内弟子制度 26



内弟子近況だより1


●人間とは何か、自分とは何か

 内弟子は将来の道場師範を目指し、今は下積みの厳しい修行を重ねれいるのです。以上のような遊びの反面がある一方、「人間とは何か」「日本人とは何か」と言うテーマに向かい、これを日々自問自答致します。
 今では殆ど顧みられなくなった「国旗掲揚」も、内弟子にとって重要な「日本人の意識」を回復させる為の修行の側面になっています。


尚道館では日曜日と祝日には、玄関前に国旗が掲揚される。どうして日本では自国民が国旗を軽視するようになったのでしょうか。いったい日本人の誇りは何処に消えたのでしょうか。訝しいと思いませんか!


 また、内弟子寮・陵武学舎内の樣子と、月に一回の無礼講?の親睦会あります。
 内弟子が寝起きし、また勉強する部屋を、通称「ねこ部屋」と言います。「臭い?」のでこうした名前がつけられました。
 宗家先生は、「お前らの部屋は臭くて叶わん。ベットの下に豚でも飼っているのではないか」というところから、「ねこ部屋」の愛称がつけられたのでした。

内弟子寮の部屋の入口に架かる「陵武学舎」の看板。
 内弟子が学ぶ、唯一の宿舎です。ここで学科の勉強が夜十二時以降も続けられます。
室内の樣子。
 割り合いと、さっぱりと片付いているように思いませんか。
 しかし、この部屋は何故か「ねこ部屋」と呼ばれます。あちらこちらに消臭剤がある。
月に一度の親睦会には、こうした御馳走も出され、一時の安らぎを内弟子に与えてくれます。
 親睦会には、元板前だった宗家先生が腕を振るって、われわれ内弟子に、美味しい料理を振る舞ってくれます。厳しい修行ばかりが、内弟子の生活ではありません。この時ばかりは、月に一度の無礼講?なのです。尚道館の道場性の方々と、楽しい一時を過ごします。

 世の中には、様々な世界の内弟子と言うものがあります。しかし尚道館の内弟子は、タレント養成や芸能の世界のものとは異なります。芸を売る「芸者」になるのではなく、自らが道を求める為に、「武とは何か」「自分とは何か」という、次元のものを追求し、「求道」を目的にした自己探索の世界のものです。

 「自分とは何か」と言う事を、真当(ほんとう)に知る人は少ないようです。内弟子のわれわれも、まだ「自分とは何か」と言う事が、全く分かりません。しかし、かつてお釈迦様が言ったように、自分が探すべき相手は、明らかに「自分」なのです。

 禅の書である『碧巖録』には「己(おのれ)に迷って物を逐(お)う」という一節があります。そして、次のようなことが書かれています。

 ある時、お釈迦様は、森の中で静かに坐禅をしておられました。そこへ一人の若者が血相を変えて遣(や)って来ます。この若者は自分の所から逃げ出した女を探しているところでした。
 若者は、お釈迦様に、「いま女が此処に逃げて来なかったか」と詰め寄ります。そして、「この女は、今まで自分の女であり、それが逃げ出して捜しているところだ。隠しだてをすると容赦しないぞ」と、お釈迦様を脅迫しました。

 お釈迦様は、にこやかに笑われて、「あなたは、その女を捜すより、ご自分を探しては如何ですか。この方が余程大事ではありませんか」と言います。
 これを聴いた若者は「ハッ」とします。自分の心を、一瞬覗き込んだからです。
 若者は、お釈迦様の一言で、自分の愚かさに気づいたのです。若者は礼を言って立ち去りました。

 人は皆、自分の事を蔑ろにして、金や物や色を追いかけます。またそれは、財産であったり、地位や立場と言った面子(めんつ)に囚(とら)われて、結局「物を逐(お)う」ことに奔走します。形や物に囚われている間は、まだ真当(ほんとう)の自分を探し出す事は出来ません。欲望や無知の結果、「己に迷う姿」が、実は物を逐う自分の姿であって、物質文明と言う社会構造の中で、「物に囚われている」というのが、今日の現代人の姿なのです。

 「物に囚われると言う姿」は、それ自体が「迷い」や「悩み」となって苦しみの中に墜(お)ちて行く姿であり、結局、滅びの因子の中に、我が身を置く事なのです。心の健康を蔑ろにして、物にばかり囚われていると、結局は苦海に沈んでしまうのです。病気と言う現象も、こうした結果であり、思い悩み、迷った挙句が、苦海に身を沈める事にもなるのです。あなたの心は、健康に、正しく機能しているでしょうか。

 私たちが身を置くこの物質文明も、やがては滅亡への道を辿る事は確かです。栄えるものは、必ず滅びの日を迎えます。それは繁栄と言うものの中に、「滅びの因子」が撒かれているからです。
 物質文明の偉大さに心を酔わせていると、果てしない所有欲が、我が心を蝕んでしまいます。現代社会における、より早く、より快適に、より便利に、より豊かにという、資本主義の競争原理は、科学の力に頼り、物質の力に頼ろうとする社会システムです。
 このシステムが作動している間は、人間はこのシステムの裏側に隠れている、もう一つの「凶事」の事に気づきません。

 しかし今まで、巧(たくみ)に隠れていた凶事も、少しずつ姿を現わし始めました。
 それは現代の子供達の姿を見る事によって、明白となります。
 特に、十代後半から青年期を迎えた子供達を見れば、その凶事は一目瞭然です。彼等は、母親から何不自由なく育てられ、自分の思い通りに、母親の過保護をめい一杯に浸り続けた世代です。この世代は、積極性と創意工夫の観念に欠けています。定職を持たない若者が増え続け、働こうとしません。また、働く意義に関心を示しません。

 こうした現象は、若者だけとは限りません。老人に於いても、暇に身を委ねて、過去の追憶に思い耽り、新しい目的に向かって生きる事を辞めてしまっています。豊かさの中で、毎日が退屈な、けだるい一日を、どのようにやり過ごすかが、老人達を悩ませる悩みの種で、退屈な日々が老人達の日課なのです。而(しか)して、老人達は温泉旅行へと出かけます。

 文明の凶事とは、こうして、老いたる者も、若き者も一様に襲い、考える事、働く事を停止させてしまうのです。人間がこうした局面に直面しますと、連綿として、先祖から受け継いだ、命賭けの生き態は忘れ去られてしまいます。人類に与えられた「前頭葉」を退化させ、叡智(えいち)を齎す活動は停止されて、もう、これ以降機能する事はありません。こうなった時、同時に古人の智慧(ちえ)も失われます。
 智慧が失われた時、ヒトはサルへの逆戻りします。昨今の性交遊戯の、猟奇的でモラルの低下した節操観念の欠如には、もう既に、人間が獣(けだもの)へと逆戻りして行く、滅びの因子が撒(ま)かれて居る事を暗示させます。

 前頭葉の退化は、やがて「脳軟化症」へと移行し、これまで人類が先祖から受け継いだ前頭葉部分は萎縮し始めます。この萎縮により、脳の重さは減少し始めます。そうなると、人間らしさは失われ、欲望だけを剥(む)き出しにした淫獣へと姿を換えます。最早こうなると、老いも若きも、他人に迷惑をかけながら、哀れな姿に成り下がり、魂の抜け殻(がら)としての生き方しか出来なくなります。
 脳軟化症の現象は、老人ばかりではなく、若者にも及んでいる事は明白であり、現代文明が滅びの道を辿って居る事は、全く疑う余地もありません。

「床に座るのはお止め下さい!」と言う表示警告を無視した少年の無態(ぶざま)な態度。日本人は、いつから、こうなったのでしょうか。

こんな表示マークがあるのは、先進国の中で日本だけ。しかし警告を無視して悪態をつく青少年の態度の悪さは、何とも喩え難い。
最近めっきり増えた、国民のマナーの悪さを指摘する「お願い」の注意文書。一体、この国は何処に向かおうとするのか! 携帯電話を掛け捲る態度の悪さも、老若男女を含めて、いまや日本独特の風物詩になった。しかし、こうしたポスターに殆どが「恥じ」を感じない。

 今日に見る若者のマナーの悪さ、携帯電話やそこから発信されるメールの乱用、地べたに座り込む若者の実態、思慮分別のある働き盛りの壮年層に向けての「チカン防止」の電車内でのアナウンス。芸能タレントやスポーツ・タレントの横柄な喋り方。諸外国からの、日本人に対する侮蔑と揶揄の応酬。先祖から受け継がれた祈りに対する喪失と、感謝を忘れてしまった現代日本人。
 こうした現代の凶事を考えますと、この文明の歪みは、滅びに対する明確な警告かも知れません。しかしこの警告に耳を傾ける人は少ないようです。

 われわれ内弟子に課せられた使命感は、単に武技を極め尽くし、横暴な格闘家になる事が目的ではありません。また、強(こわ)持ての剣闘士でもありません。昨今の、諸外国から侮蔑されてしまった、日本人の「威光回復」と、老若男女を問わない「心の健康回復」です。今日程日本人は、世界からバカにされ、日本人である事を誇りに思わない時代はないと思います。
 資本主義の競争原理を社会システムに取り込み、自分の魂と引き換えにして、黄金の奴隸に成り下がった現実がからです。使い古された言葉に、エコノミック・アニマルという、日本人を侮蔑する呼び名がありますが、これは経済的な利益のみを追求する日本人の労働層を皮肉って言う語ではなかったのでしょうか。

 この侮蔑より、日本人は名誉を回復させ、威光を回復させたのでしょうか。眠れる魂は、また泰平の眠りを、更に貪(むさぼ)ろうと言うのでしょうか。こうした事を分析し、洞察する事によって見えて来る日本の将来は、まさに「亡国」と言う他ありません。

 多発する凶悪犯罪。犯罪の低年齢化。直ぐに切れる青少年の増加。猟奇犯罪の増加。通り魔殺人。都会の陰に潜む無差別な暴力。ドラッグの氾濫。精神異常者の増加。肉食や乳製品食の増加による食生活の欧米化に伴う異常性欲者(食肉や乳製品の摂り過ぎは、性腺を刺激して異常排泄をもたらす)の急増。一時の慰安を求めて風俗に彷徨う大人達の徘徊。不倫を正当化する市民社会運動や同性愛者の増加。自由恋愛にかこつけた小中学生の売春。ストーカーと言う歪んだ愛の保菌者……。これは最早、「亡国」の暗示。
 そして、こうした多発の背後には、現代日本人が忘れてしまった「心の健康」の欠如があるのではないのでしょうか。
 われわれ内弟子は、修行者であると同時に、現代人の「心の健康」を回復させる細やかな伝道者であると自負しているのです。



●修行の日々

 マイペースで一日一日、こつこつと積み上げて行く。これが尚道館・陵武学舎での修行の日々です。その中には自分自身との「葛藤」があり、「諦め寸前の心境」があり、「もうこれで限界」と感じる絶望感があり、しかし、こうした局面は、人生の長い道のりの中の、ほんの一コマに過ぎません。
 明日になれば、こうした、一瞬思い悩んだ邪(よこしま)な心は吹き飛び、新たな活力を得て、希望の明日へと向かいます。 

日々精進。日々、地道な積み重ねである。しかしこれを日々実践出来る者は少ない。受身一つ、満足に熟(こな)せる者は稀(まれ)である。
 そして受身の大事を見逃す者は、ついに基礎稽古の中に極意が内在されている事に気付かないまま、これを軽視し、高級技法ばかりを追い掛ける。
 受身を体感し体得する。それは受身の中に、自分の身を護る「極意が内在している」からである。「日々新たに」を心掛けたいものである。。


 われわれ内弟子寮・陵武学舎の門人は、「日々新たに」をモットーにして、明日への希望を見い出し、日々精進するのです。未来の道場師範を目指し、あらゆる場面の遭遇を想定して、あらゆるものに対処できる能力を養うのです。

 武道ブームや格闘技ブームに踊らされる時代は終わり、真摯(しんし)に日本の将来を見詰める心ある人々はブームに踊らされない、「永遠なる真理」を求めようとしています。その意味からすれば、「おたく」が徘徊(はいかい)する時代は終焉(しゅうえん)を迎えたと言えるでしょう。
 今からの真の武術の目的は、観戦して娯楽としてこれを「観て楽しむ」という時代は既に終焉を迎えつつあり、今からは「人間が生きて行く為の道」を求めて時代が動こうとしています。
 「世界最強」などと、ほざいてみても所詮、人間のする事です。若い時は剛勇を馳せても、年齢と共に齢も取るし、年齢と共に衰退する肉体の醜態は、中年の盛りを過ぎるとこれが如実になります。また、驕りが祟って、病気に身を窶(やつ)すこともなります。是非、人生を長い目で捕らえる必要があります。
 長い人生を考えた場合、「一時の勝ち」は、ほんの瞬(またた)きに過ぎず、過去の栄光は長い人生において、一瞬の「驕(おご)り」にしか値しません。

 われわれ内弟子は、こうした「局面の勝ち」や「一時の驕り」を求めるのではなく、あるいは「一時の若き日の肉体美」を求めるのでもなく、「人生そのものを修行の場」と捉え、「人としての道」を、長い人生の中で体感する事を目的にしているのです。
 生涯滅びない力とは何か。それは年齢に関係なく、自分自身に内在する「内なる力」、つまり「生命の息吹きだ」と体感する「合気だ」と実感するのです。内から湧き立つ「内なる力」こそ、われわれ内弟子が求めた止まないものなのです。



●嘘をつかない。途中で逃げない!

 人生には、挫折や落伍といったものは、何処までも蹤(つ)いて廻るようです。
 わが尚道館・陵武学舎の内弟子修行も、多くの入門者達が途中で挫折し、あるいは落伍して逃げ出して行きました。わが流において、内弟子の全課程を修了した人は、まだ一人も居ないのです。

 宗家先生は、事とあるごとに、「嘘をつかない」「途中で逃げない」「仲間同士の友愛と助け合い」と繰り返しお話になります。
 嘘は、次の嘘をつく為に新たな嘘が発生し、「輪廻の輪」のごとき堂々回りを繰り返します。そして嘘をつき、現実逃避をするという人生を選択した場合、その人の人生は最悪なものになるのは言うまでもありません。

 辛い現実や窮地に立たされて、そこから逃げ出す人は、非常に多いようです。わが流は、内弟子修行に限らず、一般の門人も途中で挫折し、へこたれて落伍し、無態(ぶざま)に尻尾を巻いて逃げ出す人が少なくありません。一つの事がやり遂げられずに、逃げ出し、もっと厳しい人生の現実を、どうして乗り越えて行く事が出来るでしょうか。
 そして逃げ出した者が、逃避後、自称の組織の「長」を名乗り、マイナーな武道雑誌等で、わが流を誹謗中傷し、捏造(ねつぞう)という嘘を語って居る事は、何ともおぞましく、実に情けない限りです。
 果たして、こうした人に輝かしき未来があり、また人の尊敬を得る人生が全う出来、臨終に際しては、見事に臨終をする事が出来るでしょうか。

 宗家先生は繰り替えし、「逃げずに踏み止まれば、また新たな道が開ける」と語られます。窮地に立たされても踏み止まる。逃げずにしっかりと踏み止まる。人生には、こうした「堪忍」と「辛抱」が必要なのではないでしょうか。
 逃げて楽な道を選択した場合、そこに存在するものは病気と貧困と短命です。喩(たと)え長生き出来ても、長寿とは言い難く、目的を見失った生きる屍(しかばね)でしかありません。

 では、何故こうした現実が現象化されるのでしょうか。
 宗家先生は、次のように指摘されます。
 「近代と言う時代は物質文明の恩恵を謳歌(おうか)する時代であり、現代人の多くが“文明”という贅肉を身に纏(まと)っている。それは老いも若きも、男女の性別を問わず同じである。戦後生まれの世代は、幼児のうちから甘やかされ、薬漬けにされ、医者通いに慣れ、欲しいモノは強請(ねだ)れば何でも買い与えられ、辛抱すると言うことが出来ない性格が作り上げられている。グルメ指向に趨(はし)り、御馳走ばかりを口にし、“食する”という本当の苦労を知らない。苦労や苦難からは、逃げる事ばかりを模索し、したがって心身は益々貧弱になって行く。こうした現実を考えると、現代人の寿命は決して長寿ではあり得ない。医療技術の発達で、日本人も世界一の長寿国になったように思う人が多いが、明らかに錯覚であり、世界一の長寿国は、その老人の大半が薬漬けによる生きる屍であり、本当に長寿を全うしているとは言えない」と、厳しく科学万能主義を否定されます。

 また、「同じ釜の飯を食った仲間同士」は助け合わなければなりません。他人の事より自分の事を優先する現代の悪しき個人主義は、親友になるべき友人を次々に破壊して行きます。助け合いの精神はもとより、仲間を食う事を友愛と信じている輩(やから)も少なくありません。「自他同根」の意識が、何故持てないのでしょうか。

 われわれは以上の言葉を、深く肝に命じなければなりません。いくら科学が発達し、技術が進んでも、それを充分に生かし切る基礎体力がなければどうにもなりません。また自在にコントロールできなければなりません。
 此処に人生の原点があり、人として生きる道が存在します。
 心の在(あ)り方が間違っていれば、健康が損なわれ、精神力が強いか弱いかで、その人の人生は大きく左右されます。

 人の顔が様々に違っているのは、「心の現れ」であり、生き方、考え方、思考能力の有無、事物に対する観察力、人に対する態度、体調の違いも、心の現れであるとするならば、その心の現われ方の違いによって、人は、それぞれに様々な人生を作り、運命の別かれ道である、正・不正と、幸・不幸を自らが選択していると言えます。

 嘘をつくかつかないか、逃げるか逃げないかは、その人の心の現れであり、正・不正も、幸・不幸も、自らの判断に委ねられます。
 宇宙の真理は、人類に「無常観」を教えてくれます。止まるところを知らず、常に変化と変貌を繰り返す宇宙は、その「変化する」という現実の中に真理があります。この意味から、人間も変化し続けなければなりません。

 反対に、科学技術と言う知識は、定まった固定物であり、不動、不変、永久と言う錯覚で、大脳に刻み込まれた記憶の一部に過ぎません。これが「固定観念」と云われるものです。そして固定観念は、全ての悩みや苦しみや迷いの原因を作ります。
 一時的に、それが正しくても、あるいは正しくなくても、これが固定観念である限り、「明日」という未来から、「昨日」という過去を振り返れば、「昨日の正さ」は、明日の未来から観(み)て古ぼけたものになり、自在性の利かない錆び付いたシロモノになってしまいます。しかし、これに気付かないと言うのが、「人間の悲しさ」ではないでしょうか。
 「嘘をつかない」「逃げずに踏み止まれば」という信念で、われわれ内弟子も、二年と言う修行期間において、頑張り続けたいと考えております。



●二年間と言う短い期間に隠された「非日常」の修行

 固定観念を取り払い、事物をじっくりと洞察して、正しい観察眼を持つと言う事は、非常に大事なことであると常々宗家先生より聞かされます。
 如何に美しい花でも、鋭い観察眼で洞察すると、虫もついているし、傷もあります。しかし、花はそれなりに美しい事も、また事実です。こう、教えられると、人間の目から観る醜・美は、人間の心の投影である事が分かります。つまり真実は、そのもの自体は美しくもなく、また醜くもないのです。

 われわれは「心のフィルター」を通して、醜美を判断し、喜怒哀楽に振り回されます。しかしこれは心の現れであり、醜美と悲喜を、自分勝手に様々に色づけしたに過ぎません。
 真心をもって観察すれば、「悪い人」が居るわけではなく、観る人の心の中に「悪い人と見える」という、心のフィルターが働く現象が、「悪い人」と定義付けたに過ぎません。

 この事から考えれば、「人の死」も、やはり思い出の中に存在する固定観念であり、死した後は、生前の中がどのように犬猿の仲であっても、その後はさっぱりと清算されてしまいます。
 思い出の中の固定観念は、その人の死によって、その日から変化が無くなり、これまで残留していた怒りや恨みも、やがては、かつて存在した感情もいつしか消え去り、流れ去って生きます。その後に残るものは、清らかな思い出の池に浮ぶ、一片の落ち葉に過ぎません。それを見つめると、何故もっと大事にしてやらなかったのか、何故もっと優しくしてやれなかったのか、という悔悟の気持ちが蘇(よみがえ)ります。

 死に臨んで、総ての「縁(えにし)の糸」は、良縁、悪縁の区別なく、実は自分自身の生涯を、つむぎ出す為の、こよなき「ともいと」であったと、やがて人は気付くのです。
 非日常は、安穏な日常に比べれば、過酷なように肉の目には映ります。しかし、これこそ心のフィルターで捕らえた固定観念であり、こうした固定観念に陥ってしまっては、「魂の進化」は臨めません。「魂の進化」を望むのなら、一線を越え、自らを苦海に沈め、そこから這い上がる挑戦を試みなければなりません。
 われわれ内弟子の修行は、総べて此処に回帰する、掛け替えのない修行をしているのです。


西郷派大東流内弟子修行・修得過程の2年間の区分

拡大表示


 内弟子の2年間の修得過程を段階別に追いますと、上記のような表になります。
 内弟子志願者は、まず入門審査を受け、これに合格しますと仮入門が許されて、三ヵ月間のテスト期間を通じて、「手解き」や、道場内外の「各修行科目」が課せられます。以降、内弟子修行を継続できるか、否かの判定が下され、三ヵ月目に「正式入門審査」が行われます。
 しかし、最初の三ヵ月の仮入門期間を超えきる者は少ないと云う事です。それは自分が計画を立てた「自己カリキュラム」に無理があったり、今まで潜在していた内外の故障や病気が表面化して来て、修行を障げるからです。こうした理由で、わが流の門を去る人も少なくありません。

 さて、正式入門が許されますと、「求道」に応じて、初伝儀法を修得した後、中伝儀法の特訓前期で、第一年目を修了します。修了の基準は「求道」に応じてと言う事になり、求道なき者は、それ止まりで進歩がありません。つまり「その程度」の人間と言う事になります。

 二年目に入りますと、奥伝儀法の特訓後期を経て半年後、次は卒業テーマを課題とした修行に入り、まる二年目を経て卒業審査を受け、これに合格すれば、晴れて西郷派大東流合気武術の正師範の称号が与えられます。これも自らの「求道」によるものです。

 入門から卒業まで、特訓特訓の連続で、「わずか2年」と言う短い期間で西郷派大東流の儀法をほぼ総べて把握して行くのですが、これまでにわが流の内弟子課程を正式に卒業した人は、まだ一人も居らず、多くの門を叩いた、腕に覚えのある人達は途中で挫折し、あるいは落伍して行きました。挫折者の多くは、物事を深く洞察する観察眼が、欠けていたとも言えます。

 一口に「わずか2年」と言いますが、この二年間は、人生に於て、非常に密度の濃い二年間である事は言うまでもありません。
 なぜなら、普段では味わえない、「他人のメシを食う」という修行を通じて、配慮と気配りを学び、その中から人に接する「接し方」を学んで行きます。したがって猛練習をしたり猛稽古をすると言った肉体酷使だけを目的にするのではなく、「人間としての行儀作法」の基礎から、徹底的に鍛え直して行くのです。