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内弟子制度 29
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| これまで数々の質問が「内弟子制度」に寄せられましたので、その質問に対し、読者諸氏の皆様方に対し、応答する形で回答して行きたいと思います。 なお、本文を作成するに当り、曽川和翁宗家先生から、過去の内弟子に関して同趣旨の内容例をお聴きし、それを参考にさせて頂きました。 Q1. 稽古内容は厳しいのでしょうか。また、体力がある程度必要なのでしょうか。これまで運動経験がないので、もし稽古が、猛稽古ならば運動経験の無い者でも、修行についていけるのでしょうか。 A1. まず修行と練習の違いについてお答えします。 修行は、「悟り」を求めて、日々の日常生活の中から精神力を鍛えて行きます。 「悟り」とは、簡単に言えば「理解する」という理解力を指します。あるいは、今まで見逃して居た事を、「再確認する」という意味になります。人は、これ迄の自分自身の人生の於いて、安易な形で、「見逃し」また「聞き逃し」しています。総べて、安易に捉え、先入観と固定観念で解釈して来た節が否めません。これを、改めて「再認識する」のです。これが悟りであり、これは「知ること」なども、「理解する」と云う言葉に通じます。また、欠点が自分自身で改めて認識され、その間違いに気付くことです。 人間は長い間生きて来て、固定観念や先入観で覆(おお)われます。年齢を重ねれば重ねるほど、こうした意識は強くなり、凝固して、固い殻(から)で覆われてしまいます。頑固とか、頑迷と云った「かたくなで、意地っ張り」な性格は、中々直るものではありません。そして人間は、いつの間にか、こうした固執したものに振り回されて生きるようになります。 つまり、その人の固定された姿が決まり、頑迷固陋(がんめいころう/正しい判断がでず、また見聞が狭くてかたくなであること)の「こだわり」に汚染されてしまいます。こうした愚を避ける為に、「自分とは何か」と言う次元を掘り下げて行きます。 頑迷固陋の呪縛(じゅばく)から遁(のが)れるには、逸(いち)早く自分の固定観念や先入観から解放されなければなりません。この解放に向かって、精神力と集中力を高め、日々精進するところに本当の修行の目的があります。要するに、今までの間違いを発見し、それを訂正して、総てを一新し、新しい第一歩を踏み出す為の努力が「修行」なのです。精神的構造改革と言った方が、分かりやすいかも知れません。 一方練習は、単なる肉体を酷使して、反復を繰り返すことを指します。 特にスポーツの場合は、筋肉トレーニングなどの反復練習を主体にした体力養成法を指します。練習の目的は精神を強めると言うより、肉体だけの強化を図る為に行われるものであり、精神面は二の次となります。ただ、筋力とスピードの養成のみに重点が置かれます。反射神経などを養う為に、筋力とスピードを養成することは決して悪い事ではありませんが、こうした力は残念ながら、中年に差し掛かり、四十の初老を超えた頃から次第に衰え始めます。 わが西郷派大東流では、筋力やスピードだけに頼らず、運動経験のない人や、年をとって体力が失われてしまった人でも、外筋を使わずに「内筋」を用いる為、差程の体力を必要としません。また、わが流では運動経験の有無は殆ど関係ないのです。 むしろ、これまで運動経験や武道経験のない方が、無駄な固定観念や先入観に振り回されず、素直に学んで行くことが出来ます。筋トレやハードトレーニングの練習をするのではなく、「修行をするのだ」という事を理解して下さい。 そして、内弟子の二年間を通じて、自分で道を求め、そこから「何かを達成する喜びの大切さ」を学んで行くのです。 Q2. 内弟子として修行するに当り、費用面が高いと思うのですが。 単純に計算して、入門金を合わせ、入門から修了までに290万円掛かります。その他の諸々の必要経費をあわせると300万円を軽く超えてしまいますが、武術を稽古し、ある程度まで出来るようになるには、こんなに高額なお金を必要とするのでしょうか。 A2. 内弟子に掛かる費用を高いと思うか、安いと思うか、それはその人の考える価値観によって異なります。もし、「あなたの命の値段は、いかほどですか?」と問われれば、あなたは自分の命が幾らと答えるでしょうか。仮に、内弟子に掛かる費用が300万円として、あなたの命は300万円より高いと思いますか、それとも安いと思いますか。 それ以外にも、もし一人暮らしをする事などを考えてみて下さい。 仮に、あなたが短期大学か専門学校などに通う事になり、二年間、何処かのアパートに一人暮しをすることになったとします。アパートの礼金や敷金を払い、月々の家賃を払い、一人暮らしする為に、家電製品(洗濯機・冷蔵庫・テレビ・DVDデッキ・ビデオデッキ・電子レンジ・電気釜・電気ポット・電気オーブン・給湯器・掃除機など)や食器類、調理器具、鍋・釜、勉強机、本棚・整理棚・衣服の収納箪笥などを揃え、床にはカーペットを敷き、最低限度の生活が出来る体制を整えたとします。 また、情報入手の為に、インターネットなどの通信機器も完備させ、プロバイダーに支払う費用や、電話加入の費用や光ケーブルなどの代金を支払ったとします。 近くでの買物や、近距離のその他の用事には、自転車やバイクを遣わなければなりません。あるいは車が必要かも知れません。新たに自転車やバイクを買い、それを使う為には防犯登録も必要でしょうし、バイクの場合は自賠責保険や任意損害保険も必要でしょう。また、車を使用する場合も、車の購入費や自動車購入税や自賠責保険や自動車損害保険も必要となります。 日に三度三度の食事は、自炊するとしても食材の材料代や水道光熱費などが必要になります。風呂は銭湯に行くとしても、一週間に二、三回程度として、これも馬鹿にはなりません。また友人等の付き合いもあり、月に一、二回、何処かの居酒屋やスナック等に酒を呑みに行くとして、こうした事にもそれなりのお金が掛かるはずです。無下(むげ)に断れば、「付き合いの悪い奴」とか「ケチな奴」などと思われて、友達を失います。 尚道館・陵武学舎の内弟子の費用は、その他一切の金額が含まれます。果たして、一人の学徒が、一ヵ月10万円と言う金額で、このご時世、就学が可能でしょうか。 一番分かりやすい例を挙げれば、県立高校に通っている高校生を考えてみればいいと思います。彼等は、果たして学校の授業料や食費やその他の経費を合わせて、10万円以内で納まっているでしようか。あるいは大学や短大、その他の専門学校に通い、学費や家賃を含めて、一切合切で10万円を切る就学が可能でしょうか。 内弟子に要する費用には、当然この中に家賃あるいは固定資産税の分担負担金も入ります。これを全て合計すれば、軽く一ヵ月10万円は越える筈です。 そして忘れないで欲しいのは、一ヵ月に10万円払って普通の民家かマンションに一室で、こじんまりとした、天井も低い場所で食・住を共にすると云う事ではなく、24時間いつでも使用出来る道場と云う稽古場を有し、ここでいつでも、好きなだけ自分自身の「稽古三昧」が出来ると云う事です。 道場にはハイビジョン大型テレビが据え付けてあり、DVDデッキやビデオデッキの設備もあるので、自由に、好きなだけDVDやビデオを見て、儀法の研究をする事も出来ます。 尚道館・陵武学舎の内弟子の、毎月の月謝が10万円と言うのは、決して高い事はない筈ですし、むしろ良心的な料金である事は疑いようもありません。また、金銭的な事情のある人は「特待生制度」を利用する事も出来、殊に、経済的に困難な者は、入門金ならびに月謝の「半額負担」または「一部負担」(但し、「タダ」あるいはそれに等しい金額にはならない。ここには礼儀があり、常識と言うものがある。したがって、その枠内を指す)で就業する事が可能になっています。貧困家庭にあっても、貧乏をものともせず、力強く羽ばたく事のできる才能や素質のある者は、「等しく優遇する」という宗家先生の教えに基づくものです。 なお、特待生を希望する方は、よくよくの事情があると思われますので、尚道館に直接お出で頂き、詳細とその条件を充分にお聴き下さい。 また、特待生については、体力検査(男子の場合は、身長160cm以上〜188cm以下、体重58kg以上〜80kg以下の者で、俊敏な運動神経と反射神経を有している者。女子の場合は、身長152cm〜175cm以下、体重43kg〜63kg以下。男女とも、過去の運動スポーツ経験や武道経験の有無は問わず)や学力検査(知能テスト、YG性格検査、中学卒業程度の教養試験)ならびに面接の試験を実施しております。 一言で、お金の遣い方と言っても、いろいろあります。そして世の中には、「生き金」と「死に金」というものがあります。 幾つになっても青雲の志に燃えて有効に遣えばそのお金は「生き金」となり、それは「一生の宝」になるし、逆に、物や色に固執して、一時の享楽や慰安に興じれば、それは「死に金」となって消えてしまうでしょう。 尚道館の内弟子の修行に遣われる金は、まさに「生き金」であり、つまり尚道館では、内弟子に対し、「お金で買えないもの」を二年間通じて伝授するのです。この制度を尚道館では「内弟子制度」というのです。そして内弟子制度に準ずる門人達は「陵武学舎」と称する内弟子寮で、二年間の就業期間を過ごす事になります。 そして見事、二年間に内弟子修行に耐え、これを修了すれば、宗家先生より日本刀の拝領を賜ります。この賜る日本刀は自分が紹介とみにする刀であり、いわば「自分の命を守り、魂を支える心の拠り所となる人生の糧」であり、これを金銭至上主義者の感覚で、お金に換算すれば70万円以上の高価なもので、これを終了時に賜る事が出来るのです。 また、修了の暁(あかつき)には、門人一同が一堂に会して、祝福の細やかな宴が宗家先生主宰で開かれます。 まず、二年間で300万円ほど掛かる費用について、高いと思われる方に、こちらからお尋ねしたいのですが、あなたの「命の値段」は如何ほどでしょうか。 なお、入門時には入門金50万円、月謝10万円の合計60万円が掛かり、これを一括して入金する事になっているので、入門審査に合格したら、速やかに入門手続きを取り、当初の費用を納入しなければなりません。詳細については本ホームページを参照下さい。 また、一旦納入した金額は、如何なる理由があろうとも返金されませんのでご注意下さい。更に、修行半ばにして尚道館・陵武学舎の門を去る場合も、一旦支払われた入門金や月謝の残額分については返金されませんのでご注意下さい。 内弟子に入門されようと思う方は、それなりの覚悟をして、ハッキリとした目的意識を持ち、必ず修了まで漕ぎ着けると言う確固たる信念が必要です。途中で挫折するような弱い精神力しか持たない方や、目的意識に欠ける方は、最初からこうした物に近づかない事です。 Q3. 内弟子クラスに、スポーツ大会などはあるのでしょうか。 A3. ありません。修行一本です。 ただし、月に一度の無礼講?の慰安会があり、ここでは自由?にお互いの意見を述べあうことができます。この時、宗家先生手作りの、細やかな酒食を堪能(たんのう)する事が出来ます。呉々も、自分の品格を顕わす、「呑んで乱れず」という「酒品」と言うものをお忘れなく。 普段は、毎日が玄米粥を中心にした一汁一菜なので、月に一度の細やかな贅沢(ぜいたく)は、また、毎日御馳走ばかりを食べている食生活と異なり、あらためて「食」の何たるかを教えてくれます。飽食の時代、誰もが食傷に冒され、成人病で悩んでいる現代、こうした摂生をする、養生主義の食事も一際価値のあるものとなります。 Q4. 躾と言うか、作法と言うか、こうした礼儀に関する事については、厳しいのでしょうか。 A4. 厳しいととるか、当たり前ととるか、それはあなたの育った家庭環境によります。過保護に育てられた人は厳しいと感じるでしょうし、両親から厳格な躾(しつけ)を受けた人は、むしろ当たり前と捉えるでしょう。 昨今は、まともに箸を使い切らない若者が増えています。食生活の欧米化に伴い、その食事スタイルはテーブルと椅子であり、またスプーンやフォークと云った洋食器などを頻繁(ひんぱん)に使う為、箸を正確に使い切れない若者を多々見掛けることがあります。 成人していながら、グーでしか箸を握る事が出来ず、そのぎこちなくて下品な箸遣いは周囲の人を呆れさせます。無教養と言うか、異常と言うか、辿々(たどたど)しいと言うか、こうした不様な恰好は、和食に馴染みのない欧米人より覚束無(おぼつなな)いと言えます。また、米の御飯を食べるのに、叉割れスプーンを使う若者も少なくありません。 こうした人は、どこかの離れ小島で、生涯一人暮らしをするなら、それでも構わないでしょうが、既婚した場合には大きな問題が発生するでしょうし、社会人として生きる上でも問題が起って来るでしょう。 社会的には周囲の人から馬鹿にされるでしょうし、上流階級の人と接して、尊敬されたり、教養のほどを高く評価されないのは、疑いようもありません。 まず陵武学舎に入ると、食事の作法が徹底的に仕込まれ、箸遣いの訝(おかし)しい人は、食事作法の基本から稽古のやり直しが命じられます。箸を正しく握ると言うのは、人間の学ばなければならない最低限度の掟(おきて)です。この掟が、人間と動物を分けているのです。 また食事の際中は、「正坐」が厳しく義務付けられ、「胡座」(あぐら)や「立て膝」で、だらしなく食べる事は、堅く禁じられています。陵武学舎では、総ての坐法は「正坐」が基本なのです。基本が出来ない者に、武術を学ぶ資格はなく、また流派に説かれている、基本理念すら理解できないのです。
箸を正しく握ると言うことは、指の力が強くなければ正しく握ることが出来ず、箸先を上手に動かすことが出来ません。逆に指の力の弱い人は、箸先を上手に動かし、摘んだり、抑えたりする遣い方が出来ませんから、どうしても箸遣いが訝しくなり、歪(いびつ)な、グーのような箸の握りになってしまいます。 武道だ、人の道だのと云っている連中が、こうした箸遣いしか出来ないのでは、何とも情けない限りです。結局その人の文化的要素は、「その程度」のものになってしまいます。 昔から、その人の「人格と品格」を見るには、「一度食事させてみれば分かる」と言われます。習わないでも分かっていると豪語する人に、箸先のどの部分で食物を挟んでいるか、これを見ただけで、その人の礼儀作法と教養が現われてしまうのです。 人間の脳の働きは、指先に連動されています。箸は指先を操作して遣うものですから、それは間接的な脳の働きでもあるのです。訝(おか)しな箸遣いは、その人の頭の程度と、教養の程度を窺わせるものです。 かつて武門の家では、食事も「武術修行の一貫」と考え、箸の握りは最端部を握り、食物を挟む場合は箸先から五分(1.5cm未満)の部分を遣って挟む事を厳守しました。 また、武門では回し箸、迷い箸、こみ箸、さぐり箸、移り箸、せせり箸などは、何(いず)れも見苦しい箸遣いとして喧しく言われたものでした。 食事は単なる栄養補給ではありません。動物の人間の分ける境界線はここにあります。食事はエサではないのです。西郷派大東流の古神道的思想から言えば、「祭り」であり、天と地を結び付ける「火水の行事」なのです。人間が生きていくと言うのは、「他の生き物の命を奪う」ことに他なりません。他の生き物が犧牲になることによって、人間は生かされているのです。他の命を貰う、つまり「頂く」から、食事の前には両手を合わせ、自分の命を生かす為に命を捧げてくれた事に対し感謝して、「頂きます」というのです。 一粒の米にも命があり、一片の野菜にも、一ト切れの動物の肉にも命があるのです。また、飲料する水にも命があるのです。これらの命を頂くには当然、感謝の心が必要であり、身替わりになってくれる命があったから、人間は生かされるのです。人間は天地の恵みによって、我が身を養う糧(かて)を得るのです。この糧こそが「祭り」であり、人間は天から生かされていると言う自覚に至るのです。 いやしくも「礼に始まり礼に終わる武の道」というからには、食事の作法も「道」の探究があって欲しいと思う次第です。 食事の作法には「食事五観」と言うものがあって、食事の際の姿勢は上体を垂直に起こし、箸の方を口許に運び、口が箸の挟んだ食べ物に向かってはならない。食事をしながら、無駄話やバカ笑いをしない。食べ物は、一口50回程度、よく噛んで食べる。種々の箸遣いの作法を知る。漬物等の香の物は最後に箸を付ける。汁物は一椀限りにする。魚等の頭のある物は右頭にならないようにする。以上を気配りしながら緊張する必要があり、食事は寛(くつろ)ぐ為、楽しむ為だけに行ってはならないと言う事です。 何故ならば、人間は食事をしている瞬間が一番無防備であり、「食事」とは、総てが曝(あば)け出されるので、「非常に怕(こわ)い」ということです。いやしくも武術を修行し、武術家を名乗るからには、こうした怕さも知っておくべきでしょう。 幾ら良い服を着ていても、箸遣いが訝しいのでは、人から相手にされません。特に過保護に育った人は、こうした今までの家庭での親の躾が如実に現れますので、尚道館・陵武学舎では間違っていれば根本から叩き直します。こうする事が、その人にとっても、結局は志の高い人生を送る為に、良い結果を生み出すからです。 間違ったことをしていれば、次々に指摘され、これを改めさせると言うのが陵武学舎の作法であり礼儀であり、間違っていれば罵声(ばせい)が飛びますが、それを直ぐに改めて行く中に、知らなかった人間の、修行の本来の姿があるのです。 Q5. 指導する先生や、先輩達は懇切丁寧なのでしょうか。 A5. まず、基礎的な基本技は陵武学舎の先輩が指導します。 仮入門期間の三ヵ月間は、諸先輩が指導に当り、日常の一切を取り仕切っています。礼儀や作法などの一切も諸先輩によって指導され、また新人は、諸先輩の起居振る舞いを見て一切を見て覚えて行くことになります。 三ヵ月間の仮入門を修了し、中伝に入ると、宗家先生が指導に当りますが、この場合も基礎力の大事が問題になりますので、基礎の出来ていない人は、フィードバックが命じられます。つまり、もう一度最初からやり直し言う事になります。 西郷派大東流の奥に行けば行くほど、厳しくなり、また中伝以上を教わるのなら、それに相応しい基礎力を身に着けて置かなければなりません。 これは、分数の出来ない生徒に、微分方程式を教えても、全く理解できないのと同じです。いやしくも微分方程式を理解しようとするならば、分数計算が性格に出来、基礎的な算術をマスターして、高校レベルの微分積分も理解し、その上で微分方程式を習うと言うのが筋道であり、大学生と言えども、分数や基礎的な算術が出来なければ、微分方程式は愚か、高校レベルの微分積分も理解できないのです。(【註】実際には、分数計算が出来ない大学生もいるそうですが) また、こうした学力不足の状態で、微分方程式を教わるのは実に失礼であり、これが理解できる能力に至って、はじめて「教わる」と言う事が出来るのです。 したがって、わが流では「受身のとれない者」に、絶対に投げ技は教えないし、木剣の素振りが正しく出来ない者に、日本刀での試し斬りは絶対に教えないのです。教わるには、教わるだけの、資格が必要で、自分自身を向上させて行く意外にはなく、基礎が出来ないのに、高度な技術を教えても、全く「馬の耳に念仏」「豚に真珠」となってしまうのです。 こうした、中伝以上の高度な儀法を学ぶのであれば、自分自身が努力して、「教わるに恥じないレベル」まで昇って行かなければならないのです。 そして大事なことは、人から教えられるのではなく、自分から、人のしている事を盗みに行くと言う、「求道の精神」が必要です。新人初心者は、諸先生や先輩達の技を盗んで覚えるのです。 ただ、安易に教えてもらった技は、絶対に身に付かないからです。 Q6. 内弟子の皆さんは、西郷派大東流から何を学ぼうとしているのでしょうか。 A6. わが流から学ぶ事柄の中心課題は、単なる、強弱を決する武技を学ぶのではなく、人間として「人生の姿」を学ぶと言うことです。人生のスタイルと言うものは、人各々によって異なりますが、わが流の究極の課題は、二年間の修行を通じて、「人生の姿」を学び、それを自分の中に取り入れて、自得して、巣立って行くと言うことです。 わが流の説く「人生の姿」とは、率先して前に出る。危険や窮地を恐れない。困難を避けない。暴力に屈しない。足りる事を知る。身の程を知る。創意工夫を重ねる。諦めない。嘘をつかない。人を陥れない。素直で謙虚である。有頂天(うちょうてん)に舞い上がらない。挫折しない。途中で逃げ出さない。信念を持つ。勇気を持つ。弱者や弱年を侮らない。弱い者を庇(かば)う。他人を侮らず、自らも侮られない。表面の姿形で人を判断しない。鋭い観察眼を持つ。裏側を透徹(とうてつ)する洞察力を持つ。隙(すき)を作らない。迷わない。決断出来る信念を持つ。安易な考えに流されない。愚痴を言わず、悩まない。金や物や色情に誘惑されない。信じてくれた者を裏切らない。希望的観測の甘い考えを持たない。人の世話はするが、人の世話にはならない。智慧(ちえ)を生かして自立する。固定観念や先入観に振り回されない。過去の栄光にこだわらない。不満を語らず、未来を語る。控え目である。慎み深さを宗とする。恥辱(ちじょく/はずかしめ)に敏感である。文武両道を目指す。爽(さわ)やかである。すずやかである。夜郎自大(やろうじだい/威張ること)化して威張らず、譲(ゆず)る事を宗とする。無闇(むやみ)に争わない。競わない。戦って勝たなくても、負けない。最後の「切り札」を持つ。毅然(きぜん)とした態度をとる。人命を大事にする。人を愛する。正しい歴史観を持つ。噂(うわさ)や中傷やデマに惑わされない。自分を最後まで信じる。人情に機微を知る。慈悲の心を持つ。表面的な情緒に振り回される事なく、物事の真相を見抜く。一方方向ばかりでなく、裏側からも推察する。感情的にならない。人の話をよく聞き、聞き上手になる。主観的に捉えるのではなく、客観的な考え方をする。損得勘定で行動を起こさない。軽佻浮薄(けいちょうふはく)にならない。煽(あお)られない。民族の誇りを持つ。節約の精神と正しい経済感覚を持つ。自他同根で助け合う等の、生きて行く上で必要な、「人生の姿」を学んで行くのです。 また、これらの事は、人類が知性体として進化して行く為に、必要な要素であると考えるからです。 それを単に教えて貰うだけではなく、自らが求めて「求道する」と言う事です。求道し、そこに辿り着いた時に、感動が生まれるのです。他力本願に、「受身」で学ぶのではなく、自力で成就に導くのです。そこに知性体としての、新たな人類の進化があるのです。 私たち人間は、単に社会動物であるばかりでなく、知性体として、進化して行く事が、人生の課題として要求されているのです。 現代人は今なお、進化の過程にあり、進化して半身半霊体を得るか、進化を怠って亜人類に落ちるかはその人の前頭葉の発達度に委ねられ、現代人は浮沈の明暗を分岐する選択肢の上に立たされているのです。 こうして説明して行けば、わが流は、今流行(はや)りの格闘技などに見られる、決して強持(こわも)てを目指したり、好戦的になって人を傷つけるような流派で無い事がお分かり頂けると思います。 謙虚に、真摯(しんし)に、素直に、「人生の姿」を模索し、それを実生活の中に応用すると言うのが、わが流の目指す所であり、少なくとも理不尽な暴力三昧(ざんまい)に明け暮れることを目的にしていないと言う事がお分かり頂けると思います。 わが流の求めるところは、勝つ事ではなく、負けない事であり、「負けない境地」を目指して日夜精進しているのです。「負けない境地」に辿り着く為には、地道な日々の鍛練が必要であり、鍛えて、更に練ると言う努力が必要になって来ます。有事に備えて「百年兵を練る」という精神も大事ですし、心に隙(すき)を作らないと言うのも、一つの「人生の姿」だと思います。 Q7. 心術というものが西郷派大東流には説かれていますが、これをもっと分かり易く説明して下さい。 A7. 私たちの心は勝手気儘(きまま)なもので、自分が何かを欲している時は、それを叶えてくれる人を「善人」と評価し、意にそぐわない者を「悪人」と決めつけます。 しかし、美しい花も、粗(あら)を捜すように良く観察すると、虫もついているし、傷もあります。しかし、花はそれなりに美しい姿を漂わせています。 則(すなわ)ち、人間の肉の目で見る美醜は、見る人の心の投影であって、そのものは美しくも、醜くもありません。 私たちは自分の心のフィルターに色眼鏡を掛けて、美醜や悲喜などの様々な色づけをして見ているに過ぎません。悪人が悪いのではなく、見る人の心の中に「悪人と見える眼」を通して、単に悪人に見ているに過ぎないのです。 例えば、人の死は思い出の中に、一種の固定観念として残ります。その人が死んだ事により、その日から、その人が関(かか)わる現世の変化は無くなり、悪人であった過去も、やがて怒りや恨みの感情は薄らぎ、いつしか年月を経て消滅して行きます。その中には、過ぎし日の思い出の破片が心の池に浮びます。そんな時、悪人と思った人は、果たして本当に悪人であったのかという疑いが、ふと浮かび上がったりします。 今まで心の中の色眼鏡で、この人を見ていたかも知れないと言う、心の疼(うず)きに気付かされます。 かつて自分に気概を加える敵であると認識した心は、激しい不信を作り出します。その不信が己を迷わせ、あるいは焦らせる元凶に変化しことを思い知らされます。そして臆病で陰気になった心は、敵意と敵愾心(てきがいしん)を剥き出しにしたことを悟ります。総ては色眼鏡によって、心が変化(へんげ)した現象でした。 もしこうした状態で、渡り合っていたら勝てたでしょうか。否、勝てなくても、負けない所で食い止められたでしょうか。果たしてこうした状態に追い込まれた時、心は平静を保てたでしょうか。 心でどうした見方ができるかが問題であり、恐怖を恐怖と捕らえれば、恐怖に撹乱されて自滅に追い込まれます。それは敵意と敵愾心を抱いて敵と対峙するばかりでなく、我と敵が一対になり、和する「合気」のチャンスを失わせます。 また敵の変動の「気」を受け入れる逆転状態に陥ります。こうした心に浮ぶ、偏見によって、また自己も浮沈を生ずるのです。 西郷派大東流の教えによれば、「敵と吾(われ)とが一体一気になる事を“合気”という」とあります。一方、「敵の変動の気を容易に受け入れて、先気を削がれる事も“合気”という」とあり、「これも宜しくない」といっています。 則ち、心に色眼鏡を掛けている時と、そうでない時では、各々に“合気”を掛けたり、“合気”を外したりするということを云っているのです。また、恐れれば、それは即ち“合気”として跳ね返って来て、自分は敵に封じ込められるのです。後は、敵の暴力に甘んじなければなりません。 心は、「肉の眼」で通して見る限り、如何様にも変化するものです。「肉の眼」に振り回されず、本当の「心の眼」で見る儀法(ぎほう)を、わが流では「心術」というのです。 こうした奥深い境地が知りたければ、「われ参じて知れ」というように、内弟子を経験して、その厳しい修行の中から、開眼して真実を掴むしかありません。 昨今は、体験もせず、稽古もせずに、こうした質問ばかりをしてくる人がいるので、実に困り者です。 Q8. 人間は修行をし苦難に耐え、苦労を乗り越えなければ「人の道」は開けないのでしょうか。だとすれば、「命の本質」は一体なんなのでしょうか。 A8. 徳川家康の言葉に「人の一生は、重き荷を背負いて遠き道を行くが如し」と、あるではありませんか。これは「人の有り様」を示した言葉です。 多くの人は、背負いきれない程の荷物を精一杯背負い、長い道のりを、一刻も早く目的地に辿り着こうとして一生懸命に奔走します。 「この荷物さえ降ろせば楽になる」「この道さえ歩き通せば幸せが待っている」と、ただそればかりを当てにして耐え忍び、何とかゴールに転がり込もうとします。しかし、そこには安楽もなければ、幸せも待ち構えてはいません。 ここで待ち構えるのは、索漠(さくばく)とした悔恨と、遣る瀬ない倦怠感だけが襲って来て、苦い、場違いな、自己満足の残骸だけが取り残されます。苦い自己満足の中には、年老いた手と、満足に歩く事の出来ない足が、我が身の無惨さに、一層の悲壮感を漂わせます。 そして悔恨の念は、自分は間違って居なかったのに、「あいつのせいで」とか「世の中が悪い」などの愚痴が始まります。 長い間、染み付いてしまった空しさは、どうしようもありません。先入観と固定観念の、元凶の為(な)せるところです。 こうした状況に至って、人ははじめて「人生とは、一体なんだったのか」と問いかけの心が浮かび上がって来るのです。 人生の意味を問いかける時、その人は、無意味に人生を過ごして来たと言う証拠になります。一生懸命に担いで来た荷物の中身は、物質的な豊かさや、自己満足の残骸に過ぎず、確実に踏み締めて来たはずの道も、振り返れば、富と名声にほだされた、幸せの幻覚であった事に気付かされます。 人は、常に「寄らば大樹の蔭」を好みます。頼る相手を選ぶならば、力のある者がよいという故事は古今東西、人間の心情をよく言い表わしています。人間は安定を好む生き物であるからです。 だから就職ともなると大企業に集中し、あるいは少しでも先を越し、権力を掴みたい為に、官僚の道を選択します。そして念願叶ってこの座を射止めたら、これが自分に与えられた能力だと信じて、薔薇色(ばらいろ)の道を歩き始めます。しかし、もうこの時、この人は間違いを犯しているのです。薔薇色の人生ではなく、茨薔薇の人生の始まりなのです。 何故ならば、その能力は自分が「こうありたい」と願った欲求に過ぎず、その欲求に、自らが欺(あざむ)かれて歩む道もまた、甘い心が描き出した自己満足の蜃気楼(しんきろう)に過ぎないからです。蜃気楼と言う幻覚を心の中に描き、これを自己満足で満喫しているという錯覚に過ぎません。やがては、それがあたかも実在するかのような錯覚を、現実と見間違い、心の奥底に真理のように定着させてしまいます。ここで、その人の描いた幻覚は、こじんまりと、固定化されてしまうのです。 本来、心と言うものは無限の広がりを持っています。奥行きも、間口も、変化も、許容量も、実に大きいのです。 しかし、「こうだ」と極めてしまえば、心の範囲と形態は、その通りに固定化されます。こうした心の固定化が、修正を迫られた外部と接触した時、そこには激しい反発が起ります。争って自分の本質を犧牲にしてまで、これと闘い、守り抜こうと奔走します。これが「保身」です。 もやはこうなれば、僅かな名誉と自己満足の花束に、空しく覆われて、夢は費(つい)え、苦い悔悟の盃(さかずき)が掲げられるばかりです。そして自己の本質を見失うのです。 私たちの本質は、外に向かって開かれているのではなく、内に向かって、自己を見つめるように、出来ているのです。その為に、自己を深く掘り下げなければなりません。その掘り下げる過程に、創意工夫があり、手探りの暗中模索があり、人の話に耳を傾ける謙虚さがあり、こうした働きの一切が「苦労」という実体験なのです。 生きている限り、死ぬまで己と闘い、苦労を積み重ねるのが、人間に与えられた責務です。 またこれは、命の働きであり、この働きの中に「生命の本質」があるのです。つまり、命ある者は苦労する、というのが人生の実体であると言えましょう。 Q9. 内弟子の入門審査は、どのように行われるのでしょうか。 A9. 手順としては、まずホームページ上にある「内弟子入門審査書」をプリンターで印刷して、本書を総本部尚道館まで「速達郵便」で郵送します。次に、入門審査の予約希望日があれば、前もって記入しておきます。当方は、出来るだけ希望日に合わせるように配慮します。 入門審査日には、身許保証人一名(身許を保証する保証人で、連体保証人ではないので注意)が記載された 「身許保証」をする文書。自分を証明する住民票ならびにその他の証明証(本人を示す運転免許証あるいは健康保険証)のコピーを持参します。また、受検料2000円を封筒に入れて持参します。 また、所持品としては、道衣か運動着を持参して下さい。 未成年者の場合は、入門審査日に父母の孰れかを同伴し、父母の来館が不可能な場合は、「委任状」を持参します。 以上が、内弟子の審査を受ける為の条件となります。 審査を受ける時間は、午前十時までに来て頂き、昼食を挟んで午後二時くらいに終了します。 次に、審査手順はまず、現在の内弟子をしている寮長以下の内弟子の面々の面接と質問があり、その応答から始まります。その面接・応答後、実際に道衣か運動着を着て、西郷派大東流の手解きが行われ、体験入門と言う形で儀法を体験してもらい事になります。 それが済むと、体験入門を踏まえた感想及び面接が、宗家先生からあり、次に食事を挟んで異なった角度の質疑応答があります。審査の対象は、その人の人柄を中心に、人格や品格が議せられます。 合否発表は、その日のうちに下される事もありますが、日を置いて発表される事もあります。 合格者は、合格手続きをとる事になりますが、詳細については本ページ上の「内弟子制度」を参照下さい。 Q10. 二年間の内弟子の修業期間を修了し、その後はどうなるのでしょうか。 A10. わが流での「内弟子制度」の修業期間の二年間を走破して、修了に漕ぎ着けた門人は未(ま)だ一人もいませんが、修了後は道場を開設する「師範号」の資格を有しますから、「西郷派大東流合気武術」の流名をもって、内外を問わず、何処にでも道場を開設することができます。 内弟子期間中には、道場を展開して行く上でのロケーションや運営方法も学びますので、経営に対する指導を受ける事が出来ます。 同時に、経営において一番大切な《貸借対照表》の見方や、《損益計算書》などの経理面の勉強や、経営学なども勉強して行きます。道場を立ち上げる為には、単に内弟子の稽古面だけの修行ではなく、道場を経営し、更に展開するということを、内弟子期間を修了した後も学んで行く事がなのうなのです。 また、現在の各支部等の道場に、「派遣師範」として派遣されたり、あるいは総本部尚道館に残り、内弟子後進者の指導教官として、指導に当たる事も出来ます。 指導教官になった場合は、指導に関しての経費や給料が支払われます。内弟子をして居た時のように、道場に住み込む事も可能(家賃ならびに生活費は無料。交通の足であるバイクや車は無料貸与)ですし、アパートや借家を借りて、そこから通う事も可能です。 また、更に奥儀を極めたいのなら、後進者を指導しながら、宗家先生の許(もと)で、更に修行を重ねる事が出来ます。これらの目的は次の世代に、西郷派大東流を伝えて行くと言う事が「使命」となっているのです。もちろん職業武術家として、将来は独自に、西郷派大東流合気武術を指導をする事を職業とすることも出来ます。 |