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| ●人の死を考える 人間の死は、「生」の最大にして“最後の危機”といわねばなりません。死は「生」の総決算のうち、最も重要な一瞬であることはいうまでもありません。 そして「死」は「生」から移行する、この世からあの世への門口です。 しかし、人間は「死ねば、それでおしまい」というものではありません。なぜならば、無から有が生まれるこの現象界の事象は、総てのものが死から生じたものであるからです。 現象人間界を生きる人間は、「生」の中に「死」が内蔵されていて、生存という条件下に限り「生」が約束されます。生かされる因縁により、本来非存在なる人間は、生かされることを約束されるのです。人は、生かされる必然により、天より生かされているのです。 そして人間という生き物は、死の陰(かげ)の中で、その「生」を生きなければならず、「生」に執着し、「生」を享受する時間は、長生きしたとしても、高々“100年程度のもの”です。 「生」に充足できる時間は、実は長いようで、短いのです。したがって、この「短い時間」が「生の終焉(しゅうえん)」の威迫に怯(おび)えねばならないのです。 今日、現代人ほど、死から逃げ回る企てを試みた人種は、他の時代の何処にも存在していませんでした。生きることのみが、人生の目的になり、死を忌み嫌う人種は、他のどの時代にも見出すことができません。 ところが、人間は長生きするばかりが能ではありません。 病気で長生きすることは、それだけで苦しみを長引かせることであり、また、長引かせている苦しみも、死ねばそれで、これまでの苦痛が消えるというものでもありません。死に方によっては、その苦痛が未来永劫まで継続されるから大変なことです。 現象界には、死に方においても「成仏」と「不成仏」があるように、霊の塊(かたまり)である人間は、死後の世界を全く信じない人でも、苦しい闘病生活や断末魔の苦しみから逃れたい一心で、安楽死やポックリ信仰に奔(はし)る人がいますが、仮に安楽に、ポックリ死ねたからといって、総ての苦しみはそれで解決されたわけではありません。そこから、再び苦しみがはじまることだってあるのです。 では、どういう死に方をすれば、苦しみが解決されるかというのとになります。この解決策こそが、本来宗教の分野で長らく扱われてきた最大のテーマでした。 宗教は、人間の“最期の瞬間”を、どう解決するかに知恵を絞り、それに取り組んできたといえます。ところが既存の宗教は、既にこのことを忘れ、宗教はビジネスへと変貌しています。現代の宗教は、資本主義の利潤追求の論理を模倣して、その多くはビジネスになってしまっています。 したがって、もう既存の宗教や、近年に興った新興宗教も行き着く先は、金銭が総てを解決するという“黄金の奴隷”に成り下がった観があります。頼れるもの、支えとなるべきもの、心の拠(よ)り所とするべきものが、失われてしまったというのが現代という時代の実情です。 ところが一方で、現代人にも、こうした時代だからこそ、死に対して、どう直面したらよいかという「臨終正念」を考えねばならない時期が来ているのです。 この現象界には、現象という「心象化現象」が働く以上、死に様も“より善き死”でなければなりません。 臨終に苦しむことなく、死後の世界も自由な霊魂となって、再び人間に生まれたければ、いつでも人間に再生できる状態になって死ぬことを「成仏」といいます。 また、この逆に、「生」に未練を引き摺りつつ、死ぬに死にきれず、意識が地上に留まり、地べたを這いずり回るような死に様を「不成仏」といいます。 現象界は、この二者で成り立っているのです。 仏教では極楽に往生し、阿弥陀如来の居所である浄土のことで、西方、十万億土を経た所にあり、全く苦患(くげん)のない安楽な世界を「極楽」といいます。そこでは阿弥陀仏が、常に説法している世界だといいます。そしてその反対が「地獄」です。現世に悪業(あくごう)をなした者が、その報いとして死後に苦果を受ける所を“地獄”というのです。 一方、キリスト教では、特にカトリック教会では、呵責によって浄罪されたのち昇天を許されうる煉獄(プルガトリオ)と永劫の罰責をうける地獄(インフェルノ)とがあるとし、その反対を「天国」といいます。 極楽と地獄、天国と地獄、こうした二者に分けられたこの世の想念が作り出す現象界では、極楽も天国も、そこに行ける人は、百人のうちに一人居るか居ないかなどともいわれます。 しかし人間はいずれ、生・老・病の三つのセクションを通過して、やがて臨終を迎えます。臨終とは、単に死ぬことだけではありません。死に様が問題になるのです。それは人の死が人生の総決算であるからです。生きた証(あかし)の一大事であるからです。この一大事を、生きている間に、十分に勉強しておく必要があるのです。死を勉強しておかねばならないのです。 本来、人の死は長らく宗教が扱ってきた問題でした。 ところが現実問題として、今日の宗教界は近年に興った新興宗教を含めて、どこもここも腐れきってしまっています。多くの神社仏閣や教団は、今や資本主義の利潤追求の原理に便乗して、信者から如何に多くの金銭を巻き上げるか、そのことばかりに目を奪われて、集金システムを確立することばかりに躍起になっています。こうした腐れきった今日の宗教界の目を覚ますことは難しく、宗教団体に頼らない宗教、あるいは宗教団体に寄生しない信仰をもって、「死」について深く考えなければならない時期が来ているのです。 だからこそ、人間にとって一番大事なのは、この「臨終」という“最後の総決算”の時期なのです。 |