内弟子制度 31



内弟子・質問解答だより3


Q14. 十六歳以上であれば、誰でも内弟子に志願する事が出来るというふうになっていると思うのですが、中高年でも内弟子になる事が出来るのでしょうか。
 また、私はコンビニエンスストアーを四軒ほど経営
(留守中は代理が居て、経営には問題はない)し、家庭を持っています。家族も居り、二年間を通して、内弟子をするには不可能な状態にあります。こうした場合、定期的に、修行単位別に分けて内弟子をお願いすることができないものでしょうか。


A14. 以上のような相談は、今まで多々ありましたのでお答えしておきます。既婚者が内弟子修行をする場合、家を、留守をして内弟子になるのですから、郷里に残した家族の事や、その他の事が心配になります。といって、そんなに心配になるのなら、内弟子なぞ、志願しなけれいいと言う事になりますが、わが流の原則は、「内弟子は二年間の修業が課せられる」となっていますので、隔月ごと、季刊ごとの修行は認めていません。
 ただし、以上のような事情があり、修行単位を各ブロックに分け、三ヵ月単位で内弟子修行を履修する事は出来ます。各三ヵ月の履修科目が修了すれば、修了時ごとに帰宅し、また次の月には内弟子修行に復帰するという形で修行する事は可能です。

 また、夫婦単位で参加する事も可能です。例えば、内弟子を志望するのは良人(おっと)の方で、妻は良人の同伴者に過ぎないが、将来道場を展開した場合、門人募集や会計等をして道場運営に協力すると言う事で、夫婦単位で参加する事も可能です。道場の近くに住居を借り、そこから通う事も可能です。
 こうした形で入門を希望する場合は、まず、尚道館に直接相談に来られて、事情を話す必要があります。

 年齢については、十六歳以上であれば、上に上限がありませんので、中高年であるからと言って、それだけの理由で志願者を断ったりはしません。五体が満足に動かせて、一応健康であれば、誰でも志願する事が出来ます。



Q15. 内弟子の修行中にアルバイトをする事が、可能であるとなっていますが、自分は経済的に問題を抱えており、月々の月謝を捻出する為に、アルバイトをしながら内弟子を成就させたいと考えています。こうした事も、お許し願えるのでしょうか。

A15. 陵武学舎に住み込み、内弟子を続けながらアルバイトをして金銭的な負担を軽くすると言う事は、わが流でも認めています。
 ただし、アルバイトの修業時間は原則としては「8時間以内」と定められています。これ以上を超えると、内弟子修行が疎(おろそ)かになって、アルバイトが主体になってしまう為、アルバイトを希望する場合は、時間配分を考えて、慎重を帰すべきです。陵武学舎を、アルバイトから帰って寝るだけの「塒」(ねぐら)に遣うのは禁物です。

 アルバイトの許可が出るのは、三ヵ月間の仮入門を終えた、「正式門人」になってからであり、仮入門期間でのアルバイトは禁止されています。
 仮入門と言うのは、今後の明暗を分ける一番大事な時期であり、この「三ヵ月間の仮入門期間」が如何に大事な基礎固をするか、想像して頂けると思います。この三ヵ月を耐えられれば、峠の山場は、半ば超えたも同じであり、この期間での「態度」が、最後まで内弟子修行が続けられるか、途中で挫折するかの分れ目となります。

 これまでの「挫折例」から見てみますと、三ヵ月間の仮入門を超えて残った者は、平成四年に1人、平成五年に1人、そして現在の2名が残り、合計4人しか仮入門修了を達成出来ていません。しかし、「仮入門期間」が達成されれば、以降も長続きするといえます。
 逆に、それ以外の多くは、三ヵ月未満に挫折してしまいました。挫折の一番早かった者は、仮入門が許されて、僅か二週間で空しく故郷に戻って行きました。
 そして、繰り返しますが、挫折者の多くは、過去に武道や格闘技体験があり、然(しか)も有段者であったということです。

 黒帯を締め、有段者として優越感を経験した場合、どうしても古い固定観念や、暗い先入観が邪魔して、「自分が習った○○道では、こうだった」などの、過去の固執から脱し切れず、「郷に入っては郷に従え」というのが、全く理解できないのです。この点からすると、過去に全く運動経験や武道経験のない、「経歴を持たない若者」の方が、断然長続きするようです。

 また年齢も、弱年者ほどよく、中高年になるにしたがって、先入観や固定観念が段々強くなって行き、自分の経験した範囲内で物事を考えますので、それだけ素直でなく、今までの自分の抱いた私感的な立場で、間違いだらけの事をやらかします。こうした人は、間違いを指摘しても素直に認めず、最後まで頑迷に自分の意地を通そうとします。そして衝突して、去って行きます。

 また年長者は体力も、若者に比べれば劣りますので、固執した古い思考が、新しい環境に馴染めず、不平不満が募って、誤解したまま、仮入門期間の三ヵ月以内に、自滅へと追い込まれるようです。
 40歳以上の年長者は、体力的に、ある程度のハンディーも覚悟しておかねばなりません。

 なお、成人病や関節障害などの、躰に故障のある人は、内弟子には不向きでしょう。
 特に、過去の格闘スポーツや武道体験で、膝に障害を持っている人は「静坐」が出来ず、また臂(ひじ)に障害を持っている人は「剣の素振り」が出来ません。しかし、入門してから整体術を施され、障害を克服しようとした人も居ましたが、年長者の場合は、やはり治りが遅々として進まず、途中で断念する場合が多いようです。また、神経症や神経内科的な病気の神経障害(病感が強く、不安神経症・心気神経症・強迫神経症・離人神経症・抑鬱神経症・神経衰弱・ヒステリーなど)や精神障害(精神分裂病、アルコール・薬物などによる中毒性精神病、精神遅滞、精神病質などの精神疾患を持つ者)を持っている人も、内弟子には向きません。

 臂や膝に障害を抱えている人は、過去の経歴の中に、打撃系の空手や拳法を遣っていた人が多いようです。柔道をやっていた人の中にも関節症が多く見られます。
 以上のスポーツ武道や格闘技の経歴を持つ人は、その人の人格にもよりましょうが、「打撃系を修練した者の方が手が速い」という、考え方が頭の何処かにこびり着いている為、わが流の「静」の動作に馴染めません。
 また、直ぐに「素直、素直」を口にする合気会系や競技システム合気道などの経験者も、頑迷で、決して素直ではありませんでした。

 更に、こうした人は、わが流の門を去る時、必ず悪口を言い、後日、武道雑誌等で、わが流の内容の全貌を把握したかのような事を公表します。そして誹謗中傷する傲慢には呆れるばかりです。
 マイナーな武道雑誌『合気ニュース』や『秘伝』などで、わが流の誹謗中傷している人間は、過去、合気道や柔術を経由して、わが流に籍を置き、途中で修行に耐え切れずに、挫折して逃げ出した者達です。
 しかし、わが流に籍を置いた事を隠したまま、今度は別の流派に取り付いて媚(こ)びを売り、ここで上席を占めるようになると、さも、第一人者のようなふりをして、一端(いっぱし)の武道論をあげつらい、自分がその道の大家(たいか)のような事を論じています。

 以上の事から、年齢制限はないものの、個性が固まり、頑固で頑迷な年齢になる中年以上よりは、まだ若い、青少年の方が素直で素朴である為、より上達していけると思われます。しかし、これは人間的な「レベル」と「人種」によりますから、年齢だけでは、どうこう、言う事が出来ず、やはりその人・個人の持つ、人間性の「人格と品格」ではないでしょうか。

 要するに、年長者であっても、「若者のような素朴で素直な心」を持っていれば、今からでも充分に伸びる可能性はありますが、逆に、若者でも疑り深く、頑固で頑迷な、排他的な心を持った人であれば、老人以上に「老醜と老害を抱えた人間」と言わざるを得ません。

 結局、自分の人生を張りのある、柔軟な思考で創造する、潤(うるお)ったものに創り上げるか、枯渇(こかつ)した人生を選択するかは、その人・個人の人間性に委ねられ、自らの思考が、若者のような心を演出したり、老人のような、老醜に満ちた心を演出していると言う事になります。
 精神年齢が、幼稚な人も困り者ですが、そうかといって、世間風の世襲に固まり過ぎて、先入観で物事を判断する老人的な思考の持ち主も困り者です。



Q16. わたしは女性ですが、女性でも男女の差に関係なく、誰でも自由に志願する事が可能なのでしょうか。これまで実家が貧しかったので、中学卒業と同時に働き始め、たいした学歴も持ちません。こんな者でも、信念だけあれば最後までやっていけるのでしょうか。
 志願するとなると、特待生をお願いするしかなく、その後も差別なく、内弟子の諸先輩や、同期の皆さんと同じように扱って頂き、修行していけるのでしょうか。


A16. わが流の内弟子制度の門は、貧富の差や年齢に関係なく(経済的困難者には「特待生制度」がある。貧しさ等恥じずどんどん応募下さい)、また性別にも一切不問であり、なん人を問わず、開かれています。将来の希望に燃え、自身の崇高(すうこう)な志を成就させようと念願する人は、是非わが流の門を叩いて下さい。原則的には男女の差もなく、十六歳以上であれば年齢にも上限がありません。

 また、貧乏だからと言って、それを悔やんだり、恥じる必要はありません。むしろ、自分の育った家庭が貧しいと云う事より、貧しさに心がいじけて、心まで貧しくなってしまうのが問題です。貧乏や学歴のなさは、決して恥ずかしい事ではありません。

 また学歴と云う、「絵に描いた餅」は、世の中では殆ど役に立たず、猫も杓子も大卒者ばかりの世の中にあって、現代は、「大学を出た」と言うだけでは学卒者として扱ってくれません。
 大学が義務教育のような世の中に変わりつつある現代社会では、まさに「無学歴社会」であり、本当の学歴と云われるのは、大学院以上を修了した、修士や博士の学位を持った人を学卒者と云うのです。

 実際に大学卒と云っても、小学校で習う分数計算の出来ない工学部出身の大卒者が、日本には五万といるのですから、中学だけしか出てないと云っても、これに恥じる必要はないのです。今日の日本人の多くは、大学と云う最高学府の学歴を持ちながら、学力となると、最低な頭しか持っていません。だから分数も出来ない大学生が現実には存在するのです。

 もし、あなたが将来に際し、高校・大学・大学院と進んで、学問で、世の中に立とうとすれば、これから先の学習は大いに必要になって来るでしょうし、逆に、手に技術を付けたり、または道場を開業して武術家として生きていくのなら、学歴や学問は必要ではなく、むしろ独学で読書等をして、教養や人格を高めていく事をお薦めします。

 昨今は、合気道などの「レディース・クラス」が、女性の間で爆発的な人気を呼んでいます。また、わが流に勉強に来た、某流派の女性柔術師範は、自分のマンションを改造して「レディース・クラスの護身術教室」の道場を開き、大いに繁昌し、大反響を呼んでいます。近い将来、こうした事も夢ではないのです。

 もし、あなたの家が、生活保護家庭であれば、まず、あなた自身が確固たる信念を以て、斯道(しどう)に励み、事を成就して、一日も早く生活保護に依存する人生から脱して下さい。
 恵まれない人には、生活を保護してやることが必要です。しかし、五体満足なのに、生活保護に依存する生き方は間違っています。人生は、毅然とした態度で生きるべきです。

 なお、特待生クラスに条件は本ページに掲載されていますので、それを参照下さい。また、特待生になる為には、幾つかの条件が必要となり、未成年であれば両親が経済的に困窮している場合や、あなた自身が経済的に困窮している場合は、あなた自身の「非課税証明書」が必要になります。

 つい先日も、生活困難と云う理由で、特待生希望の若者が遣って来ました。その人を、後日、こちらで調査(貸金業専用の信用調査会社)すると、サラ金等にも多重債務があり、また車や家電製品を買い捲って、自分の浪費がもとで生活に困窮している事が分かりました。こういうだらしのない人は、人格的にも問題があり、入門を許可いたしませんでした。

 また、内弟子費用を少しでも易く抑えようとして、特待生を希望して来る人もいます。実際には一切の経費を払えるくらいの充分な財力を有しながら、殆ど収入がないように見せ掛けて、特待生を希望して来る人がいます。
 こうした狡(ずる)くて抜け目のない人も、品格のなさから、途中で挫折する事は疑いようもありません。このタイプの人は無形文化財より、金や物を崇(あが)める人です。したがって、こうした人はお断りしている次第です。既に嘘(うそ)をついているのであり、わが流は、嘘をつく人間が、簡単に内弟子の修行を成就出来るほど、甘くはないのです。

 内弟子の入門許可や、「一般入門」や「特待入門」に関わらず、毅然とした態度を明確にできる方のみ、入門を許可しております。
 もし、毅然とした態度で、世の中を前向きに邁進(ないしん)していて、然(しか)も、現時点で経済的に困窮していると言うのであれば、こうした人には、進んで、わが流の門を叩くよう、こちらからお願いしている次第です。

 また、有り余る才能とエネルギーを持ちながら、しかし現時点で経済的に問題を抱えていて、困窮しているのなら、金銭的な相談にも応じますし、「有徳の士」が救済するのは当然の義務であり、こうした人も、遠慮なく、わが流の特待生の門を叩いて下さい。
 繰り返しますが、貧乏であると云う事は恥ではありません。むしろ、貧乏に心がいじけて、劣等感に嘖(さいな)まされ、金持ちへの嫌悪を感じる方が、よほど恥であり、毅然とした態度で人生を生きて欲しいと思います。

 なお「尚道館」は、災害時や有事の際の、地域の緊急避難場所を引き受けておりますので、慈善的な社会事業や、非常時の緊急事態救援にも進んで協力しています。緊急事態救援が発生した場合、百人分の食糧を二週間備蓄出来る体制を整え、慈善事業に協力しています。
 生活困難者には、まず、生活保護から脱し、生活保護法に依存しない人生のある事を教え、またNPO法人の各団体とも協力して、生活困難者の救済活動も支援しています。

 わが流は、武術家に課せられた「奉仕の精神」を、自らの人生の使命と考え、「有徳の士」であることに、誇りを以て志を捧げ、また、修行者を目指しながら経済的に恵まれない方については、金銭に心配する事なく、修行に邁進する事ができるようバックアップをしているのです。



Q17. 西郷派大東流の内弟子制度の歴史は、20年ほどもあり、この20年間で、どうして一人も修了する人が出ていないのでしょうか。

A17. 御指摘のように、わが流派また、過去に於いて、一人も内弟子修行者の中から修了した者が出ておらず、人跡(じんせき)未踏の流派です。
 これについて、色々と中傷誹謗を加える人が少なくありません。そして、外野からの中傷誹謗も甘んじて受けるつもりですが、まず、わが流の厳格な「内弟子制度」を一度体験してから、こうした論評は語って欲しいと思います。片手落ちも甚だしい限りです。

 真相も解らぬまま、真実をねじ曲げたり、事実を偽って雑誌に掲載したり、それをもって、ああだ、こうだと云うのは、礼儀知らずも甚だしい限りです。またこうした者に、「武術だ」の、「武道だ」のと、「道」を語る資格はなく、無礼千万な輩(やから)と云わざるを得ません。

 志に燃え、信念を貫き通そうとする青雲の御人がいれば、是非わが流の内弟子の門を叩いて見て下さい。そして事実と真相を自分の目でハッキリ見て下さい。
 多くの内弟子に関心を寄せる人達は、「僅か二年の短い期間で、何が修得できるのですか」と疑問視する人がいます。しかし、これまでの自称・猛者達は、この「僅か二年」の短い期間内に挫折し、尻尾を巻いて逃げ出して行きました。

 「僅か二年間で……」ではなく、わが流の「一日内弟子体験入門」でも、たった24時間経験しただてで、「もうこりごり」だと逃げ出してしまうのですから、現代社会の、「これが御時勢と言うものか」と呆れるばかりで、つくづく考えさせられるものがあります。
 「僅か二年間……云々」ではなく、もし、「二年間も、内弟子として仕える」ことが出来たら、もう、その人は「天下の名人」になれます。

 もっとも、この事は、宗家先生もよく御存じであり、洗面の介助一つをとっても、手洗いに立つことを考えても、朝夕一度の事ではありません。夜中に手洗いに立つ事もありましょうし、また宗家先生ご自身の仕事の合間に、洗面に立たれる事もあるでしょう。そうした時には、まず手拭いを持って、各々の場所に駆け付けなければなりません。疲れたからと言って、うっかり寝込んでしまうわけにも行かないのです。寝込んでしまうと言う状態は、則ち、「隙(すき)のある状態」であり、隙を作るか、作らぬかは、その儘(まま)、武術修行者の心掛けにも通じます。

 そして惜しまれる事は、こうした事に理解を示す人が非常に少ないばかりか、現在こうした指導のできる宗家先生のような方が、日本には殆ど居ないと云う事です。

 一般に、内弟子と云うと、某空手集団のような団体を想像し、門人が集団で生活し、集団で練習する巨大な内弟子寮を想像するようですが、これは正確に言うと、本来の内弟子ではなく、強化トレーニングを目的にした、格闘選手の為の選手寮あるいは合宿寮と云うべきものです。
 集団合宿と云う形式で練習が進められ、練習のみが中心であり、師匠に近侍して介助をしたり、食事を作ったりと言うものではありません。

 こうした所では、集団で入浴できる大浴場やシャワー室が完備され、食事は寮母のような賄(まかな)いの女性が居て、選手団の食事を作り、陰で選手を支える支援態勢があり、選手としては練習だけに専念し、競技を展開するばかりのシステムが完備されています。
 多少の、食事の際の持ち運びはセルフサービスであるとしても、自分で師匠の食事を作り、自分達は一等下がって、後で冷めた冷飯を食べ、その後の跡片付けや、食材を求めて買物をするというものではありません。何から何まで、気持ちよく練習をして貰う為に、快適な生活空間が完備され、「練習だけに打ち込めばいい」と言うシステムになっています。
 したがって、日本古来から連綿と続いて来た、「本来の内弟子」と言うものとは違います。

 また、尚道館の内弟子制度に志願する半分以上の人が、某空手集団のような内弟子寮や選手寮を想像してやってきます。その多くが「ケンカに強くなりたい」というものでした。彼等の言は、「ケンカに強くなる」ことと、礼儀を覚えたり、作法に準じて人間の基礎を習う事は、無関係だと云うのです。
 しかし、はっきり言って、尚道館・陵武学舎は、世間一般が想像しているような、強化トレーニングだけを目的にした「合宿寮」ではありません。
 また、「ケンカに強くなる」ようなものでもないのです。こうしたイメージからは、程遠いものなのです。もっと、根本的で、地味なものです。人間の根本を掘り下げて行くものなのです。

 仮入門を許されてからの三ヵ月間は、稽古をしたり、何か、特殊な儀法を教えて貰うと云う事は殆ど無く、内弟子としての基本動作と作法が中心になります。基礎の基礎を徹底する事が、この期間の中心課題であり、基礎的な動作や作法は諸先輩の動きを見て、自分で覚えて行きます。儀法的な基礎も諸先輩が指導し、あるいはそれを真似して学び、宗家先生は一切何も教えません。朝晩の挨拶をしても、声すら掛けてくれません。名前すら呼ばれず、「おい、そこのお前」しか呼んでくれません。

 心の貧弱な人は、これを「自分が無視された」と受けとるようです。したがって「自分の身のほど」を知りません。果たして、自分は挨拶をして、「返事を返して貰えるような人間だろうか」、「名前を覚えてもらう程、進歩した人間だろうか」という、そこまでの謙虚な自分の至っていない事を、全く気付かないのです。しかし、こうした人間の心の裡側(うちがわ)を、宗家先生は見てないふりをして、鋭く見抜いているのです。常に心が驗(ため)されているのです。

 教えて貰えるだけのレベルに、儀法も、人格も、品格も、向上して、はじめてここで、名前が呼ばれ、「では、何か一手」となるのです。二年間と云う期間が長いと思うか、短いと思うかは個人差によりましょうが、「二年間に出来るだけ多くの高級技法を修得する」などの、甘い考えは通用しません。砂上の楼閣(ろうかく)は直ぐに崩れてしまいます。

 陵武学舎で問題にされるのは、新人初心者が、わが流の門を叩き、仮入門が許されて、修行に励む「態度」というものが重要視され、そこで「切実」かつ「純真」な意識が欠けてしまえば、即座に挫折します。
 だから現代的な武道人と云う、今風の考えでは、とても蹤(つ)いて行く事が出来ません。だからと云って、わが流は、古人の培った日本の古い伝統を、その儘(まま)の形で、現代の若者に要求する気持ちもありません。

 しかし少なくとも、「修行」と「精進」を目的として、武術や武道に取り組んだ場合、やはり本格的な修行を目的にした内弟子を経験しなければ、それから先の「本物を掴み取るチャンス」は、永遠に失われてしまいます。
 もし、わが流に限らず、他武道・他武術・他流・他派にあっても、錬磨を通じて、何かを掴み取ろうとすれば、やはりこうした「他人の冷飯を喰い」なおかつ「下積み生活」を積み重ねて、物事に対する見聞を広めなければ、決して成就するものではないと考えます。

 残念ながら、わが流の内弟子制度には、他武道・他武術・他流・他派の宗家や家元の御息子や御息女は、今までに一人も入門しておらず、また、こうした武術団体や武道団体の指導者を為(な)さっている御息子や御息女も、まだ一人も入門しておりません。こうした現状から考えますと、現代の日本武術や日本武道は、極めて閉鎖的な「コップの中の嵐」程度の、幼稚な精神内容しか持っていないと推測されます。

 武術や武道は、本来、体験主義や経験主義に基づいた、修行法でなければなりません。
 ところが、「わが流派こそ日本一」と自負する流派がある一方、「世界最強」などと豪語する武道団体が出現した為に、それ以外の他武道・他武術・他流・他派は自己防衛を始め、「こういう暴力団的な、低い手合いとは、レベルや次元が違うのだ」という、「コップの中の嵐」的な考え方に固執します。そして、他流・他派の優れた面までもを否定するようになりました。これは極めて狭い了見と言えましょう。
 そして、何から何まで理屈を付けて、「自分の流派だけが世界最高で、他は駄目である」と、他流を否定すると云う考えが根強く支配しました。

 その証拠は、「武は礼に始まり礼に終わる」という言葉に回帰されます。
 しかしながら、この言葉は正しいでしょうか。本当に、今日の武道愛好者が礼儀正しいでしょうか。
 世人は、何かにつけ、武道界に「礼」を期待して、武道を奨励します。武道には、「心があり」「道がある」と信じて疑いません。しかし、これが幻想である事は疑う余地もありません。
 何故ならば、礼儀正しいと信じられている武道界や格闘技界は、「礼儀正しい」と自負していても、それはその集団の中でしか通用しない、恣意的な「挨拶」に終わっているからです。あるいは恣意的な集団内の習慣かも知れません。また、これらの恣意的な動作が、規則や規律から強制されたり、単に人間の行動の自由を制限する為の道具に成り下がっているからです。

 武術や武道の礼法を我が国の文化資産として見た場合、武道をスポーツの一種と考え、マナーとしての「スポーツマンシップ」と取るのか、求道(ぐどう)精進の為の「道」と取るのでは、その価値観において大きな隔たりが出て来ます。

 更に「礼儀正しい」と自称している人でも、自分の所属する団体内での「挨拶上手」であり、例えば、同じ柔道を愛好していても、所属する団体が異なれば、相手が年長の実力者でも知らぬ顔をします。これが、空手になるともっと極端になり、所屬団体が違うと言うだけで敵意を抱くような態度をする人もいます。

 打撃系の武道全体を見回してみると、それぞれの理論やシステムが違う為、悪口雑言を吐き捨てて、今度は武道雑誌やスポーツ新聞まで動員して、罵声の浴びせ合いになります。こうした「悪口合戦」が許されるのも、さほど秩序が悪くない、穏やかな日本の治安の良さが、そうさせるのでしょう。これがアメリカのスラム街なら、団体同士の抗争に発展し、拳銃までもを持ち出しての抗争事件に発展するかも知れません。

 あるいは、明治時代の講道館柔道と古流柔術の対立を彷佛(ほうふつ)とさせるものかも知れません。日本では警察の目を気にしてか、血の雨が降らないだけは救われているものの、犬猿の仲でいがみ合っているのは、何ともお粗末な限りです。そして、この根底には、自分の流派だけが一番優れていて、他は劣っているという考え方です。

 こうした考え方は、宗教戦争にも酷似しています。自分の信仰する宗教だけが一番正しくて、他の宗教は総て間違っているという考え方です。こうした考え方が、武道界や格闘技界にも蔓延(はび)こっているのです。
 更には、小さな組織の集合体に過ぎない、大東流の中にも、自分の所属する『大東流○○会」だけが日本一であり、他は亜流か偽物だ、勝手に大東流の名前を名乗っているという、傲慢な考え方をする団体も少なくありません。どれもこれも、自分の流派が日本一であり、世界最強と信じて疑わないのです。

 以上のような考え方を見ると、他武道・他武術・他流・他派の指導者は、自分の子供や門弟が、他流や他武道を学ぶ事を悉(ことごと)く嫌う風潮があります。「了見が狭い」と言えばそれだけですが、一つは、子供なり、門弟なりが、「その団体に取り込まれてしまうのではないか」と言う疑心暗鬼と恐れがあるからです。だから他武道・他武術・他流・他派の違いに、理論的な優劣の差を付けて、徹底的に嫌います。

 「わが流派こそ日本一」ならば、御息子や御息女が、喩え他流や他武道を学んで、一時的には取り込まれたとしても、やがては「日本一の所」に帰ってきます。もし、取り込まれぱなしで、見向きもされない流派なら、その「日本一」が眉津液ものであったと云う事になります。

 毅然と、堂々としていればいいのですが、こうした恐れは、いったい何処から起るのでしょうか。
 これは日本人の島国根性と、国民気質に発しているように思われます。しかし、こうした狭い了見にこだわる事なく、国際協調の現代社会は、様々な妄想が作り上げた「心の垣根」を取り払って行かねばならない時期に来ているように思います。

 現に、曽川和翁宗家先生の御息子や御息女は、幼少より極真空手を遣り、また柔道も体験しておられ、自流を、狭き器の「コップの中の嵐」には終わらせていません。彼等が、西郷派大東流の技を教わりだしたのは、中学三年以降からです。多くの流派の宗家や指導者に見られるような、幼少よりの早期教育を一切してない事です。早期教育の欠点は、「雀百まで踊り忘れず」になってしまう為です。最初に習った固定観念や先入観ばかりが強くなって、一方的な見方しか出来なくなり、物事を見定める目を摘み取ってしまうからです。

 積極的に他武道・他武術・他流・他派の長所を学ばせ、その優れた戦闘思想を取り入れるのが、武術家の精進であり、努力する姿でありましょう。これを否定すれば、その流派に未来はありません。
 宗家先生ご自身も、西郷派大東流一本ではなく、他流や他武道・他武術の優れた面を研究し、ご自身も沖縄空手・柔道・剣道・ボクシング・フリースタイル‐アマチュアレスリング・スピードスケート・相撲・腕角力・棒術・杖術・居合術や居合道・抜刀術・弓術・古式泳法・据物斬・宝蔵院流槍術・薙刀・手裏剣術・拳銃射撃・自転車競技などを体験され、また驚くべき事は、高校から大学の頃、合気会本部に度々出稽古に行き、どういう理由で潜り込んだのかは知りませんが、ここで袴組と混じって稽古をしている事です。現に、植芝盛平先生や吉祥丸先生から、実際に手解きを受け、ちゃっかり幾つかの掛け方を習っている事です。何と、豪胆と言うか、図々しいといいか……。
 また、師範になられた学生の頃から、以前、代々木の参宮橋にあった「合気道養神館」にも度々足を運び塩田剛三先生や寺田精之先生、串田先生らにお会いしているのです。【註】これについては小説『旅の衣』前編に掲載)

 他に書道・茶道・香道・礼法・社交ダンスなどを経験して、見聞を広めた上で、再び、山下先師以来の西郷派大東流の合気武術ならびに殿中作法を、これらと比較し、長所と欠点を研究しておられます。

 結局、他流を学ぶ言う事が、自流の気付かなかった優れた面を、あらためて発見する事が出来るのです。
 しかし、多くの武道経験者や格闘技経験者は、一番最初に習った技術から抜けだせず、「雀百まで踊り忘れず」の例え通り、これが邪魔して、初期に習ったものは、年を重ねても抜け切れないのです。頑固のガンのように凝り固まっているのです。こうして、他流の長所を経験する事もなく、また自流の優れた面も発見できずに一生を終わります。総べて、固定観念と先入観の仕業です。
 また、これが自称・猛者達を遠避けたとも言えます。
 内弟子に課せられる事は、諸々の経歴を持つ人は、わが流の門に入門した場合、これらが「邪魔する」ということを忘れない事です。

 邪魔すれば、途端に「薪水の労を取る」という意味は何処かに吹き飛んでしまう、分からぬままに挫折して行くのです。
 過去にどんな凄い経歴を持っていても、わが流に入れば、そんなものは脆くも斃(くず)れ去ります。これを如実に顕わした歴史が、実は西郷派大東流の歴史であり、この歴史を振り返れば、20年間、未だ曾(かつ)て、一人も、わが流の門を修了した内弟子は居ないと云う事に回帰されます。