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内弟子制度 32
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| Q18. 内弟子としての心構えである「薪水の労」について、もう少し詳しく御説明願えませんか。 A18. 一人の人間が発心(ほっしん)し、切実な思いで「内弟子のイロハ」に臨むのは、そんなに大変な事ではありません。これが困難のように錯覚するのは、目的や信念がないからです。目的をハッキリさせれば、目的に向かって努力する意欲が湧きますし、意欲が起れば、これは確固たる信念を作り上げます。ただ、これだけの事なのです。何と分かりやすい論理ではありませんか。 しかし、それなのに各武道界の猛者達が、途中で挫折するのは、固定観念や先入観の頑迷さも去る事ながら、目的意識と信念がないからです。目的意識がなければ、目標すら定ならないのです。目標を定めないで、何が、信念でしょうか。 さて、もう一度、「薪水の労を取る」と言う事について説明しておきましょう。この事については、本ページの曽川宗家先生の、合気関係者の著聞(ちょぶん)である“まことの「薪水の労をとる」とは”を、再度お読み頂くことに譲り、著者なりに、これを説明してみたいと思います。 まず、武術修行の内弟子と云う立場は、厳格な師弟関係によって成立し、師があり、同時に師の教えを乞おうとする学徒が居なければ、この関係は成り立ちません。学徒が一方的に師を求めても、師の許可がおりなければ、それは叶えられるものではありません。 したがって許可が得られると云う事は、師もまた、その学徒を自分の下(もと)に置いて、寝食を共にし、学ぶ事を許すのです。また、学徒は、師に対して、「学びたい」という意思表示を、その修行期間に限り、対座の上で実際に行動して、それを示さなければなりません。つまり懸命に精進努力すると云う態度を示す事です。この純真な行為を、「拝師の礼」と云います。 同時に、この意思表示の現れが、「薪水の労を取る」という言葉に帰着されるのです。 日常の一切を介助し、師の近侍(きんじ)として仕える事は言うまでもありません。 宗家先生の“まことの「薪水の労をとる」とは”の中には、直心影流の達人・榊原鍵吉先生と、その内弟子であった、山田次朗吉先生の、“雪の九段坂”の話が出てまいります。 この話には、榊原鍵吉先生の下駄の鼻緒が切れた時の話が綴(つづ)られています。下駄の鼻緒が切れ、横転しそうになった鍵吉先生の躰(からだ)を素早く支え、然(しか)も、残る片手で、自分の下駄を脱ぎ、咄嗟(とっさ)に下駄を挿(す)げ替えた次朗吉先生の見事な判断が記されています。 この物語には、「武術修行とは、如何なるものであるか」と言う事が書かれています。そこには「切実かつ純真な、無垢(むく)の心が、咄嗟の出来事に対応出来る」と述べられているのです。次朗吉先生のよな判断は、日々を安穏(あんのん)として暮らしている人間には、決して出来るものではありません。普段からの緊張の連続が、こうした咄嗟の判断に及んだものと思われます。そして、心構えも大事と述べています。 この下駄の鼻緒が切れる一瞬の出来事に、どう対処するか、そこには、修行者としての心得が凝縮されています。下駄の鼻緒が切れると言う事件は、偶然に起ったかも知れません。日常茶飯事に、よく起る事かも知れません。鼻緒が切れたのは、日常よくある予測の出来ない突発的な事であったかも知れませんが、しかし、その予期しない出来事に対し、師と随伴(ずいはん)した弟子の取るべき行動は「どうすべきか」という事が、武術家としての心構えとして述べられているのです。 また、精進の極致に至れば、内弟子としての切実な思いと、純真で、然も無垢な心は、かくも咄嗟の事件に即応でき、変応自在(へんおうじざい)に変化して、玉簾不断(ぎょくれんふだん)が実行出来るとしているのです。 これは、著者の知人の、丸暴係の警察官から聴いた話ですが、ある暴力団組長が、抗争・敵対する暴力団の刺客から、むざむざ刺し殺されたという話を聞いた事があります。組長の周りには、数人の幹部の取り巻きがいるのにも関わらず、何の為(な)す術(すべ)もなく、むざむざと刺し殺されたと言うのです。 これは、変化の乏しい普段の日常を甘く見て、「敵は、容易に襲って来ないだろう」と云う希望的観測が、こうした結果を招いたとも言えます。あるいは仁侠道(【註】暴力に訴えて私的な目的を達しようとする反社会的団体の暴力団と、弱きを助け強きを挫く気性に富む仁侠道とは異なる)自体の修行が、平和ボケで弱体化した事に元凶があるのかも知れません。 この時、取り巻きの幹部の態度は、組長を思う心構えの切実さに欠け、漫然(まんぜん)と随伴して居た事になります。ところが、事件が偶然に勃発し、これを事前に予期出来るものではありません。 だからといって、随伴者の誰一人として、むざむざと自分の組長が刺し殺されたと言う失態は責められるべきでしょう。あるいは組長を、「躰を張って護る」と言う事が出来なかったのは、防禦できなかった取り巻の責任でしょう。 周知の通り、一口に暴力団と云っても、その修行はサラリーマンなどの企業組織の礼儀作法に比べれば、その比ではありません。新人研修で教育を受けた新入社員より、こうした組織で修行している組員の方が、よほど礼儀が正しいのです。彼等も、武術の内弟子にも劣らぬ、気配り・配慮・緊張といった心構えを、厳格に叩き込まれ、修行して行くのです。 しかし、こうした修行の中にも、少しでも手抜きがあれば途端(とたん)に叱責され、緊張の連続の中から、「自分は、いま何をすべきか」と云う事を実体験して行きます。気配りや起点が早くなるのです。 修行の過程の中で、修行を通し、気配りと心遣いを巧みにして、やがて貫禄(かんろく)と度胸をつける事を学んで行きます。この点においては、武術修行の内弟子と、さほど変わりはありません。 ところが、咄嗟の対処法に開きが出て来ます。 緊張の持続が継続できなければ、心構えの切実さは薄らいでしまい、随伴は漫然とした同行者に成り下がってしまいます。ここが、暴力団の取り巻の舎弟と、山田次朗吉先生の臨機応変さとは、違った次元の行動律によります。 倒れようとする人間の躰を、支えるくらいは誰でもできるでしょう。しかし、自分の履(は)いている下駄を咄嗟に脱いで、自分の師の足許(あしもと)に下駄を素早く差し入れ、挿(す)げ替えると言う芸当は、並の人間には出来ない神業(かみわざ)といえます。 では、どうしてこうした判断が出来たのでしょうか。 それは常日頃から師の近侍として、随伴し、門人としての意識が、切実であり、純真であり、こうした働きが、咄嗟の事件に対して、かくも神業のような行動を取らせたということなのです。弟子としての在(あ)り方、門人としての在り方、内弟子としての、常日頃から「薪水の労」という、一見武術の稽古とは無関係に思える、炊事などの労働が、かくも神業へと趨(はし)らせたのです。また、転じて、師に仕えて、骨身を惜しまない働きをする、切実で、純真な態度がその儘(まま)、無意識な、神業に近い形を取らせたと言えるます。 「薪水の労を取る」とは、師の近侍となり、日常の一切まめまめしく、よく勤め、よく働き、気配りに心掛ける事です。 入浴一つ挙げても、気配りし、緊張を弛(ゆる)めてはならないのです。湯加減を見るにしても、非常な気配りが必要となります。 かつて、湯加減を見るのに自分の手を入れて温度を調べたら、雷鳴りのような叱責を受けたと言う仮入門者が居ましたが、湯槽(ゆぶね)の中の、お湯に手を浸してしまったのでは、師より、自分の方が先に入浴した事になるからです。だから、こうした際の智慧(ちえ)は、まず、手桶に湯槽のお湯を取り、調べればいいのです。 以上のように、我が師に仕え、心構えが切実かつ純真を継続する緊張感がある時に限り、凡人には不可能と思える神業が顕(あら)われるのです。単に、武術や武道のテクニックばかりに目を奪われている人には、出来る筈もありません。 勝つ事ばかりに力を入れ、テクニックばかりを信奉すれば、武術修行者として最も大事な極意を取り逃がす事になります。修行における精進・努力が、武術家の咄嗟の行動を決定する要(かなめ)である事は、武術や武道に取り組んでおられる人ならば、是非承知しておいて欲しい事柄です。 Q19. わたしは女性ですが、男子の皆さんと同じ修行をするのでしょうか。また、服装や髪型などは、男女とも同じなのでしょうか。 A19. これまで、わが流の内弟子に女性が志願した事は一度もありません。しかし、現代は男女同権であり、男女均等雇用法が施行される時代にあって、こうした内弟子修行にも、同じように女性にもチャンスが与えられるべきだと思います。 これまで女性を閉め出していた芸道の世界にも、女講談師が生まれ、女性落語家が生まれて久しい時代となりました。武術や武道の世界にも、以前から女性が稽古をしたり、研究をすると云う事は古くからありましたが、実際に女性が入門して師匠の近侍となり、「薪水の労を取る」という事まではなかったと思われます。 仮にあったとしても、内弟子とは名ばかりで、多くは、芸能人の「住み込みの付き人」であり、女中の代役程度のものだったと思われます。その意味からでは、修行とは程遠いものであったに違いありません。 ところが、わが流の内弟子制度は、女性にも同じ門扉を開きますが、以上のような、女中代りの付き人ではなく、あるいは住み込みの家政婦でもありません。もっと厳格な、もっと真摯(しんし)な、人間修行を目的にした「道」への求道となります。この「求道」という点だけは念頭に置いて欲しいと思います。 さて、服装は本ホームページに記されているように、普段は作務衣を着用します。下着類は、男性の褌(ふんどい)と云うわけには行かず、それ相当の物を身に着ければいいと思います。 男子が褌をするのは、スポーツ愛好者に多い、気触(かぶ)れや、蒸(む)れから起る陰金田虫(インキンタムシ/頑癬(がんせん)の俗称で、白癬菌という糸状菌の寄生により、生ずる皮膚の湿疹様疾患。青年男子の内股・臀部・躯幹に多く、病巣は縁辺が土俵形に隆起して紅く、中心はやや退紅して暗色を帯びる。同じ下着類等によって伝染する)や、その他の下の病気を予防する為で、衛生上の事からこれらを義務付けています。 髪型も、わが流は尼寺ではありませんので、男子と同じ坊主頭の剃髪(ていはつ)にする必要はなく、動いて邪魔にならない、こざっぱりとした短い髪型をすればいいと思います。男子に剃髪を義務付けているのは、頭髪などの落下によって、これにダニなどの寄生虫が発生するのを防止する、健康衛生上の事からです。 修行期間は、出来るだけ快適に、健康に過ごして頂きたいと言うのが、わが流の考え方であり、男女共、同じ条件の許(もと)で修行が展開される事になります。男女共、同じ内容のメニューが用意され、男女に格差はありません。ただ、入浴時や、部屋割りについては、男女各々に仕切りを設け、女子には女子部屋があり、修行期間の恋愛感情は一切ご法度なっています。 わが流は、真摯に修行する者だけを相手にしますので、一時限りの幻に魅了されて崩れて行くような人間は、最初からこうした所には近づかない事です。 ただし、ハッキリとした目的意識を持ち、目標を定めて、それに向かって邁進(まいしん)する人は大歓迎であり、男女共大いに競ってご来館下さい。 Q20. 「内弟子制度」の指導内容に、「指導は単に、西郷派大東流の技術指導や整体術ばかりでなく、政治・経済・軍事・哲学・陽明学・言霊学・金融工学・歴史工学・開業ロケーション理論・心理学やアイドマ理論・食養道・道場経理学・インターネット作製などの広範囲に及ぶ」と挙げられていますが、これを学ぶとなると相当な時間を要すると思いますが、僅か二年間で大丈夫なのでしょうか。 A20. また、「僅か二年間で」という言葉が出ましたね。あなたも、まだまだわが流の内弟子制度に対し、理解不足であると思われます。そこでもう一度、「求道」(ぐどう)という事について説明しておきましょう。また、以上に挙げた学問の内容も、充分に理解しておく必要があります。 さて、ここではっきり申し上げておきたい事は、以上の示された学術的な学問に対し、これを学問として捉えるのではなく、実生活に応用出来る「実学」として捉える必要があります。同時に、自らが「精進求道」すると云う態度が必要です。以上を、わが流は、一方的に内弟子に押し付けるものではありません。 つまり、求道するとは、以上の何(いず)れかのうち、「自分はこれを学んでみたい」という発心(ほっしん)から始まり、そうしても、止むに止まれずという求道が、以上の中から、あるテーマに関する内容を選択する事になります。 したがって、「これらを全部教える」という事ではないし、また内弟子期間に、これらを総て消化すると云う事でもありません。以上の学問を研究してみたいと思うのなら、宗家先生の指導の許(もと)、以上の学問の何れかを選択すると云う事が出来るのです。しかし、何の興味もなければ、無理に学ぶ必要なはく、嫌々勉強する暇があったら、素振りの一万回も、二万回もした方が、自分にとっては余程ためになります。 かつて宗家先生に《八門遁甲》を「どうしても教えて欲しい」と乞(こ)うた内弟子が居ました。宗家先生はそれではと、教える事になりました。ところが宗家先生の始めたのは《八門遁甲》などではなく、物理数学の講義から始まったのです。 宗家先生は常々、《八門遁甲》は中国の古典物理学であると申しております。これを決して、「占いの類」と考えてはいけないと云います。したがって物理数学の基礎力として理解しておかなければならない微分方程式を教え始めたのです。しかし、大学出の某内弟子くんは、数学が得意ではないと見えて、さっぱりこれを解しません。その上、彼の出身大学は文化系の大学であり、数学の微分積分を習ったのは、遥か昔の高校の頃であり、理系の大学で習う教養課程の微分方程式は、全く歯が立たない状態でした。それ以来、彼は二度と口が避けても《八門遁甲》を教わろうとは云いませんでした。 ここで、考えなければ行けない事があります。何故、彼は《八門遁甲》を教わろうとしたのでしょうか。恐らく《八門遁甲》の名前と、その威力の噂だけ聞いていて、これを他人に遣(つか)ってやろうと思ったのではないでしょうか。また、一種の「九星気学」のような、軽い占いと思ったのではないでしょうか。 宗家先生は「九星気学」を常々「気狂い学」と呼んでいます。占いは、あくまでも占いであり、占いの域を出るものではありません。遣(や)り過ぎれば、本当に気狂いになります。だから宗家先生は、これを「気狂い学」と呼び、こうした人を今まで、ご自分の周りで沢山見て来ているのです。 それに比べて、《八門遁甲》は紛(まぎ)れもなく、中国の古典物理学であり、軍立(いくさだて)を定めるには、非常に緻密(ちみつ)な計算が必要になります。分厚い『萬年歴』を記憶するのにも、相当な記憶力を必要とします。そして《八門遁甲》は中国の古典物理学であるばかりでなく、同時に「兵学」でもあり、中国では《八門遁甲》を「風水」などの占いの類に分類せず、歴(れつ)とした「兵書」として扱っているのです。 よく、巷間(こうかん)には占師が、怪し気な「奇門遁甲」の看板を掲げ、これを占いや、霊的な媒体として扱い、占師の事務所の中には滑稽極まりない、訝(おか)しな神殿が祀(ま)っられていますが、こうしたものなどは、一目でインチキと分かってしまいます。 何故ならば、宗家先生が常々申されているように、《八門遁甲》は、占いの類ではなく、「兵学」あるいは「軍学」なのです。こうした兵学や軍学に、どうして神仏が入り込む余地があるのでしょうか。 例えば、物理学や数学の中に霊的な現象が取り込まれ、神仏が入り込む余地が少しでもあるでしょうか。全く無い筈です。ところが、「奇門遁甲」の看板を掲げ占師は、この兵学に神仏を持ち込んでいるのです。 この間違いは、某内弟子くんも、したのではないでしょうか。相手を占い、自由にできると考え、「あわよくば」という気持ちを抱いたのではないでしょうか。特に、占いは異性に関して占う場合が多いからです。恋愛の行方へ占いが用いられる事は、読者諸氏もご存じだと思います。 《八門遁甲》は、その後も何人かの人が、宗家先生より教えを乞おうとしましたが、全く歯が立たず、この兵学の基礎すら、理解した人はいませんでした。面白半分に、人の運命を、占いの次元から検(み)るというのは、余りにも愚劣な行為であると言えましょう。 また、かつて宗家先生の著書で『八門人相事典』というのが学研から出版された事がありました。女性を対象にした、日本で一番詳しい人相学の本が出版されましたが、内容がいささか難解な為か、一万部を売り上げただけで、直ぐに絶版になってしまいました。こうした事からも分かるように、高度に専門化された学問は、一般大衆の興味の範囲を逸脱し、秘法が複雑で、難解である事を示しています。基礎固をせずに、身の程を知らなければ、こうした愚に墜(お)ちてしまいます。 さて、あなたが以上の指導内容の中から、道場経営学に興味があるとしましょう。 これを学ぶには、勿論経営学の基礎である《貸借対照表》や《損益計算書》の読み方が基礎となりますが、それだけを勉強してもダメです。複式簿記を覚えただけでは、机上の空論であり、実地を知らなければ思考が空回りしてしまうのです。実際に、内弟子期間中に、支部道場の運営をしてみる必要があります。 わが流は、北九州市教育委員会が認定する「社会教育認定団体」ですから、「社会教育認定法」と云う法律に守られ、北九州市内の公立の公民館、体育館、武道館を無料もしくは非常に安い金額で使用する事が出来ます。また北九州市内の市民会館や、公立の劇場私設を使用する場合、これも非常に安い金額で使用する事が出来ます。 こうしたものを実際に借りて、愛好者を募集するという訓練をするのです。これは、自分が道場を開業した時に、非常に役に立ちます。場所選びから、人員募集と、展開して行くわけです。場所を選ぶには、経営学的なロケーションが必要ですし、ここには交通の便や人口密度などの統計調査が絡んで来ます。また、募集するにも、ただ単に、ポスターを数枚、街角か何処かに貼ったり、立看板を立てたらいいと云うわけにもいきません。こんな事をすれば、不法広告として不法広告違反(ポスターなどを貼るには警察の掲示物許可印がいる)や道路交通法違反で、警察の摘発を受けます。 また、新聞折り込み広告などを作り、これを配付するとか、直(じか)に宅配するという云う方法もありますが、これだけでも効果的とは言えません。あるいはサラ金業者が行っているように、駅頭や街角に立ち、広告を詰めたテッシュ配りだけでも、そんなに効果があるとは言えません。 ポスター作製や掲示などもそう何でしょうが、もっと効率の良い、スマートな方法を考えねばなりません。そこで必要になって来るのが、インターネットのホームページ開設です。同時にホームページ製作方法も知っていなければなりません。要するに、「広報活動」とは総合的な相乗効果で、大衆にアピールする心理学のアイドマ理論を総動員しなければ、アピール効果が出ないものであるという事を知らなければならないのです。つまり、学術的に云うとマトリックス(matrix/ボーアの量子論を、ハイゼンベルクが対応原理を指導原理として発展させた力学)理論という行列力学の思考である「相乗的かつ複合的に絡み合う力学効果」という総合の「相乗効果」によって、人目に止まると言う大衆心理の「波動的絡み付き」を理解しなければならないのです。 こうした、武術以外の道場運営に関わる事を、内弟子修行と平衡にして行うと言う事が、以上を指導すると云う主旨なのです。 いわば実学であり、人から安易に教えて貰うのではなく、自分から進んで、一番興味のある、またそして、今後、自分の為に、多い役に立つような科目を実学として選択し、それを実地で試してみると云うのが、わが流の指導内容の主旨となっているのです。 以上の事以外にも、茶道、香道などの精神性も学ぶ事が出来、そこに附随する、礼法も修得して行く事が出来るのです。ただし、卑(いや)しくもこれらものを学ぶのであれば、その最低限度の学ぶに必要な道具(袱紗や紙入れなど)は自分で揃えるべきでしょう。何一つ自分で用意せず、ただ「教えて下さい」では、教える者に対して非常に失礼に当ります。 また、自ら求道して教えを乞うのですから、以上に関する下調べは必要であり、こうしたものを調べるのに、お金を遣わずにやろうと思えば、図書館があり、こうした所に出向いて、書籍から基礎知識を学んでおく事も大事です。何もかも、「おんぶに、だっこ」では、余りにも自立の精神がなさ過ぎて、教えるが側の師匠を馬鹿にして居る事になります。 求道は、「これがやりたい」という発心(ほっしん)から始まります。発心とは、あることをしようと思い立つ発意のことです。それが「どうしてもやりたい」「やらねばならない」と、やがて求道へと変化します。 本当の事が知りたいと、切に願うのが求道です。転じて、これは真理を求めることに繋がって行きます。 以上の心が起って、はじめて道を求める原動力になって行くのです。 Q21. 道場を運営するのに、貸借対照表などの読み方は知っておくべきなのでしょうか。 A21. 《貸借対照表》は企業などを運営して行く会計面で、一時点における財政状態を明らかにする為に、総べての資産と、総ての負債や資本とを対照表示した書類の事で、一般には「バランス・シート」(balance sheet)という名前で呼ばれています。 また《貸借対照表》と《損益計算書》(1会計期間における経営成績を明らかにする為に、その期間に属する総収益と総費用を対応させ、当期純損益を表示した書類)が誘導的に作成できるように仕組まれた簿記に《複式簿記》があり、べての取引を「借方要素」と「貸方要素」とに分解し、各要素を継続的・組織的に記録することによって、貸し方と借り方との双方に複式的に記入出来る簿記があります。 宗家先生は常々、人間はまず、「人間」であるべきだとおっしゃいます。人間の棲(す)む世界は、社会的存在として「人格」を中心に考えで展開されています。武術家と雖(いえど)も、人間であり、またスポーツ武道選手も、格闘技選手も社会的存在として人格を「核」として生きています。 「人間」という本質を探究すると、哲学者カントが云うように、実践的と生理的とに分け、これが哲学的人間に発展すると述べております。つまり、形質・文化・社会の多様性と普遍性を、さまざまな側面から総合的かつ実証的に明らかにすれば、武術家と雖も、人間の中に存在する武術家であり、武術家の中の人間ではありません。私たちは、文化や社会生活面から接近する文化の側面を重視した現象人間界における「人間」なのです。 したがって、ただ強いばかりの、人格の伴わない「気狂いに刃物の観の徒」であってはならないのです。やはり武術家と雖も、強持(こわも)てで他人から恐れられるのではなく、人格で他人から尊敬を受けなければならないのです。その為には、まず社会の中での、「人間である」という自覚が必要になってみます。 この自覚に欠けた時、その人は人生の中で大きな落とし穴に嵌り込みます。 芸能人やスポーツタレントが、人気絶頂にある時に気を良くして、取り巻の有象無象に煽てられ、レストランや料理屋、その他の店鋪を経営して大失敗するのは、やはり「人間である」という自覚のなさから、今の現実を軽視し、他人を甘く見る事です。気付いた時には数十億円の借金を抱えて、馘(くび)の廻らない状態になっています。 こういう人達は、自分が勉強不足で《貸借対照表》の読み方すら知りません。したがって「人任せ」になってしまいます。こうなると「人任せ」から起る「横領」は防ぐ事が出来ません。好きなだけ喰い尽くされて、気付いたら数億円の大借金を抱えていたと云うことも少なくないのです。 では、何故こうした状態に陥るのでしょうか。 それは一目瞭然であり、必然的にそう作(な)る運命を抱え込んでいます。何故ならば、芸能人やスポーツタレントが経営に失敗するのは、《貸借対照表》や《損益計算書》の読み方を知らないからです。 複式簿記の本質は、貸し方があれば借り方があり、借り方があれば貸し方があると云う、ただそれだけのことです。理論経済学的に、何も難しく考える必要はないのです。 複式簿記の原理は、資産の増減を記入し、また資産の減少も記入する書類です。つまり資産の増加を貸し方に記入するものなのです。 では、負債の増加は何処に記入するか、また、負債の減少はとなりますと、負債はマイナスの資産と言う事になります。 複式簿記の原理は、常に貸し方あれば借り方あり。借り方あれば貸し方ありが原則なのです。これは複式簿記の大原則であるばかりでなく、資本主義の大原則でもあるのです。したがって複式簿記とは何かと云いますと、資本主義的取引をする為の簿記と言う事になります。 資本主義体制下の中で、無償取引や自由取引と云うのはあり得ないのです。資本主義の論理の中にはこうした物は存在しないのです。 私たちは、資本主義社会の一員であり、その体制下のもとで生活を余儀なくされています。まず、これを充分に把握し、この中の「人」であるという認識が必要です。したがって、道場経営と云うのは、こうした体制下での運営と言う事が基本になりますから、どうしても道場の経営者であるならば、最小限の知識として、「バランス・シート」の見方や、「税務関係」の処理についてもある程度知っておかねばならない義務があります。 道場を運営して行く上で、ドンブリ勘定では、その先の展望が見えて来ません。また「見通し」も立ちません。見通しを立てる事が出来なければ、やがて運営に行き詰まり、無理な借金をしたり、道場以外の職種に従事しなければならなくなり、あるいは高利の街金に手を出す事も余儀なくされていきます。 まず、大切な事は、無理せずに健全な運営をしていくと云うことが道場主に課せられた義務であり、そして、人は道場主の腕力の強弱に従って来るのではなく、道場主の人間性と品位に従って来ると云う事を肝に銘ずる必要があります。今の、この時代、ケンカ馬鹿や武道馬鹿は、既に終焉(しゅうえん)を迎えているのです。 人は、「人生の拠(よ)り所として武術を選択する」のであって、ケンカに勝ちたい為に、これを修行すると言うのでは余りにも、考えが幼稚過ぎます。こうした人もいるでしょうが、小数はに過ぎず、学識経験屋や文化人等の、「文の人」を納得させる説得力を失います。 武は、「文武両道」であって、人が従うものであり、「武」だけが突出したものは、「文の人」から尊敬を受けないのです。 だから、健全である為には、道場運営の能力も同時に身に着けて行かなければならないのです。いわば、道場主とは、「人生を経験して行く上でのエキスパート」でならなければならないのです。 Q22. 内弟子制度について繰り返し読み返しますと、他のスポーツ武道や格闘技等の内弟子と比べると、随分と違うようですが……。その辺の違いをもう少し詳しく、御説明して頂けないでしょうか。 A22. まず申し上げたい事は、尚道館の内弟子制度は練習をするのではなく、修行をすると云う事なのです。 練習と修行の違いを具体的に挙げるならば、練習はその目的が試合に勝つ為のものであり、筋トレ等をして、肉体を酷使した事によって得られたスピードとパワーで、強弱論を展開させる為の、ただそれだけに存在します。したがって、肉体が故障もなく、自在に動いている間は、優位に強さだけを保持して行く事が出来ますが、肉体が衰える40歳の初老を峠として、これまでの威力は半減し、徐々に失い始めます。そして50歳を超えると、筋トレで培った肉体は崩れ始めます。 一方修行は、肉体強化の筋トレのみを目的に励むものではありませんので、日々の生活の在(あ)り方を重要視し、そこから「人生とは何か」という事を学んで行きます。これは古人の諌言の「日々戦場」という事が基本になっており、武術と武道を隔てる境目も、ここに存在します。 現代スポーツ武道を超えた武術は、日本人の心と言うより、人の根底に流れる「血の力」を己の裡側(うちがわ)に表現して行くものです。つまり、武術は日常生活に中に「日々戦場」を具現して、如何なる事があっても「生き抜く力」を養って行くものなのです。ここに生き残る為の智慧があります。古人は戦場の十字砲火の中でも、生き抜く智慧を教えているのです。 スポーツ武道、スポーツ格闘技と云われるものは、自分が選手として試合場で闘っている間は、それなりに、試合に勝つ為の強者に徹しようと努力します。しかし一旦試合場から一歩外に出れば、普通の人に戻ってしまいます。試合場やトレーニング場での活躍が問題であり、それ以外に日常生活の大事には余り目を向ける事がありません。 礼儀一つにしても、自分の所属する団体から離れれば、たとえ相手が別の所屬団体の高位の人であっても挨拶すらする事はありません。こうした中に、武は「礼に始まり礼に終わる」と信じられて来た多くの人々の期待は、ただの幻想であった事に気付かされます。また、日本を代表するような強化選手に選ばれた人でも、この程度の人しか集まっていないのです。 ところが、修行を目的とする武術は、総て人に接する場合は、まず「礼儀」をもって始まります。そこに人間の強弱は存在せず、年齢の高低も存在せず、人として接する事のみが課せられて行きます。そして武術家に生涯求められるものは、「日々精進」であり、それと同時に、いつ何時、非日常に変化しても、それに対処出来るだけの備えの根本である、「日々戦場」という意識です。その意識の根底には、あらゆる危険に対し、備えると言う意志を持ち、常に心を遊ばせない事にあります。 「敵は襲って来ないだろう」という、安易な希望的観測は絶対に持ってはなりません。緊張しきる中に、修行の原点が存在するのです。何処に居ても、どんな場合でも、気を抜く事は許されないのです。食事をする時も日々戦場であり、外出時も、睡眠時も、入浴時も、排便・排尿時も、また日々戦場なのです。 同時に修行は、日々の「日常生活の大事」を教えてくれます。それは「薪水の労を取る」と云う事に回帰されますが、日常生活の一切を経験する事で、また、それは修行とイコールであり、その修行は、実は武術の心構えから発していると云う事に気付かされるのです。 内弟子は縁あって、師匠のお膝元に居ながら修行する権利が与えられ、その許しを得て修行に励むのです。その修行は、単に肉体を酷使する強化トレーニングのようなものばかりでなく、むしろ日々の日常生活を通じて、その中から「人生とは何か」という「生き抜く原理」を学んで行くのです。 そして一言申し上げておきたい事は、わが流における内弟子修行と云うのは、他の武道や格闘技で行われている「内弟子の名を借りた強化トレーニングではない」ということです。ただ肉体を酷使して、朝から晩まで練習に励み、勝つ事を目的にして、古人の智慧や礼儀を蔑ろにすると言うものではありません。 わが流の内弟子制度は、強化トレーニング選手のように、練習だけに明け暮れればいいと言う快適空間も存在せず、食事一つにしても、ただ栄養満点の美味しい物だけを腹に詰め、後は、寮母のような人がいて、賄(まかな)い方は別になっていると言うものでもありません。 食材の買物から、料理の準備などの食事一切も内弟子自身がやり、同時に「薪水の労を取る」という意味から、何から何まで内弟子自身が主役になって、教えを乞う師匠の世話に明け暮れると言うのが、真の意味での師匠に仕えると言う事であり、この「仕える」と言う事を原点として、内弟子修行が存在しているのです。 この意味を取り違えますと、内弟子寮を他の強化トレーニングの選手寮と勘違いしたり、強化選手を作り上げて、試合に勝つ事のみを目的としたスポーツ武道や格闘技と同じように考えてしまいます。 さて、では、わが流の内弟子に入門すると云う事は、一体どういう事なのかと云うことを、非日常の意味から紹介致しましょう。 人生に不測の事態と言うものはつきものです。自分だけは別であり、不慮の出来事には遭遇しないと思ってはなりません。人間は生まれた以上、万人の頭上に不慮の出来事は誰にも等しく降り掛かっています。 これは日々戦場と言う意味からも、明らかでしょう。 日常であっても、いつ非日常に変化してもいいように、その根本を学んで行く事になります。食材選び一つ挙げても、情況判断に於いて、生き残る為の智慧が必要となります。料理にも、当然そこには戦場レシピと云うような智慧が必要であり、こうした事を通じて、様々な人生勉強が待ち構えています。 掃除にしても、洗濯にしても、買物にしても、見極める智慧が必要であり、今まで普段では経験しない事を内弟子修行を通じて経験を重ねて行くのです。この経験こそが、やがては人生を生き抜く原動力になり、最後まで「死なずに生き残る」と言う智慧になって行くのです。 人間は生きている間は、好き勝手な事が言えますが、死んでしまえばそれっきりです。死人に口無しだからです。死んだ人は証言や抗弁ができません。死人に無実の罪を着せることや、死人を証人に立てようとしても、甲斐のないことになってしまいます。だから、どのようなことがあっても、死なずに生き残らなければなりません。 「生き残る」という智慧を勉強する事が、わが流の内弟子制度の目指す所であり、そこから人生を学び取って行くのです。 だからこそ、日々戦場は重要な課題であり、日常にあっても非日常を体験して行く事が、激動の世の中を生き抜く智慧となるのです。 したがって我々内弟子は、スポーツ武道や格闘技のように、スポーツ・ゲームを展開する為に、勝敗が競われると云う事にそれ程の価値観を見い出しません。試合で勝つのではなく、人間の最終決着は、生死を分ける事なのです。 日常生活の食事一つにしても、これを甘く観(み)ず、食事の姿勢から、咀嚼(そしゃく)法や食事の作法まで一種の修行と考え、修練を積み重ねて行くのです。こうした、生きる為の修練が、万一、最悪の窮地に立たされたとしても、過酷な現実の、一瞬の隙間を見つけて、その一隅のチャンスに、己の命を賭ける事を学んで行くのです。こうした一瞬のチャンスを捉える事が出来た者だけが、本当の勝利者として生き抜ける事が出来るのです。 日々戦場の精神は、生き抜く智慧を教えているのです。スポーツの試合に見るような、戦いを終えて、互いの敢闘精神や健闘を讃えあうと云うような、甘っちょろいスポーツマン・シップは、全く存在する余地がありません。 現実を生き抜く、非日常を生き抜くとは、生き残った者だけが勝利者であり、生き残った者だけが総てなのです。使われた手段が、どうのこうのと、こうした事は一切問題にされません。何故ならば、死んでしまった敗者は口が聞けないからです。 そして、わが流の内弟子修行の原点は、様々な危険から身を護る為に、日々精進努力を重ねるのであって、この精神が薄れれば、これはもはや武術とは言えないものになってしまうからです。 こうした実際に起こり得る、日常が、いつ非日常に変化しても、それに狼狽(うろた)えず、気遅れしない心を養って行くのです。同時に、今日のような犯罪が多発する現在、これまでに考えた事のないような種類の暴力にも直面する危険があり、いざという時機(とき)に動顛(どうてん)しない心構えを養って行くのです。起死回生の一撃こそ、日々地道な精進を積み重ねた賜(たまもの)であり、こうした時に至って、はじめて智慧を集積した「家伝の宝刀」が抜かれるのです。 |