内弟子制度 33



内弟子・質問解答だより5


 
Q23. 内弟子制度の中の指導に、非常に興味深いアイドマ理論というのが示されていますが、これを詳しくお教え願えませんか。

A23. まず、こうした質問は入門してからの質問で、多少礼儀に外れていると思う次第ですが、私が宗家先生から教わった範囲でお答えしておきましょう。
 アイドマ理論とは、心理学で云う、AIDMAであり、「A」は注意喚起のAttention、「I」は興味関心のInterest、「D」は欲求願望のDesire、「M」は記憶のMemory、「A」は行動のActionのことです。
 現在、尚道館では入門者を選別する場合に、心理学上の学説であるアイドマ理論(AIDMA)を採用し、この学説の理論の展開で、後世に残るであろう有能な人材と、現在子供であればその保護者を対象にして厳格に審査する事にしています。

 さて、この理論を展開させていくと、次のようになります。

1.Attention……注意喚起……古武術または武道、格闘技に興味があるので電話帳をめくってみた、インターネットを検索してみた、たまたま宅配チラシが入って居たので目に止まった、新聞折り込みチラシが入って居たので興味をそそられた等の初期段階です。こうした場合「チラシの媒体」や、インターネットや電話帳では掲載されている広告のデザインや内容が極め手となります。


2.Interest……興味関心……誰がどういう目的で道場を開設し、何を教えているのか等の興味への感心です。こうした感心を得る場合、大方二つに別れます。
 一つは形から入って来て、カッコよさそうだ、スマートで良い、自己顕示欲を満足出来そうだ、新聞やテレビのニュースにも取り上げて貰えそうだ等のことから起る選択肢と、もう一つはこういう表面的なものを度外視して、誰が指導しているのか、最高責任者は誰なのか、武術体系はどうなっているのか、思想的には、あるのか、ないのか、もしある場合、それは「どう云う思想」なのか、また、実際には柔道・剣道・空手などは試合に勝つ事ばかりに主体が置かれ、思想等は殆ど存在しないが、この道場はどうなのか等の、前者とは全く異なる考え方で迫って来る連中です。

 この両者の分離比は、これ迄の統計的に見て、前者は九割以上、後者は一割以下で、前者の九割以上は、名前の有名な「広き門」より入り易く、しかも愛好者が非常に多く、そして後者は極めて門の狭い「狭き門」より入門する事になります。前者は建物の立派さや、人数の多さに圧倒され、後者は内面的な無形の真実に迫ろうとします。つまり真実とは、強弱論や肉体的な才能や素質に左右される事なく、精神領域で、自己の進化を目指そうとします。

 これは長期展望的に見て、前者は「烏合の衆」であり、後者はやがてその集団の核となる有能な人材です。いわゆるここで「ノアの方舟」理論が成立します。
 洪水が起った時、「ノアの方舟」に乗れるのは限られた家族と、一対の各々の動物でした。彼等だけが後世を切り開く為に生き残り、他は死に絶えました。

 だからこそ、キリストは弟子に「狭き門より入いれし者だけが救われる」と力説したのです。ここに興味を示し、感心をとどめる者でなければ真物(ほんもの)は育ちません。したがって当然「入門審査」「体験入門」や、子供の場合は「保護者の面接」が必要になります。
 特に子供の場合、子供の素質や才能だけに目を奪われるのではなく、親の考え方に注目しなければなりません。更に、年令が若年である場合、「親の意向」で子供は動きます。無能な親には、無能な子供が控えています。ここでいう無能とは、学問上で云う「暗記力」ではありません。暗記だけが強くても、現在の高級官僚のように、物を創造出来るものが少ないのは、暗記が占める左脳のみを相手にした、日本の明治以来の悪習の一つです。実は、「無能」とは、暗記だけが強く、答のある問題だけに長じた試験人間を云うのです。試験人間の寄り付く所は、「寄らば大樹の陰」であり、有形の、「かたち」ということから取り組みます。
 世間では「お利口さん」と云われるのですが、こうした人間は、思想の世界や想像力を要求する武術の世界では殆ど役に立ちません。

 そして最近特に恐いのは、親の中に「当たり屋」という、生活に食い詰めたサラ金でブラック・リストに載っている不適合者が居て、道場意外で怪我をした事でも、あるいは親自身が子供を傷つけて「道場で起った事故」として、道場に責任と押し付け、損害賠償や慰謝料請求の裁判を起こすかのように素振りをちらつかせ、道場の責任者か、組織の最高責任者を相手に強請(ゆす)り行為等を働きます。

 また大人の場合や、高校生や大学生の場合、「決断」できる人間を選ばないと、後で取り返しのつかない事故に巻き込まれる事があります。一週間以内に、入門したい人は、ほぼ即決の形を取ります。しかしそうでない人は、「天秤に掛け」他の道場を回ったり、他の道場で吹き込まれた噂等を信じて、優柔不断な態度で物事を考え、一ヶ月・二ヵ月経って入門したいと云ってくる場合があります。まずこうした人は、その人格と人間性が不安定であり、二重人格の疑いがあり、あるいは精神的に障害を抱えた場合が少なくなく、性格的には優柔不断であり、「事故メーカー」または「訴訟メーカー」である場合が少なくありません。
 したがって尚道館では「見学した日から、一ヶ月以内が入門審査を受検できる期間」と定め、一ヶ月過ぎて入門審査を受けに来る人は、問題児として全て入門を断っています。

 また、資格を受ける為に入門して来て、「早急に黒帯が欲しいのですが……」という人が居ますが、こういう人たちも、長期で考えると不適合な人たちです。
 大学や高校の推薦入学を合格させる為に、「短期で黒帯を」という目的で近寄って来る人間は、後に禍根を残します。厳格を期すべきで、また公平でありたいものです。
 「ノアの方舟」には、大勢は載る事が出来ません。味噌も屎もでは、舟が沈没してしまいます。隨(したが)って厳格な審査が必要となります。しかし審査だけ厳しくしても、猫かぶりが居りますので、やはり長年の見識眼が必要となります。指導者は、教えたい者と、そうでない者を公平に、厳格に選別する場合、大いに苦しみ、悩むべきでしょう。
 その時に、損得勘定や金銭的な欲望に転がれば、後で禍根を残すのは明白でしょう。


3.Desire……欲求願望……この場合の願望は、多くの場合「肩書き」というものに人の眼が向きます。わが流派で云えば「黒帯」であり、「段位」であり、それぞれのランクに応じた免許の類です。また「名声が欲しい」という意識も含まれます。しかしこの「肩書きと名声」は、ブランドの中のそれであり、その集団が世間的にも有名で、何よりも名前が売れていると言うことが第一条件のようです。

 例えば、何故柔道の選手が懸命に練習するか、それは頂点に世界規模のオリンピックがあるからであり、少年サッカーが何処の地域にも存在するのは、その保護者達もあわよくば、うちの子はJリークの選手になって、ワールドカップにでもと考えている為です。

 しかし、わが西郷派大東流の場合は、これと大きく異なります。強くなっても新聞やテレビで報道される事はなく、また試合もないので「強さ」の尺度を証明する事が出来ません。
 こうした事を総合すれば、わが流派における欲求願望は非常に小さなもので、存在観すら世間には認められないと言う状態に陥り、したがってマイナーな武道雑誌で、ささやかに掲載されるだけです。
 昨今は不景気のせいで、武道雑誌の売れ行きも悪く、こうした類に広告を出しても、以前のように問い合わせの電話は殺到しません。また、世の中全体は物質至上主義に流れています。

 しかしこういう弱小団体でも、「肩書きと名声」は存在していて、やはり何処かに集まり、集団を作ると、教えるが側と教えられる側に別れて、子弟関係が成立します。ただ残念な事は、わが団体に於ては、指導者側に「自分が主催者の立場である」という認識が全く無く、例えば夏合宿に「仕事でこれない」と云ったり、「遅れてくる殿様稽古」さながらの人が居る事です。そしてこれを教わる側から見た場合、「あの指導者は時間に遅れて来ながら、大きな事を云う」と、内心思います。こういった、下から見た場合の心理も心掛けておかなければなりません。

 そのため、こうした集まりに欠席あるいは遅刻であっても、下の者の「受け」をよくする為には、指導者は自分なりの「心遣い」が必要となります。
 したがって私が合宿の際に常に云う「指導者や黒帯は合宿に肉体で参加できなくても、金で参加してほしい」というのはこのためであり、また、こうした人に対しては「○○師範は肉体の参加はないが、合宿費全額を支払い金で参かしている。なんという侍か……」と、冗談混じりに云うのはこのためであり、これは決して「合宿費全額を支払う」必要はなく、安物の焼酎一本、小箱の菓子箱一つでも構わないのです。

 これは普段の「あの先生は、いつも道場では威張り腐っているのに、こうした合宿には出て来ない」とか、「あの指導員は大きなことをいうくせに、やる事と言う事は違うではないか」などの、遠くから万難を排いして参加した者の、失望感と「自分だけが仕事を休み、万難を排いして参加した」というやり場のない気持ちを少しでも解消できるのです。

 しかし、これまで北九州の門人には、東京や大阪と違って、比較的近所にありながら、「所用」を理由に合宿不参加に人が大勢居る事は非常に残念な事です。常識を考えて、黒帯以上の人は近所なのですから、東京や大阪の遠方と異なり、合宿期間中にその総ての日程は参加できなくても貌(かお)を出すとか、ささやかな差し入れをするとか、合宿賛助金を出すとか、そうした、遠くから万難を排して参加している人への心遣いと、誤解を解く為の努力は必要でしょう。

 これが出来ずに肩書き(黒帯や指導員師範資格)を求めても、それは絵に描いた餅である事は明白です。黒帯以上の人は、カッコマン的な表皮を飾るのではなく、「実」が必要になって来ます。こうした「実」が伴ってこそ、この欲求願望は真物となって、実を結ぶのではないのでしょうか。また、こうした行動が後輩に、「人のあり方」の進むべき「道標」となるのはないでしょうか。

 過去を振返れば、これで失敗している人が今迄に何人も出ています。これは非常に真面目な人に見られる現象で、特にサラリーマン等をしていて、部外の社会構造や慣例を知らずに、自らの無知からこういう結果を招いた人たちです。彼等も、もし、「子弟関係がなんであるか」ということを知っていたら、まだ道場に残っていて、稽古をしている人たちでしょう。結局、こうした心遣いと云う事を知らないばかりに、誤解を招いたりして、辞めて行った人は何人も居ます。
 こうした事は、一種の処世術ですが、人間が人間を理解できない自他離別の関係にある以上、簡単な意思の疎通を通わせるのが、生き残って行く最低条件となるのです。そして、欲求願望は、自分が求める場合、同時に相手もそれを求めていると言う事を知らなければならないのです。


4.Memory……記憶……さて、AIDMA理論に戻りますが、「西郷派大東流合気武術」という、名前が入門希望者には記憶されます。一種の特殊性を持ち、大東流の中でも「西郷派とは何か、どういう流派か、他の大東流とどう違うのか」等の記憶の認識です。

 かつて進龍一師範が、「我が流派を、他の大東流と区別する為に、『西郷派』と名乗った事は実に名案です。良いネーミングです」と絶賛した事がありましたが、そうした評価も、なるほどと思います。
 多くは「大東流合気柔術」と名乗っています。しかし「合気柔術」は一種の慣用句で、「合気」は存在せず、単に極め技と掛け技の「柔術百十八箇条」を型にした「型柔術」であり、内容は合氣道と酷似しています。

 ところが、わが西郷派大東流は、思想的にも儀法的にも、他を抜きん出て、事実、外国人によって読まれている「志友会報」や「大東新報」は、その会員が次の紹介者を紹介し、という順を追って、「北九州の片田舎に、見た事もない真物が埋もれている」という印象を与えました。

 こうした観点から考えても、西郷派大東流は一種独特の強烈な思想と、武士道集団的思考と、特異な技法は他にアピールする「何か」を持っています。これを充分に利用する価値は大いにあります。


5.Action……行動……以上を総合して、「無形のもに、お金を払う」という意識があるか、ないか、という、入門者側の意識と、これを何処迄審査し、受け入れると言う指導者側の意志の共通点が見出せた場合、「入門」という運びになります。
 この場合、両者のアクションは両者共に自他共栄の利益が伴われていなければなりません。しかし多くは、これまでの順を追っての経過を見ない為、ただ表面的な浅はかな判断で失敗してしまう事が少なくありません。
 だから入門動機を十分に訊いた上で、何を見てうちの道場を知ったかと云う事を訊くようにしています。入門者に入門迄のプロセスがない場合、これは安易に考えているので、禍根を残したり、事故や訴訟の原因となります。

 成功例:最近尚道館の少年部に母子同伴で見学に来られ、「子供もやりたい」「お母さんの方もやらせたい」という意識を持った方が来ましたので、入門願書と道場案内等の資料を持たせ、充分に説明しました。するとそのお母さんは、「内容を繰り返し読み、どうしてもやらせたいうので入門をお願いできないでしょうか」と改めて来館されました。そしてお母さんに子供に対する考え方や、躾の実態等を訊き、更に「他に何か質問がありませんか?」と云ったところ、「一つだけ、質問しても宜しいでしょうか」というので、「どうぞ」というと、「なぜ尚道館は子供の人数が少ないのでしょうか?」と訊くので、「それは、教えたい人と、そうでない人とを選別しているからですよ。今迄は習いたい方が、“習ってやる”“お金を払ってやる”と言う見下す態度で来て居たのですが、これからは教えるが側も、教えたい人と、そうでない人を選び、そうでない人は他の道場を紹介してやるか、お引き取り願う。だからここはステータスの意識からも、入れる人は少ないのです。したがって此処に入門出来たと云う事は、非常に名誉な事なのです」と説明すると、そのお母さんは、更に「是非とも入門をお願いします」と頭を下げました。
 何か「光るもの」を観じたのでしょう。

 一般にこうした「道場生は少ない事」は、「人数が少ない」イコール「内容が悪い」「どうせ大した武道ではない」「指導者に問題があるのだろう」と安易に考えてしまいがちです。そして「人数が多い」イコール「良い道場」と、愚かな判断を下してしまいます。
 しかし、真物が解る人には解るのです。ただし決して多くはありませんが……。

 失敗例:わが流の所屬支部の指導者から頼まれて、「本日入門者が来るので出稽古に来てくれないだろうか……」と依頼があり、出稽古に出かけました。そして入門者らしき大人が居たので、その人が「あなたは先生ですか?」と訊くので「そうですが」と答えると、「実はこれ、返しに来ました」と云って、先日指導者から貰った「入門願書」と「道場案内」を突き付けました。そして「私は入門する気持ちは、全くありません」と云い、足早に帰っていきました。

 これなどは入門希望者の意識を確かめず、味噌も屎も一色他にして、「西郷派大東流」を安売りした結果と言えましょう。

 また、ある父母は「うちでは静坐をやらせた事がありません。静坐をやっても躰に悪くないのでしょうか?」というバカな質問をした親が居ましたが、これなどは入門対象外で、「うちはお宅のような親の子弟は預かれません」とズバリ切り捨てました。
 更に酷い、程度の低い親は「お金をとったうえに、道場では子供に掃除までさせるのですか?!」と詰めよる親まで居ます。道場の掃除は、自分自身の精神修養であり、したがってこの「掃除をする」という行為は、自分の心の掃除をすることで、子供達が広い道場を掃除したところで、掃除の価値としては全く皆無であり、むしろ子供達に掃除をさせることによって、更にちらかす場合が多いのです。

 道場の掃除は、一時間前に予め指導者が掃除機をかけ、雑巾かけをして、既に清潔になっており、それでも子供達に掃除をさせるのは、「掃除」イコール「自分自身の心の掃除」という図式が成り立つからに他なりません。しかし頭の悪い親、次元の低い親、物事の表皮部分だけを見ている親は、こうした内面の重要性に気付かず、ただ外側や外形だけを見て圧倒される愚かな一面を宿命的に背追い込んでいます。こうした子供を預かると、絶対に禍根を残すことは明白です。

 道場の表面的な勢いを見る場合、味噌も屎も一緒にして、大勢居れば表面的には「勢いづいている」ようにみえます。しかし味噌も屎も一緒にして「お客様は神様です」という時代は、既に終焉を迎えており、こうした考えは時代遅れであることは明白です。

 ところが以外と、こうした考え方から抜け切れず、「お客様は神様です」と、ある経営者などはこの言葉を社員全員に押し付け、もっと愚かな会社は電話の応対などで「ありがとうございます。○○です」等と、一見客を持ち上げるような慣用句の社交辞令で対応する会社がありますが、こうした会社は、既に「斜陽」の域を抜け出せずに藻掻き苦しんでいる会社が少なくありません。

 こうした会社の経営者は、時代が微妙に変わってしまった、時の移り変わりに気付かず、また経営者自身鈍感です。この手の経営者の多くは、どこどこに、某かの、妻以外の妾を抱え、それを「青春」と凌駕?している人も少なくありません。彼等の言う「青春」とは、まさに「春」の一字の回春であり、これに振り回されている経営者は「斜陽」「倒産」という末路を辿ります。
 したがって私たちは、こうした愚だけは出来るだけ避け、表皮に振り回される愚行だけは回避しなければなりません。

 また表皮に振り回される親は、子供を入門させる理由に、ただ「体育」(躰だけが健康であれば)のみを挙げ、道場では「徳育の面」を重視するということが分からず、「少年部の夏合宿に参加させたくない」「年に一度の父兄会に参加したくない」「餅搗きや初稽古に参加したくない、させたくない」という親が少なくありません。
 つまり屎の中に、味噌の貌をした親がいるのです。こうした者は、今後道場発展にとって禍根となる親子であり、問答無用で入門を拒否しています。三十過ぎ、自己のパーソナリティや癖が身に付いてしまった人間は、簡単にこうした自己の殻から抜け出して「変わる」ことができません。これは物わかりの悪い、底辺に行けば行く程、この傾向が強まります。こうした「低い層」の現実を認識するべきでしょう。

 道場は体育の場ではなく、「徳育の場」でなければなりません。こうした意識が親子ともどもに一致した場合、道場は大きく発展します。味噌も屎も一緒にすると、結局、味噌は屎に冒され、屎塗れになってしまいます。

 こうしたことは会社経営が斜陽を辿り、倒産に至るシナリオそのものであり、「ありがとうございます。○○です」等と、万人に対して答えることが、既にナンセンスである時代に入っているといえるのです。

 かつては道場は、入門希望者が道場を選ぶ時代でしたが、現在は道場が入門希望者の善し悪しを選ぶ時代で、これを会社に例えるならば、客が会社を選ぶのではなく、会社が客を選ぶという「差別化の時代」に突入しているということです。したがって選ばれると「ステータス」なわけです。

 簡単にアイドマ理論を説明しましたが、こうした論理は、実際に自分自身が馳せ参じて教わるべきもので、ただ安易に「ご意見、有り難く拝聴」というのでは、無礼であり、無責任と言えます。また、人に質問しておきながら、「ただ訊くだけで済ませるという行為」は、礼儀をわきまえない人間のする事です。



Q24. 西郷派大東流合気武術と云う集団は、どういう武術集団なのですか。

A24. まず、言える事は、「こわもての格闘技集団でない」ということです。単に、古流武術を研究し、あるいは古人が伝えた武術面ばかりを研究するのではなく、武術の根底に流れている「思想」を探究し、人間と言う、そのものズバリに迫って、自己を掘り下げ、そこから「自分とは何か」という実態を探究し、その根本に迫ると言うのが、わが流のモットーであり、同時にその「思想」は文武の道に繋がります。

 そして、その文武の理解は、陽明学で云う「知行合一」であり、知る事は則(すなわ)ち「行う事」に繋がって行くのです。
 世の中は依然として、高級官僚試験(国家?種試験)等に観られる「暗記主義」であり、物事の理解よりも「暗記」のみが最優先する試験制度が幅を利かせて居ます。こうした試験を上手に解いて行く人は、「最初から答があるもの」に対し、非常な暗記能力を発揮します。
 ところが、答の無いものに対しては、殆ど機能せず、更には創造力も乏しく、私たち日本人は、明治の西洋化以降の長い間、こうした暗記能力が素晴らしい人を「頭が良い人」あるいは「偉い人間だ」と信じて来たのです。この考え方は今でも抜けておらず、暗記の特異な人間を「頭が良い」と尊敬する態度が、今でも改まっていません。

 一方で、こうした人がリーダシップをとった場合、公平さや公正さを欠く事になり、末端に至っては、不公平が生じますし、ゼロから何かを創造すると言う能力に劣っていますので、以降の方針や展開が皆無のような状態になってしまいます。つまり「見通し」が利かないと言う状態に陥ります。

 例えば、戦闘あるいは戦争は、最初から答などありません。作戦展開と言うものは、単に机上の空論に終わらせてはならず、未知の世界の、創造力で構築されて行くものであり、これに「公式」といわれるものはありません。刻々と戦況が変化し、臨機応変に変化する状況に対し、こちらも臨機応変に対応し、それに応じた変化が必要になります。そして、この「臨機応変さ」こそ、右脳で構築する「創造力」といわれるものです。

 創造力は、その基盤が、一種の「思想」というもので構築されています。創造性を掻き立て、それに骨組みを作り、肉を加えて行くのは、向かおうとする「思想」が決定付けます。思想なくして、戦う術は創造できないのです。ここに文武の基盤を構築する思想と言うものが、抜け落ちていては、臨機応変さが無くなり、やがては不意打ちを喰らって、自らが滅んでしまいます。

 また、文武は自らが求道する事で、「学ぶ」と云う推進力をつける事になり、一つの思想に辿り着き、その思想は、人としての生き態(ざま)を決定します。
 歴史上の団体をあげれば、吉田松陰の「松下村塾」ではないかと思います。スポーツ武道は別にしても、武術と云われるものは思想が伴うもので、「技の修得」だけではダメなのです。物事を成就させるのは、思想的な「思索」が必要になって来ます。物事の筋道を立てて、深く考え進むことを「思惟」あるいは「思弁」と云います。つまり、これが思想を背景としているのです。

 思惟または思弁は、判断以前の単なる直観の立場に止らず、このような直観内容に、論理的反省を加えて出来上がった思想の結果であり、思考内容、特に、体系的にまとまったものを云うのが思想であり、人間社会に当てはめれば、社会ならびに人生に対する全体的な思考の体系あるいは、社会的かつ政治的な性格をもつ場合が、「思想」と云われるもので、これは精神領域が旺盛な場合、世の中を動かす原動力となります。
 明治維新の原動力は、その根本に吉田松陰の「陽明学」が生きており、これが包茎社会に胡座(あぐら)をかいた徳川幕府を崩壊させる原動力となりえました。

 松下村塾は、御存じのように吉田松陰が、叔父玉木文之進の後を受け継いで安政三年(1856年)から主宰した私塾です。松下村塾は安政五年、藩許を得て、安政の大獄に座し、江戸で刑死するまで続けられました。そして此処からは、高杉晋作・久坂玄瑞・前原一誠・伊藤博文らを輩出しました。
 尚道館・陵武学舎も、単に格闘技に明け暮れる強化合宿の選手寮ではなく、また、今日のような、安易に物質至上主義や、科学万能主義に明け暮れるのではなく、日本人が古来より精神的な領域を目指して、よりよき国家体制を考え、新たな考えで日本を切り開く目標を掲げて邁進しているのです。



Q25. 内弟子制度には、仮入門を許されて入門し、その三ヵ月後に正式入門の審査があるとなっていますが、この事を詳しく教えて貰えませんか。

A25. 内弟子になる為の入門審査に合格しますと、一切の準備が整ったところで、いよいよ入門となると、仮入門の許可が出ます。しかし、これは正式な門人になった事を認めたわけではなく、三ヵ月後に、これまで通り、陵武学舎に残り、修行を続けるか、あるいはこれで去るかの審判が下されます。肉体的に限界を感じたり、思想面の理解が不充分であったり、礼儀作法が欠けていれば、仮入門者はこれで去る事になります。

 また、正式門人としてその後、内弟子を続けるのであれば、正式門人になる為に、改めで正式門人になる為の審査が必要になって来ます。この審査は、仮入門期間、一ヵ月後とに三回行われ、この審査にパスすれば、晴れて正式門人になると云うわけです。
 また、仮入門後、三ヵ月を経れば、経済的困窮者に限り、午后から「八時間以内のアルバイト」が認められますが、とにかく仮入門から三ヵ月を経れば、正式門人の合否に関係なく、経済的困窮者に限り、アルバイトが認められ、午前の稽古に支障がない限り、働く事ができるわけです。

 しかし、中には、内弟子修行より、アルバイトが主体になり、早朝より夜遅くまで働く人間が、過去にいました。こうした者は、いつまで経っても、仮入門止まりであり、上級の儀法(ぎほう)へと進む事が出来なくなってしまいます。そして、結局は挫折すると云う事になってしまいます。しかし、本人はこの事に気付かず、「陵武学舎の看板に偽りあり」等と吹聴して辞めて行きます。

 さて、此処でご注意申し上げたいのは、入門前に他人やサラ金、あるいは多額なローンを抱えている人は、わが流の内弟子制度には適合しませんので申し添えておきます。また、競技格闘技やスポーツで、腕の臂や肩、足の膝などを負傷し、長時間の静坐が出来ない、臂や肩が痛くて木刀の素振りや、腕節棍・杖・棒などの棍法が出来ない等の人も、わが流の内弟子制度には適合しません。しかし、難聴である、弱視である等は問題ありません。長時間静止動作をしたり、呼吸法をしたりと云う事に支障がある場合が問題なのです。派手なアクションより、静止動作が要求されるのです。

 内弟子を志す者は、二年間「修行一筋に打ち込める態度」が必要であり、故郷に残した妻子や、恋人が気になるようでは、ここでの修行は、はっきり言って向きません。また、借金に苦しんでいる人も、わが流の修行は向きません。
 あるいは、他に遣りたい事があって、二股を賭けて、両方を得ると言う考えの人も不適合です。過去に、内弟子をしながら、大学の受験勉強をしているものが居ましたが、「二頭追う者は一頭も得ず」の例え通り、途中で挫折してしまいました。

 仮入門が許されて、三ヵ月後の正式門人になる過程は、次の通りです。


















●基礎体力養成課程
1.基本動作(整列時における基本動作テスト)
2.ランニング(規定コースの時間制限による走行テスト。規定 コース内を一周7分以内走行できる場合を合格とする)
3.開脚腕立て五十回(終了回数50回に時間制限あり)
4.腹筋五十回(終了回数50回に時間制限あり)
5.背筋五十回(終了回数50回に時間制限あり)
6.敏捷テスト(横幅移動、伏せ立て)
7.100m走(18秒以内)
8.跳躍垂直跳びテスト(規定の天井から釣り下げた玉を打つ)
9.瞬発力テスト。
10.握力テスト(左右で50回、各々3分以内)
11.跼み跳躍五十回(終了回数50回に時間制限あり)
12.懸垂十五回程度。
以上は強制するものではないが、標準的に考えて以上をこなせる事が好ましい。

●暗唱事項の復唱と審査
1.大日月地祝詞と内弟子四箇条の復唱テスト(各独唱)
2.『道場歌』歌唱テスト
3.『日本青年の歌』歌唱テスト

●基礎儀法・第1ヶ月目の修得課程
1.剣基本素振り

静坐正面素振り、半坐正面素振り、左右片脚素振り、騎乗素 振    り、左右四方素振り、膝行素振り、膝行左右四方素振り。以上の素振りが各百回正しく出来る事。
2.受身基本動作
後方受身、左右横受身、前方受身、後方回転受身、前方回転 受身。以上の受身が各五十回正しく出来る事。
3.腕節棍ならびに合気杖基本動作
 大東流腕節棍第一の型、大東流腕節棍第二の型。
4.膝行、膝退、膝側の殿中動作

以上を総合して終了時の一ヵ月後「第1ヶ月目の修得事項」のテストを行い「第六級」に進級。不合格者は更に一ヶ月延長の再履修と追試を受検しなければならない。
















●清掃能力養成課程
1.玄関掃除
2.便所掃除(便器は手で洗う)
3.風呂掃除
4.道場室内掃除
5.寮内掃除
6.寮内掃除
7.自分の身辺の整理整頓(簡素に小ざっぱりと片付ける)
8.神棚清掃
9.台所清掃
以上を通じて、人間としての人生の「生き方」の基本を学ぶ。

●基礎儀法・第2ヶ月目の修得課程
1.受身修得の徹底で、前方回転飛び込み受身の二人跳び。木 刀跳びあるいは四尺杖跳び。
2.手刀打ち一条極め五本。
3.手刀打ち小手返し三本。
4.手刀打ち四方投げ裏表。
5.大東流腕節棍第三の型、大東流腕節棍第四の型。
6.剣組太刀。
7.合気揚げ、合気下げ、合気絡の基本儀法
【註】出題範囲:「AtoZ」全五巻より。

●学科テスト
1.武術における儀法解釈テスト(ネットと志友会報より出題)
2.政治・経済・軍事テスト(ネットと大東新報より出題)

以上を総合して終了時の二ヵ月後「第3ヶ月目の修得事項」のテストを行い「第五級」に進級。不合格者は更に一ヶ月延長の再履修と追試を受検しなければならない。
















●基礎儀法・第3ヶ月目の修得課程
1.剣vs素手の体捌きテスト
2.前方両手取り、後方両手取りの小手返し五本。
3.前方両手取り、後方両手取りの四方投げ五本。
4.一条極め各五本。
5.二条極め各五本。
6.三条極め各五本。
7.四条極め各五本。
8.五条極め各五本。
9.六条極め各五本。
【註】出題範囲:DVDの「AtoZ」全五巻より。

●学科テスト
1.小論文提出(政治・経済・歴史・軍事の内から選択)
2.口答テスト(日常常識を口答で質議応答する。自己の信念の確認)

内弟子仮入門三ヵ月間の修得課程の総てを修了して、はじめて正式入門が許され、「初伝修得課程」に進級する。

以上を総合して終了時の三ヵ月後「第3ヶ月目の修得事項」のテストを行い「第四級」に進級。不合格者は更に一ヶ月延長の再履修と追試を受検しなければならない。

全課程不合格・仮入門延長または退寮になる場合
1.内弟子修行期間は原則として帰宅する事を求めない。
但し、特別な病気等の事情があり帰宅した場合は、帰宅期間日に二乗の総和日が加算され、仮入門期間が延長される。

2.三ヵ月を経て、期間延長に問わず、体重制限の65kgを切った場合と、75kg以上を超えた場合は退寮となる。正しく合気を実践する上で、70kg前後が好ましい。自己管理し、戦闘できる体躯、走れる体躯を武術家として維持する為である。

3.仮入門課程の修得事項を達成できない場合、再度延長して 仮入門修得事項をマスターしなければならない。
但し、仮入門延長期間が三ヵ月以上を超えた場合、退寮となる。


 わが尚道館・陵武学舎は肉体重視の強化合宿のような、強化選手を養成する所ではありません。したがって内弟子期間に取り組む課題は、体力重視と言うより、思索による思想重視であり、内弟子として修行する各位が、何を考え何を目指しているかを問うのです。
 西郷派大東流は、日本国に希有の存在であると同時に、気高い思想を有する流派です。思想と云う、その部分に共感し、その流派に所属することでこの国を良くしていこうと、ただその想いで道場活動を展開する人を広く募集しているのです。

 西郷派大東流の原点である憂国の信念は、西郷頼母の霊的神性で説いた《大東流蜘蛛之巣伝》であり、欧米の圧力に屈する事の無い自力更生の道であり、一方、剣道・柔道・空手など、その他の武道には弱肉強食論のみをあげつらい、試合に勝つ事ばかりを考えて、思想がないから、欧米のアメリカンナイズを真似し、それを追随する事しか知りません。

 ゆえに、西郷派大東流のような武術集団が、真に日本国民に、あるいは世間に受け入れられる形で躍進することを願い、活動を展開している次第です。
 どうしたら、「日本と言う国が、目先の物質至上主義から抜け出して、発展を遂げ、良くなるか」を真剣に模索しているのです。