1




あなたの最期《死にざま》を教えます

 死に際して、人間最後の、そして最大の欲望は、今、消え懸からんとする“命の炎”への未練一杯の「生命欲」でしょう。「生」に縋(すが)りたいという気持ちで一杯でしょう。

 その生命欲の断絶が「人の死」ですから、死に対する悲痛の叫びは、これまで長い間に養われた「生」に縋り付く感情から言って、余りあるものがあります。しかし、悲痛の叫びも、生命の火が消える現実を前にしては、全くの無力です。死神が振るう鎌の下では、人間は無力な存在です。

 もし、「死」という、人生最大の悲痛が現実であるならば、この死生観を乗り超える為に、これを克服をしなければなりません。
 この克服こそ、「死の超剋(ちょうこく)」と謂(い)われるものです。

 人は、無闇矢鱈(むやみ‐やたら)に長生きすることだけが能ではありません。世界一の長寿国・日本は、表面上の数字面では長寿国の様相を呈していますが、その実情は「薬漬け」です。
 病気のまま病院の固いベットに寝かされて、ただ延命剤を投与されて、長生きをしているに過ぎません。あるいは生命維持装置のお世話になって、ただ延命のために肉体だけが生かされているに過ぎません。既に、こうした状況かに置かれた人は、病院のベットから再び立ち上がり、社会の復帰することは、もはや不可能といわねばなりません。世界一の長寿国日本は、こうした延命の処置によって、肉体が生かされる“長寿国・日本”なのです。

 そしてその実態は、人間の四期である生・老・病・死の四つのセクションのうち、やたらに“病”だけを長引かせているという現実があります。
 しかし、病気で長生きするということは、それだけ苦しみが長引きます。

 したがって、死ねば、それで苦しみが消えるというのも、また大間違いです。
 “死にざま”によっては、それが未来永劫までの苦しみとなります。意識の中に「苦」が再現されれしまうからです。

 医者から見放された恢復(かいふく)の見込みのない重病人でも、延命の為の治療が行なわれ、自然には、中々死なせて貰えないものです。現代人は、こうした現実下に、日常生活を余儀なくされています。
 更に、見るも痛ましい七転八起する末期癌患者でも、安楽死は中々させて貰えません。こうした家族の中には、病人の苦しみを思うあまり、暴力団から麻薬を買い、それを密かに患者に投与している実情もあると聞きます。

 こう考えると、「死」は非常に苦しいもの、痛いもの、難しいものであると言うふうに想像されてしまいがちです。しかし、こうした死に対する恐怖を、回避する手立てはないものでしょうか。

 人の死にざまにおける、臨終の有り様は、生涯でこれほど難しいものはなく、また一大事です。
 では、この一大事は、何が決定するのでしょうか。

 生きざまの立派な人は、世界中に掃いて捨てるほど居(お)ります。しかし、死にざまとなると、一体何人が、この人生の正念場(しょうねん‐ば)を無事通過しているでしょうか。

 臨終は人生の一大事です。
 ところが、死を以て、人生の終わりとするのではありません。
 見ようによっては、死が一切の終わりのように映ります。肉の眼にはそう映ります。しかし、死は、生の終焉(しゅうえん)ではありません。

 生の本質を見れば、“生きている”と言うことは、肉体と言う「容器」に収まり、これを形取ることで成長し、年を老い、病気になり、やがて臨終を迎えると言う現象に至ります。生・老・病・死の現象は、単に変化するだけのことであり、これは非実在界の幻(まぼろし)にしか過ぎません。

 死はもともと、厳粛(げんしゅく)なものであり、荘厳(そうごん)なものなのです。
 人は、世に生きている間、どんなに苦しんでいても、一度死ねば、極楽浄土へ行けると信じている人がいます。

 また、死ねば一切が終わって、総べてが終わると言う妄想を抱いた、自殺願望者がいます。しかし、死して、果たして「本当の死」を迎えたでしょうか。死にきれたのでしょうか。これで本当に「生」への未練は断ち切れたのでしょうか。
 未(いま)だに、生を得ず、我が命を自ら絶って、果たして荘厳な死は迎えられたでしょうか。

 生きている時は、何にも良いことがなかったが、死ぬる時機(とき)は、せめて「大往生(だい‐おうじょう)」をと願う人がいます。果たしてこの人は、本当に大往生を得たでしょうか。

 こうした考えは、年から年中、貧乏をしていて、せめて大晦日(おお‐みそか)と正月三箇日だけは“俄(にわか)金持ち”になりたいと願う人です。
 また、年から年中、病床に臥(ふ)せっていて、正月の元旦だけは清々しい健康人ありたいと願望する人です。
 果たしてこうした「俄」的な、願望は本当に成就されるのでしょうか。「にわか」なるものは達成されたのでしょうか。

 否、これこそ未練を引き摺る現象の上に、更に“未練を上塗りした”だけではないでしょうか。
 ちょうど悪夢の上に、更に悪夢を見るといった「上塗り現象」ではなかったのでしょうか。
 つまり、何一つ解決されなかったのです。

 人生を精一杯生きる事なく、今日一日を無駄に過ごし、人生に逃避を企てながら、“最期の死”の場面だけが、どうして荘厳であり得ましょうか。

 死とは、その人の一生を集大成する一大事であり、臨終が一見平凡のように見えても、これこそがその人の人生の総てを裏書きする約束手形なのです。臨終正念こそ、荘厳な約束手形の総決算をしなければならない時機なのです。死に臨んで、心を乱してはならない時機なのです。心乱れず往生を信じて疑わないことなのです。だからこそ、「総決算」は正念場なのです。

 そして人は、この約束手形の総決算によって、確実に精算をし終えたとき、再び次の永遠の命を約束されるのです。








●人の死を考える

 人間の死は、「生」の最大にして“最後の危機”といわねばなりません。死は「生」の総決算のうち、最も重要な一瞬であることはいうまでもありません。
 そして「死」は「生」から移行する、この世からあの世への門口です。

 しかし、人間は「死ねば、それでおしまい」というものではありません。なぜならば、無から有が生まれるこの現象界の事象は、総てのものが死から生じたものであるからです。

 現象人間界を生きる人間は、「生」の中に「死」が内蔵されていて、生存という条件下に限り「生」が約束されます。生かされる因縁により、本来非存在なる人間は、生かされることを約束されるのです。人は、生かされる必然により、天より生かされているのです。
 そして人間という生き物は、死の陰(かげ)の中で、その「生」を生きなければならず、「生」に執着し、「生」を享受する時間は、長生きしたとしても、高々“100年程度のもの”です。
 「生」に充足できる時間は、実は長いようで、短いのです。したがって、この「短い時間」が「生の終焉(しゅうえん)」の威迫に怯(おび)えねばならないのです。

 今日、現代人ほど、死から逃げ回る企てを試みた人種は、他の時代の何処にも存在していませんでした。生きることのみが、人生の目的になり、死を忌み嫌う人種は、他のどの時代にも見出すことができません。
 ところが、人間は長生きするばかりが能ではありません。

 病気で長生きすることは、それだけで苦しみを長引かせることであり、また、長引かせている苦しみも、死ねばそれで、これまでの苦痛が消えるというものでもありません。死に方によっては、その苦痛が未来永劫まで継続されるから大変なことです。

 現象界には、死に方においても「成仏」と「不成仏」があるように、霊の塊(かたまり)である人間は、死後の世界を全く信じない人でも、苦しい闘病生活や断末魔の苦しみから逃れたい一心で、安楽死やポックリ信仰に奔(はし)る人がいますが、仮に安楽に、ポックリ死ねたからといって、総ての苦しみはそれで解決されたわけではありません。そこから、再び苦しみがはじまることだってあるのです。

 では、どういう死に方をすれば、苦しみが解決されるかというのとになります。この解決策こそが、本来宗教の分野で長らく扱われてきた最大のテーマでした。
 宗教は、人間の“最期の瞬間”を、どう解決するかに知恵を絞り、それに取り組んできたといえます。ところが既存の宗教は、既にこのことを忘れ、宗教はビジネスへと変貌しています。現代の宗教は、資本主義の利潤追求の論理を模倣して、その多くはビジネスになってしまっています。
 したがって、もう既存の宗教や、近年に興った新興宗教も行き着く先は、金銭が総てを解決するという“黄金の奴隷”に成り下がった観があります。頼れるもの、支えとなるべきもの、心の拠(よ)り所とするべきものが、失われてしまったというのが現代という時代の実情です。

 ところが一方で、現代人にも、こうした時代だからこそ、死に対して、どう直面したらよいかという「臨終正念」を考えねばならない時期が来ているのです。
 この現象界には、現象という「心象化現象」が働く以上、死に様も“より善き死”でなければなりません。
 臨終に苦しむことなく、死後の世界も自由な霊魂となって、再び人間に生まれたければ、いつでも人間に再生できる状態になって死ぬことを「成仏」といいます。

 また、この逆に、「生」に未練を引き摺りつつ、死ぬに死にきれず、意識が地上に留まり、地べたを這いずり回るような死に様を「不成仏」といいます。
 現象界は、この二者で成り立っているのです。

 仏教では極楽に往生し、阿弥陀如来の居所である浄土のことで、西方、十万億土を経た所にあり、全く苦患(くげん)のない安楽な世界を「極楽」といいます。そこでは阿弥陀仏が、常に説法している世界だといいます。そしてその反対が「地獄」です。現世に悪業(あくごう)をなした者が、その報いとして死後に苦果を受ける所を“地獄”というのです。

 一方、キリスト教では、特にカトリック教会では、呵責によって浄罪されたのち昇天を許されうる煉獄(プルガトリオ)と永劫の罰責をうける地獄(インフェルノ)とがあるとし、その反対を「天国」といいます。

 極楽と地獄、天国と地獄、こうした二者に分けられたこの世の想念が作り出す現象界では、極楽も天国も、そこに行ける人は、百人のうちに一人居るか居ないかなどともいわれます。
 しかし人間はいずれ、生・老・病の三つのセクションを通過して、やがて臨終を迎えます。臨終とは、単に死ぬことだけではありません。死に様が問題になるのです。それは人の死が人生の総決算であるからです。生きた証(あかし)の一大事であるからです。この一大事を、生きている間に、十分に勉強しておく必要があるのです。死を勉強しておかねばならないのです。

 本来、人の死は長らく宗教が扱ってきた問題でした。
 ところが現実問題として、今日の宗教界は近年に興った新興宗教を含めて、どこもここも腐れきってしまっています。多くの神社仏閣や教団は、今や資本主義の利潤追求の原理に便乗して、信者から如何に多くの金銭を巻き上げるか、そのことばかりに目を奪われて、集金システムを確立することばかりに躍起になっています。こうした腐れきった今日の宗教界の目を覚ますことは難しく、宗教団体に頼らない宗教、あるいは宗教団体に寄生しない信仰をもって、「死」について深く考えなければならない時期が来ているのです。
 だからこそ、人間にとって一番大事なのは、この「臨終」という“最後の総決算”の時期なのです。