、人間の基本的な性情を洞察して、それに基づくタテマエの裏に隠れたホンネを抽出し、分析した結果、様々なトラブルを回避して、自らの生命並びに財産を防禦する事である。 この防禦は、組織や国家の繁栄は勿論の事、個人においても、「志」という原点を見詰め直す事に寄与し、発展・繁栄に貢献できるものと信ずる次第である。 |