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内弟子制度 38
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| ▲一体、自分は何の為に生きているか、ふと、感じる瞬間がある。猛烈な進歩の渦で襲い掛かる、物質文明の時に流れに振り回される自分とは、いったい何なのか。本物の自分とは何なのか、真剣に模索する時がある。それは人が、修行を欲しているからだ。武術修行は、言葉で教えるものではない。しかし、武術修行を通じて、「内なる智慧」を導き出す手掛りとなる。 |
| ●内なる智慧 現代人は精神的領域の進化を停止している。では、人間が精神領域の進化を止めたのは、いつ頃だったか。 多くの人たちは、人間は今なお、「進化し続けている」と思い込んでいる。しかし物質文明の進歩に反比例して、人間の精神敵領域は益々退化の一途にある。その理由は、人類の精神文化の進展は、おおよそ今から数千年以前に終ってしまっていると推測されるからだ。 そして、物質至上の科学文明も、いまやピークに達したかのように映る一方で、唯物弁証法から新たな物質が作り出され、「物質文明の火、いまだ消えず」という現実も、実際には存在している。新技術は次から次へと展開され、傲慢な弁証法が自然科学の分野で繰り広げられてる。その結果、科学万能主義と、物質至上主義は、人々に大いなる幸せを齎したように、錯覚する現実が生まれた。 物質や制度によって依存する愚かさは、此処に着て、益々強くなり、権威の持つ力は失われるどころか、その反対に強大なものになりつつある。権威の保持する科学万能主義は、いまなお威力を失うことなく、絶大なものである。 人間の精神活動が退化の一途にあるという現実は、例えば、紀元前5世紀前の中国においては、孔子(こうし/中国、春秋時代の学者・思想家で儒家の祖。前551〜前479)が生まれ儒教を説き、その後、墨子(ぼくし/春秋戦国時代の思想家で墨家の祖。前480頃〜前390頃)、老子(ろうし/中国、春秋戦国時代の思想家で道家の祖)、荘子(そうし/戦国時代の思想家で荘周とも。孟子と同時代の人。子とともに道家の代表者で、老荘と並称)、孟子(もうし/中国、戦国時代の思想家。前372〜前289)、荀子(じゅんし/中国、戦国時代の思想家。前298? 〜前238以降)、司馬遷(しばせん/前漢の歴史家。武帝の時、父談の職を継いで太史令となり、自ら太史公と称した。前145頃〜前 86頃)らに至るまで、総て紀元前の人たちであった。 ギリシャにおいても、紀元前8〜9世紀にはホメロス(古代ギリシアの詩人。前8〜9世紀頃小アジアに生れ、吟遊詩人としてギリシア諸国を遍歴したと伝える)が『イリアス』や『オデッセイア』(【註】この二作の作者だったかについては様々な諸説がある)を書き、紀元前6〜7世紀にはイソップ(「イソップ物語」の作者と伝えられる前6〜7世紀頃の古代ギリシアの人)が生まれ、紀元前5世紀には数学者としてピタゴラス(ギリシアの哲学者・数学者・宗教家。サモスに生れ、南イタリアで教団を組織、霊魂の救いを目的とする新宗教を説き、宇宙の調和の原理を数とそれの比例とした。前570頃〜)、哲学者としてヘラクレイスト(古代ギリシアの哲学者。万物は根源的実体である火の変化したもので、永遠の生成消滅のうちにあるが(万物流転)、この生滅は相互に転化しあう相対立するものの緊張的調和によって不変の秩序(ロゴス)を示すと説いた。前535頃〜前475頃)、悲劇作家としてアイスキュロス(古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人。前525〜前456)やソフォクレス(古代ギリシア三大悲劇詩人の一人。アテナイの全盛期に活躍、形式上も、人間性豊かな内容面でも、古典悲劇の最高の完成者といわれる。前497 〜前405頃)、紀元前4世紀にはソクラテス(古代ギリシアの哲人。アテナイで活動、生涯を倫理の原理の探究にささげた。前470〜前399)やプラトン(ギリシアの哲学者。ソクラテスの弟子。アテナイ市外に学校(アカデメイア)を開いた。前427〜前347)、更にはアリストテレス(古代ギリシアの哲学者。プラトンの弟子であり、またその超克者。前384〜前322)らが活躍していた。 また、彼等の活躍が、後の西洋文明の錬金術や科学論理の基盤になったことは紛れもない事実である。西洋文明の知的産物は総て、紀元前の知的階級によって創造されたものがベースであった。 インドにおいては、更に古く、紀元前10世紀には『リグ・ヴェーダ』(ヴェーダ(吠陀)インド最古の宗教文献。バラモン教の根本聖典。インドの宗教・哲学・文学の源流をなすもので、その起源は前1500年頃インドの北西方に移住したアーリア民族が多数の自然神に捧げた賛美に発し、以来1千年の間に成立) が成立しているし、紀元前8世紀にはバラモン教が活動を展開している。紀元前7世紀には『ウパニシャッド』(インド古代の宗教哲学書。ヴェーダ文献の末尾をなすところからヴェーダーンタ(ヴェーダの終り)ともいわれ、また奥義書と称する。宇宙の根本原理(ブラフマン)と個人の自我(アートマン)の一致(梵我一如)などを説き、のちのインド哲学の源流となった。漢字では「優婆尼沙土」をあてる)が完成し、紀元前556年前には釈迦(釈迦牟尼。仏教の開祖。その生没年代は、前566〜486年、前463〜383年など諸説がある)が生まれている。 西南アジアでは、モーセ(ヘブライ人の指導者。前14世紀頃エジプトに生れ、ヤハウェに拠り苦役の同胞を率いてエジプトを脱出、シナイ山において神と民との契約を仲保し、律法を民に与え、約束の地へ導いた)の出エジプトが紀元前13〜14世紀であり、紀元前8世紀には預言者イザヤ(8世紀のイスラエルの大預言者。神ヤハウェの正義と救い主の出現とを説いて王や民に神への信頼を説いた)が布教活動を展開しているし、紀元前6〜7世紀にはゾロアスター教(前6〜7世紀ペルシアの預言者ゾロアスター(Zoroaster)の創始した宗教。善神をアフラ=マズダ、悪神をアフリマン(アングラ=マイニュ)と称し、勤倹力行によって悪神を克服し、善神の勝利を期することを教旨とし、善神の象徴である太陽・星・火などを崇拝)が成立し、同時に預言者エレミア(古代イスラエルの大預言者。ユダヤ王国末期の紀元前626〜586年頃、民にヤハウェへの回心を説き、新しい契約を預言。前626〜前586)が絶対神ヤーウェの命令によって布教を展開している。そして中央アジアではキリスト(キリスト教の開祖。前4頃〜後28)が生まれ、此処で人類は紀元元年を迎えたのである。 しかし、その後、人類の精神活動は、キリスト誕生以降、何一つ行われていない。精神的な改革も革命も何一つ行われなかった。キリスト誕生以前は、人類にとって、精神活動が非常に盛んな時期であり、霊的神性が百花繚乱(ひょっかりょうらん)の時代であったということが窺(うかが)われる。 つまり、これは人間の脳の進化と大いに関係が深い。知識体の根源である新皮質と、霊的神性の最も深くかかわりを持つ間脳(脊椎動物の脳の一部。中脳と大脳半球を結ぶ部分で、第三脳室と呼ばれる腔所をもち、視床・視床下部などに分けられる。後者には自律神経系の中枢がある)の両者が拮抗(きっこう)を保ちながら、半ば分け合い、花開いた時代であるということが窺えるからだ。 文明は科学的に高度になり、 時代の進み方のテンポが加速度的に早くなると、世の中の動きは「遠心分離機化」する。遠心分離機が加速度を上げて、高速回転を始めると、その中から、必ず弾(はじ)き出される性格粗暴者や精神異常者は、その数を急増してくる。 今日の凶悪事件や青少年の犯罪低年齢化は、こうした、高速回転による遠心分離機と、科学万能主義の皺寄せの結果である。 現代社会の目標は「より良く生きる」ことであり、この原点には、より豊かに、より便利に、より快適にという人間の欲望が凝縮されている。「現代」という時代は、まさに新皮質文明の謳歌(おうか)した時代であり、間脳は、この新皮質に押さえ込まれた時代といってよかろう。 より豊かに、より便利に、より快適に、さらに「より早く」ということが、次々に要求されれば、利益最優先の利潤の追求を行う資本主義市場経済では、地球上の総ての企業が、それを目指して狂気の如く活動を展開することになる。しかし、これは結局、自分で自分の首を絞めることになるのだ。そしてこうした、人類の終局に誰も気付かないのである。 新皮質系の仕業と知りながら、人間は、高速回転を続ける時代の拍車の遠心分離機を、もう制御することが出来ないところまで来ているのである。メルトダウンは、決して、そう遠くないであろう。 新皮質系の仕業である、知識体から出発した科学技術の大躍進に対し、紀元前まで精神領域を司っていた間脳の機能は、いまや封印されて、錆付き、これらの高速回転を止める制御能力を持たないのである。おそらく、この高速回転は行き着くべき処まで行き着き、最後には自爆するように、無慙(むざん)に崩壊するであろう。 紀元前まで、人間の精神敵領域を司っていた間脳の働きは、いまや痕跡(こんせき)もないほど薄れてしまい、霊的神性を発動する回路は、完全に錆付いてしまったのである。そして間脳と、新皮質のアンバランスは、人類は今抱え込んでいる様々な問題に反映され、何の解決の糸口も見えてこないのである。 こうした現実に、宗教家も、道徳家も、哲学者も警告を発するけれど、何の答えも出すことが出来ないというのが実情である。 現代社会は、まさに畸形(きけい)に異常発達した新皮質文明であり、新皮質に産物によって出現した文明であるが、この加速度的に、高速回転を続ける時代の流れは、いまや誰も止められない巨大なものになってしまっている。 地球上に発生した動物は、高等になるにつれ、新皮質が極度に発達してくるため、大脳の旧皮質は大脳半球の底面へと押し込められ、そこから一歩も動けない状態となる。旧皮質は、これによって封じ込められ、また、間脳は眠らされた状態になっていく。 そして人類が住んでいる今日の地球上にも、大脳生理学で言う、「間脳」対「新皮質」の鬩(せめ)ぎ合いが行われ、一方的に、新皮質に軍配が上がる状態になっているのである。つまり正守護神(精神領域)は封じ込められ、副守護神(物質領域)が旺盛な時代といえる。 脳の進化から見れば、新皮質は、それ自体が、人類の進歩と進化であり、平和と繁栄の繋がる大義名分になってはいるものの、実は間脳の働きを封じ込め、弁証法的に物を考え出し、作り出す新皮質中心の物質文明が展開されているということになるのである。 科学万能至上主義が展開されれば、当然の如く、霊的神性は眠らされ、封じられるという現象を招いているのである。 もともと間脳に備わる霊的神性は、 物質的欲望や本能を制御し、時には知識体が暴れ廻ることに拍車をかけてきたが、いまや新皮質に押し捲られているこれらの働きは、完全に抑止され、その機能を失っている。そして更に悪いことは、人間の欲望を司る大脳辺縁系が、新皮質とともに、間脳の封じ込め作戦に関与し、人間の「業」(ごう)というものを、むき出しにする現象を具現させていることである。 今日の現代社会で行われている社会現象は、まさに大脳生理学の中の、鬩(せめ)ぎ合いの世界そのものであり、知識体というものは、霊的神性なものを科学的でない迷信と、敵視する存在なのである。 これは知識階級と自称している人たちが、「霊的」という現象に対し、たちまち歯をむき出して、噛み付いてくる実情は、新皮質が間脳を押さえ込んでしまわずにはいられないという、大脳生理学の世界を、そのまま現代社会に具現したものなのである。 しかし、現代人の大脳新皮質が物質文明を追い掛ける限り、人々の心に平穏は訪れない。騒がしい騒音と、流れの早さの渦の中に巻き込まれて生きる方法しかなくなる。柵(しがらみ)に絡め捕られ、縛られ、執着し、未練を抱き、そして本当の自分を見失う現実が襲い掛かろうとしている。しかし、この現実を知る者は少ない。 現代人は民主主義下で「自由」を標榜するが、この自由の恩恵に預かっている者が少ない。自我が孤立している限り、本当の自由は訪れない。しがたって、益々粘着力の強い自我に固執し、此処から抜けだせずに狂おしい自我が演出される。不幸とは、こうした自我への固執である。 一方、自我から解放されて、自由を得る世界が存在している。 自我の執着や固執から脱けきった地平線の向こうに、掛け替えのない、本当の自由が拡がっている。それを発見した時に、自由自在が吾(わ)がものとなり、融通無碍(ゆうずうむげ)に周りが動き出す。己(おのれ)が世界の主人公になって動き出すのである。 わが流で云う「合気」とはこうした自由の世界を云い、ここに合気の真髄がある。そして、これこそが人類に与えられた「内なる智慧」であったのである。陵武学舎の内弟子は、様々な日常生活の智慧を通じて、やがてそこから「内なる智慧」に辿り着こうとするものなのである。 ●礼儀を知る事は護身法を知る事である 人としての礼儀は、天地の摂理であると同時に、護身法の心得でもある。 礼儀はある意味において、社会秩序の規範を為(な)すものであるが、礼儀を糺(ただ)し、礼儀に従って行動をすれば、他人から無用の辱(はずか)めや侵犯を受ける事はない。礼儀の効用は、こうした他人との摩擦を避けると言うところにも顕われる。 ところが礼儀から逸脱し、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に振る舞ったり、傲慢(ごうまん)な暴言を吐いて、他人を中傷誹謗して笑い者にする目的でこれを行った場合、必ず恨みが発生する。そして以降、命を付け狙われ、無慙(むざん)に命を落とす結果にも作(な)る。 特に、武術家や武道家と自称して名乗る人間に限り、正しい礼儀を心得ている者は少なく、礼儀作法を自分流に解釈して、挨拶をする、お辞儀をすると言った類(たぐい)を礼儀と理解しているから恐れ入る限りである。 そして、このレベルの者は、礼儀と、挨拶やお辞儀を、混同して考え、その区別も付かないようだ。 だからこそ、恨みを買われ、命を付け狙われる。また、詐欺(さぎ)や騙(だま)しの手口に引っ掛かって、無駄銭を遣わされ、あるいは保証人等も引き受けて、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなるのも、この種の人間だ。 保証人を引き受けて喰い物にされる人間は、自分も「礼儀の何たるか」を知らないからだ。 詐欺や、騙しの手口や、保証人に仕立て上げられる人間は、まず、自身にも「礼儀がない」と言う特徴を持っている。 実例で示すと、他人から何事かを頼まれる時、その他人である相手は、礼儀が有るか無いかと言う事が、その人間を見抜く場合の極め手となる。相手に礼儀のない場合、決して頼まれ事は受けるべきでない。 人に、ものを頼む場合、頼む側は、頼むべき形としての礼儀があるはずである。 したがって、寿司屋やラーメン屋に、出前を頼むような分けには行かなくなる。 人に、ものを頼む場合、頼む側としての手順と、形と、礼儀を尽くそうとしない相手に対しては、如何なる頼み事であっても、絶対に腰を挙げるべきではない。物分かりのようようなふりをして、軽薄な態度でこれに応じると、必ずと言っていい程、その相手から煮え湯を飲まされるのである。 本来ならば、自分から逢(あ)いたいと願い出る者、学びたいと願い出る者、あるいは頼みたいと願い出る者は、まず、その相手の方に出向く事が礼儀である。ところが、願い出る方が、学校の先生や先輩、あるいは同門流派の先生や先輩となると、こうした願い出る方は、まず、自分が逢いたい者を、自分の方に呼び寄せる無礼を働くものである。 先生や先輩は、後輩や門人を、自分より格下と見越して呼び寄せるのであろうが、結局、呼びつけられれば、「保証人になってくれ」とか、「マルチ商法を遣らないか」等と持ちかけられ、頼み事の趣旨は欲ボケした頼み事であり、こうした一連の頼み事の中で、無礼で、何処か訝(おか)しいと感ずる部分があったら、その時点で協力は断るべきである。 保証人にさせられて、自らの財産を総べて巻き上げられたり、マルチ商法に嵌(はま)って、巨額な金を支払わされるのは、相手の姑息(こそく)な詐取(さしゅ)も去る事ながら、自分自身が礼儀を知らない為に、相手の欲望通りの意図に誘導されてしまうと云う事なのだ。 こうした「礼儀」というものを原則に、依頼事を当ててみて、その礼儀から逸脱した依頼事は、絶対に受けるべきではないのである。 以上のように、「礼儀の物差」で相手を計れば、決して自分が保証人に仕立て上げられたり、依頼事で被害を被る事はない。すなわち、これは礼儀の、護身法と謂(い)われる所以であり、礼儀を知ると言う事は、そのまま護身法に繋がると言う事なのである。 礼儀が急速に失われている現代、危険から身を護るのは、何も相手の物理的な暴力ばかりではない。こうした人間の裏側に潜む、欲望や野望の意図からも、命ばかりではなく、生活経済の糧(かて)である財産も護らればならないのである。 以上を段階事に述べて来ると、尚道館・陵武学舎では「何を指導するか」という事が、お分かりだと思う。ここは武術の儀法(ぎほう)のみを指導するのではなく、それを遥かに超越した「人生を指導する」場所であると言う事が、充分にお分かり頂けたと思う。 人間は、如何なる年齢であっても、「これでよし」という次元、あるいは境地には、中々到達できないものである。何人(なんびと)も、未熟な人生の放浪者であり、迷い人である。 地球上に起っている「現象人間界」の構造は、極めて不完全に出来上がっており、現代社会と云う民主主義の政治システムは、未だに「完成されないピラミッド」である。 人は未熟ゆえに、迷い、苦しみ、悩み、その苦悶(くもん)の中で、何ものかを必死で探し続ける。そして、その行為には間違いも多い。 自分の知らないところで間違いを犯し、またその間違いから誤解を受け、それを糺(ただ)そうとして苦悩が始まる。しかしこの苦悩こそ現実であり、この現実を素直に受け入れる事こそ、「現象人間界」を経験し、体験する事なのだ。 人間は「神」では決してない。聖人とて「神」ではない。何処まで突き詰めても、一個の「人」に過ぎない。 「人」なるが故に、神になり得ぬ苦悩が同居する。しかしこの苦悩を乗り越えて、現象人間を全(まっと)うし、人生最後の臨終(りんじゅう)に際して、「自分は人として、何をして来たか」という、最後の総決算に臨まなければならない。総決算において、褒(ほ)められる事より、罰される事が多いであろう。 しかし、喩(たと)え罰される事が多かったとしても、自分は精一杯生き、苦悶しつつも、精進・努力して、人生に工夫を凝(こ)らして生きて来た事だけは、最後の審判で恐れずに告げなければならない。罪多し人生であっても、間違いだらけの人生であっても、それを生きて来たことに恥じ入る事はない。神ではなく人間だから。 ただ、堂々としていればよいのである。 問題は、懸命に生きたか、否かである。 最後に、再び『マタイ伝』(7・13〜14)の一節を持ち出すが、此処にはこうある。 「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きく、その路(みち)は広く、之(これ)より入る者多し。生命(いのち)に至る門は狭く、その路は細く、之を見い出す者は少なし」 生命に生き抜く門は、狭く、入り難く、また苦しく、痛く、更には醜い。したがって、それが酷ければ酷い程、しっかりとした足取りで歩かねばならない。生きる時には精一杯生き、死ぬ時には死ねばいいのである。「あるが儘」に、扮飾(ふんしょく)せず、素直に真直ぐ進んだら良いのである。「悟りの扉」に辿り着くまで。 そして、その扉に辿り着く事が出来たら、力強く門を叩こう。「頼もうー!」と。 尚道館の内弟子寮・陵武学舎とは、こうした処なのだ。 《メールを送信する場合のご注意》 こちらから送信されるメールは、全て宗家先生ご自身が直接目を通されます。 内弟子制度に関する質問については礼節を保ち、礼儀を正して、あなたの人間性と品性を下げないようにして下さい。 外国からのお問い合せについては、英語やその他の自国の母国語を使わず、しっかりと日本語を勉強した上で、お問い合せ願います。 我が西郷派大東流合気武術は歴(れっき)とした「日本武術」であり、いやしくも日本武術の接しようと考えているのであれば、日本語を勉強するのは当たり前の事であり、また、これが日本武術でいう、教えを請う場合の「礼儀」です。礼節謙譲を以て礼儀を正し、自らのプライドと品格を落とさないように、毅然(きぜん)とした態度でお願いします。 Please refrain from making inquiries in English and in the other languages. Saigouha Daitouryu Aiki-bujutsu is one of the most respected " Japanese Bujutsu" with its distinct traditions. It is only proper to study Japanese well before practicing "Japanese Bujutsu". In addition, to be well-trained in Japanese language is also a must in learning "Japanese Bujutsu". Please question politely, resolutely and respectably. また、メールで質問できない内容や、秘密・厳重に伏してもらいたいものは、封書で下記の住所へ、返信用封筒に宛先人を記載し、140円切手を貼って、お問い合せ下さい。 〒802-0985 北九州市小倉南区志井6丁目11-13 総本部・尚道館 曽川和翁 宗家先生 宛 このメールを武術修行の第一歩であると捉え、容易に考えず、慎み深く振る舞われますことをお願い致します。 なお、問い合わせメールで質問する場合は、氏名(フルネーム)、年齢、職業、郵便番号、住所(町名や番地まで正確に)、電話は携帯電話ではなく自宅の電話番号を書き込み、礼儀正しく、常識ある「武は、礼に始まり礼に終わる」態度でお寄せ下さい。 また、電話で問い合わせする時も、自分の住所・氏名・年齢・職業を明確に述べ、慎みある、礼儀正しさでお願いします。 質問について、以上の記載項目が一箇所でも抜けていたり、無礼・非礼と判断した場合は、質問に対して、一切の回答は致しませんので御注意ください。 以上、尚道館ホームページ管理者 <Before sending your mail> IPlease notice that your mail will be read by the Great Master (Soukei sensei) himself so that you should write your mail carefully, use the most polite words to show your respectfulness to him. By doing so, you can also show that you are a well-educated person to the Great Master. If you cannot write your question in an E-mail but need an air mail in order to keep your secrets, for instance, please write the address given belows on an envelope with a 140 yen stamp for replying. In case you are out of Japan, please pay for international replying cost in advance. 〒 802-0985 6, Shii, Kokuraminami-ku, Kitakyuushuu-shi 11-13 Even if you are a foreigner, try to write in Japanese, please do NOT write in English and/or any other languages. You should learn Japanese before practicing Japanese martial arts as the first step to know how to behave in practicing the Way of Martial Arts. Rudeness should be refrained from the very beginning. Thank you for your kind attention. Daitouryu dot com/syoudoukan administrator. 電話番号:西郷派大東流合気武術総本部・尚道館 093-962-7710(代) ●内弟子人門に関するお問い合せメール・宗家専用 |
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